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2025.02.02 - 
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大和郡山城

郡山城は、奈良県大和郡山市にある平山城である。郡山城は桜で有名で、日本の桜百選にも選定されている。



郡山城の歴史は古く、既に鎌倉時代には、地元の豪族によって館の様な城が築かれていたようである。戦国時代に入ると、大和の支配者で織田家の部将でもある筒井順慶の居城に選定され、大規模な城郭に発展する事になる。築城工事は織田家の援助を受けて進められ、天正9年(1581年)には、明智光秀が普請目付けとして派遣されている。そして、天正11年(1583年)には、石垣を備えた近世城郭として完成した。天正12年に筒井順慶が死去すると、翌天正13年(1585年)に、天下人秀吉の片腕たる、豊臣秀長が郡山城の主となった。秀長には大和、紀伊、和泉の3カ国100万石が預けられており、その所領に見合った一大城郭を築く事を構想する。そして、秀長は郭(くるわ)を増設し、石垣をかさ上げしていったが、奈良には良質な石材が不足していた為、付近から大量の石仏や墓石を摘発して、石垣を積み上げていった。



秀長は、郡山城とその城下町を大いに発展させたが、天正19年(1591年)、世の人々に惜しまれつつ、この世を去った。文禄5年(1595年)、秀長の養子、秀保も死去すると、五奉行の1人である増田長盛が大和20万石の領主として、郡山城に入る。この長盛の時代に、郡山城は広大な総構え堀を巡らされた。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いによって増田長盛が没落すると、郡山城も一時、廃城となったが、その後、筒井定慶が1万石を与えられて郡山城に入った。しかし、元和元年(1615年)、大坂夏の陣が勃発して豊臣軍が郡山に押し寄せてくると、定慶は戦わずして城を捨て、その後、切腹して果てたと云う。同年、大坂の陣で功績を打ち立てた水野勝成が6万石で入り、郡山城主となったが、元和5年(1619年)に備後福山10万石に転封となった。その後は、徳川家の譜代家臣が配属され続け、松平、本多、松平、本多と入れ替わった後、柳沢家が城主となり、そのまま明治の世を迎えた。



大和郡山城
大和郡山城 posted by (C)重家

↑外堀


外堀とありますが、総構え堀であり、城郭まではまだ遠いです。



大納言塚
大納言塚 posted by (C)重家

↑大納言塚


天下人、豊臣秀吉の弟である、豊臣秀長の墓です。この有能かつ、信頼篤い弟がいたからこそ、秀吉は天下を取れたのでしょう。それに秀長は、大和郡山の町並みの基礎を作った人物でもあります。秀長は、郡山の町の片隅で静かな眠りについています。



大和郡山城
大和郡山城 posted by (C)重家

↑中堀



大和郡山城
大和郡山城 posted by (C)重家

↑内堀



大和郡山城
大和郡山城 posted by (C)重家

↑天守台


在りし日には、五層の壮麗な天守閣がそびえ立っていたそうです。



大和郡山城
大和郡山城 posted by (C)重家

↑天守台石垣


野面積みの石垣に、平城京羅城門の礎石や、五輪塔、石地蔵などが組み込まれています。


大和郡山城
大和郡山城 posted by (C)重家

↑桜と天守台石垣



大和郡山城
大和郡山城 posted by (C)重家

↑内堀


奥に天守台があります。


大和郡山城
大和郡山城 posted by (C)重家

↑大手向櫓


ちょうどこの付近で、大勢のカメラマンが位置取りをしていました。


大和郡山城
大和郡山城 posted by (C)重家

↑郡山城と桜祭り


郡山城では、桜の満開時期になると祭りが催され、大勢の人で賑わいます。




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寺田屋

寺田屋は京都市伏見区にある、船宿である。幕末期、ここでは二つの事件が起こっている。


文久2年(1862年)4月23日、薩摩藩主、島津久光は公武合体論(朝廷、幕府、諸藩を結びつける幕藩体制再編案)を打ち出して、1千名の兵を率いて上京する。この時、京都に滞在していた薩摩藩士、有馬新七を始めとする急進的な尊皇攘夷志士らは、これを好機と捉えて久光を倒幕の旗手に祭り上げようとの計画を立てた。そして、有馬らは寺田屋に集って、関白の九条尚忠と、京都所司代の酒井忠義を襲撃せんとした。しかし、この時の久光に倒幕の意志は無く、朝廷からの通報を受けて腕利きの藩士9名を鎮撫使として寺田屋に送り込んだ。鎮撫使は有馬らに薩摩藩邸に同行するよう説得したが、これを拒否された為、薩摩藩士同士の斬り合いが始まった。その結果、有馬以下6名の急進派藩士がその場で斬死し、重傷を負った2名も切腹を申し渡された。この時、鎮撫使側も1名が死亡し、4月27日には急進派の志士1人が自刃したので、合計10人の死者を出す騒動となった。


