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諸葛亮、対、司馬懿  稀代の智将2人の対決と生き様 2

2015.05.02 - 三国志・中国史



↑三国志地図(中国のウィキより)


227年3月、諸葛亮は出師の表を高らかに掲げ、5万人余の兵を率いて蜀の前線基地、漢中(秦嶺山脈より南の盆地)に進出する。そして、魏を東西から挟撃する事を画策して、魏の新城群(荆州北部の上庸)太守、孟達に働きかけて内応を促した。しかしながら、孟達の決断は鈍く、今だに心は揺れ動いていた。諸葛亮は業を煮やして、わざと孟達離反の情報を流して決起を促した。司馬懿はこの報に接すると、時間を稼がんとして、孟達に疑いはもたれていないとの手紙を送って油断を誘い、そうしておいて宛から密かに軍を発した。孟達はようやく腹を固めて兵を挙げたものの、まだ防備は整っていなかった。


宛から上庸までは1200里もの距離があり、通常の行軍ならば1ヶ月はかかると見られていた。だが、司馬懿は昼夜兼行の強行軍で、僅か8日で駆け抜ける。上庸は要害の地であるが、司馬懿は不意を突いて一気に城下に攻め寄せ、それから半月余り休まず猛攻を加えて、孟達を討ち取った。孟達の死によって東の攻勢点は失われ、諸葛亮は西から攻める他、無くなった。そして、作戦を練り直す必要に迫られ、そのまま年が過ぎた。この第一次北伐において、司馬懿が諸葛亮と直接対決する機会は無かったが、間接的にその戦略意図を打ち砕いた意義は大きい。


228年春、諸葛亮は再び動き出した。目指すは、魏の西方における重要都市、長安である。もし、長安を落とす事に成功すれば、その西方にある雍州、涼州も手に入る事になり、蜀は呉に匹敵する国力を有する事になる。そうなれば、天下の形勢も変わって来るだろう。だが、これを落とすには、幾つもの難関が待っていた。まず、蜀と魏の間には峻険な秦嶺(しんれい)山脈が横たわっており、進撃も撤退も困難なら、補給も困難であった。ようやく魏領に進出しても、そこで魏の主力を打ち破らねば、長安には攻めかかれない。首尾よく魏の主力を打ち破る事が出来れば、長安を降伏に追い込む事も出来るだろう。しかし、戦意の高い将が長安を守り、食料も豊富にあれば数ヶ月以上の攻防戦になる事も有り得る。攻城戦が長引けば、再び魏軍が来援する事も考えられるし、蜀の細い補給がこれに耐え切れるかどうかも問題である。行く手には数々の不確定要素が待っているが、ともかく賽は投げられた。



漢中から長安に至るには、秦嶺山脈を南北に貫く5本の細い桟道(さんどう)、東から子午道、駱谷(らくこく)道、斜谷道、故道、関山道のいずれかを通らねばならない。 長安への最短路は最も東にある子午道で、蜀の勇将、魏延はこの道を通っての奇襲作戦を提案している。その概要は、魏延率いる1万の兵は子午道を通って長安を奇襲占領し、諸葛亮率いる主力は斜谷道を通って奇襲部隊と合流するというものだった。その流れは、長安を奇襲占領→奇襲部隊と主力の合流→魏軍主力の撃退→長安以西の涼州、雍州制圧といった具合で、短期決戦を指向したものだろう。これが成功すれば、面倒な攻城戦をする事なく長安が手に入るが、奇襲が成功する保障はどこにもなく、失敗すれば、長安城の魏軍、西の涼州方面の魏軍、東から来援してくる魏の主力軍と、三方を敵に回して苦境に陥る事になる。仮に長安占領に成功したとしても、急戦であるがゆえに、蜀から長安までの占領地は細く長いものとなり、補給路も寸断されやすくなる。


諸葛亮は、この案は危険性が高いと見て採用せず、まず長安の西部一帯を制圧して涼州を遮断し、背後を固めてから長安攻略に乗り出すという、堅実な作戦を取った。その流れは、魏軍主力の撃退→涼州を遮断→長安攻略→涼州、雍州の制圧といった具合で、長期戦を想定したものだろう。長安の西部一帯を占領すれば、補給路が安定すると共に、兵糧の現地調達もある程度見込める。もしくは、魏軍主力を撃退した後、先に涼州を制圧して、後顧の憂いを完全に取り除いてから長安攻略に乗り出したかもしれない。 涼州と雍州西部を確保すれば、背後を気にする必要はなくなり、長安への侵攻が楽になる。それに、この地にはシルクロードの交易路が走っているので、これを押さえれば、魏の財政に打撃を与えると共に、自らがその恩恵に与れる。ただ、涼州は西北に長く突き出した辺境で、しかも異民族に囲まれた厳しい地勢にあるので、制圧と維持には手間がかかる事が予想される。それに、この地の攻略に時間をかけ過ぎれば、長安には更なる増援が到来して、再び主力決戦を強いられる事になるだろう。


