1275年3月、元はついに南宋を滅ぼして、全中国を支配下に置いた。これは、元がアジアの覇権国となった事だけでなく、日本遠征にも本腰を上げて取り掛かれる事を意味していた。そして、1279年2月、フビライは中国の泉州に600隻の船舶建造を命じ、同年6月には朝鮮半島の高麗にも900隻の船舶建造を命じた。1280年8月、フビライの下で日本遠征の討議がなされ、作戦方針が決定した。忻都(きんと)と洪茶丘(こうさきゅう)率いる東路軍(元、高麗、漢(旧金国)の兵)4万人と900隻の船団は朝鮮の合浦から出航し、范文虎(はんぶんこ)率いる江南軍(旧南宋軍)10万人と3500隻の船団は江南から出航する。
両船団は壱岐で合流した後、日本上陸を試みる事となった。弘安4年(1281年)5月3日、東路軍4万人を乗せた船団が、合浦から出航する。今回の元軍は、日本での居住を考慮して鍬(すき)、鍬(くわ)も積み込んでいたと云う。5月21日、東路軍は対馬に来襲して制圧すると、現地の武士団を打ち破って、再び住民を蹂躙し尽した。5月26日、続いて壱岐を制圧すると、ここを九州上陸の基地とする。東路軍と江南軍は6月15日を期日として、この壱岐で合流する予定であったが、江南軍はまだ出航もしていなかったので、まずは東路軍のみで九州上陸を図る事となった。
同年6月6日、先鋒となった東路軍は、勇んで博多湾に姿を現した。だが、彼らが見たのは、博多湾一帯に築かれた石築地(いしついじ)の威容であった。石築地とは、その名の通り石を積み重ねて作られた元寇防塁で、高さは2メートルから3メートル、幅は約3メートルあって、これが東の香椎から西の今津までの間、約20キロメートルに渡って築かれていた。前回の文永の役の折、元軍に博多上陸を許して苦戦を強いられた戦訓を受けて築かれたもので、現代風に言えば上陸阻止陣地と言うべきものである。
この石築地の上に、前回よりも数を増した日本の武士団が満を持して待ち構えていた。そして、その中には、主従8人で駆け付けた竹崎季長の姿もあった。東路軍は日本側の固い防備を見て博多上陸は困難と判断し、とりあえず陸続きの志賀島に上陸して、そこを停泊地とした。同日夜半、日本の武士団は船に乗って夜襲を仕掛け、夜が明けるまで元軍と激しい船戦を行った。だが、小振りな日本船は、元軍の大船相手に苦戦したそうである。

↑石築地の上に陣取る菊池武房の軍勢と、その前を行進する竹崎季長一行
6月8日、日本の武士団は、海の中道(志賀島へ伸びる砂州)を渡る一団と、船に乗って攻撃を加える一団とに分かれて、東路軍に総攻撃を加えた。海の中道を通ってきた日本軍は元軍に弩(ど)を浴びせられるなどして数百人が死傷したが、それでも激しい攻勢を続けて元軍を敗走させ、一時は東路軍大将の洪茶丘を討ち取る寸前まで追い詰めた。この志賀島を巡る戦いには竹崎季長も参加しており、奮戦の末、季長と従者2人が負傷して、1人が戦死した。負傷した季長は守護代の安達盛宗(泰盛の息子)に体面して、引付に肥後国の一番に戦功を書いてもらった。
志賀島の戦いは13日まで続き、東路軍は利あらずとして壱岐まで後退していった。その頃、范文虎率いる江南軍は6月中頃から下旬にかけてようやく出航し始めていた。一方、日本軍は6月末から7月初旬にかけて壱岐に上陸し、東路軍と激しい合戦となって双方多数の討死を出した。一連の戦いで、幕府の有力御家人の少弐資能は84歳で戦傷死し、その子の少弐経資は負傷し、その子となる少弐資時も19歳で戦死している。
7月初旬、江南軍は平戸付近に続々と到着し始めたので、東路軍もそれに合わせて壱岐から平戸に移り、そこで両船団はようやく合流を果たした。これで、元軍は人数14万人余、船舶4400隻余の壮観となった。7月27日、これまで東路軍のみが戦って苦戦を強いられてきたが、やっと戦力が出揃った事で元軍も奮い立ち、再び九州上陸を図って動き出す。しかし、博多表の防備が固いと知ったので、今度はその裏手を突くべく、肥前国の沖に浮かぶ鷹島(たかしま)を制圧した。
