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諸葛亮、対、司馬懿   稀代の智将2人の対決と生き様 終

2015.05.05 - 三国志・中国史

251年、淮南の軍権を司る実力者、王凌(おうりょう)は、司馬懿の権力増大に危機感を強め、曹操の庶子である曹彪を擁立して、司馬懿打倒を画策した。だが、味方を募る過程で、計画は洩れ伝わってしまう。同年4月、司馬懿は、王凌を油断させるため、その罪を許すといった手紙を送ってから、自ら大軍を率いて討伐に向かった。司馬懿は水路を用い、強行軍をもって、僅か9日で淮南に進出する。王凌は、目の前に突如として現れた大軍に驚愕し、敗北を悟って司馬懿の陣に出頭した。王凌は、先の免罪にするとの手紙に淡い期待を抱いていたが、司馬懿に助ける気が無いと知ると、都に護送される途中、毒を仰いで自害した。


司馬懿は、王凌の一族はもとより、謀議に加わった者の一族も皆殺しとし、続いて曹彪も誅殺した。更に、曹一族の王候達を鄴(ぎょう)に集めて厳重な監視下に置き、互いの連絡を禁じた。ここに来て司馬懿は、内に秘めた野心を露にした。 かつて、曹操は一群雄だった時代から野心を露にして、度々、暗殺未遂を起こされている。しかし、司馬懿は同じ轍は踏まず、長らく野心を隠し通し、ここまで暗殺とは無縁であった。これは、曹操を反面教師としたのだろう。もう一つ、曹操から学んだものは、漢の皇帝を傀儡として、新王朝樹立の算段を整えた手法で、これをそっくりそのまま実践しようとした。


操り人形と化した曹芳は、司馬懿が帰還すると、相国(廷臣の最高職)に任命し、領地を加増して5万戸とした。司馬懿は今回も名より身を取り、相国は辞退したが加増は受け取った。 かつて、司馬懿が平定した遼東は、戸数4万、人口30万人余であったので、司馬懿は公孫淵以上の領地と兵力を有した事になる。しかも、魏の中央の軍権も握っている事から、最早、国内に対抗できる人間は、存在しなかった。 もし、これを打倒せんとするなら、地方の軍司令官が一斉に蜂起して、尚且つ、呉と蜀の援護を受けねばならかったろう。ちなみに、249年の曹爽誅殺の時、司馬懿は71歳で、251年の王凌討伐は、司馬懿73歳の出来事である。老人とは思えぬ、恐るべき頭の冴えと実行力だと言わざるを得ない。


だが、司馬懿は長らく中風(脳血管障害)を患う身であったらしく、それに加えて最後の遠征の無理が祟ったのか、251年6月、病に倒れ、同年8月、この世を去った。司馬懿仲達、享年73。 司馬懿の代で、新王朝を打ち立てる事は叶わなかったが、長男、司馬師と次男、司馬昭は共に国家を担う大器であり、意志を実現してくれる事を信じて疑わなかったであろう。実際には、司馬師と司馬昭の代では、まだ地盤固めの戦いを強いられたが、孫の司馬炎の時代を迎える頃には、その権力は不動のものとなり、魏帝、曹奐を禅譲させて、晋王朝を樹立するに到った。既に司馬昭の時代に蜀は滅んでおり、司馬炎は残る呉を滅ぼして、中国全土を統一した。三国志の最終勝利者は司馬懿であった、と言えるのではないか。


「晋書・宣帝記」は司馬懿を、こう評している。

司馬懿は内心では相手を嫌悪していても、表面は寛大に振る舞った。猜疑心が強く、権謀術数に長けていた。曹操は、司馬懿の内に秘めた野心を察して、太子の曹丕にこう注意を促した。「司馬懿は、臣下として大人しく仕えるような人間ではない。必ずやお前の家を乗っ取るぞ」。だが、曹丕は、かねてから司馬懿と親しく、何かにつけてかばってくれたので、事無きを得た。これ以降、司馬懿は、寝食を忘れて職務に精励し、どんなつまらぬ仕事であっても自ら進んでこなしたので、曹操も気を許すようになった。司馬懿は、公孫淵討伐の際には大量殺戮を行い、曹爽誅殺の際には一族郎党を老若男女の区別なく三族皆殺しとし、他家に嫁いだ者まで討ち漏らす事は無かった。かくして、魏の帝位を奪うに到ったのである。


この評を見ると、司馬懿は陰険な野心家にしか映らないが、司馬懿にも言い分はあろう。魏王朝において、曹爽が実権を握っていた時、政治は大いに乱れていた。曹爽が私欲で国富を浪費しているにも関わらず、皇帝、曹芳はなんの手立ても取れなかった。曹爽に関しては、歴史の勝者である司馬氏によって、不当に評価を陥れられている可能性はあるが、時期を得ない蜀遠征を行って失敗したり、最終的には司馬懿によって謀殺されているのは事実であって、有能な人物であったとは思えない。蜀の劉禅や呉の孫皓(そんこう)の例を見ても分かる通り、暗君や暴君を上に奉ると国家は衰亡し、やがては滅亡の憂き目を見るのである。曹爽の政治が続いたなら、魏も自壊していったかもしれない。 無能な人物が権力を握り続ける事ほど、国家と人民にとっての不幸は無い。


