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2026.10.03 - 
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篠山城、再訪

篠山城は、兵庫県篠山市にある平山城です。


慶長14年(1609年)、関ヶ原合戦を経て、天下の権を握りつつあった徳川家康は、今だ大坂にて隠然たる勢力を有している豊臣家を警戒し、山陰道の要衝である丹波篠山の地に城を築く事を命じた。豊臣家を包囲する事が主目的であるが、西国大名に対する抑えの意味合いもあった。縄張奉行(城の設計者)となったのは、戦国有数の築城名人として知られている藤堂高虎で、普請総奉行(総監督)となったのは、家康の娘婿で、これまた築城に長けた池田輝政であった。築城は天下普請と呼ばれる大掛かりなもので、西日本の15カ国、20の大名と、総勢8万人もの人夫が動員された。工事は、慶長14年(1609年)3月9日の鍬入れから始まり、同年10月5日に奉行が帰国したとあるので、この頃におおよその工事が終わり、同年12月21日には人夫が皆、帰路に着いたとあるので、この頃に仕上がったのだろう。


並の大名ならば数年掛かりであったろうが、天下人、家康の御声掛かりによる大動員で、僅か9ヶ月余で完成を見たのだった。篠山城の規模は決して大きくはないが、整った方形に二重の堀、総石垣の外観は、まさに近世城郭といった趣で、この城が持つ堅固さの現れでもあった。初代城主となったのは、徳川譜代である松平康重で、以後も、別家の松平氏や、青山氏といった徳川譜代が、代々、城主を務めた。明治の世を迎えると、城内の建物のほとんどは破却されたが、唯一、大書院だけは残された。その大書院も昭和19年(1944年)1月に焼失してしまうが、平成12年(2000年)3月に、古地図、古写真、発掘調査を元にした、伝統工法によって再建された。





篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑枡形

敵の動きを妨げるための、方形の広場。




篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑大書院

中には、狩野派の屏風絵などが展示されています。


篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑篠山城の模型

中にある展示品は、一部、フラッシュ禁止がありますが、基本的に撮影可能との事でした。



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑上段之間

最も格式の高い部屋です。



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑手前の広場が二の丸で、奥の一段高い所が本丸



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑天主台石垣

立派な石垣ですが、実際には天守閣は築かれなかったとの事です。


篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑天主台からの眺め

前方に見える山は高城山(標高460メートル)で、丹波の戦国武将、波多野氏が築いた八上城がありました。



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑埋門(うずみもん)

非常時には埋めたてられ、石垣と一体化して遮断されます。


篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑堀際から見た天主台

内堀の石垣は、見た目が綺麗なので、最近、補強されたものの様です。



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑北堀

篠山城の外堀で、非常に広大でした。


篠山城の付近には多くの土産物屋、料理屋が立ち並んでいて、散策するにはもってこいでしょう。それと時間があれば、八上城にも登ってみては如何でしょう。篠山城には、華やかな江戸時代的な雰囲気が漂っていますが、八上城には、どこか物悲しい戦国の雰囲気が残っています。




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芥川山城

芥川山城は、大阪府高槻市にある山城です。


芥川山城は、永正12年(1515年)頃、摂津北部の豪族、能勢頼則によって築かれたのが最初とされる。大永4年(1524年)、室町幕府の菅領で大実力者である細川氏が、高国と晴元とに分かれて、内部抗争していた際、能勢氏は、高国に味方したものの、晴元派の攻勢を受けて、没落した。天文2年(1533年)、権勢を増した細川晴元は芥川山城に入城し、自らの持ち城とするが、やがて家臣の三好長慶の力が増してきて、天文16年(1547年)には、長慶の持ち城となった。長慶は、一族の芥川孫十郎を城主として入れたが、天文22年(1553年)、孫十郎が細川晴元に呼応して謀反したので、これを攻め落とし、以後は自らの居城として用いた。それから7年間、長慶は芥川山城を本拠として、勢力拡大に努めた。この長慶時代に芥川山城は拡張され、摂津有数の大城郭に変貌を遂げる。


永禄3年(1560年)、長慶は、河内の飯盛山城に本拠を移し、芥川山城には嫡男の義興を入れた。しかし、永禄6年(1563年)、義興は若くして病死したので、代わって一族の三好長逸が入った。永禄11年(1568年)、織田信長が上洛すると、三好長逸はこれに敵対したので、攻撃を受けて城を追われ、代わって信長の部将、和田惟政が城主として入った。永禄12年(1569年)、惟政は功績を挙げて高槻城を与えられ、以後はここを居城として、芥川山城には家臣の高山友照を入れた。元亀2年(1571年)、惟政は討死し、その子の惟長が継いだものの、元亀4年(1573年)、高山友照、重友父子によって、惟長は追放された。高山父子は高槻城を接収すると、ここを居城とした。それに伴って芥川山城は廃城となり、短い歴史に幕を閉じた。




