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浦上氏の興亡

2011.07.23 - 戦国史 其の三
浦上氏は、備前、播磨、美作の三カ国の守護であった赤松氏の被官として始まる。室町時代、浦上氏は赤松氏の柱石として働き、やがては守護代にまで任じられた。村宗の代を迎えると、浦上氏の勢力は主家の赤松義村が危惧を抱くほどのものとなり、やがて両者は反目、激突するに至った。この頃はまだ赤松氏の方が勢力は上で、永世16年(1519年)、義村は、村宗の居城に大規模な攻撃を仕掛ける。しかし、村宗は城を守りきり、逆に反抗に転じて、これを打ち破る事に成功した。そして、義村を強制的に隠居させ、幼少の晴政に跡を継がせて、傀儡とした。これで力関係は逆転し、浦上氏が備前、美作、播磨に支配力を及ぼす大勢力となった。永世19年(1521年)1月、義村は再起を期して兵を挙げたが、村宗はこれも打ち破り、かつての主君を捕らえて幽閉する。そして、同年9月、義村を幽閉先で暗殺した事から、その子、晴政は恨みを含んだ。


その頃、京都では官領家の細川氏が、高国と晴元とに分かれて内訌を繰り広げており、その一方である高国は、村宗の力に目を付けて参戦を要請した。これを受けて村宗は、高国を擁して上洛の軍を催した。村宗、高国連合軍は播磨、山城を席巻して破竹の進撃を見せたが、対抗相手の晴元も四国の大物、三好元長(三好長慶の父)を担ぎ出して反撃を試みる。摂津の中嶋付近で両軍は対峙し、小競り合いを繰り返した。しかし、双方、決定打が無く、対峙する状況が続く。そこで村宗と高国は、赤松晴政に援軍を要請した。しかし、晴政は、村宗に父を殺され、国政の実権を奪われた恨みを忘れておらず、村宗の背後を襲うつもりで出征したのだった。   享禄4年(1531年)6月、村宗、高国軍は味方だと思っていた赤松軍に背後を襲われ、さらに正面の三好軍からの挟撃を受けて、完膚無きまでに破れ、村宗も高国も戦場の露と消えた。


戦後、浦上家は村宗の嫡男、政宗が跡を継ぎ、赤松晴政と激しい抗争を交えつつ、勢力の回復に務めた。だが、天文6年(1537年)、山陰の大大名、尼子晴久が播磨に侵攻を開始すると、存亡の危機に立った政宗と晴政は恨みを捨てて、共に尼子氏に立ち向った。しかし、尼子氏の勢いは凄まじく、政宗は晴政共々城を追われて、堺まで逃れた。天文9年(1540年)、尼子氏が安芸の毛利元就を攻めるため、播磨から軍を撤収させると、政宗と晴政はこの機に乗じて播磨に戻り、失地回復戦を開始する。そして、この戦いの過程で、政宗は家中を主導する立場となった。天文13年(1544年)頃、赤松氏が再び備前、播磨の支配者に返り咲くと、政宗が筆頭家老となった。この後、政宗は自らの勢力を備前、播磨に扶植させる事に力を注ぎ、やがて、独立勢力となった。


天文20年(1551年)、尼子晴久が再び備前、美作に大規模な侵攻を開始すると、浦上家中は動揺して、紛糾(ふんきゅう)する。政宗が尼子氏に従属する姿勢を見せたのに対し、弟の宗景はこれに激しく反発したのである。そして、宗景は毛利元就と結んだ上、天神山にて旗揚げしたので、ここに浦上家は分裂した。宗景は毛利家に援軍を請い、政宗は尼子家に援軍を求めて、備前各地で戦いが繰り広げられた。天文23年(1554年)、戦いの最中、宗景は天神山城を本格的に普請し、自らの居城とする。戦況は宗景優勢で進み、永禄3年(1560年)には政宗を西播磨に追いやって、宗景が備前第一の勢力となった。しかし、備前国内にはまだ対抗相手もいたし、この時点では、浦上氏は毛利氏に従属する一国人に過ぎなかった。宗景は戦国大名としての自立の道を模索するが、そのためには毛利氏と手を切るしかないと定めた。


永禄6年(1563年)5月、宗景は、兄、政宗と和睦して背後を固めた上で、毛利氏とその従属大名、三村氏との戦いを開始する。当面の相手は、備中、美作、備前に勢力を張る強敵、三村氏であったが、家臣の宇喜多直家の奮迅の働きもあって戦いは優勢に進み、永禄12年(1568年)には、宗景は備前のほぼ全域と、美作の東南部を支配する堂々たる戦国大名に成長する。更に同年には、兄、政宗の跡を継いでいた誠宗(なりむね)を暗殺し、その西播磨の所領も自らの版図に加えたのだった。宗景の野望はこれだけに止まらず、西播磨の領主の1人、赤松政秀にも攻撃を加えたため、窮した政秀は、畿内の実力者となっていた織田信長に救援を求めた。信長はこれに応えて軍を派遣し、あろうことか重臣の
宇喜多直家まで、信長に通じて叛旗を翻したから、宗景は重大な危機に陥った。


幸い織田軍の行動は一過性で、数箇所、城を落とすとすぐに引き返していったため、宗景は胸を撫で下ろした。織田軍撤退を受け、孤立した直家も降伏を申し出て来たので、その復帰を許したのだった。宗景はこの機会に直家を滅ぼすべきであったのだが、そうはしなかった。理由は定かではないが、滅ぼすには、既にその勢力が大き過ぎたのか、それとも、周囲の状況がそれを許さなかったのか。天正元年(1573年)、宗景は信長と和睦して、備前、播磨、美作の支配権を認められる。この内、播磨と美作は一部を領有するに留まっていたが、それでも毛利氏に次ぐ、中国地方の大大名である事に間違いはなかった。しかし、宗景の絶頂期も、束の間であった。翌天正2年(1574年)3月、宇喜多直家が再び、叛旗を翻したのである。


直家は前回の失敗を教訓に、今回は準備万端で望んでいた。浦上家の嫡流に当たる久松丸(政宗の孫)を担ぎ出して大義名分を掲げ、更に事前に調略を廻らせて宗景配下から離反を続出させた。 宗景も備中の三村氏と結んでこれに対抗し、備前、美作を舞台に家中を二分する戦いが繰り広げられた。やがて直家は毛利氏を引き込む事に成功し、その軍事援助を受けて攻勢をかける。宗景も九州の大友氏、畿内の織田氏と結んだものの、相手側の事情もあって、直接の援助は期待薄であった。宗景は苦戦し、徐々に追い詰められて行く。そして、天正3年(1575年)6月、毛利氏が備中の三村氏を攻め滅ぼすと、毛利氏と直家は一丸となって宗景に襲い掛かってくる。たまらず宗景は天神山城に篭城し、その天険の守りを最後の砦とした。


しかし、同年9月、そこでも頼みとしていた重臣、明石景親に裏切られたため、最早、城を出て落ち延びるしかなかった。   以降、宗景は信長の後援を受けて、失地回復の機会を窺ったが、天正7年(1579年)、信長が直家の服属を認め、その所領を安堵した結果、宗景が復帰する見込みは無くなった。一時は、3カ国に勢力を張った宗景であったが、一浪人に零落し、以後の消息は途絶えてしまう。下克上で権力を登り詰めた男が、下克上にてその座を追われる、何とも皮肉であった。宗景一代の城である天神山城も、ほどなくして廃城となり、山林に還っていった。
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