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淡河城(おうごじょう)

淡河城は、兵庫県神戸市北区にある平山城です。

 


淡河城の築城年代は定かではないが、鎌倉時代に、執権北条氏の一族である淡河成正によって築かれたとされる。それから戦国時代に至るまで淡河氏は、勢力を保っていたが、毛利家、織田家の二大勢力が播磨で激突するに当たって、その運命は激変する事となる。この頃の淡河氏の当主は、定範(1539?~1579?)で、播磨の雄、別所氏と縁戚関係を結んで、その麾下に属していた。天正5年(1577年)、織田信長の部将、羽柴秀吉が、中国攻めのため、播磨に進駐してくると、別所家の当主、長治はこれに協力する事を約した。ところが、天正6年(1578年)3月、長治は毛利家に通じて三木城に立て篭もり、長治と縁戚関係にあった淡河定範もこれに呼応して、淡河城に立て篭もった。羽柴秀吉も反撃に出て、三木城を囲む一方で、播磨各地に張り巡らされた別所氏の支城網をつぶしにかかった。


それから秀吉は苦戦しつつも、着実に支城を落としていって、三木城の補給路を断っていった。それに加えて三木城の周囲に多数の付け城を築いて封鎖を強化し、有力支城である淡河城にも、四方に付け城を築いて攻略の機会を窺った。だが、同年10月、織田家の部将、荒木村重が反旗を翻した事から、村重の支配下にある花隈城から、丹生山明要寺を経て三木城へと通じる新たな補給路が開削された。そうと知った秀吉は、弟、秀長に軍を授けて、天正7年(1579年)5月25日、丹生山明要寺を夜討ちさせた。秀長は寺の僧侶を皆殺しにして、全山焼き払い、三木城の最重要補給路を断った。同年5月26日、秀長軍はその勢いで、丹生山の北にある淡河城にも襲い掛かった。「陰徳太平記」などの軍記によれば、淡河定範は奇策をもってこれを散々に打ち破ったが、長くは保てないと見て城を焼き払い、三木城に引き払ったそうである。


丹生山と淡河城の落城をもって、三木城は孤立無援となった。同年9月初旬、兵糧不足に陥った三木城を救うべく、毛利家の兵糧輸送隊が播磨の魚住に上陸して、密かに北上を開始した。同年9月10日、三木城の別所軍もこれに呼応して出撃し、兵糧受け取りに向かったが、秀吉に感づかれて、平田、大村の二ヶ所で合戦となった。しかし、平田の毛利軍は、秀吉が差し向けた別働隊によって打ち破られ、大村の別所軍も、秀吉本隊の攻撃を受けて散々に打ち破られ、これに参加していた淡河定範も奮戦の末に討死したと云われている。だが、毛利輝元の書状によれば、定範は無事、逗留中とあり、毛利家に保護されている事が窺える。定範は、平田、大村合戦には参戦したものの、三木城には帰還せず、毛利軍に合流して、その領国に引き払ったのではなかろうか。しかし、その後の定範の消息はようとして知れず、三木城の方も、天正8年(1580年)1月17日に落城して、別所氏共々、忘却の彼方に消え去った。淡河城は、その後、有馬則頼の居城となったが、慶長6年(1601年)、則頼は摂津三田に転封されたため、廃城となった。