慶応2年(1866年)1月21日、坂本龍馬らの仲介を受けて、歴史の一大転機となる薩長同盟が京都にて締結される。龍馬は寺田屋で宿をとっていたが、それを聞きつけた幕府の伏見奉行は、1月23日の深夜、捕り方百数十人を率いて寺田屋に踏み込んだ。この時、龍馬の婚約者、お龍は風呂に入っていたが、この異変を逸早く察知して裸のまま階段を駆け上がり、龍馬に危険を告げた。時を経ずして捕り方も上階に踏み込んで来たが、龍馬と長州藩士3名は何とか態勢を整えて、捕り方を迎え撃った。両者しばしの対峙が続いた後、龍馬のピストルが火を噴いて、それを契機に狭い部屋で乱闘が始まった。龍馬は幾度も斬り付けられて手に深い傷を負ったが、辛くも屋根伝いに逃れる事に成功し、そのまま薩摩藩邸へと逃げ込んだ。幕府方もそれを嗅ぎ付けて引き渡し要求を突きつけてきたが、薩摩藩はこれを知らぬ存ぜぬで貫き通し、その1ヶ月後には龍馬とお龍を鹿児島へ逃した。この後、龍馬は傷の治療も兼ねてしばらく薩摩に潜伏する事になるが、その合間にはお龍と共に高千穂峰を登山したり、霧島神宮に詣でるなど束の間の幸せを味わうのだった。




寺田屋
寺田屋 posted by (C)重家

↑寺田屋


坂本龍馬ファンにとって、寺田屋は馴染み深い存在でしょう。しかし、残念ながら当時の建物は、鳥羽伏見の戦いで焼失してしまっています。現在ある寺田屋は明治期の再建で、当時の敷地の西隣に建てられたものであると見られています。



寺田屋
寺田屋 posted by (C)重家

↑寺田屋



寺田屋
寺田屋 posted by (C)重家

↑寺田屋にある古い井戸。


幕末からあるのだとか。



寺田屋
寺田屋 posted by (C)重家

↑寺田屋にある龍馬像



寺田屋近辺
寺田屋近辺 posted by (C)重家

↑寺田屋近辺にある観光屋形船



寺田屋近辺
寺田屋近辺 posted by (C)重家

↑寺田屋近辺の桜祭り



伏見城

伏見城は京都市伏見区にある、平山城である。京都盆地の東側にある山地、東山から連なる丘陵の南端に築かれていた。



この伏見の地は、京都と大坂を結ぶ重要な水運の結節点にあたり、また京都と奈良を結ぶ大和街道を扼する交通の要衝であった。この地の利に目を付けた豊臣秀吉は、隠居後も隠然たる影響力を行使すべく、巨椋池(おぐらいけ)北岸にある丘陵、指月山に自らの隠居城を築く事を決定する。文禄元年(1592年)8月より工事は始まり、慶長元年(1596年)6月には絢爛豪華な城の完成を見る。しかし、その直後の7月、慶長伏見大地震が発生し、完成したばかりの伏見城は倒壊して、見るも無残な姿に成り果てた。この時、500人の仲居が死亡し、秀吉も危うく圧死するところであったと云う。それでも秀吉はすぐに再建を決意し、今度は指月山の北東にある木幡山に新たな伏見城の建設を始める。天下人の動員力と、倒壊した資材が用いられた事もあって工事は急速に進められ、早くも慶長2年(1597年)5月には完成を見た。


晩年の秀吉は伏見城で過ごす事が多く、慶長3年(1598年)8月18日に最後の日を迎えた場所もこの伏見城であった。秀吉の死後、伏見城は徳川家康の預かる所となる。そして、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、この伏見城は西軍勢力圏に突き出した東軍の最前線となり、当然、西軍による最重要攻撃目標となる。ここに篭もったのは家康の老臣、鳥居元忠と1800人余の将兵で、これを攻めるのは4万人余の西軍であった。いくら堅固な城郭とは言え、これほどの兵力差であれば、伏見城は数日余りで落城すると見られた。7月19日、伏見城の麓は西軍方の将兵で埋め尽くされ、兵力にものを言わせた物量攻撃が始まった。しかし、城将の鳥居元忠は既に覚悟を定めて徹底抗戦の構えを崩さず、その気迫が末端の将兵にまで伝わって、城方は無類の奮戦を見せる。
それに西軍の中には戦意の乏しい者もいて、攻撃の足並みは揃わなかった。


