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2026.10.05 - 
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戦艦武蔵の運用と実戦結果

公試では好成績を上げた武蔵であるが、肝心の実戦ではどのように運用され、どのような性能を発揮したのであろうか?その運用方と数少ない実戦結果を幾つか上げてみる。 
 
 
武蔵は、昭和17年(1942年)8月5日に海軍に手渡されてから、幾度か作戦に参加したが、実戦らしい実戦をほとんど経験せぬまま、運命の年、昭和19年(1944年)を迎えた。同年2月24日、武蔵にパラオへの輸送任務が課され、陸軍兵数百人と海軍陸戦隊300人、及び若干の便乗者と大量の武器、弾薬、食料を搭載して、横須賀から出港した。この時、武蔵の喫水線は2メートルも沈下しており、その排水量は7万4千トン余と推定された。武蔵の公試排水量(弾薬は満載で、燃料と水は3分の2搭載した状態)は6万9千トンであり、満載排水量(乗組員・弾薬・燃料・水などを全て満載した状態)は7万3千トンと設定されていたが、それを超過していた事になる。



同年7月8日、武蔵は再び輸送任務に就き、ビルマ戦線に赴く陸軍兵2千2百名とその武器弾薬などを搭載して、呉からシンガポールに向かった。この時の排水量もパラオへの輸送任務同様、7万4千トン余と推測され、艦は2メートル沈降していた。また、陸兵2千2百人を乗艦させた事から、武蔵乗員2,300人と合わせて4,500人余りの大所帯となった。余談となるが、大量の便乗者が乗り込んでも、艦の烹炊所(ほうすいじょ)の人員は通常通りであった事から、烹炊員は高温多湿の室内で汗だくになりながら、1日に7回、朝から晩まで烹炊作業をせねばならかった。この輸送任務時の烹炊作業は、本当に過酷であったそうである。 
 
 
昭和19年(1944年)10月24日、武蔵はレイテ沖海戦に参加し、ついに本格的な実戦の機会を向かえる事になった。そして、この戦闘で、武蔵は自慢の46センチ主砲を群がり寄せる敵機に向かって発射する事になる。生存者の証言によれば、敵機の第一次攻撃時には0発、第二次攻撃時には9発、第三次攻撃時には28発、第四次攻撃時には7発、第五次攻撃時には10発の主砲を発射したとされている。だが、敵機の第一次攻撃の際、主砲の命中率を左右する射撃方位盤が架台から外れて使用不能となった。これで武蔵は統一された一斉射撃が不可能となり、命中率に大きな支障を来たす事になった。


この原因については主砲発射時の衝撃、魚雷命中時の衝撃、全速時の急速回頭による振動の何れかによるものだと考えられている。武蔵の主砲は艦船を相手にして初めてその真価を発揮するが、残念ながら敵艦に向けて撃つ機会は最後まで無かった。従って、武蔵の砲弾命中率や対艦攻撃力は未知数のままである。相手となったのは航空機ばかりで、その撃墜戦果も不明である。しかし、対空戦においてはほとんど約に立たなかっただろうし、逆に妨げになったと思われる事例がある。 
 
 
10月24日午後0時頃、敵機の第二次攻撃の際、武蔵は敵機に向けて主砲を発射した。主砲発射時の爆圧が凄まじい事から、前もってブザーを鳴らし、甲板上にいる機銃員を退避させておく必要があったが、この時は何の予告も無く発射された。生き残った機銃員の記憶によれば、激しい衝撃波を受けて頭が痺れ、耳の奥は鳴り響き、しばらく思考力を失うほどであったと言う。防盾の無い急造機銃台では、機銃員は機銃にすがり付いたり、突っ伏してしまった。しかも、主砲発射時の黒い爆煙が艦を覆った事から、それが晴れるまで対空機銃は戦闘力を失った。それでも、対空戦闘が激化すると主砲は発射を繰り返した。機銃員達は決して慣れはしなかっただろうが、その衝撃波に耐えて必死の対空戦闘を行った。


