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荒木村重と有岡城

2011.08.06 - 戦国史 其の三
有岡城は、兵庫県伊丹市にある平城である。


天正2年(1574年)、摂津国の実力者、荒木村重は同国内の領主、伊丹氏を攻め滅ぼし、その居城、伊丹城を手に入れた。村重は伊丹城を有岡城と改名した上、この城を本拠とすべく、大改修を行った。そして、町屋と武家屋敷を丸ごと囲む、戦国期最初とされる総構えを構築する。その規模は、南北1・7キロ、東西0・8キロに達していた。城を見学したポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスは、「甚だ壮大にして見事なる城」との感想を洩らしている。これほどの大城郭は当時でも数少なく、相当な権力、財力を有する者で無ければ、築けないものだった。そして、この有岡城を築いた男、荒木村重とは、自らの才覚のみで成り上がってきた野心家である。それでいて芸能にも造詣が深く、茶の湯を嗜み、能楽の観世流も身に付けた多芸な才人であった。そんな村重の意向を受けてか、有岡城には優雅な庭園も作庭されていた。


天文4年(1535年)に村重は生まれ、摂津の国人領主、池田家の一家臣として始まる。主家の池田家が内訌(ないこう)によって分裂すると、村重はそれに乗じて家中の主導権を握り、やがて主家を上回る権威を帯びるまでになった。元亀4年(1573年)3月29日、村重は、畿内の覇者となりつつあった織田信長の傘下に入らんとして、逢坂(近江と山城の国境沿い)まで出向き、そこで忠誠を誓った。以降、村重は信長の権威を背景に、摂津の完全掌握を目指して戦い、天正2年(1574年)中には、本願寺領を除いて、ほぼ一国を治めるに至った。この事業は、ほとんど村重の独力によるものだった。そして、同年11月には信長より、正式に摂津の一職支配者に任ぜられる。


太閤検地によれば、摂津国は35万6千石の生産力があった。その内、5万石は本願寺領であったが、それでも村重には30万石、7500~9000人の動員力があった。これは、有力戦国大名並みの戦力である。信長もその実力を認めて、村重を織田家の最有力部将の1人と見なした。村重は、その期待に応えて、大敵、本願寺を押さえ込みつつ、越前、紀伊、播磨など各地に遠征して信長の統一戦に貢献する。信長の覚えもめでたく、村重は外様の新参者ながら譜代家臣と同等の処遇を受けた。にも関わらず、村重の胸中には叛意が芽生え始める。その切っ掛けとなったのは、天正5年(1577年)から始まった中国攻めにある様である。中国地方には、戦国有数の大大名、毛利家が存在しており、織田家とは敵対関係にあった。この相手と戦うとなれば、かなりの苦戦が予想されるが、その反面、討伐に成功したなら、比類なき名誉と恩賞が期待できる、働き甲斐のある部署でもあった。


地位、能力とも不足のない村重は、自らが中国攻めの司令官に任ぜられるであろうと思っていた。ところが、その大命は羽柴秀吉に下されて、村重は内心、大いに不満を抱いたようだ。それに、信長の苛烈な性格に不安を覚え始めていたかもしれない。外様の新参者であった松永久秀は、天正5年(1577年)10月に信長から離反して攻め滅ぼされており、同じく磯野員昌も、天正6年(1578年)2月信長から叱責された後、逐電してしまっている。外様の自分もいつか同じ目に遭うのではないか、と村重は不安に苛(さいな)まれた事だろう。折りしもこの頃、中国方面軍司令官として播磨に入っていた秀吉は、地元の有力大名、別所家の離反を受けて大苦戦に陥っていた。摂津の北にある丹波でも、明智光秀相手に波多野氏が粘り強い抵抗を見せていた。ここで自分が離反すれば、秀吉や光秀は討滅され、織田家自体を崩壊に導く事も出来るのではないか、と村重は思案した。首尾よく運べば、村重は畿内有数の大大名となれる