淡河城(おうごじょう)
淡河城(おうごじょう) posted by (C)重家

↑淡河城

道の駅、淡河のすぐ側にあります。



淡河城(おうごじょう)
淡河城(おうごじょう) posted by (C)重家

↑淡河城の登り口

この橋を渡って5分ほど登ると、本丸まで行けます。


淡河城(おうごじょう)
淡河城(おうごじょう) posted by (C)重家

↑本丸跡

本丸跡には神社が立っていますが、どことなく不気味な雰囲気でした。それに加えて蚊が非常に多く、早々に本丸跡から出ました。


淡河城(おうごじょう)
淡河城(おうごじょう) posted by (C)重家

↑かつての淡河城



淡河城(おうごじょう)
淡河城(おうごじょう) posted by (C)重家

↑本丸



淡河城(おうごじょう)
淡河城(おうごじょう) posted by (C)重家

↑本丸脇にある空堀

この堀は現代でも、切り込みが鋭かったです。



淡河城(おうごじょう)
淡河城(おうごじょう) posted by (C)重家

↑淡河氏の墓所

本丸跡から、しばらく南に歩いた場所にあります。



淡河城(おうごじょう)
淡河城(おうごじょう) posted by (C)重家

↑本丸から南を望む

かつてはこの辺りも城郭だったはずですが、遺構は消失しているようです。


淡河城(おうごじょう)
淡河城(おうごじょう) posted by (C)重家

↑本丸から東を望む

下に見えるのは、道の駅、淡河です。


淡河城(おうごじょう)
淡河城(おうごじょう) posted by (C)重家

↑麓から淡河城を望む

林になっている所が、城郭です。緩やかな台地上にあって、その麓には川が流れているので、天然の要害であるのが分かります。

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篠ノ丸城

篠ノ丸城は、兵庫県宍粟市山崎町にある山城で、山崎町では、黒田官兵衛ゆかりの地として紹介しています。


篠ノ丸城は、南北朝時代の貞和年間(1345~1350)、播磨の守護大名、赤松氏の一族である、赤松顕則によって築かれたと伝わる。戦国期には、赤松氏の一族である宇野氏の支配する所となり、本城である長水城の支城として用いられた。宇野氏は西播磨の宍粟郡一円を支配する、有力な国人で、宇野政頼の時代に最盛期を迎えた。しかし、政頼は、畿内に台頭してきた織田信長に敵対し、その侵攻を受ける事となる。天正8年(1580年)4月、織田家の部将、羽柴秀吉の攻撃を受けて篠ノ丸城は落城し、続く5月には長水城も落城して、宇野一族は悉く討死して滅亡を遂げる。その後、播磨は織田家の分国となり、続いて豊臣家の分国となって、天正12年(1584年)には、黒田官兵衛(孝高)が宍粟郡の領主として入った。官兵衛は山崎の城を居城にしたとされ、これを篠ノ丸城に当てはめる説もあるが、現在残されている遺構を見れば、ここが近世大名の居城であったとは思えない。おそらく、落城当時の姿をそのまま残していると思われる。


篠ノ丸城

篠ノ丸城 posted by (C)重家

↑登山口

篠ノ丸城は、標高325メートルの篠山の山頂に築かれています。山の中腹まで車で行けますが、そこの駐車場からは歩きとなり、山道を15分ほど登ると城跡に着きます。

篠ノ丸城

篠ノ丸城 posted by (C)重家

↑手前が二の丸で、段差の向こうが本丸


篠ノ丸城

篠ノ丸城 posted by (C)重家

↑本丸


篠ノ丸城

篠ノ丸城 posted by (C)重家>

↑本丸側面の郭跡


篠ノ丸城

篠ノ丸城 posted by (C)重家

↑二の丸


篠ノ丸城

篠ノ丸城 posted by (C)重家

↑二の丸


篠ノ丸城

篠ノ丸城 posted by (C)重家

↑畝状堅堀

二の丸側面には、図にあるような縦に掘られた空堀が見られました。


篠ノ丸城

篠ノ丸城 posted by (C)重家

↑篠ノ丸城から南を望む


篠ノ丸城

篠ノ丸城 posted by (C)重家

↑篠ノ丸城から北を望む

正面中央にある山が長水城で、宇野氏はそこを本拠としていました。長水城は、大規模な山城で今でも石垣などが残されています。


篠ノ丸城

篠ノ丸城 posted by (C)重家

↑篠ノ丸城から東を望む。

眼下に広がるのは、山崎の町並みです。羽柴秀吉が長水城攻撃に望んだ時、左側の山の麓辺りに、本陣を置いたと伝わります。それを真っ先に迎え撃ったのが、篠ノ丸城だったのでしょう。しかし、秀吉軍は1万人余はいたはずで、それに対して、篠ノ丸城に篭もっていたのはせいぜい数百人ぐらいでしょう。在りし日にはこの前面で、万余の兵が一斉に雄叫びを上げて、麓から攻め上がって来る光景が広がっていたはずです。篠ノ丸城は、そんな戦国の雰囲気を色濃く残しています。

甲府城

甲府城は、山梨県甲府市にある平山城です。


天正18年(1590年)、甲斐を支配していた徳川家康は、躑躅ヶ崎館に代わる新たな統治の拠点として、甲府に築城を企図する。しかし、同年、家康は関東に移封となったため、代わって甲斐に入封した羽柴秀勝、続いて入封した加藤光泰の手によって甲府城は築かれた。光泰時代に城の主要部は出来上がったが、その後も工事は続き、光泰に代わって入封した浅野長政、幸長父子の時代に完成を見た。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いを機に甲斐は再び徳川家の支配下に入り、甲府城に城代が置かれるなどして、そのまま明治の世を迎える。明治6年(1873年)、廃城令が布告されて、甲府城の建物は解体され、石垣のみが残される事となった。



甲府城
甲府城 posted by (C)重家


甲府城
甲府城 posted by (C)重家


甲府城
甲府城 posted by (C)重家



甲府城
甲府城 posted by (C)重家

↑天守台跡


甲府城
甲府城 posted by (C)重家

↑天主台から西を望む


甲府城
甲府城 posted by (C)重家

↑天主台から南を望む

こちら側には富士山があるのですが、雲があって確認出来ませんでした。


甲府城
甲府城 posted by (C)重家

↑天主台から東を望む


甲府城
甲府城 posted by (C)重家

↑天主台から北を望む

すぐ先には、甲府駅があります。更に写真中央の山の麓辺りに、武田神社(躑躅ヶ崎館)があります。


甲府城
甲府城 posted by (C)重家



武田信玄像
武田信玄像 posted by (C)重家

↑武田信玄像

甲府駅の南西にあります。この坐像の信玄は、どっしりとした体格で厳つい風貌をしています。しかし、高野山持明院蔵の武田晴信像を見る限りでは、中肉で、穏やかな風貌をしています。果たして、どちらが本物に近いんでしょうね。

躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)

躑躅ヶ崎館は、山梨県甲府市にある戦国大名の居館跡で、かの有名な武田信玄の本拠地として知られています。


躑躅ヶ崎館は、永正16年(1519年)、甲斐統一を進めていた武田信虎によって築かれた。館は足利将軍邸を模した方形居館で、背後の詰めの城として、要害山城も合わせて築かれた。以降、躑躅ヶ崎館は信虎、信玄、勝頼の武田氏三代の居城として用いられるが、天正10年(1582年)、勝頼が韮崎に新府城を築き、そこを新たな本拠と定めるにあたって、役割を終える形となった。しかし、同年3月、勝頼は、織田信長によって滅ぼされ、甲斐には信長の家臣、川尻秀隆が入った。秀隆は、躑躅ヶ崎館を統治の拠点としていた模様だが、同年6月に起こった本能寺の変と、それに伴う甲斐の国人一揆によって命を落とした。その後、徳川家康が甲斐を制圧し、改めて躑躅ヶ崎館を統治の拠点と定めた。この時に居館は拡張され、天守閣も築かれたらしいが、天正18年(1590年)、新たに甲府城を築くにあたって、廃城となった。大正8年(1915年)、武田家の威光を偲ぶ人々によって、躑躅ヶ崎館の跡地に、信玄を祭神とする武田神社が創建され、現在に至る。


武田神社
武田神社 posted by (C)重家


石鳥居の辺りで、話好きの80代のお爺さんに捕まりました。武田神社のすぐ側に住んでいるそうで、こちらが史跡を巡っている時も付かず離れず、登山の話やら、信玄にまつわる話を、延々と話してくれました。でも、基本的には良い人で、アルプスのパンフレットをくれたり、神社の背後にある要害山の場所を教えてくれたり、美味しいほうとうの店を教えてもらいました。朝と夕方に神社を散歩しているそうなので、皆さんももしかしたら会えるかも?


武田神社
武田神社 posted by (C)重家

↑拝殿

躑躅ヶ崎館のかつての主郭は、この辺りにあったと思われます。


武田神社
武田神社 posted by (C)重家

↑甲陽武能殿


武田神社
武田神社 posted by (C)重家

↑土塁跡


武田神社
武田神社 posted by (C)重家



武田神社
武田神社 posted by (C)重家

↑西曲輪


武田神社
武田神社 posted by (C)重家

↑中央の丸い山は、要害山城

武田神社の北から、見れます。大永元年(1521年)、武田信玄は、あの山城で生まれたとされています。


武田神社
武田神社 posted by (C)重家



武田神社
武田神社 posted by (C)重家



武田神社
武田神社 posted by (C)重家

↑かぼちゃほうとう

山梨県と言えば、ほうとうが有名です。お爺さんに教えてもらった店で、甲府駅の北にありました。お爺さんのお勧めが、かぼちゃほうとうだったので、これを頼みましたが、野菜たっぷりで美味しかったです。武田信玄も、ほうとうを食していたのでしょうか?

河内飯盛山城

飯盛山城は、大阪府四條畷市と大東市の境目にある山城です。

この城は、戦国時代、畿内の覇者となった三好長慶の居城として使われていました。

四條畷神社
四條畷神社 posted by (C)重家

↑四条畷神社 四條畷の戦いで敗死した楠木正行を祭っている神社で、ここの裏手に飯盛山城への登り口があります。


飯盛山城
飯盛山城 posted by (C)重家

↑稜線の広い道

往時には、大勢の武者が往来していたでしょう。


飯盛山城
飯盛山城 posted by (C)重家

↑飯盛山城から京都方面を望む


飯盛山城
飯盛山城 posted by (C)重家

↑飯盛山城から大坂湾方面を望む

左側に映る白い屋根は、大坂ドームでしょうか。


飯盛山城
飯盛山城 posted by (C)重家

↑飯盛山城から和歌山方面を望む

飯盛山城は、京都、大坂、奈良といった重要地の中間地点にあるので、これらの地域を支配していた三好氏にとって、絶好の立地になります。


飯盛山城
飯盛山城 posted by (C)重家

↑堀切り跡

飯盛山城
飯盛山城 posted by (C)重家

↑石垣跡


飯盛山城
飯盛山城 posted by (C)重家

↑頂上にある楠木正行像 ここは三好長慶像にしてもらいたかったですね。

飯盛山城
飯盛山城 posted by (C)重家

↑土塁跡


飯盛山城
飯盛山城 posted by (C)重家

↑麓から見た飯盛山城

往時には木々が取り払われて、数々の郭(くるわ)が建ち並んでいたのでしょう。


飯盛山城はハイキングコースになっていて、結構大勢の人が訪れていました。頂上からは、大阪平野を一望する事ができます。城の遺構に注意しながら歩いて見て回ると、素人目にも、郭や堀切りの跡が確認できます。また、それらが山の稜線に沿って連綿と続いていたので、気宇壮大な城であったのが伝わってきます。往時には数千人の兵が篭城可能だったでしょう。

 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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