一連の対空戦闘で甲板上にいた機銃員達は、敵機の機銃掃射、爆弾の直撃、至近弾の弾片を受けたり、魚雷命中の水柱によって海上に流されたりして多大な犠牲者を出している。しかし、アメリカ機は非常に頑丈で、例え胴体に機銃弾を命中させても火花を散らして弾かれる事が多かった。相手が白い煙を吐いたとしてもそれは消火剤によるもので、そのまま飛び去ってしまうのだった。武蔵の機銃員達は総じて勇敢に戦ったが、彼らが操る25ミリ機銃は明らかに威力不足であった。海軍の主力対空砲である12・7センチ高角砲や、46センチ砲の対空射撃も、攻撃位置に付こうとしている敵爆撃機や雷撃機の妨害ぐらいにしか役立たなかったのではないか。 
 
 
10月24日午前10時半、武蔵は右舷中央に最初の魚雷命中を受ける。これによって3千トンもの海水が浸入したが、反対側に同量の海水を注水して事無きを得た。この第一次攻撃(10時26分~10時47分)で武蔵は魚雷1本を受け、速力は26ノットに低下する。第二次攻撃(12時7分~12時15分)では爆弾1発、魚雷3本を受け、機関1軸を喪失して3軸推進となり、速力は22ノットに低下した。第三次攻撃(13時31分~13時55分)では爆弾4発、魚雷5本を受け、速力は20ノットに低下。第四次攻撃(14時20分~14時40分)では敵機は他艦を狙ったので、武蔵に被害は無かった。


第五次攻撃(15時00~15時30分)では武蔵は爆弾10発以上、魚雷10本以上を受けて、致命的な打撃を被った。この第五次攻撃の最中、15時10分に栗田司令官から、「コロン湾を経て台湾の馬公に避退せよ」との信号を受けたが、時既に遅しであった。武蔵は攻撃直後にはまだ17ノット半の速力を発揮し得たが、その後の浸水増加に伴って低下し続け、最終的には航行不能となる。第一次から第五次までの攻撃で武蔵は少なくとも、爆弾17発、魚雷20本、至近弾18発を受けたとされる。だが、混乱した鉄火場にあって正確な数字は分からない。 
 
 
武蔵の航海長を務めた事のある池田貞枝大佐(1944年9月25日に仮屋航海長と交代)の手記によれば、「武蔵は重巡の様な器用な芸当は出来ない。普通に転舵すると1分40秒も経って、忘れた頃に舵が利き始める。この間に1・4キロも走ってしまう。一方、全速の27ノット(50キロ)で航走中、爆弾を避けるため90度回頭すると、速力は16ノット(30キロ)にまで減速する。360度の1回転をすると8ノット(15キロ)に減速する。高度4千メートルぐらいからの急降下爆撃を回避しようと思っても、艦が回り始めない内に爆弾が届いてしまう。魚雷回避運動を2、3度続けると、艦はほとんど静止状態になってしまうので、次の攻撃にあっては処置無しである」とある。


武蔵はその巨体が災いして舵の利きは極端に悪く、回頭を繰り返すと速力が大きく減速するので回避運動など何の役にも立たないだろうと述べ、武蔵の回避能力に疑問を投げかけている。しかしながら、基本的に運動性の低い戦艦に爆弾や魚雷を回避し続けろと言うのも、無理な話であろう。そもそも武蔵に限らず、艦船は航空機の攻撃には弱い。それを避けるには、戦闘機による制空権の確保が必須である。ところが、レイテ沖海戦時の日本海軍は航空戦力が枯渇しており、戦闘機の援護は無きに等しかった。 
 
 
Musashi_under_attack.jpg










↑魚雷命中直後の戦艦武蔵 (ウィキペディアより)
 
 
Yamato_Sibuyan_Sea.jpg










↑写真中央から右寄り、黒煙を上げているのが戦艦武蔵で、必死の回避運動を行っている (ウィキペディアより)。
 
左側で回頭しているのは戦艦大和だが、その大和の航跡より、武蔵の航跡の方が薄い事から被害を受けて速力が低下している事が覗える。 
 
 
Musashi_under_fire.jpg








↑集中攻撃を受けている戦艦武蔵 (ウィキペディアより)
 
