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寺田屋

寺田屋は京都市伏見区にある、船宿である。幕末期、ここでは二つの事件が起こっている。


文久2年(1862年)4月23日、薩摩藩主、島津久光は公武合体論(朝廷、幕府、諸藩を結びつける幕藩体制再編案)を打ち出して、1千名の兵を率いて上京する。この時、京都に滞在していた薩摩藩士、有馬新七を始めとする急進的な尊皇攘夷志士らは、これを好機と捉えて久光を倒幕の旗手に祭り上げようとの計画を立てた。そして、有馬らは寺田屋に集って、関白の九条尚忠と、京都所司代の酒井忠義を襲撃せんとした。しかし、この時の久光に倒幕の意志は無く、朝廷からの通報を受けて腕利きの藩士9名を鎮撫使として寺田屋に送り込んだ。鎮撫使は有馬らに薩摩藩邸に同行するよう説得したが、これを拒否された為、薩摩藩士同士の斬り合いが始まった。その結果、有馬以下6名の急進派藩士がその場で斬死し、重傷を負った2名も切腹を申し渡された。この時、鎮撫使側も1名が死亡し、4月27日には急進派の志士1人が自刃したので、合計10人の死者を出す騒動となった。


慶応2年(1866年)1月21日、坂本龍馬らの仲介を受けて、歴史の一大転機となる薩長同盟が京都にて締結される。龍馬は寺田屋で宿をとっていたが、それを聞きつけた幕府の伏見奉行は、1月23日の深夜、捕り方百数十人を率いて寺田屋に踏み込んだ。この時、龍馬の婚約者、お龍は風呂に入っていたが、この異変を逸早く察知して裸のまま階段を駆け上がり、龍馬に危険を告げた。時を経ずして捕り方も上階に踏み込んで来たが、龍馬と長州藩士3名は何とか態勢を整えて、捕り方を迎え撃った。両者しばしの対峙が続いた後、龍馬のピストルが火を噴いて、それを契機に狭い部屋で乱闘が始まった。龍馬は幾度も斬り付けられて手に深い傷を負ったが、辛くも屋根伝いに逃れる事に成功し、そのまま薩摩藩邸へと逃げ込んだ。幕府方もそれを嗅ぎ付けて引き渡し要求を突きつけてきたが、薩摩藩はこれを知らぬ存ぜぬで貫き通し、その1ヶ月後には龍馬とお龍を鹿児島へ逃した。この後、龍馬は傷の治療も兼ねてしばらく薩摩に潜伏する事になるが、その合間にはお龍と共に高千穂峰を登山したり、霧島神宮に詣でるなど束の間の幸せを味わうのだった。




寺田屋
寺田屋 posted by (C)重家

↑寺田屋


坂本龍馬ファンにとって、寺田屋は馴染み深い存在でしょう。しかし、残念ながら当時の建物は、鳥羽伏見の戦いで焼失してしまっています。現在ある寺田屋は明治期の再建で、当時の敷地の西隣に建てられたものであると見られています。



寺田屋
寺田屋 posted by (C)重家

↑寺田屋



寺田屋
寺田屋 posted by (C)重家

↑寺田屋にある古い井戸。


幕末からあるのだとか。



寺田屋
寺田屋 posted by (C)重家

↑寺田屋にある龍馬像



寺田屋近辺
寺田屋近辺 posted by (C)重家

↑寺田屋近辺にある観光屋形船



寺田屋近辺
寺田屋近辺 posted by (C)重家

↑寺田屋近辺の桜祭り



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