摂津峡

摂津峡 posted by (C)重家

↑摂津峡と三好山

川の奥にあるのが三好山で、そこに芥川山城が築かれていました。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑摂津峡と三好山

摂津峡が天然の堀となっており、斜面も急峻で、これまた天然の石垣の役割を果たしています。


芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑石垣

芥川山城では、所々で石垣が見られましたが、これが築城当時のものかどうかは不明です。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑土橋跡

道の両側は掘削されて、堀切りになっているようでした。この他にも、何重もの郭の跡が見られました。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑土塁

写真では伝わり難いですが、結構な高さがあります。この上が本丸になります。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑本丸跡

ここが城の最高所で、発掘調査によれば礎石の跡があって、御殿の様な建物が建てられていたとの事です。なので三好長慶は、普段はここに住んでいたのでしょう。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑本丸から北を望む

下には、摂津峡が流れています。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑本丸から東を望む

高槻市街が広がっています。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑水場

水汲み場と思われます。



芥川山城
芥川山城 posted by (C)重家

↑石垣

なかなか立派な石垣でした。これが戦国期に築かれたものならば大したもので、畿内を制した三好氏の力の程が窺えます。

諸葛亮、対、司馬懿   稀代の智将2人の対決と生き様 終

2015.05.05 - 三国志・中国史

251年、淮南の軍権を司る実力者、王凌(おうりょう)は、司馬懿の権力増大に危機感を強め、曹操の庶子である曹彪を擁立して、司馬懿打倒を画策した。だが、味方を募る過程で、計画は洩れ伝わってしまう。同年4月、司馬懿は、王凌を油断させるため、その罪を許すといった手紙を送ってから、自ら大軍を率いて討伐に向かった。司馬懿は水路を用い、強行軍をもって、僅か9日で淮南に進出する。王凌は、目の前に突如として現れた大軍に驚愕し、敗北を悟って司馬懿の陣に出頭した。王凌は、先の免罪にするとの手紙に淡い期待を抱いていたが、司馬懿に助ける気が無いと知ると、都に護送される途中、毒を仰いで自害した。


司馬懿は、王凌の一族はもとより、謀議に加わった者の一族も皆殺しとし、続いて曹彪も誅殺した。更に、曹一族の王候達を鄴(ぎょう)に集めて厳重な監視下に置き、互いの連絡を禁じた。ここに来て司馬懿は、内に秘めた野心を露にした。 かつて、曹操は一群雄だった時代から野心を露にして、度々、暗殺未遂を起こされている。しかし、司馬懿は同じ轍は踏まず、長らく野心を隠し通し、ここまで暗殺とは無縁であった。これは、曹操を反面教師としたのだろう。もう一つ、曹操から学んだものは、漢の皇帝を傀儡として、新王朝樹立の算段を整えた手法で、これをそっくりそのまま実践しようとした。


操り人形と化した曹芳は、司馬懿が帰還すると、相国(廷臣の最高職)に任命し、領地を加増して5万戸とした。司馬懿は今回も名より身を取り、相国は辞退したが加増は受け取った。 かつて、司馬懿が平定した遼東は、戸数4万、人口30万人余であったので、司馬懿は公孫淵以上の領地と兵力を有した事になる。しかも、魏の中央の軍権も握っている事から、最早、国内に対抗できる人間は、存在しなかった。 もし、これを打倒せんとするなら、地方の軍司令官が一斉に蜂起して、尚且つ、呉と蜀の援護を受けねばならかったろう。ちなみに、249年の曹爽誅殺の時、司馬懿は71歳で、251年の王凌討伐は、司馬懿73歳の出来事である。老人とは思えぬ、恐るべき頭の冴えと実行力だと言わざるを得ない。


だが、司馬懿は長らく中風(脳血管障害)を患う身であったらしく、それに加えて最後の遠征の無理が祟ったのか、251年6月、病に倒れ、同年8月、この世を去った。司馬懿仲達、享年73。 司馬懿の代で、新王朝を打ち立てる事は叶わなかったが、長男、司馬師と次男、司馬昭は共に国家を担う大器であり、意志を実現してくれる事を信じて疑わなかったであろう。実際には、司馬師と司馬昭の代では、まだ地盤固めの戦いを強いられたが、孫の司馬炎の時代を迎える頃には、その権力は不動のものとなり、魏帝、曹奐を禅譲させて、晋王朝を樹立するに到った。既に司馬昭の時代に蜀は滅んでおり、司馬炎は残る呉を滅ぼして、中国全土を統一した。三国志の最終勝利者は司馬懿であった、と言えるのではないか。