 
Musashi_24_Oct_1944.jpg









↑艦首から沈みつつある戦艦武蔵 (ウィキペディアより)
 
 
 
武蔵の致命傷となった第五次攻撃が終わったのは午後15時30分で、そこから武蔵は尚も4時間を持ちこたえ、浸水増大によって転覆沈没したのは午後19時35分であった。艦船の耐久力は、艦型や当たり所、または新旧の度合いにもよるが、駆逐艦ならば魚雷1本、軽巡洋艦は2本、重巡洋艦は3本、正規空母は4本、戦艦は5本ぐらいが耐えられる限度であろう。だが、武蔵は第三次攻撃を終えた時点で魚雷9本を受けていながら、まだ20ノットの航行能力を有していた。さすがに注排水能力は限界に達していたが、この時点で退避していれば生き残っていたのではないか。


武蔵の巨体は爆弾魚雷の回避には大きな支障を来たしたが、その反面、大きな注排水能力を有しており、並の戦艦ならば耐えられないような被害を許容した。また、
武蔵は、主砲、弾薬庫、機関室を含む艦の中央部は重装甲で覆っており、あれだけの爆弾、魚雷を受けながらも、これらの主要部分に大被害は生じなかった。しかし、艦中央に重装甲を施した反面、第一主砲より前面にある艦首部はほぼ無装甲となり、そこから大浸水を生じて機能を失う結果となった。また、武蔵の副砲の装甲は薄く、そこに砲弾や爆弾が命中すれば、隣接する主砲弾薬庫に誘爆する恐れがあった。この様に、武蔵には幾つかの防御上の欠陥はあったが、それでも総合的に見れば、驚異的な耐久力をもった戦艦であった事は間違いない。 
 
 
戦闘が終わった後の武蔵の艦上は、目を覆うばかりの惨状であった。艦上の構造物の多くは破壊されて廃墟と化し、いつまでも煙が燻り続けていた。往時には針ねずみの様な偉容を誇っていた機銃台も、そのほとんどが台座ごと吹き飛んで、残っていた機銃も焼け爛れていた。そこら中に生前の原型を留めない遺体が転がっており、腕、足、胴体、内臓、頭などが散乱していた。壁には肉片が張り付き、甲板には一面に血が広がって、そこを歩いた乗員を転ばせた。出撃時、武蔵には2,399人が乗り込み、途中、撃沈された重巡摩耶の乗員607人を収容していた。だが、撃沈を受けて、武蔵乗員の内、1,023人が戦死し、1,376人が駆逐艦に救助された。摩耶の乗員は117人が戦死し、490人が救助された。生き残りの武蔵乗員は、フィリピンのマニラ湾に浮かぶ小島コレヒドール島に収容され、本土帰還の時を待った。 
 
 
しかし、やっと生き残った武蔵乗員1376人には、更なる試練が待っていた。本土へと向かう輸送船さんとす丸に乗り込んだ420人余は船が撃沈されて300人余が戦死し、生き残ったのは120人だった。空母隼鷹に乗り込んだ200人余は、同じく雷撃を受けたものの、隼鷹は何とか持ちこたえて内地に帰還した。697人がフィリピン防衛の命を受けて残留したが、その内641人が戦死、戦病死して、生き残ったのは56人だった。この他、病院船氷川丸に乗り込んだ帰還した武蔵傷病兵や、航空機に乗って帰還した幹部士官もいる。これら生存者を合わせても、武蔵乗員2,399人の内、日本に帰還出来たのは400人余であった。 
 
 
大和、武蔵の建造には莫大な費用と労力、時間が投入され、日本海軍の期待を一身に背負って完成した。だが、その投資に見合う活躍をしたとは言い難い。太平洋の戦争は航空機と空母が主体で行われ、戦艦が活躍する場面は少なかった。大和や武蔵を作る代わりに空母や航空機を作っていればとの声も実に多い。しかし、それは結果論であり、世界的に見れば、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスなどの列強も戦前、戦中に戦艦を作り続けており、日本だけが時代遅れであった訳ではない。むしろ、日本は列強に先駆けて航空機と空母を集中運用する機動部隊を編成するなど、先進的ですらあった。