長安か、それとも涼州か、諸葛亮がいずれを優先したかは、今となっては分からない。どちらにせよ、前提となるのは魏の主力野戦軍の撃退である。228年春、諸葛亮は、ついに作戦を発動する。まず、斜谷道を進んで郿(び・長安西方の都市)を襲うと喧伝し、実際に趙雲、鄧芝の軍を斜谷道に差し向けて、魏軍の注意を引き付けさせた。魏の対蜀方面司令官、曹真はこの陽動作戦に引っかかって、全軍をもって趙雲軍の迎撃に向かう。その隙に諸葛亮は主力を率いて最も西にある関山道を進み、戦略上の要衝、祁山(きざん)に進撃した。 全軍隊伍は整い、賞罰は厳正、命令は末端まで行き届いていた。天水・南安・安定の3群は、魏に反旗を翻して諸葛亮に呼応し、関中(秦嶺山脈より北の長安一帯の地域)は恐慌状態に陥った。この報は魏の朝野を震撼させ、魏帝、曹叡は自ら5万余の兵を率いて長安防衛に向かった。


ちなみに、曹叡は206年生まれでこの時23歳、蜀の皇帝、劉禅は207年生まれで22歳、ほぼ同年代である。曹叡は情勢を判断して自ら前線に赴かんとしたが、劉禅はどのような情勢であっても、戦場に赴く事は最後まで無かった。長安に本営を置いた曹叡は、歴戦の名将、張郃(ちょうこう)に軍を授けて、諸葛亮迎撃を命じた。これに対して諸葛亮は、愛弟子で才気活発な馬謖を先鋒の指揮官に抜擢し、街亭で迎え撃たせた。ところが、馬謖は経験不足を露呈して、山上に陣取ったところ、張郃に水手を断たれて散々に打ち破られてしまう。先鋒が壊滅的打撃を被った事から、これ以上の進撃は困難となり、諸葛亮はせっかく手にした3郡も放棄して、空しく漢中に引き揚げざるを得なかった。別道を通っていた趙雲軍も、優勢な曹真軍を相手にして敗れたが、趙雲自ら殿軍を務めて、大きな損害を出すことなく引き揚げた。


戦後、諸葛亮は、馬謖を泣いて斬って軍紀を正し、自らも丞相から右将軍に3階級降格して、全軍に不明を詫びた。ここまでが第一次北伐である。もし、街亭で勝利を収める事が出来ていたなら、魏の郡県は更に諸葛亮に呼応して、長安を窺う形勢になっていただろう。この第一次北伐の際は、魏の防衛態勢も整っておらず、最も可能性の高い作戦であった。しかし、諸葛亮は痛恨の人選失敗によって、 長蛇を逸する形となった。同228年8月、同盟国、呉が石亭にて魏と会戦し、これを大いに打ち破った。魏は、この方面に援軍を次々に送り込んだので、長安周辺の防備は薄くなった。同年11月、これを好機と見た諸葛亮は再び出兵、西寄りの故道を進んで、陳倉城を囲んだ。しかし、魏の曹真は、諸葛亮が次に狙うのは陳倉であると読んで、郝昭(かくしょう)に守備を固めさせていた。 諸葛亮率いる蜀軍数万は、郝昭以下千人余が守る陳倉城に猛攻を加えるも、これを攻めあぐねた。


攻防20日余、早くも兵糧が欠乏しだし、魏の曹真率いる援軍も迫ってきたので、蜀軍は撤退に入った。すかさず魏将、王双が騎兵をもって追撃してきたが、諸葛亮はこれを迎撃して討ち取った。この退却行の間に年は明ける。229年春、諸葛亮は、陳式に一軍を授けて武都、陰平の2群に攻め入らせた。これに対して、魏の雍州刺史、郭淮(かくわい)が救援に向かったが、諸葛亮自ら建威まで出撃して背後を襲う姿勢を見せると、戦わずして撤退していった。こうして武都、陰平は平定され、その功をもって諸葛亮は再び丞相に復された。ここまでが、第二次北伐である。諸葛亮は陳倉では敗れたものの、辺境とはいえ武都、陰平の二郡を平定して、蜀の版図を広げた事は一応、評価できるだろう。曹真が何故、二郡の救援に向かわなかったのかは不明であるが、諸葛亮の再攻撃に備えて陳倉に留まっていたのかもしれないし、向かおうとして間に合わなかったのかもしれない。


