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長州藩と萩城

2011.08.20 - 戦国史 其の三
慶長5年(1600年)、天下分け目の大戦、関ヶ原の戦いが起こると、中国地方の大大名、毛利輝元は、西軍の総大将として参戦する。しかし、肝心の本戦が東軍勝利で終わると、輝元は狼狽して徳川家康に屈服する。輝元は降参の証として、剃髪して宗瑞幻庵と称した。だが、毛利家は、中国地方8ヵ国に及ぶ120万石の所領から、周防、長門の2ヶ国、36万石への減封を申し渡される。毛利家はそれに加えて、旧領6ヵ国から徴収していた慶長5年(1600年)度分の租税を、新たに赴任してきた大名に返還する必要に迫られたのだった。これらの対処として、輝元は家臣の俸禄を五分の一に削減する。


大減封の屈辱と、租税返還の重い負担には、輝元も嘆きの声を上げ、「こんな苦労をさせられるくらいなら、いっそ領土を放棄して浪々の身になった方がよほどましだ」と云ったとか。
それまでの本拠地は安芸の広島城であったが、これも取り上げられたため、輝元は新たな居城を造る必要に迫られた。そこで、輝元は萩・防府・山口の3つの築城候補地を挙げ、幕府に意向を伺うと、萩への築城許可が下りる。そして、慶長9年(1604年)より築城が開始され、慶長13年(1608年)に完成を見た。城は、標高143メートルの指月山の麓に沿って築かれ、山頂にも詰めの山城が設けられた。そして、山麓の本丸には、5層の白亜の天守閣が築かれた。


萩の城下町は、橋本川と松本川に挟まれた三角州上に建設されており、巨大な天然の総構えとなっていた。城郭がある指月山も三方を海に囲まれており、これまた天然の要害となっていた。萩城の作りは実戦的で、輝元はいざとなれば、ここで最後の華を咲かせようとの思いを込めたのだろう。関ヶ原の戦い以降、萩の長州藩はひたすら幕府に恭順する姿勢を見せていたが、内面では大減封の恨みは消えなかった。また、6ヵ国租税返還の重い負担、幕府のお手伝い普請、参勤交代、江戸在住の費用が財政を圧迫し、長州藩は上も下もその負担に苦しみ喘いでいた。


長州藩の借金であるが、元和9年(1623年)には銀4千貫だった。これは、藩の1年分の実収入に匹敵する。延宝4年(1676年)には銀1万2千貫となり、長州藩は倹約令を布告し、藩士の俸禄を半減させた。しかし、政策を誤って更に借財は増え、正徳2年(1712年)には銀5万貫に達した。さすがにこれはまずいと、重臣の毛利広政が中心となって積極的な財政再建に取り掛かり、藩士の俸禄を更に削り、領民の負担を増大させるなどして、享保15年(1730年)には、銀1万5千貫まで削減させた。しかし、広政死後には再び財政は悪化し、宝暦8年(1758年)には銀4万貫となった。


宝暦11年(1761年)、長州藩は検地を執り行い、4万石の増収を得た。しかし、この増収分は負債返済には充てず、特別会計に回して撫育方(ぶいくがた)と呼ばれる事業集団を発足させた。撫育方は米、紙、塩、蠟(ろう)の増産に励み、港湾整備も行って増収と蓄財に務めた。撫育方が必死に溜めた資金は負債には回されず、非常時のために取り置かれた。長州藩のこの隠し財産の積み重ねは、幕末までには莫大なものとなり、それが倒幕用の武器購入資金となるのである。しかし、それは一般会計の負債や、藩士や領民の窮乏を無視してのものであった。


農民への取立ては苛烈を極め、農村は疲弊していった。天保2年(1831年)、飢饉の発生を機についに農民の不満が爆発し、領内各地で13万人もの農民が蜂起する一大一揆が起こった。農民達は年貢の軽減、物流の自由化、村政改革を叫び、その一部を認めさせたのだった。しかし、首謀者は厳罰に処され、これ以降、大規模な一揆は影を潜める。天保3年(1832年)、長州藩の借銀は、とうとう8万貫に達した。しかし、この様な疲弊状況は長州藩だけでなく、幕府を始めとする全国の藩に共通するものであった。封建制は明らかに制度疲労を起こしており、人々の中に変革を望む声が上がり始める。


天保9年(1838年)、長州藩では家老の村田清風が先頭に立って、商人の自由取引、産業奨励、倹約の徹底、庶民への教育普及、軍制改革に取り組んだ。そして、37ヵ年賦皆済仕法(藩士の負債を37年支払いとする)を定めて、商人からの借財を事実上、踏み倒したのだった。
村田清風はその後、商人の反発や保守派の反対によって失脚するものの、彼の改革路線は受け継がれていった。そして、長州藩は動乱の幕末を迎えるに当たって、この村田清風の残した改革の成果、撫育方の隠れ資金、長年の幕府への恨み、吉田松陰の憂国の教えが合わさって、一気に倒幕へと走り出すのである。


この長州の人々の激しい動きとは裏腹に、指月山の萩城は静かに動乱を見守り続けた。しかし、幕府軍に敗れるような事があれば、長州藩は萩城で最後を迎える事になったであろう。だが、維新の回天は成り、長州の指導者達は次々に明治新政府の高官に上っていった。そして、明治7年(1874年)、政府が通達した廃城令により、萩城も天守閣、櫓などは全て破却され、政治、軍事の中心地としての役割を終えたのだった。現在から見れば甚だ惜しい行為であるが、当時の人々からすれば、抑圧の象徴でもあった城の破却は望ましいものに映ったのかもしれない。それは、古き時代への決別と、新しき時代を向かえるための通過儀式でもあったのだろう。




大きな地図で見る

↑萩城


萩城とその城下町が、二つの川に囲まれた三角州にある事が分かります。そして、この巨大な三角州が、天然の総構えの役割を果たしていました。
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