問題なのは、大和、武蔵を後方に置いて、出し惜しみした事であろう。まだ、日米が互角の戦闘を繰り広げていた1942年中なら、戦艦が活躍する場面もあった。慢性的な燃料不足の問題もあったのだろうが、前線に投入する時期を逸した感は拭えない。その結果、大勢が決した時点で、大和と武蔵は前線に投入され、なんら戦果を挙げる事なく撃沈の憂き目となった。だが、これからも大和と武蔵は日本の誇りとして語り継がれていく事だろう。何故なら、大和や武蔵は日本海軍の象徴であり、国家の威信そのものであったから。


主要参考文献、手塚正巳著、「軍艦武蔵」


 
 
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戦艦武蔵の公試

昭和13年(1938年)3月29日、長崎の三菱造船所で密かに巨大戦艦の起工が始まった。それから2年半後の昭和15年(1940年)11月1日、艦体が完成して進水式が執り行われた。その艦体は武蔵と命名されたが、機密保持のため、竣工するまでは2号艦の名で呼ばれる事になる。武蔵は船台から引き出されると造船所内の岸壁に係留され、そこで艦橋や兵器、機関を据え付ける艤装工事に入った。当時、航空機の発達は目覚しかったが、まだまだ戦艦こそが海軍の主力であると見なす向きは多かった。その期待の新型戦艦武蔵は最高軍事機密に指定され、その巨体を秘匿するため、多大な努力が支払われた。


造船所対岸にある米英領事館の前には三階建ての倉庫を建ててその視界を防ぎ、また、造船所周辺に数多くの監視台を設けて不審者の侵入や盗撮を監視した。造船所の前を横断する定期船にも警戒兵が乗り込み、もし乗船者が武蔵の方向を見ようものなら怒鳴り散らされ、ひどい時には平手打ちを食らった。長崎の住民達は、三菱造船所内で何かとんでもない巨艦が建造されているのは薄々察していたが、それを口にする事は許されず、早くこの厄介者が出て行ってくれる事を願っていた。 
 
 
●戦艦武蔵の性能要目。
 
全長263メートル 

最大幅38・9メートル 

基準排水量6万4千トン
 
機関出力15万馬力 

最大速力27ノット(約50キロ) 

重油搭載量6400トン 

航続距離16ノットで7200海里(約1万3千キロ)  
 

●完成時の兵装。
 
46センチ3連装砲3基
 
15・5センチ3連装砲4基 

12・7センチ連装高角砲6基 

25ミリ3連装機銃8基 

13ミリ連装機銃2基 

水上機7機 
 
 
当初、武蔵の竣工引渡し期日は、昭和17年(1942年)12月28日と定められていたが、日米開戦を受けて一刻も早い戦力化が望まれていた。そして、同年5月7日には兵員居住区や烹炊所も備えられた事から乗員の居住が始まり、それと同時に大量の物資が艦内に運ばれていった。5月21日には呉まで自力航行し、そこで5月26日まで艤装工事の残りを行った。武蔵は公試運転をひかえて船渠に入り、艦体の整備が行われた。艦体にこびりついた雑貝や海草を取り除いた上で塗料が塗りなおされ、巨大な4本のスクリューも眩いほどに磨きあげられた。 
 
 
6月22日、こうした準備を整えた上で、いよいよ武蔵の本格的な性能試験が行われる事となる。場所は四国の伊予灘で、第1回の項目は運転公試と惰力公試であった。武蔵は速力測定を行うべく機関の出力を最大限まで上げて、標柱間を全速力で駆け抜けた。その速力は27・5ノット(約51キロ)を計測し、計画値の27ノット(50キロ)を上回る好成績を叩き出した。これは、既に完成している一号艦、大和の公試速力27・3ノットをも上回るものであった為、乗り合わせた造船関係者は誇らしげであった。更にこの時、過酷な試験が課され、最大速力からいきなり後進全力に切り替えられた。