「晋書・宣帝記」は司馬懿を、こう評している。

司馬懿は内心では相手を嫌悪していても、表面は寛大に振る舞った。猜疑心が強く、権謀術数に長けていた。曹操は、司馬懿の内に秘めた野心を察して、太子の曹丕にこう注意を促した。「司馬懿は、臣下として大人しく仕えるような人間ではない。必ずやお前の家を乗っ取るぞ」。だが、曹丕は、かねてから司馬懿と親しく、何かにつけてかばってくれたので、事無きを得た。これ以降、司馬懿は、寝食を忘れて職務に精励し、どんなつまらぬ仕事であっても自ら進んでこなしたので、曹操も気を許すようになった。司馬懿は、公孫淵討伐の際には大量殺戮を行い、曹爽誅殺の際には一族郎党を老若男女の区別なく三族皆殺しとし、他家に嫁いだ者まで討ち漏らす事は無かった。かくして、魏の帝位を奪うに到ったのである。


この評を見ると、司馬懿は陰険な野心家にしか映らないが、司馬懿にも言い分はあろう。魏王朝において、曹爽が実権を握っていた時、政治は大いに乱れていた。曹爽が私欲で国富を浪費しているにも関わらず、皇帝、曹芳はなんの手立ても取れなかった。曹爽に関しては、歴史の勝者である司馬氏によって、不当に評価を陥れられている可能性はあるが、時期を得ない蜀遠征を行って失敗したり、最終的には司馬懿によって謀殺されているのは事実であって、有能な人物であったとは思えない。蜀の劉禅や呉の孫皓(そんこう)の例を見ても分かる通り、暗君や暴君を上に奉ると国家は衰亡し、やがては滅亡の憂き目を見るのである。曹爽の政治が続いたなら、魏も自壊していったかもしれない。 無能な人物が権力を握り続ける事ほど、国家と人民にとっての不幸は無い。


司馬懿は、天下の権を握りたいと言う己の野心もさる事ながら、曹爽の乱行を見過ごす訳にはいかないと言う司馬懿なりの正義感も働いて、政権簒奪に及んだのだろう。それに、曹爽との権力抗争は互いの浮沈を賭けた熾烈なものであって、相手の命脈を絶たない限り安心は出来なかった。この時、陳泰、高柔といった魏の重臣も司馬懿の側に立っているので、群臣の多くはこの政権交代を支持したと思われる。司馬懿は魏朝四代に仕える大功臣であり、その力をもって政道を正してもらいたいと群臣は期待したのだろう。だが、彼らもまさか司馬懿が魏の乗っ取りを謀っているとまでは、読めなかった。権勢を極めた司馬一族に、群臣達は戦々恐々であったろうが、司馬一族が指導力を発揮して、263年に蜀を滅ぼし、280年には呉を滅ぼして天下を統一するに当たっては、最早、心服するしか無かった。天下統一は、曹一族も成し得なった偉業であった。


晋を家に例えれば、司馬懿が設計し、司馬師が基礎を築き、司馬昭が柱を建て、司馬炎が家を完成させたと言えようか。司馬懿が行ってきた行為は、人間として臣下としては間違いであろう。だが、国家と人民の立場から見れば、正しかったと言える。司馬懿は、外面は鷹揚な忠臣であったが、内面は酷薄な野心家であった。耐えるべき時は徹底して耐え忍びながらも、好機と見るや即座に行動した。司馬懿と同質の野心を持っていた曹操は、雄才を有しながらもどこか抜けたところがあり、度々、失策を犯し、大敗を喫しているが、司馬懿には隙が無く、失敗らしい失敗も、敗北も諸葛亮との一戦以外には無い。


恐るべき周到さと、洞察力を備えていた。 しかし、表裏があって、容易に本心は明かさず、人としての魅力と、仁愛には欠けていた。司馬懿の日常に関する逸話は伝わっていないが、当時としては長寿を全うしているので、無理のない生活を送り、執務も基本方針は自らが決定して、細部は人に任せるなどしていたのだろう。国家を担うに足る政治家であったが、指揮官としての活躍はより引き立っており、英傑多い三国志において、五本の指に入る軍略家であろう。遺言によって遺骸は首陽山に埋葬され、文と諡(おくりな)された。後に、孫の司馬炎が晋の皇帝となった時、宣皇帝と追号される。


ここまで、諸葛亮と司馬懿の実績を概略してみたが、軍略面においては、司馬懿が一枚上手であったように思える。司馬懿は、諸葛亮との対戦では臆病に見られるほど防御に徹しているが、孟達や王陵の討伐では、電光石火の進軍でこれを打ち破り、公孫淵の討伐でも、果敢な攻めの姿勢を見せている。これを見ても分かる通り、司馬懿は、相手の力量や置かれた状況に合わせて、変幻自在の軍略を繰り出している。諸葛亮も陽動、引き込み等の作戦を用いているが、基本的には堅実で、その政治姿勢のように正道を行くものだった。諸葛亮の軍略からは、電光石火や変幻自在といった言葉は見出せなず、司馬懿のみならず、他の魏将にもその行動を読まれていた節がある。ただ、何分、国力と地形に大きな制約を受けていたので、慎重にならざるを得ない事情はあった。もし、蜀が、魏と同じくらいの国力と兵力を有していたなら、諸葛亮の軍略も大胆なものに変わっていたかもしれない。