230年8月、諸葛亮は尚も漢中に留まって攻撃準備を整えていたところ、今度は魏の曹真が機先を制して、大軍をもって漢中に攻め入らんとした。曹真軍の主力は長安から、別軍は郿から、張郃は祁山から、司馬懿は宛から漢水を遡って、それぞれ漢中を目指さんとした。魏の名将3人による4方向からの同時攻撃には、然しもの諸葛亮と言えども苦戦は免れなかったろう。だが、この時は天候が諸葛亮に味方した。折からの大雨によって桟道が寸断され、魏軍は立ち往生して、戦う事なく疲弊して引き揚げていった。諸葛亮は、この間隙を突いて反撃に出た。歴戦の将、魏延と呉懿に軍を授けて、祁山の東から涼州深く攻め入らせたのである。魏延と呉懿は西方の羌中まで進撃し、そこで魏の郭淮と費耀(ひよう)と遭遇して、会戦となった。魏延は陽谿(ようけい)で郭淮を打ち破り、呉懿も南安で費耀を打ち破って、蜀軍が勝利を収めた。


だが、蜀軍は魏の駐屯軍を打ち破りながらも、一角の土地も占領する事なく撤退していった。涼州に長く留まっていては、曹真や張郃に退路を断たれる恐れがあったからだろう。一撃離脱と言葉にすれば簡単であるが、敵中深く進攻して、そこで敵軍を打ち破り、無事帰還を果たすと言うのは、実際には難しい事である。魏延と呉懿はなかなかの将才の持ち主で、蜀軍にも人材は居た事を証明している。ここまでが、第三次北伐である。 231年2月、諸葛亮は四度、北伐の徒に就いた。諸葛亮はこれまで兵站に悩んできたので、一兵士に付き半年分の兵糧輸送が可能な、木牛と呼ばれる輸送車を考案して今回の遠征に用いた。諸葛亮は最も西にある関山道を通って祁山に進出、魏将、賈詡(かく)と魏平が守る出城を包囲した。それに合わせて、北方の鮮卑族の首領、軻比能(かひのう)に働きかけ、長安の北方を撹乱させた。


この時、魏では、対蜀方面司令官であった曹真が死の床にあったので、急遽、司馬懿が後任に起用されて、蜀軍迎撃に向かった。長安に駆け付けた司馬懿は休む間もなく、一軍を割いて上邽(じょうけい)の守備に当たらせ、自らは主力を率いて祁山救援に向かった。諸葛亮も司馬懿の接近を知ると、一軍を割いて祁山包囲を続けさせ、自らは主力をもって司馬懿迎撃に向かった。諸葛亮は、郭淮、費耀(ひよう)率いる魏の先鋒と遭遇するも、これを打ち破って上邽一帯の麦を刈り取らせた。そこへ、司馬懿率いる魏の主力が現れ、上邽の東で諸葛亮と対峙する形となった。 天下で一、二を競う稀代の智将、諸葛亮と司馬懿は、ここに直接対決の時を迎える。だが、司馬懿は要害に立て篭もって、積極的に戦おうとはしなかった。司馬懿は、蜀軍が兵站に弱点を抱えているのを知っており、いずれ撤退せざるを得なくなるのだから、あえて危険を冒す必要はないと考えていた。戦うのは、相手が撤退に移り、背後を晒してからでも遅くはない、と。


諸葛亮は相手が決戦に応じようとしないので、引き揚げに入った。司馬懿はその後を追ったが、祁山付近で諸葛亮と遭遇すると、再び高地に上って陣を固めた。しかし、その消極姿勢に指揮下の将軍達から不満の声が上がる。特に、祁山の出城で篭城を続けている将軍達の攻勢を求める声は大きく、これを無視する訳にはいかなかった。司馬懿は困り果てたが、将軍達の突き上げを受けて、ついに戦う決意を固めた。恐らく諸葛亮は、魏軍主力を祁山に引き込んで叩くため、あえて出城を落とさなかったのだろう。出城が包囲されている以上、後詰めの魏軍は現地まで出向いて、包囲を解除する義務を負うからだ。 同年5月10日、司馬懿は、張郃に一軍を授けて祁山の南に陣取る蜀将、王平を攻撃させ、自らは正面の諸葛亮を攻め立てた。これに対して諸葛亮は、魏延、高翔、呉班らを繰り出して魏軍を迎撃、首級3千、鎧5千、弩3千百を得る大勝を収め、王平も張郃の攻撃を退けた。戦いの模様は、堅固な陣地に寄った蜀軍を、魏軍が前後から強襲する形であったのだろう。だが、魏軍は蜀軍の陣地を打ち破れず、逆に手痛い打撃を被った。