これにはさすがの巨体も凄まじい負荷を受けて鳴動し、乗り組んでいた者は機関とスクリューが壊れるのではないかと危惧を抱いた。しかし、それは杞憂であった。艦は見る見る内に速力を落としてゆき、やがて静止したかと思うと、すぐさま後進全力で走り出したのである。大和型戦艦は大型の割には旋回能力は優秀で、艦を全速で走らせた状態で舵を一杯に切ると、その旋回の直径は640メートルとなった。しかし、舵の利き始めが問題であり、舵を切ってから実際に旋回しだすのに1分40秒の時間を要した。 
 
 
6月26日には注排水試験が行われ、各区画に注水したり排水したりして、艦の平衡を保つ装置の性能確認を行った。これは地味ながら、非常に重要な試験であった。もし、艦が被害を受けて浸水し、左右のどちらかに傾斜すると艦の性能発揮に深刻な弊害が生じる。傾斜が強くなると主砲の旋回や給弾もままならなくなって攻撃力は大きく低下するし、速力の発揮や舵の利き、艦の傾きを直そうとする復原性にも重大な影響を与える事になるからだ。だが、武蔵はこの注排水試験を難なく合格した。


また、大和型戦艦の航続距離は16ノットで7,200海里を要求されていたが、実際に公試して計算してみると16ノットで1万2千海里の航続距離が弾き出された。航続距離に余裕があったので、戦時中には、重油搭載量6,400トンから1,000トンを減じて、その分を副砲などの防御力強化に当てたとされる。これを受けて戦争末期の大和型戦艦の航続距離は、16ノットで1万海里であったと推測される。 
 
 
7月24日、前回と同じく佐田岬の沖合いで、今度は兵装関係の試験が行われた。大和型戦艦の最大の武器たる46センチ砲の発射試験である。その影響を調べる為、甲板や構造物の各所に爆風の測定器と籠(かご)に入れられたモルモットが置かれた。約3万8千メートル先に走る曳的艦が引く標的に狙いを定めるため、一基2,700トンもの重量がある46センチ3連装砲3基が、重々しい音を立てながら一斉に左舷に旋回する。この46センチ砲は艦載砲としては世界最大であり、3万メートル先の40センチ垂直装甲板を撃ち抜く威力がある。


だが、その威力ゆえに発射時の衝撃と爆圧は、凄まじいものがあった。それが分かっている関係者は、主砲発射を前にして誰もが緊張の面持ちで身構えた。ほどなくして機銃員退避のブザーが鳴り響き、甲板上に配置されていた機銃員達は一斉に待機所へと退避した。そして、「撃ち方始めーっ!」の号令が響き、ついに9門の巨砲が火を噴いた。発射の瞬間、艦体は右に9度傾き、艦全体に振動が走った。艦橋内にいた人々は胸を強く圧迫されたと感じ、体をよろめかせた。艦の周囲にはもうもうたる爆煙が立ち込めて、しばらく視界は晴れなかった。 
 
 
主砲発射から1分余、3万8千メートルの距離を飛んだ砲弾は、標的の筏(いかだ)の前後に次々に弾着し、9本の巨大な水柱が立ち上った。発射試験終了後、試験官が艦上を調べてみると、所々に置かれていた鉛板は場所によって大きく歪み、モルモットの多くは圧死していた。砲身の先端に近い木甲板も、真っ黒に焦げていた。主砲発射試験前、艦内の物品は予め固縛するよう命じられていたが、それでも多くの被害が発生していた。発射の振動によって食器類は割れ砕けたり、便器にひび割れが生じていた。


また、300余の電灯が破損、断線して使用不能となり、時計や電話なども故障するなど、様々な被害をもたらした。実に、主砲の威力と弊害をまざまざと見せ付けられる試験であった。 武蔵の性能は総合的には良好であり、昭和17年(1942年)8月5日、晴れて日本帝国海軍の手に渡された。だが、太平洋での戦いは航空機と空母主体で行われ、大和と武蔵が敵艦と直接砲火を交える機会はなかなか巡ってこなかった。この間、両艦は戦訓を受けて、対空兵装の強化を図っている。武蔵は最終的には、両舷にあった15・5センチ3連装砲2基を撤去して、25ミリ3連装機銃を35基、同単装機銃を25基増備している。 
 