政治面においては、諸葛亮の方が上手であったと思われる。諸葛亮は蜀の法律である蜀科を制定して、国家の骨組みを作っただけでなく、その公正な政治姿勢は当時から賞賛を受け、後世にも長く伝わるほどであった。それに対して司馬懿からは、賞賛を受けるほどの政治実績は伝わってこない。だが、司馬懿は、曹叡の宮殿造営を諌めて、民の負担を軽減しようとしたり、再三、農業振興策を具申して、国力増強に寄与しているので、並々ならぬ政治的力量は備えていただろう。政治というのは、軍事と比べると地味で伝わりにくいので、司馬懿が残した政治的実績も多くが埋もれてしまっているのだろう。 歴史に残した実績においては、より長生きして活躍した、司馬懿に分が上がるだろう。


司馬懿も諸葛亮も国家の礎を築いたという点では同じであるが、蜀は地方政権のまま滅亡したのに対し、晋は全土統一を果たした点で上回っている。生き様においては、これは非常に対照的で、両者に甲乙は付け難い。諸葛亮は乞われて仕官し、その後は忠義一筋に生きたが、司馬懿の方は無理やり仕官させられ、その後は内に秘めた野心の実現に邁進した。方向性は違えども、両者共に大志があり、信念があった。後世への聞こえ、人気と言った点においては、これは圧倒的に諸葛亮に分があるだろう。人間の感情というものは正直で、多くの人々は、司馬懿の生き様にはどす黒いものを感じ、諸葛亮の生き様には一陣の涼風を感じるのではなかろうか。


終

諸葛亮、対、司馬懿   稀代の智将2人の対決と生き様 4

2015.05.04 - 三国志・中国史

蜀の巨星は落ちたが、魏の巨星は尚も輝き続ける。(ここから先は主に、「晋書・宣帝紀」の記述に拠る)。


237年、遼東の半独立勢力、公孫淵が燕王と称して魏に反旗を翻す事態が起こった。曹叡は司馬懿に討伐を命じたが、この時、魏の人民は、曹叡による宮殿造営の負担に加えて、遼東遠征の戦費が重なって、二重の負担に喘いでいた。そこで司馬懿は、今は危急に集中するのが先決で、宮殿造営の方は当面、見合わせるよう曹叡に諫言した。そして、翌238年春、司馬懿は歩騎兵4万余を率いて出撃し、同年6月、遼東に達した。これに対して公孫淵は、将軍の卑衍(ひえん)、楊祚(ようそ)に魏軍を上回る数万の兵を授けて、魏軍の迎撃に向かわせた。卑衍ら率いる公孫淵軍は、遼河(満州南部の大河)の東岸に、南北60、70里に渡る堅固な陣地を築いて、魏軍を待ち受けた。それを見た司馬懿は迂回攻撃を思い立ち、まず防衛線の南部に旗指物を並べ立てて、大部隊がいるように見せかけた。 公孫淵軍がそれにひっかかって主力を南部に集中すると、司馬懿は、その隙を突いて北部から密かに渡河、そこから真っ直ぐ相手の本拠、襄平に向かわんとした。そうと知った公孫淵軍は、魏軍の前進を阻まんと、陣地を飛び出て挑みかかった。


司馬懿は、「敵陣攻撃を避けた狙いは、まさにここにある。この機を逃すな」と全軍を叱咤、公孫淵軍と切り結んで、散々に打ち破った。これより先、公孫淵は、呉の孫権に救援を依頼していた。孫権はこれに応えて、遠く朝鮮半島まで派兵して魏を牽制し、合わせて公孫淵に書簡を送った。「司馬懿は用兵が巧みで、神のような変幻自在さで、向かうところ敵はいない。貴君の行く末を深く憂いている」。 司馬懿は公孫淵を追って、襄平を囲んだ。しかし、折り悪く長雨が降りしきって、濁流が魏の陣営を浸した。将兵達はしきりに陣地の移動を願い出たが、司馬懿は決して許さず、都督令史(参謀格)の張静が違反すると、これを容赦なく斬り捨てた。この断固たる処置を受け、軍の動揺は静まった。


長雨が上がると魏軍は包囲網を完成させ、攻城に取り掛かった。そして、土山を築き、櫓を立てて、矢を雨のように浴びせかけた。攻城は昼夜を問わず行われ、敵わずと見た公孫淵は降伏を願い出たが、司馬懿はこれを許さず、8月23日、逃れ出たところを斬り捨てた。襄平に入城した司馬懿は、ここで恐るべき事をやってのける。すなわち、15歳以上の男子7千人余を殺し、その死体を埋めた巨大な塚を築いて、己の武功を示したのである。更に、公孫淵が任命した大臣を皆殺しとし、将軍畢盛(ひっせい)以下、武官2千人余も誅殺した。この地で、二度と反抗の気は起こさせぬとの、強烈な意思表示であった。