司馬懿は破れはしたものの、余力は残していたようだ。そして、陣地を固めて、従来の持久戦に立ち戻った。諸葛亮は優勢にあったが、要害に立て篭もっている魏軍への強攻は難しく、そのまま対峙する状況が続いた。両者の根競べとなったが、やはり、先に兵糧が尽きたのは蜀軍の方だった。諸葛亮は、国内の兵站責任者である李厳(りげん)に再三に渡って催促するも、長雨による輸送の滞りがあって無理との返事であった。諸葛亮は、致し方なく撤退に入った。司馬懿はこれを好機と見て張郃に追撃させたが、諸葛亮が配した伏兵と交戦となり、歴戦の名将、張郃は流れ矢を受けて戦死した。諸葛亮は、司馬懿に痛撃を与えたものの止めを刺すまでには到らず、兵糧不足に泣いて無念の撤退となった。ここまでが第四次北伐で、「漢晋春秋」の記述から見た戦いの模様である。


しかし、司馬懿の伝記、「晋書・宣帝紀」によれば、司馬懿は、祁山において諸葛亮の陣を打ち破り、夜陰に乗じて逃走する蜀軍を追撃して1万余を討ち取ったとある。「晋書・宣帝紀」は、問題のある史書であるが、この後、3年間、蜀の軍事活動が無くなるのを見れば、司馬懿もまた、諸葛亮に痛撃を与えたのかもしれない。戦後、李厳は責任逃れしようとして、「諸葛亮は食料が足りているのに撤退したのだ」と強弁した。だが、残された文書から矛盾を暴かれ、李厳は庶民の身に落とされた。これは死刑になってもおかしくない罪であったが、李厳は、諸葛亮と共に劉備から後事を託された重鎮の身であったのと、蜀の豪族との繋がりが深かった点を考慮して、死を免ぜられたのだろう。ちなみに、李厳はかつて、諸葛亮に「九錫(きゅうしゃく)の恩典を受けて、王を称してはどうか」と言って、暗に簒奪を勧めている。これに対して諸葛亮は、「魏を滅ぼした後には九錫と言わず、十錫でも受けよう」と言って受け流したと云う。

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諸葛亮、対、司馬懿  稀代の智将2人の対決と生き様 1

2015.05.01 - 三国志・中国史

三国志において名高い2人の智将を、主に軍略面から比較したい。まずは両者が誕生してから、227年の諸葛亮の北伐に至るまでの簡単な略歴を紹介する。


181年、諸葛亮は、泰山群の副長官を務めていた諸葛珪の子として生まれた。幼い頃に両親を亡くし、その後は親族によって養育される。少年時代、叔父で、豫章太守に任ぜられた諸葛玄に伴われて、南方へと移り住んだが、その地で戦乱を受け、諸葛玄も殺されたので、荊州(けいしゅう)へと逃れた。晴耕雨読の生活に入った諸葛亮は、身の丈8尺(約184センチ)の偉丈夫に成長し、知識も蓄えて、自らを古の名臣、管仲と楽毅になぞらえた。周囲の人間は皆、大風呂敷であると見なしていたが、学識ある知人である崔州平や徐庶だけがその通りであると、才を認めていた。


206年、劉表の客将として、荊州北部に駐屯していた劉備は、広く人材を求めていた。そこへ、家臣となっていた徐庶から、諸葛亮の才気の程を聞き付け、劉備は三顧の礼をもって陣営に迎え入れた。この時、諸葛亮は26歳の書生で、まだ一部の者にしか名は知られていなかった。一方、劉備は46歳で流亡の身ではあったが、その名は天下に知られていた。劉備は、諸葛亮の人物を見込んで、粗末な草廬(そうろ)に三度も出向き、年下と侮る事なく、礼節をもって迎え入れた。この時の感激と恩義を、諸葛亮は生涯忘れる事はなく、その後の働きの原動力となった。


