5世紀前半、ゲルマニア(ドイツ)に居住するゲルマン諸部族が、大挙としてライン河を越え、西ローマ帝国領であるガリア(フランス)に侵攻を開始した。世に言う、ゲルマン民族大移動である。実のところ、ゲルマン人によるガリア侵攻はさほど珍しい光景ではなく、ほとんど日常茶飯事と言ってよいものだった。それは、紀元前1世紀にユリウス・カエサルがガリアを征服して以来、400年以上もの歴史がある。だが、ローマ帝国はその試みを悉く打ち砕いて来たし、侵入してきたゲルマン人達も、略奪した後は本拠地に引き返して行くという一過性のものに過ぎなかった。
しかし、今回、明らかに事態は違っていた。ゲルマン人には激しい動揺が見られ、何としても西ローマ帝国内に生存権を確保しようと必死になっていた。これまでゲルマン人は、ローマ人に幾度と無く、手痛い目に遭わされてきたが、決して恐れてはいなかった。その大柄な体格と命知らずの蛮勇は、時に精鋭ローマ軍すら恐れさせたものだった。だが、そんな彼らが恐怖に青ざめ、何かに急き立てられるように、大挙として西ローマ帝国内に押し寄せて来るのである。
この時のローマ帝国は衰弱して東西に分裂しており、ゲルマン人を追い払う力も無くしていた。その為、ガリアはたちまちのうちに、難民と化したゲルマン人諸部族の占有する地となった。何が、彼らをそこまで追い詰めていたのだろうか?それは東の果てからやってきた遊牧民、フン族の脅威である。彼らの特徴に付いて述べてみる。フン族の男は幼い頃から馬に慣れ親しみ、狩猟の腕を磨きながら成長していくので、言わば生まれながらの騎馬戦士であった。何をするにも、どこに行くにも馬に乗り、戦場でも馬から下りて戦うのを極度に嫌った。
彼らは牛、馬、羊の群れを引き連れて移動し、狩猟や牧畜によって生計を立てていた。衣服は動物の皮で作られたもので、擦り切れるまで着ていた。住まいは二輪の牛車で、その中で食事や睡眠、男女の混交もこなしていた。フン族には人間行動を律する法律は存在せず、族長の命令が絶対だった。土地や蓄財の収集には関心が無かったが、黄金は好んだ。黄金に限らず、光り輝く物は何でも好んだ。耕作し、食料を確保しておくという考えが無かったので、機会さえあればまず奪う事を考えた。目的地も無く、定住にも関心が無かったので、各地を移動しつつ、略奪を繰り広げた。彼らの軍団は神出鬼没の機動力を誇り、その騎乗戦闘能力も極めて高かった。
その獰猛さは、勇猛で鳴るゲルマン人ですら悪魔と呼ぶほどであり、蛮族の中の蛮族と恐れられた。ゲルマン人の方が遥かに人数が多く、優秀な騎兵も有していたのだが、それでもフン族の騎兵には歯が立たなかった。そして、フン族は強力な騎兵団にものを言わせて、多数のゲルマン人諸部族を支配下に組み入れていった。西暦444年、フン族の族長に、アッティラと呼ばれる優れた統率者が就任すると、その獰猛さに拍車が掛かる。この頃、フン族は現在のハンガリー平原一帯に本拠を置いていたが、アッティラに率いられてドナウ河を渡り、東ローマ帝国に侵攻を開始した。
フン族は行く先々で荒れ狂い、略奪の限りを尽くした。彼らは多数の人間も連れ去ったが、役立たない人間と見なせば容赦なく殺戮していった。東ローマ帝国のキリスト教徒は、フン族に神の鞭(むち)との綽名(あだな)を付け、彼らの通った後には犬の鳴き声すらしないと恐れ慄いた。フン族は、東ローマ帝国の首都であるコンスタンティノーブルの目前まで接近すると、そこから東ローマ皇帝に凄まじいばかりの要求を突きつけた。まず2,250キロの黄金の差し出しに加えて、更に毎年、約780Kgもの黄金の支払い、それにフン族から脱走した兵士の返還と、捕虜としたローマ人を解放するに当たって金貨を支払うよう求めるものだった。
東ローマ帝国はこの要求に対して、脱走兵の返還だけでお茶を濁そうとして、彼らをアッティラの元へと送り届けた。これらの脱走兵はフン族に組み敷かれたゲルマン系の兵士がほとんどで、フン族の生活行動に馴染めず、東ローマ帝国に投降した者達だった。アッティラは、これら脱走兵全員を地に伏せさせて天幕用の布をかぶせると、フン族騎兵の集団に何度もその上を往復させて、悉く轢き殺したのだった。東ローマ帝国の人々はこの蛮行に震え上がったが、雇っていたゲルマン人兵士の中では敵愾心が高まった。
そして、ゲルマン人庸兵を中心とするローマ軍が主体となって、フン族を殲滅せんとして出撃して行ったが、戦場を縦横に駆け巡って雨あられの如く弓矢を浴びせかけるフン族騎兵の前に大敗を喫してしまう。この結果、東ローマ帝国はフン族の脅迫に屈して、大量の黄金供出を余儀なくされたのだった。西暦449年、アッティラは更に注文を付けて、身分の高い使者を送って確実に協約を実行せよと迫ってきたので、東ローマ帝国は然るべき高位の人物をアッティラの下へと送った。その使者の1人である、プリスクスが書き残した記録が残っている。