 
大和型戦艦の凌波性は優秀で、台風の只中にあっても速力を維持可能で、乗員が激しい揺れを感じる事は無かった。日本軍艦の乗員の多くは釣り床(ハンモック)で寝起きしていたが、大和型戦艦では折り畳み式の寝台が設置されていたので、乗員はゆったりと休む事が出来た。また、大和型戦艦には冷房や通風設備があって、煙突や機関部付近の居住区を除いて、艦内の温度は夏は26度、冬は23度に保たれており、快適に過ごす事が出来た。これらは地味ながら、乗員の戦闘能力を持続させる重要な要素である。


どのように優れた軍艦であっても、それを使いこなす乗員がいなければその能力は発揮できない。その乗員も能力を発揮するには、適度な休息を必要とする。その点、大和型戦艦の居住性は、数ある日本軍艦の中で最良の部類に入るだろう。これらの設備は駆逐艦などの小艦艇には望み得ないものであり、大いに羨望の的となっていた。武蔵乗員の多くは20歳前後の若者であり、その殆どがこの巨大戦艦の一員として働ける事を誇りに思っていた。



1938_Japan_Navy_battleship.jpg








↑1942年8月、竣工時の戦艦武蔵(ウィキペディアより)



800px-Musashi1944.jpg






↑1944年10月、最終時の戦艦武蔵(ウィキペディアより)


 
 

西本願寺

西本願寺は、京都府京都市下京区にある浄土真宗本願寺派の寺院である。



戦国時代、戦国大名にも匹敵する強大な武力と財力を備えた教団があった。それが、かの有名な一向一揆の組織者、本願寺である。本願寺の元となる浄土真宗は、鎌倉時代の僧、親鸞(1173~1262)によって開かれたとされる。だが、この浄土真宗を本格的な教団に組織し、実質的な開祖とされるのが覚如(1271~1351)である。そして、この時より浄土真宗は、本願寺と称する様になった。それから徐々に信徒を増やしていった本願寺は、戦国の世を迎える頃には巨大な財力と戦力を併せ持つ一大教団に成長していた。並み居る戦国大名もその力に期待して、度々支援を要請する程であった。しかし、本願寺が積極的に大名間の戦いに介入するようになると、逆にその力を警戒され、天文元年(1532年)には六角定頼と法華宗徒によって本拠の山科本願寺が焼き討ちに遭うという憂き目にあった。それを受けて本願寺は、大坂石山の地にあった末寺の石山御坊に本拠を移し、石山本願寺と改称して再起を図った。戦火を受けてやむなく本拠を移したとは云え、石山の地は要害堅固にして、畿内の物流、商業の中心に位置する事から、石山本願寺とその寺内町は大いに発展していった。


大坂に巨大な根を下ろし、前途洋洋に思えた本願寺の目の前にいきなり現れたのが、戦国の風雲児、織田信長である。信長は本願寺が持つ財力と地の利に目をつけ、矢銭(軍資金)を要求して、更に石山の地を明け渡す様、申し渡してくると、本願寺第11代法主の顕如(1543~1592)はついに腹を固め、元亀元年(1570年)に信長に戦いを挑んだ。顕如は、その卓越した政治、外交力をもって信長包囲網を形成し、また、その指導力をもって各地の一向一揆を動かした。顕如と一向一揆は反信長勢力の中心として活躍したが、信長も底力を発揮して盛り返してくると各地の一向一揆は各個撃破されてゆき、やがては本拠の石山本願寺も織田軍によって封鎖された。その包囲は数年にも及び、さすがの本願寺も滅亡が迫ってきた天正8年(1580年)3月、顕如はついに信長に屈し、石山の地を明け渡して、紀伊国鷲森に隠遁する事を決めた。しかし、長男の教如(1558~1614)はこれに強く反発して、徹底抗戦を叫んで石山篭城を続けたので、困り果てた顕如は義絶を申し渡した。