かつて、225年には、司馬懿の好敵手である諸葛亮も、益州南部で起こった反乱を鎮圧するため、自ら遠征している。その際、諸葛亮は、首謀者である雍闓(ようがい)、高定らは討ち取っているが、孟獲を始めとする現地人の有力者は懐柔して自治を委ねるなど、比較的穏当な処置を取っている。司馬懿の場合は、苛烈な処置をもって反乱の芽をつぶし、魏の強力な支配下に置いたのだった。両者は同じ雄才を有しながらも、性格も統治手法も大いに異なっていた。かくして遼東は平定され、戸数4万、人口30万人余の地域が、新たに魏の版図に加わった。 今回の遠征では、魏軍の方が兵力は少なく、公孫淵軍の方が兵力は多かったが、司馬懿は攻めの姿勢を貫いて、見事にこれを打ち破った。司馬懿にとって、公孫淵の軍略など取るに足らず、ただ天候だけが敵であったろう。兵力は少なくとも確かな軍略を有していた諸葛亮の方が、余程やり難い相手であったに違いない。司馬懿が凱旋の徒についていた時、曹叡から、直ちに参内せよとの使者がもたらされた。


239年1月、司馬懿が駆け付けると、曹叡は死の床についており、司馬懿の手を握り締めると、幼い曹芳を見やって、「くれぐれもこれを頼む」と言って息を引き取った。遺言によって、司馬懿と曹爽(曹真の息子)の2人が曹芳の後見役となって、魏の政権と軍権を分け合った。功績を積み重ねた司馬懿は、とうとう曹一族と並ぶ位置にまで登りつめたのである。後、一歩上がったなら、頂点である。司馬懿が何時から、簒奪の野心を抱いていたのは定かではない。明敏な曹操、曹丕、曹叡が生きていた頃は、司馬懿に簒奪の意志があったとしても手出し出来なかったであろうが、今は違っていた。後を継いだ曹芳は幼く、曹爽を始めとする曹一族にもこれといった実力者は存在しなかった。それに比べて、自らの実力と声望は他を圧倒している。この時、司馬懿ははっきりと簒奪の決意を固めたであろう。 だが、先手を打ってきたのは、曹爽の方だった。曹爽は、司馬懿を太傅(たいふ)と言う名誉職に祭り上げて、権力の中枢から遠ざけんとしたのである。これを受けて司馬懿は政権から外され、軍権だけは曹爽と分け合う形になった。


241年5月、呉の孫権は、朱然、諸葛謹、全琮らに兵を授けて、3方面から魏に侵攻させた。朱然は荊州の樊城を、諸葛謹は同じく荊州の柤中を、全琮は揚州の魏の拠点、寿春を襲った。同年6月、司馬懿はこれを防ぐため、諸軍を率いて樊城救援に向かった。朱然は、魏の援軍接近を見ると撤退を開始したが、司馬懿はこれを追撃して、斬首、捕虜1万人余を得たと云う。他の2方面の呉軍もそれぞれ、退けられた。同年7月、この功をもって司馬懿は、2県を加増され、これまでの4県と合わせて戸数は1万戸に達し、一族子弟11人が列候となった。 242年、司馬懿は、黄河の水を汴水(べんすい)に引き入れる用水路の建設を上奏し、この結果、淮北地方が大規模に開拓された。243年9月、呉の諸葛恪が揚州の六安に進出してきたので、司馬懿が迎撃に向かうと、戦わずして撤退していった。司馬懿はこの機会に中国第3の大河、淮河流域を視察して回り、呉撃滅の鍵は食料の備蓄にあると確信した。そして、屯田村、用水路、堤防を新たに建設して、1万余頃の農地を得た。


「晋書・宣帝紀」からは、司馬懿が曹操在世中から、度々、農業振興策を具申しているのが見て取れる。司馬懿は国家の基礎は農業にあると見て、そこから生み出される食料こそが、人民と軍を養い育てると言う事を、誰よりも深く理解していたのだろう。この様に司馬懿は軍事でも内政でも着々と実績を積み上げていったが、政敵である曹爽はこれといった実績はなく、焦りを募らせていた。そこで曹爽は、自らも功績を打ち立てるべく、245年、蜀討伐の軍を起こした。司馬懿の反対を押し切って強攻されたこの遠征は、無残な失敗に終わり、かえって曹爽の声望を低める結果となった。そして、これを機に司馬懿と曹爽の対立は深まっていった。 247年4月、曹爽は、司馬懿を信頼していた永寧皇太后(曹叡の妻)を宮殿に押し込め、近臣を重用して、朝政を壟断するようになった。曹爽は己の権力に酔って享楽の限りを尽くし、その取り巻き達も虎の威を借って、私腹を肥やした。同年5月、朝政が大いに乱れる中、司馬懿は病気と称して、政治から身を引いた。