もともと野心みなぎる男であった村重は、こうして一世一代の大博打を打つ事にした。その村重の決意を、摂津の臣民も後押ししていた様だ。これまで村重は、信長の命ずるまま休む間もなく出兵を重ねており、少なからず摂津の臣民は疲弊していたからだ。天正6年(1578年)10月中旬、叛意を固めた村重は、密かに本願寺顕如や、毛利輝元と通じた。だが、何時までも隠し通す事は出来ず、10月下旬には信長の耳に入って、その詰問を受ける事となった。村重は時間稼ぎのためか、事実無根であると釈明したが、自身の安土出頭や、人質供出などの約束事は履行しなかった。そのため信長は村重の謀反を確信し、11月3日、自ら大軍を率いて摂津に向かった。このまま村重を捨て置いては、播磨に出張っている秀吉は、毛利家と挟撃されて全滅しかねない。そうなれば毛利家の勢力範囲は地続きで摂津にまで及び、天下の形勢すら変わりかねなかった。


信長は相当な危機感を覚えて、織田家の大身の部将を総動員した5万人余の大軍を率いて事態に望んだ。それでも出来れば丸く収めたかった信長は、再度、翻意を促す使者を送った。しかし、最早、村重の決意が変わる事は無かった。織田家の大軍が迫っても、村重に動じる気配は無い。それもそのはずで、村重の拠る有岡城は天下の巨城であり、しかも、それを中心に摂津各地に支城網が張り巡らされていた。村重だけで1万人近い戦力を有しており、同じ摂津には1万5千人余の戦力を有する石山本願寺があって、その助力も期待できた。村重は、鉄壁の防衛線であると信じていただろう。播磨にいる秀吉軍も、早晩、別所家と毛利家に討滅される見込みであった。それまで、本願寺と共に織田家の大軍をこの摂津で食い止め、毛利家の来援をもって反抗に転じる、これが村重の基本戦略であった。


だが、開戦早々、村重の自信は崩れ去ってしまう。頼みとする3人の重臣が、次々に城ごと信長に降ってしまったのである。11月16日には高槻城の高山右近が、11月24日には茨木城の中川清秀が、12月3日には安部二右衛門の大和田城が信長に降伏してしまい、残るは村重が寄る有岡城と、その嫡男、村次が守る尼崎城に、従兄弟の元清が守る花隈城だけとなってしまう。これで、摂津の過半が呆気なく織田軍の手に落ちた事になり、村重にとって衝撃的な誤算となった。織田軍は各地で放火、なで斬りを働きつつ有岡城へと迫り、ほどなくびっしりと取り囲んだ。有岡城の様な巨城を攻略するには、本来、相当な準備期間を必要とするが、信長は早期決着を図って、全軍総攻撃を命じた。12月8日午後18時、薄暮の中、織田軍は一斉に攻めかかった。塀際で激しい銃撃戦が応酬され、それに合わせて織田軍は城内への突入を図ったが、城方の反撃は激しく、いたずらに犠牲を増すのみであった。


織田軍の総攻撃は失敗し、信長の寵臣、万見重元を始めとする、多大な戦死者を出す結果に終わった。おそらく、千人を超える死傷者を出した事だろう。有岡城の防御力を身に染みて実感した信長は、早期攻略を断念し、長期戦を覚悟した。そして、城の周囲に無数の付け城を築き、それらに織田信忠、信孝、信雄の兄弟、丹羽長秀、滝川一益、池田恒興ら錚々たる有力部将を配置すると、信長自身は12月21日に戦場から離れた。以後、有岡城攻めは信長の嫡男、信忠が総指揮を執り、播磨の羽柴秀吉を支援しつつ、包囲が続く事となる。有岡城からは時折、兵が打って出て、包囲軍と小競り合いが生じたが、ほぼそのままの状態で戦線は膠着する。


