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諸葛亮、対、司馬懿  稀代の智将2人の対決と生き様 3

2015.05.03 - 三国志・中国史

234年2月、諸葛亮は五度、北伐の徒に就いた。今回のために3年間、兵糧の備蓄に努め、蜀の総力を挙げた10万余の兵を動員した。ただし、半数近くは、輜重兵であったろう。先年、魏延が長安奇襲を進言した時、1万の兵力を要求しているが、その打ち分けは、精兵5千に輜重兵5千であったようだ。これを蜀軍全体に当てはめたなら、実戦兵力は5万で、輜重兵は5万となる。輜重兵は、積極的に戦闘に参加する訳ではないので、一般の人夫が多数、含まれていただろう。今回、諸葛亮は兵糧輸送を効率化するため、一兵士に付き一年分の兵糧が輸送可能な、流馬という輸送車を新たに投入した。


一方、司馬懿もこの時あるを予期して、上邽に農民を送り込んで農業を振興させ、更に京兆、天水、南安の三郡で武器を増産させていた。諸葛亮率いる蜀軍は、5本ある桟道の内、真ん中の斜谷道を進んで、渭水(いすい・黄河の支流)の南岸に達し、そこにある高さ120メートル程の台地、五丈原に陣取った。諸葛亮は長期戦に備えて、兵を分けて屯田させた。兵は渭水南岸の農民に混じって暮らしたが、軍紀は行き届いており、問題は生じなかった。 今回、諸葛亮は陽動作戦などは用いず、全軍をもって長安寄りの地に陣取った事から、そこに強い決戦意欲を感じ取れる。


魏帝、曹叡も事態を重く見て、秦朗率いる2万の兵を送って、司馬懿の軍を増強させた。輜重兵を除く両軍の実戦兵力は、蜀軍は5、6万で、魏軍は7、8万といったところでなかろうか。司馬懿は渭水の北岸を進んで、五丈原付近に達すると、河を押し渡って南岸に砦を築いた。将軍達の多くは、渭水北岸に陣を置く事を主張したが、司馬懿は南岸には大量の兵糧が備蓄されているとして、あえて背水の陣を取った。諸葛亮は会戦の形に持ち込もうとして、盛んに挑発したが、司馬懿は決して乗って来ようとしなかった。蜀からすれば、魏の主力軍が存在する限り、長安には攻めかかれない。逆に魏からすれば、主力の喪失は長安の喪失にも繋がるので、無闇な決戦は避けたかった。それに相手の方が、先に兵糧が尽きるのが分かっているから、決して無理をする必要は無い。まずは守備を徹底的に固めて相手の鋭気を逸らし、兵糧不足になって退却に取り掛かったところをすかさず追撃する。これが、魏帝、曹叡と司馬懿の一致した作戦であった。


「晋書 宣帝紀」によれば、諸葛亮が女性用の髪飾りを送りつけて侮辱してくるに到ると、さすがの司馬懿も怒って、決戦したいと朝廷に上奏した。しかし、曹叡は決して許さず、硬骨漢として知られる辛毗(しんぴ)を勅命全権軍師として送り込み、司馬懿の目付け役とした。司馬懿は部下の手前、怒った振りをしたに過ぎず、曹叡もその辺りの事情を察した上で、勅使を送ったのだろう。曹叡は史実を見る限り、かなり軍事に明るい人物だったようだ。魏の防衛の要点は、「合肥、襄陽、祁山」にあると認識しており、呉や蜀がこの要点を狙う度、素早くも適切な処置を取っている。軍略を識る曹叡と司馬懿は、諸葛亮が並々ならぬ力量の持ち主であると認識していたが、同時にその限界も見極めていた。曹叡は、蜀の相手は専ら司馬懿に任せ、自らは呉に備えていた。言わば、二人三脚で魏を守っていた。


234年5月、呉帝、孫権が自ら兵を率いて、魏の東の重要拠点、合肥新城に攻めかかった。これが成功すれば、膠着した五丈原の戦況が動くかもしれず、諸葛亮も大いに期待した。だが、孫権は合肥新城を攻めあぐね、曹叡率いる援軍が接近して来ると、早々に撤退してしてしまう。諸葛亮は落胆したであろうが、尚も五丈原に踏み止まって、決戦の機会を窺った。諸葛亮は軍を渡河させ、東にある魏の拠点、北原を奪おうとしたが、魏将、郭淮に思惑を見破られ、守備を固められたので断念した。諸葛亮はいたずらに対峙していた訳ではなく、様々な策を講じて、会戦の形に持ち込もうとしていた。だが、司馬懿は決してこれに応じようとせず、対陣は100日余に渡った。先の第二次北伐の際には、作戦開始から僅か1月余で兵糧が尽きて撤退に追い込まれているが、今回は半年を持ちこたえ、尚も作戦継続可能であった。ここに、諸葛亮の努力の一旦が窺える。だが、司馬懿の方も諸葛亮の攻勢を予測して、長安一帯を開発して食料の備蓄に努めており、抜かりは無かった。


ここから、諸葛亮と司馬懿にまつわる逸話を幾つか載せたい。

ある日、司馬懿の弟、司馬孚(しばふ)が前線の様子を尋ねてくると、司馬懿はその返書に、「諸葛亮という奴、志は遠大だが機を見るに敏とは言えぬ。智謀は巡らすが、決断力が無い。兵法好きだが、融通が利かぬ。10万の兵を率いてはいても、既に我が薬籠中のもので、勝利は疑いない」と豪語した。また、ある日、蜀の使者が魏の陣営を訪ねてくると、司馬懿は軍事には一切触れずに、諸葛亮の近況を尋ねた。使者は、「諸葛公は、朝は早くに起きられ、夜は遅くに床に就かれます。鞭打ち20以上の刑罰は全て、ご自身で決裁なされ、お食事は1日に3、4升(当時の中国の1升は0.2ℓ)です」と答えた。使者が帰った後、司馬懿は側の者に、「諸葛亮の命も長くはないな」と言った。有名な逸話であるが、蜀臣である楊顒(ようぎょう)の伝記にも、諸葛亮の多忙な精勤振りを、楊顒が諌めるという話が載っているので、諸葛亮の日常は事実この様なものだったのだろう。