伏見城は10日を経ても落ちる気配が無く、西軍の実質的な総指揮官である、石田三成が焦って自ら督戦に向かう一幕もあった。それでも攻めあぐねた西軍方は、篭城していた甲賀者を脅迫して火災を起こさせ、それに乗じてようやく城内に突入する事に成功する。それでも鳥居元忠ら生き残りの数百人余りの将兵らは最後まで奮闘して、悉く討死して果てた。西軍も3千人を超える死傷者を出したと云われる、凄まじい攻防戦であった。この戦いによって伏見城は焼け落ちてしまったが、慶長7年(1602年)、関ヶ原の勝者となった徳川家康によって再建される。今だに大坂で隠然たる勢力を保持していた、豊臣家を抑え込む為であった。
しかし、京都に二条城が完成し、大坂の陣で豊臣家も滅亡した事から伏見城は存在意義を失い、元和9年(1623年)には廃城となって、その短くも激しい歴史に幕を閉じた。




伏見城
伏見城 posted by (C)重家

↑再建伏見城


実際の伏見城とは異なった場所に建てられています。



伏見城
伏見城 posted by (C)重家

↑再建伏見城


見た目だけなら、すこぶる立派です。しかし、鉄筋コンクリート製なのに耐震基準を満たしていないので、中には入れません。なので次に地震が起こると、リアルタイムで倒壊するのが見れそうです
┐('~`;)┌.


伏見城
伏見城 posted by (C)重家

↑模擬大手門



伏見城
伏見城 posted by (C)重家

↑伏見城の石垣


この石垣は、秀吉の晩年の日々をその足元で支え、また、壮絶な伏見城攻防戦をその身で体験している事でしょう。



伏見城
伏見城 posted by (C)重家

↑伏見城の石垣



伏見城
伏見城 posted by (C)重家

↑伏見桃山陵


明治天皇の陵墓です。明治45年(1912年)7月30日、明治天皇が崩御すると、この伏見城の本丸跡に埋葬されました。秀吉が再建した木幡山伏見城の天守閣は、この背後の山頂にそびえ立っていました。


伏見城
伏見城 posted by (C)重家

↑伏見桃山陵付近からの眺め


かつて伏見城の麓には、巨椋池(おぐらいけ)と呼ばれる湖を思わせる巨大な池が広がっていました。往時には前方に大池が広がっていて、夕刻には水面が黄金色に輝いていた事でしょう。しかし、昭和の時代を迎えると巨椋池の水質は悪化の一途を辿り、戦時下で食料増産を迫られたせいもあって、昭和8年(1933)から干拓義業が進められ、昭和16年(1941年)には池は完全に埋め立てられました。


伏見城
伏見城 posted by (C)重家

↑伏見桃山陵付近からの眺め



伏見城
伏見城 posted by (C)重家

↑伏見桃山東陵


明治天皇の妻である、昭憲皇后の陵墓です。伏見桃山陵から東にやや下った場所にあります。

往時の伏見城は、天下人、秀吉が晩年を過ごした絢爛豪華な城でしたが、現在では残念ながら、その面影を見出す事は難しいです。




安居神社 真田信繁討死の地

安居神社は、大阪市天王寺区にある小さな神社である。そしてここは、大坂夏の陣で勇名を馳せた真田信繁討死の地でもある。 



安居神社
安居神社 posted by (C)重家

↑安居神社 


都会の一角にあって分かり難いので、行くにはナビを持っていくか、前もって下調べした方が良いでしょう。 



安居神社
安居神社 posted by (C)重家

↑真田信繁の像 



安居神社
安居神社 posted by (C)重家

↑本殿 



安居神社
安居神社 posted by (C)重家

↑安居神社 


小高い丘にある事が分かります。信繁は家康本陣に突撃を繰り返した後、この安居神社まで押し戻されました。そして、傷付き、疲れ果てた身を休めていたところを討たれたとあります。 



茶臼山
茶臼山 posted by (C)重家

↑通天閣なら眺める茶臼山 


橋の架かった小高い丘が茶臼山です。大坂冬の陣では、徳川家康の本陣となり、夏の陣では真田信繁の出撃拠点となりました。往時には、軍勢の喊声と激しい銃撃戦の音が響き渡っていたでしょう。 

呉軍港

呉は、広島県南西部にある瀬戸内海に面した都市である。明治以前は寂れた漁村に過ぎなかったが、天然の良港を有していた事から、明治時代になって海軍基地に選定され、以降、莫大な国費が投じられて工場やドックが次々に造成されていった。やがて、呉海軍工廠の規模は東洋最大とまで謳われるようになり、そこから戦艦大和を始めとする、各種艦艇が生み出されていった。軍艦を作るには高度な技術が必要で、それを運用する乗員にも特殊な技能が求められる。この軍艦を建造、補修し、乗員の教育、訓練にあたるのが軍港の役割りであり、これ無くして艦隊は成り立たなかった。