天正7年(1579年)3月、反織田陣営に激震が走る。備前の有力大名、宇喜多直家が、毛利家から離反したのである。これによって毛利軍の主力が、播磨や摂津に来援するのは絶望的となった。有岡城の方でも織田軍は封鎖を強化し、城の周囲に堀を穿ち、二重三重に柵を立てて、外部連絡と兵糧搬送の遮断に入る。季節は移ろい、花やぐ春を過ぎ、天地輝く盛夏を迎えても、有岡城の包囲は続いた。兵糧は乏しくなる一方で、城内の憂いは日毎に深まってゆく。荒木軍は数千人あって、城を守るだけなら十分な人数であるが、数万もの包囲陣を打ち破る力は到底、無かった。この状況を打破するには、どうあっても、毛利家の助力が必要であった。これまで村重は、幾度となく毛利家に使いを立てたものの、より良い返事はもらえなかった。そして、季節は更に巡り、秋の虫が鳴き始める。村重は10ヶ月に渡って篭城を続けてきたが、事態は深刻になるばかりであった。そこで村重は自ら直接、毛利家に援軍を頼み込む決意を固め、同年9月2日夜、5,6人の供を引き連れて密かに城を抜け出した。


村重らは闇に紛れて織田軍の陣地線を掻い潜り、無事、嫡男、村次が守る尼崎城へと移る事が出来た。この尼崎城は海に近い事から、毛利家や本願寺との連絡が容易で、その支援も受けやすかった。村重のこの城抜けは命惜しさの行動と取られ易いが、第一は現状打開のためだった。9月11日付きの村重による援軍要請の書状が残っている、地元の有力者と見られる中村左門衛九郎と武田四郎次郎に宛てて、大阪の孫一の衆も駆けつける予定なので、一刻も早く駆けつけてほしいと書かれている。村重はこの後、すぐに海に出て、毛利家に直接頼みにいった可能性もある。いずれにせよ村重は、毛利輝元に援軍を懇願したに違いない。しかし、毛利家の主力は、備前の宇喜多直家に阻まれて、播磨にも入れない状況だった。来れるとすれば、水軍を通した数千人の援兵のみであったろう。しかし、有岡城は、数万もの織田軍によって封鎖されており、数千人程度の兵力では、有岡城への兵糧輸送すら困難だった。


その頃、有岡城では、主将が抜けた事によって人々の間に動揺が広がり始めていた。村重の城抜けは極秘にされていたが、それはすぐに噂となって流れた。包囲軍の将、滝川一益はそれを察知すると、城内に間者を送って寝返り工作を仕掛ける。そして、これに荒木方の将、中西新八郎が応じ、それに続いて足軽大将4人も応じる手配となった。有岡城の総構え内には、北に岸の砦、中央に上臈塚砦(じょうろうづかとりで)、南にひよどり塚砦があって、それぞれ主要防御拠点となっている。中でも、上臈塚砦が最重要拠点であり、その主将が織田方に通じたのだった。10月15日、中西らは上臈塚砦の門を開くと、織田軍を招き入れた。城内に篭っていた将兵、避難民は、突如として現れた敵軍に慌てふためき、大混乱の内に次々に討たれていった。


有岡城
↑有岡城の全体図(伊丹市ホームページより)


岸の砦を守っていた侍大将、渡辺勘大夫は砦を明け渡して退去したものの、信長は事前通告が無かったとして、これを斬り捨てた。ひよどり塚砦の侍大将、野村丹後は雑賀衆の加勢と共に砦を守っていたが、乱戦で雑賀衆が悉く討死すると、織田軍に降伏を申し出た。しかし、信長はこれも許さず斬首とし、安土までその首を運ばせた。野村の妻で、村重の妹でもあった女性は城内でこれを聞いて、泣き崩れたと云う。こうして上臈塚砦、岸の砦、ひよどり塚砦は陥落し、総構えは織田軍の手に落ちた。堀で囲まれた侍町にも火がかけられ、これで有岡城は主郭のみの裸城となる。どのような堅城であっても、内からの攻撃には脆い。やはり、主将の不在が響いたのだった。織田軍は包囲の輪を締め上げ、井楼(せいろう・城攻め用の櫓)から鉄砲を撃ち放ち、金堀衆をもって堀や塀を崩していった。