劉備も諸葛亮に全幅の信頼を置き、戦略面、政治面でその才を存分に発揮させると共に、自らが出征する際には留守全般を任せた。隙あらば、敵の侵攻や反乱が相次いでいた当時、君主の留守を預かるという任は非常に重要で、信頼が置けて相当な力量の持ち主でなければ、任されなかった。また、諸葛亮は、天下三分の計を発案して蜀の建国まで導いただけでなく、法律を制定して統治面でも多大な功績を残した。223年、劉備が死去する際には枕元に呼ばれ、国家と、太子の劉禅、それに天下の統一を託された。しかし、この時、蜀が置かれていた状況は非常に厳しかった。


219年の関羽の敗死と荊州の失陥、222年の夷陵の大敗と蜀軍主力の壊滅、223年の劉備の死去と益州南部の反乱、引き続く魏と呉の強大な圧力、まさに蜀は存亡の危機に立っていた。全ては、諸葛亮の双肩にかかっていた。まず、諸葛亮は呉との関係修復に乗り出し、これを成功させて戦略面での負担を大きく軽減する。そして、225年には、益州南部の反乱鎮圧に自ら向かい、これを平定した。こうして国内を安定させ、軍を再建した諸葛亮は、劉備との遺命を果たすべく、227年、満を持して北伐を開始する。



司馬懿の生涯を辿るには、「晋書・宣帝紀」に拠るところが大きいが、この書には多くの俗説が含まれている事を予め、断わっておく。


179年、司馬懿は、漢朝の高官を務めていた司馬防の子として生まれた。司馬防の息子8人は皆、俊才を謳われていたが、その中でも司馬懿は特に優れていて、頭が非常に切れる上、並外れた胆力を備え、遠大な大望を抱いていた。人物鑑定の名人として知られていた楊俊は、彼を見て、並々ならぬ大器であると太鼓判を押している。201年、司馬懿は、河内郡の会計官の属官に推挙された。


才能を聞き付けた曹操から陣営に加わるようにとの誘いが来たが、曹操に屈従するのを望んでいなかった司馬懿は、中風を理由にしてこれを断わった。208年、丞相となって一段と権力の高みにたった曹操は、再び司馬懿に出仕を求めた。曹操は前回の経緯を知っているだけに、今度は引っ捕えてでも連れて来いと使者に言い含めており、身の危険を感じた司馬懿は已む無く承諾した。司馬懿は最初、太子のお相手役を勤めた後、文官職を歴任していったが、やがては軍事にも参画するようになる。


215年、曹操が漢中を征した際には従軍して、勢いに乗じて蜀の劉備を征討するよう献策したり、219年、関羽が北上してきた際には、呉の孫権を動かして背後を突かせるよう献策している。前者は採用されず、劉備は窮地を逃れたが、後者は採用されて、関羽を討ち取る事に成功した。曹操が魏王になると、司馬懿は太子、曹丕付きの書記官となり、重大な問題には必ず質問を受け、その度、非凡な策を献じたので、深い信頼を受けるようになる。220年、曹操が死去して、曹丕が帝位に付くと、司馬懿は近臣として重く用いられ、政治の中枢で働く事となった。


曹丕からの信頼は絶大で、将軍と宰相の兼務を命じられる共に、「留守を任せられるのはそなたをおいて他にはいない。私が東征する際には、そなたが西の蜀に備え、私が西征する際には、そなたが東の呉に備えるのだ」とまで言わしめた。226年、曹丕が危篤になると、司馬懿は曹真、陳羣、曹休らと共に枕元に呼ばれて、後事を託された。司馬懿は次の皇帝、曹叡にも深く信頼され、227年には宛に駐屯して、魏、呉、蜀の勢力が接する重要な係争地、荊州、予州の軍事の全権を委ねられた。そして、この年から、諸葛亮の北伐が始まり、歴史に残る対決が始まる事となる。