だが、そうと知った日本軍はすぐさま兵船を出して反抗に出たので、鷹島周辺で激しい船戦が繰り広げられる事となった。そうした戦いの日々が続く中、平戸、鷹島付近に突如として、台風が現れたのである。そして、7月30日の夜から8月1日の未明にかけて暴風雨が吹き荒れて、元軍の船団は壊滅的な被害を受けた。こうして元軍6、7万人余が海の藻屑となり、フビライの日本征服の野望も波間に没した。元軍の高官の中には自分だけが逃れようとする者がいて、破壊を免れた船から兵を降ろして帰国を図った。
8月5日(日本では閏月7月5日)、取り残されたり、逃走を図ろうとする元軍に対して日本軍の追撃戦が始まった。竹崎季長もこの追撃に加わろうとしたものの、なかなか兵船が廻って来ないので、もどかしさに身悶えしていた。そこへ、安達盛宗(泰盛の子息)の大船がやってくると、季長は、「守護の手の者です。兵船が廻漕(かいそう)されたならば、乗って合戦せよと命じられました」と嘘を言って乗り込んだ。しかし、盛宗の家臣に見咎められて、「安達盛宗が乗る船です。その配下の者以外を乗せる訳にはいかない。降りなさい」と下船を命じられてしまう。
季長は、「君の御大事に役立つために乗ってきたのに、空しく海に突き落とされては報われません。小舟をください。降りましょう」と言って、やむなく小舟に乗り移った。季長は次に「たかまさ」と言う武士の船を見かけると、「船を寄せられよ」と呼びかけた。それを受けて、たかまさの船は近づいてきたが、なかなか乗り込む事が出来ず、季長は、「内密に命じられた事があります。船を近づけてください」と頼み込んだ。
だが、たかまさは一見して怪しみ、「守護が乗っている様子では無い。船を遠ざけよ」と命じた。そこで季長は、「仰せの様に守護は乗っていません。この舟は遅いので乗せてもらうために偽りを申しました」と弁明した。それでも、たかまさは乗せてくれないので、季長は手をすり合わせて、「それならば、私1人だけでも乗せてください」と頼み込むと、さすがに根負けしたのか、たかまさは、「戦場で無ければ、どうしてそこまでたかまさに懇望する事があろうか」と言って、季長1人は乗せてくれた。しかし、季長の郎党達は海上に置いてけぼりの形となり、彼らは大いに嘆いた。それに季長は家臣に兜を預けていたので、脛当(すねあて)を外し、それを烏帽子に結び付けて兜の代用にせぜるを得なかった。
季長はたかまさに、「命を惜しんで乗り移ったと思わないでください。敵船に乗り移るまでと考え、便乗致しました。元軍は、日本船が近づくと熊手をかけて生け捕りにすると聞いています。生け捕られて異国に渡るぐらいならば、死んだ方がましです。私が熊手にかけられたならば、鎧の草摺りのはずれを切ってください」と頼んだ。たかまさはその覚悟の程に感銘を受け、「不覚をしました。野中殿(季長の親類)ばかりは乗せてあげるべきでした」と言い、郎党から兜を脱がせて、それを季長がかぶる様に勧めた。
だが、季長は、「ご厚意は嬉しいのですが、その者が兜を付けずに戦死したならば、季長のせいと妻子が嘆くのは身が痛みます。兜は頂けません」と断った。そして、この日の戦いで、季長は言葉通りに元軍の船に乗り移り、見事に首級を挙げたのだった。そして、翌8月6日、季長は、鎌倉幕府から送られて来た使者、合田遠俊のもとへと出向き、合戦報告をした。遠俊は、嘘を何度もついてでも船に乗り込んで、手柄を挙げた季長に驚き、「大猛悪(勇猛果敢)」の人であると賞賛して、その戦功を報告する事を約束してくれた。次に季長は、守護代、安達盛宗に対面して首級2つを示し、側に控える引付の者がその戦功を書き記した。これによって季長は、前回以上の恩賞を賜ったと思われる。

↑元軍の兵船に乗り込み、首を取らんとする竹崎季長
季長の頭からは兜代わりの脛当が外れ、烏帽子姿となっている。