「我々一行はナイッスス(ニシュ)の街に入った。ここは、コンスタンティヌス大帝の生地であり、基幹道路も走っているが、フン族の襲撃を受けて破壊し尽され、廃墟と化した教会で雨露をしのぐ僅かな人数以外には、無人の街と化していた。街道の周辺も無人地帯が続き、川辺にはフン族に殺された多くの人々が白骨化して横たわり、殺されたままの状態で放置されていた。我々はドナウ河を渡り、アッティラの本拠地に入った。天幕の中のアッティラは、何人もの蛮族の高官や武将に囲まれていた。アッティラが身に付けている衣服の質素さには驚かされた。
ライン河からドナウ河にかけての広大な地域を支配している首長の天幕だと言うのに、その内部には煌びやかな調度品や、芸術品は何一つ置かれていなかった。寝台は見当たらず、これだけは高価そうな毛皮が床に置かれ、その他にあるのは木製の粗末な椅子と、アッティラの傍らに立て掛けてある弓と斧だけだった。アッティラの背は低かったが、頑丈そうな体格をしていた。顔の色はくすんだ黄色で、髭(ひげ)はほとんど無く、顔の造りは奇妙な程に平面的だった。両眼とも斜視で黒い窪んだ眼をしており、珍しいものでも眺める様に我々に視線を注いでいた」
↑フン族の進路(ウィキペディアより)
西暦451年4月、アッティラ率いるフン族はハンガリー平原から出立して、再び大規模な征服活動に取り掛かった。まず、ゲルマニア(ドイツ)を横断してライン河に至ると、その中流に位置するマインツ付近から渡河して、ガリア(フランス)に攻め入ったのである。フン族はガリアに侵入すると軍を三つに分け、パリの南西にあるオルレアンを目指して侵攻を開始する。このオルレアンはフランス中央部に位置する要衝であって、ここが落ちれば、ゲルマニアに続いてガリアまでもフン族に支配下になりかねない。このガリアにはフン族の脅威から逃れて、生存権を獲得しようと必死になっていたゲルマン人諸部族が存在していた。
それに地中海に面したガリア南部には、まだ西ローマ帝国の勢力も残っていた。もし、ガリアまでフン族の支配する所となれば、ゲルマン人には行き場が無くなり、ただでさえ衰亡している西ローマ帝国も止めを刺されかねない。この存亡の危機を受けて、かつては宿敵同士だったゲルマン人諸部族と西ローマ帝国が結託してフン族に当たる事となった。そして、フン族撃滅を目指して、ローマ・ゲルマン連合軍を結成する。その頃、フン族の3軍団はそれぞれ略奪、虐殺を繰り広げながらガリア中央部を目指して侵攻中で、オルレアン近郊に達すると合流して都市の攻囲を開始した。
ローマ・ゲルマン連合軍はオルレアン攻囲中のアッティラの背後を突くべく、南と西から接近した。アッティラはこれを察知すると不利な情勢と見たのか、ゲルマニアを目指して撤退を開始する。しかし、途中のランス付近で補足されたので、アッティラはここで会戦を決意した。西暦451年6月24日、西ローマ帝国軍と西ゴート族を始めとするローマ、ゲルマン連合軍と、アッティラ率いるフン族軍団はシャンパーニュ地方の平原で激突した。両軍の規模であるが、フン族の兵士数は3万人と言われており、多数の蛮族も自軍に組み込んでいるので、5万人以上はいたと思われる。
これに対するローマ、ゲルマン連合軍はやや劣る人数であったのではないか。フン族は左と右に傘下の蛮族兵団を配し、中央にはアッティラ直率のフン族騎兵団を配した。これに対して、西ローマ帝国軍の司令官アエティウスはフン族騎兵の機動力を封じるべく、地形を有効活用する。ローマ軍を左手の丘陵に配して、中央にはアラニ族を配し、右手に河を望む地に西ゴート族を配して、左右から回り込まれるのを事前に防いだ。
午後15時に始まった開戦は、力押しの混戦となった。フン族騎兵は蛮勇を奮って中央のアラニ族を蹴散らしつつあったが、その左右を支える配下の蛮族軍は、ローマ軍と西ゴート族の奮戦を受けて押され気味となった。丘陵と河に挟まれた地形による制約と、左右を支える蛮族軍が総崩れになった事で、フン族騎兵も自慢の機動力と攻撃力を存分に振るえなかった。両軍は尚も激闘を重ねて、乱戦の中、西ゴート族の族長テオドリックも戦死した。
それでも、陽が落ちる頃にはフン族軍の劣勢は明らかとなり、さすがのアッティラも茫然自失して自害するとまで口走ったと言う。フン族軍はついに撤退を開始するが、消耗しきったローマ・ゲルマン連合軍にもこれを追う力は無かった。フン族はこの戦いで大きな痛手を受けたものの、アッティラ自身はすぐに気力を取り戻し、翌452年には西ローマ帝国領の北イタリアに再び侵攻を開始する。フン族は、イタリア北部の東にあるアクィレイアから西のミラノに至るまでの地方都市を次々に蹂躙していった。