だが、曹爽は警戒を怠らず、248年、取り巻きの1人である李勝を見舞いにやって、司馬懿の様子を探らせた。すると、司馬懿はいかにも重病に伏せているように見せかけ、更に痴呆老人を装った。李勝はまんまと騙され、「司馬公は最早、魂の抜け殻で、御心配には及びません」と報告したので、曹爽は安堵して警戒を解いた。 明けて249年正月、皇帝、曹芳が曹叡の陵墓を参拝するに当たって、曹爽も供となり、兄弟揃って都を留守にした。司馬懿は、この一瞬の隙を逃さなかった。司馬懿は挙兵して宮廷を押さえると、永寧皇太后の元に参上し、曹爽兄弟の官位を剥奪するよう奏上する。そして、老臣の高柔に大将軍代行を命じて、曹爽の軍を掌握させた。司馬懿は、皇帝を宮中に迎えるため洛水の畔に陣を構え、そこから曹爽の不忠を弾劾する上奏文を奉った。曹爽は届けられた上奏文を握り潰し、そのまま皇帝を擁して伊水の南に宿営し、屯田兵数千人を動員して守りを固めた。曹爽は軍権を失ったが、まだ皇帝という切り札を擁していた。曹爽の謀臣、桓範は、「皇帝を擁して許昌に赴き、天下に檄を飛ばして兵を集めましょう」と司馬懿との決戦を促した。これを採用したなら、魏は真っ二つとなって、三国志ならぬ四国志が現出したであろう。


しかし、曹爽は、躊躇して決断がつかなかった。桓範は、「今となっては、あなた方は貧民になってでも生きたいと願っても、それは叶わない」と重ねて挙兵を促した。司馬懿が一世一代の博打を打っているのに対し、そこまでの覚悟が無い曹爽は、やはり逡巡するのであった。そして、許允と陳泰を使者に立てて、司馬懿に内意を打診する始末であった。司馬懿はその罪を責め立てたが、処分は免職するに止めると約束して、許允と陳泰を送り返した。更に司馬懿は、曹爽の信頼篤い尹大目(いんだいもく)を送って説得せしめ、約束に二言は無いと言い含めた。司馬懿と言えども、皇帝を立てて挙兵されるのは、やはり避けたかったに違いない。そこで、曹爽を安堵させるため、重ねて約束したのだろう。


曹爽はこれを信じて、膝を屈する事を決したが、桓範は、「貴様に荷担したために、わしまで一族皆殺しだ」と地団駄踏んで慟哭した。かくして曹爽は罷免されて、自宅蟄居となった。ところが、曹爽と結託していた宦官、張当が逮捕され、曹爽が簒奪を計画していたと自白する(させられた?)に到って、曹爽一味は全て捕らえられた。そして、曹爽、曹羲(そうぎ)、曹訓ら曹兄弟に、何晏(かあん)、丁謐(ていひつ)、鄧颺(とうよう)らの側近に、李勝、桓範、張当も一族諸共、皆殺しとなった。これで魏の政権と軍権は、司馬懿の一手に握られる事となった。同年2月、曹芳は、司馬懿を丞相に任命し、4県を加増して、領地はこれまでの8県と合わせて2万戸とした。司馬懿は丞相就任は辞退したが、領地加増は受け取った。



諸葛亮、対、司馬懿  稀代の智将2人の対決と生き様 3

2015.05.03 - 三国志・中国史

234年2月、諸葛亮は五度、北伐の徒に就いた。今回のために3年間、兵糧の備蓄に努め、蜀の総力を挙げた10万余の兵を動員した。ただし、半数近くは、輜重兵であったろう。先年、魏延が長安奇襲を進言した時、1万の兵力を要求しているが、その打ち分けは、精兵5千に輜重兵5千であったようだ。これを蜀軍全体に当てはめたなら、実戦兵力は5万で、輜重兵は5万となる。輜重兵は、積極的に戦闘に参加する訳ではないので、一般の人夫が多数、含まれていただろう。今回、諸葛亮は兵糧輸送を効率化するため、一兵士に付き一年分の兵糧が輸送可能な、流馬という輸送車を新たに投入した。


一方、司馬懿もこの時あるを予期して、上邽に農民を送り込んで農業を振興させ、更に京兆、天水、南安の三郡で武器を増産させていた。諸葛亮率いる蜀軍は、5本ある桟道の内、真ん中の斜谷道を進んで、渭水(いすい・黄河の支流)の南岸に達し、そこにある高さ120メートル程の台地、五丈原に陣取った。諸葛亮は長期戦に備えて、兵を分けて屯田させた。兵は渭水南岸の農民に混じって暮らしたが、軍紀は行き届いており、問題は生じなかった。 今回、諸葛亮は陽動作戦などは用いず、全軍をもって長安寄りの地に陣取った事から、そこに強い決戦意欲を感じ取れる。