↑安達盛宗に戦功報告する竹崎季長
左が季長で、右上が盛宗、右下が戦功を引付に記す執筆(しゅひつ)
日本軍による掃討戦は8月7日頃には終わり、元軍数万人が捕虜となって博多に連行された。脱走に成功した南宋人捕虜の報告によれば、捕虜の内、唐人(南宋の人間)は奴隷として助命されたが、蒙古、高麗、漢人(旧金国)は許されず、悉く首を刎ねられたと云う。この元寇では神風のご加護によって、日本は救われたと評される向きが多い。だが、実情はそうでは無いだろう。第一次の文永の役では、元にはまだ主敵である南宋が健在であったので、日本に対しては最初から懲罰目的と威力偵察が目的であったのではないか。
たかだか3万人程度では、最初から日本征服は不可能であり、おそらく元軍は台風の被害があろうと無かろうと、一航過の襲撃と決めていたのだろう。それに加えて日本武士団の奮闘も、元軍の早期撤退を促したのだろう。第二次の弘安の役では、元は南宋を滅ぼしていたので、本腰を上げて日本征服に取り掛かろうとした。しかし、今度は、日本側も満を持して待ち構えていたので、台風の被害を受けなくとも、結局は引き揚げざるを得なくなっていただろう。神風を過大評価する事は、日本武士団の必死の努力を過小評価する事に繋がる。
一方、元のフビライにとって、日本遠征は大変、苦い思い出となった。遠征軍の主体は旧南宋兵や高麗兵であったとは言え、莫大な費用と労力をもって作り上げた兵船、武具、兵糧を失った事は痛かったに違いない。しかし、フビライにとって、人的な損失に関しては、許容範囲であったと思われる。元は南宋を滅ぼした事によって数十万もの旧南宋兵を抱え込む事となったが、これらに然るべき職を与えないと社会不安の元となる。そこで、日本遠征に事寄せて、これらの失業軍人を体よく送り出したのだろう。
勿論、勝つ事が最も望ましいが、もし敗れたならば全滅しても構わなかった 実際、台風の被害を受けたとは言え、元軍は多くの兵員を置き去りにしている。鎌倉幕府は元軍を撃退し、国を守ったが、侵攻を受けた側であるので、何ら得られる物は無かった。それどころか、主役として活躍した御家人達の多くは戦役の負担と恩賞不足に泣き、民衆にも負担を強いる事となった。それらの不満は蓄積されてゆき、やがては鎌倉幕府の衰亡に繋がっていく。尚、元寇によって日本と元との交易は途絶えたかのように見えるが、そうでは無い。日本と大陸の交易は、元寇の最中であっても途絶えておらず、むしろこれ以降、より活発になっていくのである。
弘安7年(1284年)4月4日、二度に渡る元寇を退けた鎌倉幕府執権、北条時宗は34歳の若さで病死した。未曾有の国難を受けて、人知れず心身を磨り減らしていたのであろう。その跡を嫡子の貞時が継いだが、まだ14歳の少年であったため、幕府の重鎮、安達泰盛が政治を切り盛りした。しかし、泰盛は、もう1人の幕府有力者、平頼綱との対立を深めてゆき、翌弘安8年(1285年)11月17日、頼綱の急襲を受けて受けて殺された。この霜月騒動と呼ばれる政争は全国に波及して、各地で泰盛派と頼綱派による合戦が起こり、竹崎季長が世話になった安達盛宗や少弐景資も泰盛派として戦ったものの、敗れて命を失った。 この霜月騒動で、竹崎季長がどのような立居地にあったのかは不明である。
正応6年(1293年)2月9日、48歳となっていた季長は、元寇における自らの戦い振りを記録として残しておこうと思ったのか、絵巻物の作成に取り掛かった。これが、『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』である。その中には、霜月騒動で命を失った安達泰盛、盛宗父子や少弐景資の姿もあって、彼らは取り分け、色鮮やかに描かれている。何れも、季長にとって忘れられぬ人物であり、この絵詞には自らの戦功を示すだけでなく、世話になった人々に対する感謝の念や、追悼の念も込められているのである。