落城は目前に迫り、城内からは、「助けたまえ」との悲痛な叫び声が上がった。この状況を知った明智光秀は、荒木方が花隈城、尼崎城を明け渡すのと引き換えに、有岡城の篭城者を助命してもらいたいと信長に進言する。信長はこれに許可を与えたので、光秀は謝意を述べ、使者を有岡城へと送った。追い詰められた有岡城の荒木方は、一も二もなくこの条件を受け入れた。天正7年(1579年)11月19日、こうして有岡城は開城されたが、花隈城と尼崎城が引き渡されるまで、荒木一族と重臣の妻子は、人質として織田軍に預けられる事となった。そして、荒木久左衛門を始めとする重臣達は、村重を説得すべく尼崎城へと向かった。しかし、村重は尼崎城と花隈城の明け渡しを拒否し、尚も抵抗の構えを崩さなかった。


人質の命を無視する無情な回答であるが、これには毛利家や本願寺の意向も含まれていたかもしれない。この時、尼崎城には毛利家の部将、桂元将が援軍を率いて入っていたし、本願寺の援軍もいたと思われるからである。この尼崎城と花隈城を失えば、本願寺は益々孤立し、毛利家も追い込まれる事になる。いずれにせよ、明け渡しを拒否された久左衛門らは面目を失い、有岡に戻る事なく逐電してしまった。こうなれば信長も人質を殺さねば、他に示しがつかなくなる。そのため、600人余りの人質全てを処刑するよう命じたのだった。人質達は怯えながら、尼崎からの迎えを今か今かと待ち続けていたが、ついにそれが空しい願望である事を悟った。


女房達が幼子を抱き、声を上げて嘆き悲しむ様は見るも哀れで、警護の武士ですら哀れみの涙を拭った。12月13日、重臣の妻子122人は尼崎の七松という所へ引き立てられ、悲痛な叫び声を上げつつ全員が磔にかけられた。そして、下級の武士とその妻子510人余は、4軒の家屋に押し込められ、枯れ草を積まれて生きたまま焼き殺されていった。男女が煙と火に咽び、叫び苦しむ様は目も当てられなかった。12月16日、村重の妻、21歳のだし、村重の15歳と13歳の娘、村重の20歳の弟、17歳の妹などの荒木一族16人に加え、車3両に子供7,8人が乗せられて京都六条河原へと引き立てられていった。村重の妻だしを始めとする女房衆は身嗜みを美しく整え、取り乱しもせず潔い最期を遂げていった。人々はその様を見て、ある者は感心し、ある者は恐れ慄き、ある者は涙した。そして、この哀れな人質達を見捨てたのは村重であるとして、轟々たる非難の声を上げるのだった。


この後、尼崎城は早々に落ちたようだが、花隈城は尚も抵抗を続けた。しかし、天正8年(1580年)3月初旬、信長の部将、池田恒興の攻撃を受けて花隈城も落城し、荒木方の拠点は全て失われた。村重は、この時、毛利家に亡命したと云われている。天正10年(1582年)6月、織田信長が本能寺で横死すると、村重は堺に移り住んだ。やがて、豊臣秀吉が天下を握ると招かれて、御伽衆(秀吉の話し相手)となった。秀吉は、かつての同僚で、自らを窮地に陥れた事もある男と、如何なる話をしたのだろうか。村重は千利休と親交を結び、茶の湯に傾倒した。そして、人質を見捨てた自らを恥じて、道糞(どうふん)と名乗った。だが、秀吉はそれはあんまりだとして、道薫(どうくん)に改めさせた。晩年を文化人として生きた村重は、天正14年(1586年)5月2日、堺にて病死する。享年52。


村重の築き上げた有岡城のその後であるが、落城後には、池田恒興の嫡男、元助(之助とも)の居城となっていた。しかし、天正11年(1583年)、池田父子が美濃国に転封になった際、廃城となり、その歴史に幕を閉じた。明治以降、伊丹は急速に宅地開発が進んで、城域の大部分は埋もれていった。そして、ここに壮大な城があった事も、凄まじいばかりの悲劇があった事も忘れ去られていった。



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