戦前、戦中の日本には横須賀、呉、佐世保、舞鶴の4軍港があったが、その規模の大きさ、機能の重要さにおいては、呉と横須賀が一頭地を抜いていた。軍艦建造能力でも呉と横須賀が際立っていて、この2港では主に戦艦、空母、重巡洋艦などの大型艦艇が建造されたのに対し、佐世保では軽巡洋艦と駆逐艦、舞鶴は駆逐艦、水雷艇などの中小艦艇が建造されていた。軍港としての呉は太平洋戦争中に最盛期を迎え、昭和18年(1943年)
には短期徴用工も含めると人口は40万人に達していた(2011年時点では約24万人)。しかし、大戦末期、アメリカ軍の攻撃が日本本土にまで及ぶようになると、呉は最重要目標と見なされて、激しい爆撃を受けるようになる。



昭和20年(1945年)3月19日、7月24日、7月28日と三度の爆撃を受けて工場群は壊滅し、呉は軍港としての機能を失ってしまう。連合艦隊の成れの果てである、残存艦艇も悉く沈められ、栄光を誇った日本海軍もまた、壊滅した。戦後、呉は焦土と化し、米軍機が投下した機雷によって船の往来もままならなくなった。けれども、危険を顧みない旧海軍掃海艇の活躍によって機雷は除去されていき、破壊された港湾施設の復興も徐々に進められ、再び工業都市としての輝きを取り戻すようになる。そして、海上自衛隊が発足するにあたって、旧海軍の伝統と設備を受け継ぐ呉は、軍港としても復活する。これからも呉は、日本の海を守る拠点として未来に渡って重要な役割を担い続けるであろう。



大和建造ドック
大和建造ドック posted by (C)重家

↑呉市街


呉では今なお、造船が盛んです。


大和建造ドック
大和建造ドック posted by (C)重家

↑大和建造ドック跡


ここには戦艦大和が建造されたドックがありましたが、現在は埋め立てられています。しかし、上屋の骨組みは、当時のままで残されています。



旧呉鎮守府
旧呉鎮守府 posted by (C)重家

↑海上自衛隊呉地方総監部(旧呉鎮守府)


今も昔も、呉軍港の頭脳ともいえる施設です。鎮守府とは軍港を統括する組織で、定められた海域の防備、所属艦船の整備補給、将兵の教育訓練などを担う組織です。呉鎮守府は、明治19年(1886年)に第二海軍区鎮守府(明治22年に呉鎮守府に改称)が設置されたのを始まりとします。外戦部隊である連合艦隊とは別で、鎮守府指揮下にある艦艇は内戦部隊と云われ、駆逐艦、潜水艦、警戒艦、訓練艦、航空隊などで構成されていました。戦前の日本には横須賀鎮守府(東日本を守備範囲とする第一海軍区)、呉鎮守府(西日本の太平洋岸を守備範囲とする第二海軍区)、佐世保鎮守府「九州から台湾、中国、朝鮮半島までを守備範囲とする第三海軍区)、舞鶴鎮守府(日本海を守備範囲とする第四海軍区)が設置されていました。




噫 ( ああ ) 戰艦大和之塔
噫 ( ああ ) 戰艦大和之塔 posted by (C)重家


↑噫(ああ)戦艦大和塔


歴史の見える丘にあって、ここから大和建造ドックを望む事も出来ます。この塔の脇には戦艦「大和」や「長門」の主砲弾も展示されています。



入船山公園
入船山公園 posted by (C)重家

↑旧呉海軍工廠塔時計


かつては海軍工廠の屋上にあって終戦まで時を刻んでいましたが、
昭和46年(1971年)に入船山公園に移設されました。




入船山公園
入船山公園 posted by (C)重家

↑呉鎮守府、司令長官官舎


元となる建物は、
明治22年(1889年)に建てられました。明治38年(1905年)の芸予地震によって倒壊してしまいますが、同年中にその資材を用いて再建されました。昭和20年(1945年)まで鎮守府司令官宿舎として用いられ、戦後は米軍司令官の宿舎となって昭和31年(1956年)まで使用されました。その後、呉市に返還されて一般公開され、平成7年(1995年)に解体修復工事がなされました。建物は、東の洋風館と西の和風館からなっており、国の重要文化財に指定されています。



入船山公園
入船山公園 posted by (C)重家

↑鎮守府司令長官の執務室


ここでは歴代連合艦隊司令長官も集って、国事を話し合う機会もあった事でしょう。



入船山公園
入船山公園 posted by (C)重家

↑食堂


フランス料理が振舞われたのだとか。



入船山公園
入船山公園 posted by (C)重家

↑和風館



入船山公園
入船山公園 posted by (C)重家


東郷平八郎、山本五十六を始めとする錚々たる提督達もこの道を通った事でしょう。

ノスタルジック(郷愁・懐かしむ)、そんな言葉がよく似合う街です。


 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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