諸葛亮は、蜀の最高指導者にして総指揮官、技術官、裁判官をも兼ねていた。そして、無理を重ねた諸葛亮は病に倒れ、234年8月23日、五丈原の戦野で没した。諸葛亮孔明、54歳。偉大な統率者を失った蜀軍は、その死を秘して撤退に入ったが、そうと知った司馬懿はすかさず追撃を開始する。ところが蜀軍が一転して、反撃の構えを見せると、司馬懿は罠だと思って、慌てて軍を返した。後に人々は、死せる孔明、生ける仲達を走らせると囃し立てた。司馬懿は、もぬけの殻となった蜀の陣営を検分して回り、「天下の奇才なり」と感嘆の声を上げた。当時、天下で最も優れた軍略家は、蜀の諸葛亮、魏の司馬懿、呉の陸孫の3人であった。その司馬懿をして唸らせるほど、諸葛亮の布陣は、隙の無い完璧なものだったのだろう。


正史、三国志の著者、陳寿は、諸葛亮をこう評している。

「諸葛亮は相国(廷臣の最高職)になると、人民の暮らしを保障し、規律を明確にし、官吏の職務を規定し、主君の裁断に従って、誠心をもって、正しい政治を行った。忠を尽くして人民の利益をはかった者は、対立していても厚く賞し、法を犯し怠慢な者は親族であっても必ず罰した。進んで罪を認め反省した者は、重罪であっても必ず許し、言葉巧みに言い逃れようとする者は、軽罪であっても必ず処刑した。些細な善行であっても賞せられない事はなく、微小な悪行であっても罰せられない事はなかった。庶事に精通し、日常業務を把握し、言行一致を要求し、虚嘘の言行をなす者とは同席しようとしなかった。かくして蜀の国内では、皆が彼を敬愛し、刑法や政治が厳格であったにも関わらず、これを恨む者がいなかったのは、配慮が公正で信賞必罰がはっきりしていたからである。政治の本質を知る良才で、管中、蕭何(しょうか)に匹敵する者と言えよう。然れども、毎年のように軍を動かしながら、目的を達する事が出来なかったのは、臨機応変の軍略に長じていなかったからであろうか」

陳寿は、諸葛亮の政治の才は手放しで賞賛しているが、軍略に関してはやや疑問を投げかけている。確かに、諸葛亮の軍略は慎重で、臨機応変さには欠けていたかもしれない。だが、慎重にならざるを得ない事情があったのも確かである。


諸葛亮が、先帝、劉備から後事を託された時、蜀は主力を喪失して、ほとんど滅亡寸前であった。そこから軍を再建し、鍛え上げ、北伐までもっていっただけでも、只者ではないと言える。諸葛亮は軍紀に関しても厳格で、みだりに騒いだり、命令に逆らう者があれば、これを斬ると言明している。諸葛亮によって鍛え上げられた蜀軍は規律正しく、その動きは指揮者の思うままであった。だが、諸葛亮の智謀と、蜀軍の精鋭をもってしても、魏という壁は余りにも大きかった。蜀の総兵力は10万であったが、魏の推定総兵力は40万で、1対4の格差がある。もし、仮に双方、3万を失う大激突となれば、蜀の残兵は7万で、魏は37万となり、格差は1対5に広がる事になる。しかも、損害回復にかかる時間も、国力に劣る蜀の方が長くなる。つまり、蜀が数万の兵を失う様な敗北を喫すれば、そのまま国家の滅亡に繋がるのだ。


諸葛亮は自軍の損害を最小にして、相手の損害を最大にする難しい戦いを強いられていた。 なので諸葛亮は、長安急襲などの冒険は避け、祁山や五丈原などの戦略上の要点を抑えて進軍する、堅実な軍略を取ったのだろう。そして、陣を固めて、なるべく相手から攻撃させるように仕向けた。総合的に見れば、限られた条件で、諸葛亮は良く健闘したと言えるのではないか。諸葛亮は、王佐の才(君主を補佐する才能の持ち主)を自任しており、丞相として国家の大権を握っても、あくまで主君への忠節を貫いた。その無私と誠実さは、人の心を動かすものがあった。清廉かつ潔癖で、清濁併せ呑む事は出来なかった。欠点を挙げるとすれば、細部にまで目を通し、全ての事をこなそうとするなど、完璧主義のきらいがあったところだろう。将来を見通す優れた戦略眼を有し、指揮官としても非凡な才を発揮したが、なにより峻厳と公平を併せ持つ稀代の名宰相であった


諸葛亮はかつて、劉禅に奉呈した上奏文で、次のように述べている。「私には成都に桑800株と、薄田(痩せた土地)が15項(けい)あり、家族が生活してゆくには十分です。私の外征に当たりましては、特別の支出をして頂く必要はなく、日常の衣食は官給のもので十分です。他に手段を講じて、財産を蓄える機は毛頭ございません。私がもし死んだ場合、内外に過分な財産を残して、陛下の信任に背くようなことは、決していたしません」。死に至ると、実際、その通りであった。 遺言によって遺骸は漢中の定軍山に葬られ、朝廷からは忠武侯と諡(おくりな)された。

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