同年8月、教如は、関白、近衛前久の説得を受けてようやく石山本願寺を明け渡したものの、その直後に火が燃え広がり、壮大な伽藍や寺内町も灰燼と化した。だが、天正10年(1582年)6月2日、遺恨の残る信長は本能寺に消え、それから程ない6月27日、教如は義絶を赦免され、以後は顕如と共に寺務に携わる事になる。文禄元年(1591年)11月24日、顕如が死去すると、教如が第12代法主となったが、側近にはかつて石山篭城を共にした強硬派を用いたので、顕如と共に紀伊国に退去した穏健派との間で深刻な内部対立が生じた。文禄2年(1593年)9月、時の天下人、豊臣秀吉は、強硬な教如が本願寺法主になった事を警戒していたので、この騒動に割って入り、10年後に弟の准如(1577~1631)に法主の座を譲るよう申し渡した。しかし、これを教如が拒否したので、秀吉は怒って教如を隠遁させ、すぐさま准如を12代法主の座に据えた。


だが、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いを経て徳川家康が天下の権を握ると、隠遁していた教如に京都の地に寺領を与えて、新たな本願寺の設立を後押しした。これには、かつて天下を震撼させた本願寺勢力を分立、対立させておこうとの家康の魂胆が含まれていた。そして、慶長7年(1602年)、教如は、堀川にある本元の本願寺からすぐ東の鳥丸七条に、もう一つの本願寺教団を設立した。こうして准如を12代法主とする西本願寺(浄土真宗本願寺派)と、教如を12代法主とする東本願寺(浄土真宗大谷派)の分立が決定する。それから数百年の時を経た現在、この両寺の対立関係はほぼ解消されているが、ある程度の対抗意識は今だに残っている模様である。両寺とも消防意識が高い事で知られており、下京区で開かれる自衛消防訓練大会ではお互いを意識して切磋琢磨し、その対戦成績はほぼ互角となっている。




興正寺
興正寺 posted by (C)重家


一見すると連なった一つの巨大寺院に映りますが、手前にあるのは興正寺(こうしょうじ)で、その右隣が西本願寺です。



興正寺
興正寺 posted by (C)重家

↑興正寺


興正寺も浄土真宗の寺で、真宗興正派となっています。永禄12年(1569年)、顕如の次男である、顕尊が興正寺の門跡を引継ぎ、天正19年(1591年)に西本願寺の隣に総本山が建てられました。本願寺が教如と准如とに分裂した時、顕尊は、弟の准如を支援しました。その縁もあって、興正寺と西本願寺はいわば兄弟の様な関係でしょう。この興正寺も、なかなか立派な構えでした。



西本願寺
西本願寺 posted by (C)重家

↑左が御影堂で、その右奥が阿弥陀堂


こちらは准如が引き継いだ、本願寺教団です。



西本願寺
西本願寺 posted by (C)重家

↑樹齢400年とされる銀杏の木


西本願寺の創建が天正19年(1591年)なので、その歴史のほとんどを見つめてきた事になります。



西本願寺
西本願寺 posted by (C)重家

↑御影堂


内部は広く、装飾は鮮やかで、すこぶる立派なお堂でした。



西本願寺
西本願寺 posted by (C)重家

↑御影堂



西本願寺
西本願寺 posted by (C)重家

↑阿弥陀堂


写真では伝わり難いですが、本当に大きなお堂でした。


西本願寺
西本願寺 posted by (C)重家

↑阿弥陀堂



西本願寺
西本願寺 posted by (C)重家

↑門の装飾



西本願寺
西本願寺 posted by (C)重家

↑飛雲閣


かつて豊臣秀吉が創建した聚楽第の一部とされており、国宝に認定されています。この西本願寺は紅葉や桜の名所とかではありませんが、その壮大な建物は一見の価値があります。

犬山城

犬山城は、愛知県犬山市にある平山城である。木曽川南岸の丘陵上に築かれ、尾張国と美濃国の境目にあって、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら天下人もこの城の争奪を図った要衝である。