黒井城、再訪

黒井城は、兵庫県丹波市にある山城で、丹波の戦国大名、赤井直正の居城として用いられていました。


黒井城
黒井城 posted by (C)重家

↑麓から見た黒井城


黒井城
黒井城 posted by (C)重家

↑石踏の段跡

ここには、赤井氏を祭る石碑が立っています。


黒井城
黒井城 posted by (C)重家

↑黒井城から北を望む

本丸跡に生えている桜を期待して登ったのですが、残念ながら、数日前の風雨で散ってしまっていました。

黒井城
黒井城 posted by (C)重家

↑黒井城から東を望む


黒井城
黒井城 posted by (C)重家

↑黒井城から南を望む


黒井城
黒井城 posted by (C)重家

↑本丸石垣


黒井城
黒井城 posted by (C)重家

↑本丸跡


黒井城
黒井城 posted by (C)重家

↑本丸跡にある石碑


黒井城
黒井城 posted by (C)重家

↑麓にある興禅寺

黒井城主の居館跡です。


黒井城
黒井城 posted by (C)重家

↑興禅寺

徳川家光の乳母として知られている春日局は、この地で誕生しています。

春の姫路城

姫路城は、兵庫県姫路市にある平山城で、最早、説明不要とも言える名城です。



姫路城
姫路城 posted by (C)重家


姫路城
姫路城 posted by (C)重家



姫路城
姫路城 posted by (C)重家



姫路城
姫路城 posted by (C)重家




姫路城
姫路城 posted by (C)重家


姫路城
姫路城 posted by (C)重家


姫路城
姫路城 posted by (C)重家

姫路城
姫路城 posted by (C)重家


姫路城
姫路城 posted by (C)重家


訪れた日は、桜は満開でしたが、曇り空だったのが残念でした。姫路城にはもう何度も訪れていますが、その優雅な姿は、何回見ても飽きないです。

八幡山城

八幡山城は、滋賀県近江八幡市にある山城です。


八幡山城は、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の甥で、養子でもある豊臣秀次によって築かれた。城が築かれた八幡山(別名、鶴翼山)は、標高は272メートルと低いものの急峻で、東西には琵琶湖の内湖が広がる天然の要害であった。平野となっている南は、琵琶湖の水を引いた八幡堀が巡らされたが、これは防御を固めるだけでなく、商業を促す運河としても用いられた。秀次の居館は山麓に築かれ、普段の政務や生活はここで行われた。城下町は、すぐ北にある安土城から移築され、人々も八幡に移り住んだ。


天正18年(1590年)、秀次は小田原征伐の功をもって、近江43万石から、尾張、伊勢100万石に転封となり、代わって、京極高次が2万8千石で八幡山城主となった。文禄4年(1595年)、秀次は謀反の嫌疑をかけられて切腹に追い込まれると、その痕跡を消すように八幡山城も破却された。同時期には、京の秀次邸宅であった聚楽第も破却されている。これを受けて、八幡山城主であった京極高次は大津に転封された。八幡山城は失われたが、城下町はその後も発展を続け、現在も尚、水堀に囲まれた趣ある景観を見せてくれる。悲運に泣いた秀次であったが、自らが作り上げた八幡の町の発展と存続は、せめてもの慰めとなったであろう。


八幡堀
八幡堀 posted by (C)重家

↑八幡堀



八幡山城
八幡山城 posted by (C)重家

↑八幡山ロープウェー

ゴンドラに乗っている時に感じましたが、八幡山は結構、急峻な山でした。



八幡山城
八幡山城 posted by (C)重家

↑八幡山城から東を望む


八幡山城
八幡山城 posted by (C)重家

↑八幡山城から北を望む

中央にあって一段低い山は、安土城があった安土山です。その右側にある大きな山は、繖(きぬがさ)山で、かつてそこには六角氏の山城、観音寺城が築かれていました。左側に見える湖は、琵琶湖の内湖、西の湖で、昔は八幡山の麓まで広がっていたそうです。


八幡山城
八幡山城 posted by (C)重家

↑八幡山城から西を望む。

西に広がるのは琵琶湖で、これも往時には八幡山の麓まで水が浸していたそうです。



八幡山城
八幡山城 posted by (C)重家

↑八幡山城から南を望む


八幡山城
八幡山城 posted by (C)重家

↑本丸虎口跡



八幡山城
八幡山城 posted by (C)重家

↑本丸石垣



八幡山城
八幡山城 posted by (C)重家

↑本丸跡

本丸跡には、現在、瑞龍寺が建っています。


八幡山城
八幡山城 posted by (C)重家

↑八幡山城出土の瓦


八幡山城は、往時の建物はもう残っていませんが、石垣は良好な状態で残されていました。頂上からの眺めは素晴らしく、3ケ所ぐらいある展望台まで足を伸ばせば、ほぼ360度の展望が得られます。また、堀に囲まれた城下町は情緒があって往時を偲ばせてくれます。今回は見逃しましたが、麓には総石垣の立派な秀次邸宅跡が見られます。

 プロフィール 
重家 
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重家
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男性
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史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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