永禄4年(1561年)、吉川広家は、毛利の両川と謳われた名将、吉川元春の3男として誕生する。天正14年(1586年)、父、元春が死去し、跡を継いだ長男、元長も翌年に死去したため、広家が出雲14万石の所領と月山富田城を受け継いだ。広家には次兄となる元氏がいたが、繁沢氏の養子として入っていたため、跡継ぎからは外れていた。慶長2年(1597年)、両川の1人で毛利家の重鎮であった小早川隆景が死去すると、広家が一門衆の筆頭となって当主の輝元を補佐する形となった。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、毛利輝元は西軍の総大将として参戦する。この時、広家は徳川家康の優勢を信じて、輝元を翻意させようとしたが、受け入れられなかった。そこで広家は輝元には内密で、黒田長政を通じて毛利家の本領安堵と引き換えに、毛利軍の関ヶ原本戦への不参加を約束する。そして、関ヶ原本戦において広家は約定通り、南宮山に陣取っていた毛利秀元隊1万5千人余の動きを制し、傍観を決め込んで東軍勝利の一端を担ったのだった。しかし、関ヶ原の戦いでは、輝元は本戦に参加こそしなかったものの、九州、四国に派兵して、積極的に勢力拡大に務めていた。そのため徳川家康は、輝元が西軍の総大将として動いていた事実は動かし難いとして、毛利家の取り潰しを決定する。そして、それに代わって広家が周防、長門二ヵ国の大名へ転身するよう申し渡したのだった。
しかし、広家はこの決定に驚愕する。関ヶ原合戦時に広家の取った行動は確かに利敵行為であったが、輝元に取って代わる野心などはなく、全ては本家存続のためであった。そのため広家は、必死になって本家存続活動を行う事になる。その時の広家の書状が残っている。
「此度の儀は、輝元の本意ではありません。輝元が分別の無い人間であるのは皆様も御存知の通りであります。これから輝元は家康様に忠節を尽くすゆえ、どうかどうか毛利の名字だけは残して頂きたい。輝元が罰せられ、私だけが取り立てられては面目が立たぬゆえ、私にも輝元と同じ罰を与えて欲しい。もし、有難い事に毛利の家を残して頂けるなら、輝元がその御恩を忘れる事は決してありません。千万が一、輝元が再び不届きな心底を持つようなら、今度は私が必ず本家を討ち果たし、首級を差し出す覚悟でございます。」
慶長5年(1600年)10月10日、広家の必死の懇願は家康の心をも動かし、輝元父子の身の安全は保障された。そして、広家が拝領するはずだった周防、長門国も輝元に宛がわれる事となる。こうして毛利家は120万石から、36万石に大減封されたものの、広家の尽力あって、辛うじて家名を保つ事は出来たのだった。その代償として広家も出雲14万石から、岩国3万石に減封されたが、彼にとっては本望だったのかもしれない。そして、広家は岩国に入ると心機一転して、要衝の地である横山に城を築く事を決定する。そして、慶長13年(1608年)に城は完成し、横山の山頂には3層4階の天守閣が築かれた。山麓にも土居と呼ばれる居館が築かれ、普段の生活と政務はここで営まれた。
毛利本家でも萩で築城が行われ、新たなる国造りが始まっていたが、大減封された事には変わりが無く、家中では釈然としない気持ちが残っていた。そもそも、関ヶ原合戦時に広家が家康に通じなければ、この様な苦しい境遇には陥らなかったとの思いが残ったのである。そのためか、毛利家にあった4つの支藩、長府、清末、徳山、岩国の内、岩国藩だけは傍流との理由で本家からは正式な藩として認められず、家臣として扱われたのだった。しかし、吉川家としても我らが本家を救ったのだとの思いは消えず、明治の世を迎えるまで、両家は複雑な眼差しを向け続ける事になる。
岩国城のその後であるが、元和元年(1615年)、幕府より一国一城令が通達されると、岩国城は完成から僅か7年で破却される事となった。天守閣と天守台の石垣は破壊されたが、麓の土居は存続して、吉川家の政庁と居館を兼ねて、明治の世まで用いられる。第二次大戦後、岩国城を再建する動きが広がり、昭和37年(1962年)に鉄筋コンクリート製の天守閣が建てられた。再建天守閣は錦帯橋からの景観を考慮して、本来の天守台跡から離れた南側に建てられている。そのような岩国城の変遷とは別に、山麓西側にある吉川家の墓所は変わらぬ佇まいで、自らが作り上げた町並みを静かに見守り続けている。
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