主要参考文献、『日本の中世9 モンゴル襲来の衝撃』
文永12年(1275年)6月、文永の役から半年が経った頃、季長は幕府から恩賞の沙汰が来るのを今か、今かと待ち続けていた。所領の訴訟に敗れ、厳しい経済状態に置かれていた季長は、恩賞として知行地を賜る事を心から願っていた。しかし、一行にその気配は無く、焦りが募るばかりであった。文永の役では武勲を立てたはずなのに、それが、鎌倉の将軍の耳に達していないのではないかと、季長は思い定め、ならば鎌倉まで直接出向いて、訴えようと決した。ところが、そうと知った一族の長老は、余りにも恐れ多いとして、思い止まる様、諫止した。それでも季長の決意は変わらなかったので、一族の不興を買う事となった。同年6月3日、季長は旅の費用を工面する為、馬と鞍を売り、2人の従者のみを連れて旅立ったが、一族の者は援助せず、誰一人として見送らなかった。
季長は一族のこの仕打ちを深く恨み、今回の訴えが届かない場合には出家して、故郷には二度と帰らぬ覚悟を決めた。季長は長門国に渡って赤間関に着くと、ここで、季長の烏帽子親であり、長門守護代でもある三井季成に会いに向かった。烏帽子親とは、男子が元服する際、成人の象徴たる烏帽子をかぶせて、幼名から大人の名前を名付けてくれる人物の事である。烏帽子親と烏帽子子との間では、実の親子関係に次ぐ、または同等の絆で結ばれるとされている。
三井季成はわざわざ遊女を呼んで宴を催すなど、心からの歓待で季長を出迎えてくれた。その上、出立の際には河原毛の馬と銭を餞別として渡してくれた。逆風の中での人の情けは、季長の心を温めると共に、勇気を奮い起こすものであったろう。だが、鎌倉に入るまでに季長の従者は1人減って、2人だけの旅路となる。同年8月10日、季長は伊豆国に入ると、その地の三島大明神を参詣して、弓箭の祈祷を行った。翌11日にも箱根権現を参詣して、祈祷する。8月12日、鎌倉に到着すると、まずは由比ヶ浜に出向いて塩湯をかぶって身を清め、その足で鶴岡八幡宮に参詣して、ここでも弓箭の祈祷を行った。
季長は三島、箱根、鶴岡の三大社を訪ねて、訴えの成就と自らの武運長久を一心に祈ったのだった。そうした上で、いよいよ幕府の奉行に訴え出たのであるが、従者を1人引き連れただけの弱小御家人に、わざわざ面会しようという物好きな奉行人はいなかった。奉行人が受け付けてくれない限り、裁判は始まらず、従って季長の訴えが取り上げられる事も無い。困り果てた季長は再び鶴岡八幡宮を参詣して、一心不乱に祈りを捧げた。そのまま2ヵ月の月日が空しく流れるが、季長はそれでも諦めずに機会を待ち続ける。
そして、10月3日、いよいよ待ちに待ったその機会が巡って来た。執権、北条時宗の舅であり、鎌倉幕府の最有力者でもある安達泰盛に、直接訴え出る僥倖を得たのである。これには、烏帽子親である三井季成の助け舟があったと思われる。これが最初にして最後の機会と心得る季長は、自らの思うところを必死になって訴えかけた。

↑安達泰盛に訴えかける竹崎季長
季長、「鳥飼で先駆けをして元軍と合戦し、自らの乗馬と旗差の馬を射殺され、季長ら3騎が負傷したので、白石通泰を証人に立てて少弐景資の引付(合戦報告書)の一番に記録されました。この事を少弐経資(景資の兄)に申し立てたところ、先駆けの子細を報告して、将軍の仰せを追って申し上げると言ってくれました。ところがそれが成されず、将軍のお耳に達していない事に、弓箭の面目を失いました」
泰盛はそれに対して、「討死、分捕の功はあるのか」と尋ねる。
季長、「討死、分捕はありません」
泰盛、「討死、分捕の戦功が無いのであれば、合戦の忠をした事にはならない。経資の書状には傷を被ったとの記載が見えるので、それで十分ではないか」