魏帝、曹叡も事態を重く見て、秦朗率いる2万の兵を送って、司馬懿の軍を増強させた。輜重兵を除く両軍の実戦兵力は、蜀軍は5、6万で、魏軍は7、8万といったところでなかろうか。司馬懿は渭水の北岸を進んで、五丈原付近に達すると、河を押し渡って南岸に砦を築いた。将軍達の多くは、渭水北岸に陣を置く事を主張したが、司馬懿は南岸には大量の兵糧が備蓄されているとして、あえて背水の陣を取った。諸葛亮は会戦の形に持ち込もうとして、盛んに挑発したが、司馬懿は決して乗って来ようとしなかった。蜀からすれば、魏の主力軍が存在する限り、長安には攻めかかれない。逆に魏からすれば、主力の喪失は長安の喪失にも繋がるので、無闇な決戦は避けたかった。それに相手の方が、先に兵糧が尽きるのが分かっているから、決して無理をする必要は無い。まずは守備を徹底的に固めて相手の鋭気を逸らし、兵糧不足になって退却に取り掛かったところをすかさず追撃する。これが、魏帝、曹叡と司馬懿の一致した作戦であった。


「晋書 宣帝紀」によれば、諸葛亮が女性用の髪飾りを送りつけて侮辱してくるに到ると、さすがの司馬懿も怒って、決戦したいと朝廷に上奏した。しかし、曹叡は決して許さず、硬骨漢として知られる辛毗(しんぴ)を勅命全権軍師として送り込み、司馬懿の目付け役とした。司馬懿は部下の手前、怒った振りをしたに過ぎず、曹叡もその辺りの事情を察した上で、勅使を送ったのだろう。曹叡は史実を見る限り、かなり軍事に明るい人物だったようだ。魏の防衛の要点は、「合肥、襄陽、祁山」にあると認識しており、呉や蜀がこの要点を狙う度、素早くも適切な処置を取っている。軍略を識る曹叡と司馬懿は、諸葛亮が並々ならぬ力量の持ち主であると認識していたが、同時にその限界も見極めていた。曹叡は、蜀の相手は専ら司馬懿に任せ、自らは呉に備えていた。言わば、二人三脚で魏を守っていた。


234年5月、呉帝、孫権が自ら兵を率いて、魏の東の重要拠点、合肥新城に攻めかかった。これが成功すれば、膠着した五丈原の戦況が動くかもしれず、諸葛亮も大いに期待した。だが、孫権は合肥新城を攻めあぐね、曹叡率いる援軍が接近して来ると、早々に撤退してしてしまう。諸葛亮は落胆したであろうが、尚も五丈原に踏み止まって、決戦の機会を窺った。諸葛亮は軍を渡河させ、東にある魏の拠点、北原を奪おうとしたが、魏将、郭淮に思惑を見破られ、守備を固められたので断念した。諸葛亮はいたずらに対峙していた訳ではなく、様々な策を講じて、会戦の形に持ち込もうとしていた。だが、司馬懿は決してこれに応じようとせず、対陣は100日余に渡った。先の第二次北伐の際には、作戦開始から僅か1月余で兵糧が尽きて撤退に追い込まれているが、今回は半年を持ちこたえ、尚も作戦継続可能であった。ここに、諸葛亮の努力の一旦が窺える。だが、司馬懿の方も諸葛亮の攻勢を予測して、長安一帯を開発して食料の備蓄に努めており、抜かりは無かった。


ここから、諸葛亮と司馬懿にまつわる逸話を幾つか載せたい。

ある日、司馬懿の弟、司馬孚(しばふ)が前線の様子を尋ねてくると、司馬懿はその返書に、「諸葛亮という奴、志は遠大だが機を見るに敏とは言えぬ。智謀は巡らすが、決断力が無い。兵法好きだが、融通が利かぬ。10万の兵を率いてはいても、既に我が薬籠中のもので、勝利は疑いない」と豪語した。また、ある日、蜀の使者が魏の陣営を訪ねてくると、司馬懿は軍事には一切触れずに、諸葛亮の近況を尋ねた。使者は、「諸葛公は、朝は早くに起きられ、夜は遅くに床に就かれます。鞭打ち20以上の刑罰は全て、ご自身で決裁なされ、お食事は1日に3、4升(当時の中国の1升は0.2ℓ)です」と答えた。使者が帰った後、司馬懿は側の者に、「諸葛亮の命も長くはないな」と言った。有名な逸話であるが、蜀臣である楊顒(ようぎょう)の伝記にも、諸葛亮の多忙な精勤振りを、楊顒が諌めるという話が載っているので、諸葛亮の日常は事実この様なものだったのだろう。