先年にはゲルマン人と協力してフン族を撃退した西ローマ軍であったが、今回はその援軍を得られる見込みは立たず、単独で戦ったしても勝ち目は無かったので、自国を蹂躙されながらも見て見ぬ振りをした。その為、フン族は春から秋にかけて、半年余りも我が物顔で北イタリアを蹂躙したのだった。フン族が接近してくると、人々は「アッティラが攻めてくる、フン族が押し寄せて来る」と叫んで狂乱状態に陥った。
西ローマ帝国は膝を屈して、司教レオと元老院議員2人を代表とする使者をアッティラの元に派遣し、賠償金を支払う事でようやく北イタリアから去ってもらう事を承諾させた。この不名誉な事態を、キリスト教会は美談に作り変えて宣伝する。すなわち、神の加護を得た司教レオが勇気を奮ってアッティラと対面し、その暴虐を非難して恥じ入らせ、神の愛を説いた事によって、彼を退散させるに到ったのだ、と。歴史的な屈辱を、キリスト教の伝説に作り変えたこの出来事は、画家のラファエッロの手によって壮麗な絵画に描かれ、その後のキリスト教布教に大いに貢献する事になる。
↑「大教皇レオとアッティラの会談」 (ウィキペディアより)
西暦453年春、冬が過ぎ去って再びフン族が暴れだす季節となり、周辺の人々が戦々恐々になっていた頃、突如としてアッティラは倒れた。宴の最中、突然、大量の血を吐いて倒れ、あえなく息を引き取ったのだった。蛮族の中の蛮族たるフン族王の葬儀は、傘下のゲルマン諸部族の族長も大勢参列する盛大なものとなった。遺骸は金、銀、鉄の3重の棺に納められ、河を塞き止めたその底に豪華な埋葬品と共に埋められたが、それを掘らされた奴隷は墓の秘匿の為、全員殺されたと云う。アッティラの死後、息子達による後継争いが勃発して、部族は内紛状態に陥った。
フン族は四分五裂して急速に求心力を失い、これを好機と見た傘下の蛮族達は次々にその支配を離れていった。アッティラ率いるフン族は一時、ドナウ河の河口からライン河の河口に至るまでの広大な地域を傘下に治めたものの、アッティラの死と共に、その支配は脆くも崩れ去ったのだった。以後、フン族は散り散りになって現地社会に埋没していった。彼らが再び歴史に浮上する事は無かったが、彼らが残した恐怖の爪痕はヨーロッパに住む人々の脳裏に刻まれ、悪夢として語り継がれていった。
アッティラは常々、北部ヨーロッパに一大帝国を創設すると公言していたが、国家統治に欠かせない政治機構を創設した形跡は伺えない。アッティラは大胆な行動力、優れた統率力、好機を生かす判断力、騎兵を縦横に操る戦術能力を有していたが、明確な軍事戦略や、国家構想を持っていたとは言い難い。ただひたすら獲物を求めて追いかけていく、肉食獣の様な本能だけが彼の行動原理だった様に見える。
このアッティラを始めとするフン族は、自分達についての記録を何一つ残しておらず、その起源も今だ明らかになっていない。分かっているのは、彼らがカスピ海の東方からやって来た事だけである。アッティラと会見したプリスクスによれば、彼は黄色い肌に平面系の顔をしていたとあるので、これはモンゴル系の遊牧民であるとの印象を強くする。 フン族は、かつてモンゴル平原に勢力を振るった匈奴の末裔ではないかと見る向きは多い。それを裏付ける資料は無いが、その生活様式、戦闘行動に共通点が多いのも確かである。
匈奴もまた文字を持たない民族であるため、彼らを知ろうと思えば、敵として戦った中国の帝国、漢の記述に頼る他は無い。匈奴は遊牧と狩猟を生業としている民族で、その衣服も動物の毛皮をなめしたものだった。子供の頃から馬や羊に慣れ親しみ、鳥や鼠を射抜いては弓術を磨いた。青年になる頃には強い弓を引く様になり、革の鎧を身にまとった。全匈奴氏族を合わせても100~200万人でしかなかったが、成年男性の全てが軽装騎兵であるので、戦時の動員力は極めて高かった。
全部族が結束していたなら、優に10~20万人は動員できたと思われる。匈奴はその神出鬼没の騎兵団をもって、6千万人の人口を擁する前漢と互角に渡り合った。しかし、匈奴内で内紛が度重なった事に加えて、それを好機と見た前漢の武帝(在位 紀元前141~87年)による激しい攻撃を受けて弱体化し、匈奴の部族は、漢への服属を余儀なくされたり、北辺に逃れたりした。その部族の一派が数百年の歳月をかけてユーラシア大陸を横断し、やがてフン族としてヨーロッパに姿を現したのではなかろうか。
↑紀元前250年頃の匈奴の領域(ウィキペディアより)
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