司馬懿は、天下の権を握りたいと言う己の野心もさる事ながら、曹爽の乱行を見過ごす訳にはいかないと言う司馬懿なりの正義感も働いて、政権簒奪に及んだのだろう。それに、曹爽との権力抗争は互いの浮沈を賭けた熾烈なものであって、相手の命脈を絶たない限り安心は出来なかった。この時、陳泰、高柔といった魏の重臣も司馬懿の側に立っているので、群臣の多くはこの政権交代を支持したと思われる。司馬懿は魏朝四代に仕える大功臣であり、その力をもって政道を正してもらいたいと群臣は期待したのだろう。だが、彼らもまさか司馬懿が魏の乗っ取りを謀っているとまでは、読めなかった。権勢を極めた司馬一族に、群臣達は戦々恐々であったろうが、司馬一族が指導力を発揮して、263年に蜀を滅ぼし、280年には呉を滅ぼして天下を統一するに当たっては、最早、心服するしか無かった。天下統一は、曹一族も成し得なった偉業であった。


晋を家に例えれば、司馬懿が設計し、司馬師が基礎を築き、司馬昭が柱を建て、司馬炎が家を完成させたと言えようか。司馬懿が行ってきた行為は、人間として臣下としては間違いであろう。だが、国家と人民の立場から見れば、正しかったと言える。司馬懿は、外面は鷹揚な忠臣であったが、内面は酷薄な野心家であった。耐えるべき時は徹底して耐え忍びながらも、好機と見るや即座に行動した。司馬懿と同質の野心を持っていた曹操は、雄才を有しながらもどこか抜けたところがあり、度々、失策を犯し、大敗を喫しているが、司馬懿には隙が無く、失敗らしい失敗も、敗北も諸葛亮との一戦以外には無い。


恐るべき周到さと、洞察力を備えていた。 しかし、表裏があって、容易に本心は明かさず、人としての魅力と、仁愛には欠けていた。司馬懿の日常に関する逸話は伝わっていないが、当時としては長寿を全うしているので、無理のない生活を送り、執務も基本方針は自らが決定して、細部は人に任せるなどしていたのだろう。国家を担うに足る政治家であったが、指揮官としての活躍はより引き立っており、英傑多い三国志において、五本の指に入る軍略家であろう。遺言によって遺骸は首陽山に埋葬され、文と諡(おくりな)された。後に、孫の司馬炎が晋の皇帝となった時、宣皇帝と追号される。


ここまで、諸葛亮と司馬懿の実績を概略してみたが、軍略面においては、司馬懿が一枚上手であったように思える。司馬懿は、諸葛亮との対戦では臆病に見られるほど防御に徹しているが、孟達や王陵の討伐では、電光石火の進軍でこれを打ち破り、公孫淵の討伐でも、果敢な攻めの姿勢を見せている。これを見ても分かる通り、司馬懿は、相手の力量や置かれた状況に合わせて、変幻自在の軍略を繰り出している。諸葛亮も陽動、引き込み等の作戦を用いているが、基本的には堅実で、その政治姿勢のように正道を行くものだった。諸葛亮の軍略からは、電光石火や変幻自在といった言葉は見出せなず、司馬懿のみならず、他の魏将にもその行動を読まれていた節がある。ただ、何分、国力と地形に大きな制約を受けていたので、慎重にならざるを得ない事情はあった。もし、蜀が、魏と同じくらいの国力と兵力を有していたなら、諸葛亮の軍略も大胆なものに変わっていたかもしれない。


政治面においては、諸葛亮の方が上手であったと思われる。諸葛亮は蜀の法律である蜀科を制定して、国家の骨組みを作っただけでなく、その公正な政治姿勢は当時から賞賛を受け、後世にも長く伝わるほどであった。それに対して司馬懿からは、賞賛を受けるほどの政治実績は伝わってこない。だが、司馬懿は、曹叡の宮殿造営を諌めて、民の負担を軽減しようとしたり、再三、農業振興策を具申して、国力増強に寄与しているので、並々ならぬ政治的力量は備えていただろう。政治というのは、軍事と比べると地味で伝わりにくいので、司馬懿が残した政治的実績も多くが埋もれてしまっているのだろう。 歴史に残した実績においては、より長生きして活躍した、司馬懿に分が上がるだろう。


司馬懿も諸葛亮も国家の礎を築いたという点では同じであるが、蜀は地方政権のまま滅亡したのに対し、晋は全土統一を果たした点で上回っている。生き様においては、これは非常に対照的で、両者に甲乙は付け難い。諸葛亮は乞われて仕官し、その後は忠義一筋に生きたが、司馬懿の方は無理やり仕官させられ、その後は内に秘めた野心の実現に邁進した。方向性は違えども、両者共に大志があり、信念があった。後世への聞こえ、人気と言った点においては、これは圧倒的に諸葛亮に分があるだろう。人間の感情というものは正直で、多くの人々は、司馬懿の生き様にはどす黒いものを感じ、諸葛亮の生き様には一陣の涼風を感じるのではなかろうか。


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