諸葛亮は、蜀の最高指導者にして総指揮官、技術官、裁判官をも兼ねていた。そして、無理を重ねた諸葛亮は病に倒れ、234年8月23日、五丈原の戦野で没した。諸葛亮孔明、54歳。偉大な統率者を失った蜀軍は、その死を秘して撤退に入ったが、そうと知った司馬懿はすかさず追撃を開始する。ところが蜀軍が一転して、反撃の構えを見せると、司馬懿は罠だと思って、慌てて軍を返した。後に人々は、死せる孔明、生ける仲達を走らせると囃し立てた。司馬懿は、もぬけの殻となった蜀の陣営を検分して回り、「天下の奇才なり」と感嘆の声を上げた。当時、天下で最も優れた軍略家は、蜀の諸葛亮、魏の司馬懿、呉の陸孫の3人であった。その司馬懿をして唸らせるほど、諸葛亮の布陣は、隙の無い完璧なものだったのだろう。


正史、三国志の著者、陳寿は、諸葛亮をこう評している。

「諸葛亮は相国(廷臣の最高職)になると、人民の暮らしを保障し、規律を明確にし、官吏の職務を規定し、主君の裁断に従って、誠心をもって、正しい政治を行った。忠を尽くして人民の利益をはかった者は、対立していても厚く賞し、法を犯し怠慢な者は親族であっても必ず罰した。進んで罪を認め反省した者は、重罪であっても必ず許し、言葉巧みに言い逃れようとする者は、軽罪であっても必ず処刑した。些細な善行であっても賞せられない事はなく、微小な悪行であっても罰せられない事はなかった。庶事に精通し、日常業務を把握し、言行一致を要求し、虚嘘の言行をなす者とは同席しようとしなかった。かくして蜀の国内では、皆が彼を敬愛し、刑法や政治が厳格であったにも関わらず、これを恨む者がいなかったのは、配慮が公正で信賞必罰がはっきりしていたからである。政治の本質を知る良才で、管中、蕭何(しょうか)に匹敵する者と言えよう。然れども、毎年のように軍を動かしながら、目的を達する事が出来なかったのは、臨機応変の軍略に長じていなかったからであろうか」

陳寿は、諸葛亮の政治の才は手放しで賞賛しているが、軍略に関してはやや疑問を投げかけている。確かに、諸葛亮の軍略は慎重で、臨機応変さには欠けていたかもしれない。だが、慎重にならざるを得ない事情があったのも確かである。


諸葛亮が、先帝、劉備から後事を託された時、蜀は主力を喪失して、ほとんど滅亡寸前であった。そこから軍を再建し、鍛え上げ、北伐までもっていっただけでも、只者ではないと言える。諸葛亮は軍紀に関しても厳格で、みだりに騒いだり、命令に逆らう者があれば、これを斬ると言明している。諸葛亮によって鍛え上げられた蜀軍は規律正しく、その動きは指揮者の思うままであった。だが、諸葛亮の智謀と、蜀軍の精鋭をもってしても、魏という壁は余りにも大きかった。蜀の総兵力は10万であったが、魏の推定総兵力は40万で、1対4の格差がある。もし、仮に双方、3万を失う大激突となれば、蜀の残兵は7万で、魏は37万となり、格差は1対5に広がる事になる。しかも、損害回復にかかる時間も、国力に劣る蜀の方が長くなる。つまり、蜀が数万の兵を失う様な敗北を喫すれば、そのまま国家の滅亡に繋がるのだ。


諸葛亮は自軍の損害を最小にして、相手の損害を最大にする難しい戦いを強いられていた。 なので諸葛亮は、長安急襲などの冒険は避け、祁山や五丈原などの戦略上の要点を抑えて進軍する、堅実な軍略を取ったのだろう。そして、陣を固めて、なるべく相手から攻撃させるように仕向けた。総合的に見れば、限られた条件で、諸葛亮は良く健闘したと言えるのではないか。諸葛亮は、王佐の才(君主を補佐する才能の持ち主)を自任しており、丞相として国家の大権を握っても、あくまで主君への忠節を貫いた。その無私と誠実さは、人の心を動かすものがあった。清廉かつ潔癖で、清濁併せ呑む事は出来なかった。欠点を挙げるとすれば、細部にまで目を通し、全ての事をこなそうとするなど、完璧主義のきらいがあったところだろう。将来を見通す優れた戦略眼を有し、指揮官としても非凡な才を発揮したが、なにより峻厳と公平を併せ持つ稀代の名宰相であった


諸葛亮はかつて、劉禅に奉呈した上奏文で、次のように述べている。「私には成都に桑800株と、薄田(痩せた土地)が15項(けい)あり、家族が生活してゆくには十分です。私の外征に当たりましては、特別の支出をして頂く必要はなく、日常の衣食は官給のもので十分です。他に手段を講じて、財産を蓄える機は毛頭ございません。私がもし死んだ場合、内外に過分な財産を残して、陛下の信任に背くようなことは、決していたしません」。死に至ると、実際、その通りであった。 遺言によって遺骸は漢中の定軍山に葬られ、朝廷からは忠武侯と諡(おくりな)された。

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