季長、「先駆けをして景資の引付の一番に記録されたのに、経資の報告からは漏れて、将軍のお耳に達していない事を申し上げているのです。ご不審な点がありましたら、景資へ御教書をもってお尋ねください。その結果、私が申し上げた先駆けの功が嘘であると景資が起請文をもって申し上げたなら、私の勲功は捨てられ、この首を召してください」
泰盛、「御教書を出して尋ねると言う事は、先例が無いので叶うものでは無い」
季長、「土地の訴訟や日本での合戦恩賞でも、先例をもって事を成すべきでしょう。しかし、異国との合戦では、先例があるとも思えません。先例が無いので景資にお尋ねにならず、将軍のお耳に達しないとなれば、弓箭の勇みをどうして成す事ができましょうか」
泰盛、「言い分はもっともであるが、裁判の決まりでは、先例が無ければどう言っても叶うものではないのだ」
季長、「重ねて申し上げるのは恐縮でありますが、直接に恩賞をもらおうという訴訟ではありません。先駆けをした事を、景資にお尋ね頂きたいのです。その結果、私が嘘を申しているのであれば、勲功は捨ててこの首を召してください。私の言う事が真実であれば、将軍のお耳に入れて頂き、次の合戦の勇みにしたいと申し上げているのです。もし、このまま捨て置かれましては、生前の嘆き、これに過ぎるものはありません」
泰盛、「合戦の事はよく承った。将軍にご報告しておこう。恩賞については間違いなかろう。急ぎ国へ下向して、重ねて忠節を尽くしてもらいたい」
季長、「将軍にご報告頂ければ、仰せに従って肥後に下るべきところですが、本領の訴訟が上手くいかず、無足の身であるので、帰るべき場所がどこにあるともわかりません。家臣になれば面倒を見てくれると言ってくれる身近な人はいますが、なまじ、ころはた(小さくとも独立した自分の旗)を指そうとしていますので、面倒を見てくれる人はいません。どこにいて後日の御大事を待てばよいのかわかりません」
泰盛、「山内殿(北条時宗)からすぐに参るべきとの仰せである。合戦の事はまた承るであろう」
季長には帰るべき場所が無いので、恩賞の沙汰があるまで、しばらく鎌倉滞在を続ける事にした。
当初、泰盛は、季長の訴えを受け付けない態度であったが、恩賞よりも弓箭の面目を施してもらいたい、嘘があれば首を召してもらいたい、との言い分にはさすがに意気に感ずるものがあったのだろう。そして、無足であっても他人の庇護は受けず、自らの旗を指したいという心意気も気に入ったに違いない。泰盛が側近に話したところでは、季長を大変強情な人であるという意味の「奇異の強者(こわもの)である」と述べ、「幕府の次の御大事にも駆けつけてくれる武士だろう」と評したのだった。10月4日に季長が安達邸に参上して、泰盛の側近と話をした際、この言葉を伝え聞いたそうである。それによれば、恩賞も間違いないとの事であった。逆境にあっても決して諦めず、その身は小なりと言えども、武士としての言い分を貫き通した季長に、天は微笑みかけたのだった。
それから1ヶ月後の11月1日、季長は鶴岡八幡宮を参詣した後、安達邸に参上する。季長は見参所から奥へと案内され、そこで泰盛の手自ら、所領拝領の下文(くだしぶみ)を賜ったのだった。それには、季長を肥後国海東郷の地頭に任ずるとあった。
泰盛、「すぐに肥後に下るのか」
季長、「申し上げました先駆けの事が、将軍のお耳に達して恩賞にあずかったならば、急いで肥後に下向して次の御大事を待ちましょう。将軍のお耳に達していないのであれば、少弐景資に先駆けの事をお尋ねくださいと申し上げます」
泰盛、「将軍にその功を披露すると、そなたの分の下文は私が直接渡すようにとの仰せであった。今120人ばかりの恩賞は、大宰府の少弐経資を通して渡すようにと仰せられた」
季長、「私の先駆けの事が将軍のお耳に達しているのであれば、急いで下向してまた忠節を尽くしたいと存じます」
泰盛は、季長の旅立ちに先立って、黒栗毛の名馬を一頭、餞(はなむけ)として贈ってくれた。季長がその名馬に跨り、ころはたを掲げて颯爽と帰っていく姿は、人生の中で最も晴れがましい瞬間であった。