犬山城は、織田信長の叔父にあたる織田信康が天文6年(1537年)に築城したのが始まりとされる。城は木曽川の畔にある丘上にあって天然の要害を成しており、また、木曽川の水運に加え、中山道と木曽街道を睨む事も出来る経済、交通上の要衝である。信康は、兄の織田信秀の良き協力者として活躍していたが、天文13年(1544年)、信秀に従って斉藤道三の居城、稲葉山城を攻め立てた際、逆落としの逆襲を受けて戦死した。その跡は嫡男の信清が継いで犬山城主となり、引き続き信秀を支援した。天文20年(1551年)、信秀が急死して信長が跡を継いでも両者の協力関係は続いていたが、永禄5年(1562年)、所領の分与を巡って信長との対立が深まると、信清は美濃の斉藤龍興と結んで反旗を翻した。しかし、信長の勢いは強く、信清方の支城は次々に落ちて孤立を深め、永禄7年(1564年)5月には居城の犬山城も落とされて、信清は甲斐の武田氏の下へ落ち延びていった。


信長は犬山城を占領すると、丹羽長秀を城番に置いて、ここから美濃国侵攻を図る。犬山城は木曽川を挟んで美濃国に接する事から、重要な拠点として機能した。元亀元年(1570年)、織田家の部将、池田恒興が城主として入るが、天正9年(1581年)に摂津国へ転封され、代わって信長の五男、信房(勝長とも)が入った。天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起きて信房が討死すると、尾張国は信長の次男、信雄の領域に加えられ、犬山城もその持ち城となった。
天正12年(1584年)3月、羽柴秀吉と徳川家康、織田信雄とが対立を深めると、美濃大垣城主となっていた池田恒興は羽柴方で参戦して、かつて知ったる犬山城に奇襲を加えて奪取し、これが開戦の狼煙となった。しかし、同年4月に起こった小牧・長久手の戦いで羽柴方は敗れて池田恒興は戦死し、同年11月に結ばれた和議によって、犬山城は信雄に返還された。


天正18年(1590年)、小田原北条氏の滅亡に伴って織田信雄は、秀吉から移封命令を受けたが、これを拒絶したため、かつての家臣筋である秀吉によって容赦なく改易された。それに代わって尾張の領主となったのは秀吉の養子である豊臣秀次で、犬山城には秀次の実父である三好吉房が入った。しかし、文禄4年(1595年)、秀次が謀反の疑いをかけられて自害すると、吉房も改易され、犬山城には秀吉の直臣、石川光吉(貞清とも)が入った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、光吉は西軍側で参戦するも、本戦は敗れて徳川家康に所領を没収された。慶長6年(1601年)、家康の家臣である小笠原吉次が犬山城に入ったが、慶長12年(1607年)に平岩親吉に代わった。慶長16年(1611年)、親吉は死去するが、子が無く、嗣子断絶となった。それから6年間、無城主であったが、元和3年(1617年)に成瀬正成が犬山城主となり、そのまま明治の世まで成瀬家による統治が続く事になる。


明治の世を迎えると、廃藩置県によって愛知県の所有となり、櫓、城門などは取り壊されたが、天守閣だけは破壊を免れた。明治24年(1891年)に起こった濃尾地震によって天守閣は半壊してしまうが、明治28年(1895年)、その修復を条件に、旧藩主である成瀬正肥に無償譲渡された。昭和10年(1935年)、その価値が改めて見直され、国宝に指定される。犬山城は、明治から平成まで成瀬家による所有が続いていたが、平成16年(2004年)に財団法人犬山城白帝文庫に委ねられて、現在に至る。犬山城の最大の見所である天守閣は、1階と2階部分は慶長6年(1601年)に建築され、3階と4階部分は元和6年(1620年)に増築されたと見られている。天守閣は小振りであるが、最も古い形態を残している為、姫路城、松本城、彦根城と並んで国宝4城の一つとなっている。その古い天守に立つと、木曽川の優美な流れから、岐阜城のある金華山、遥か御嶽山までも望む事が出来る。



犬山城
犬山城 posted by (C)重家

↑犬山城





犬山城
犬山城 posted by (C)重家

↑犬山城近くで開かれていた朝市


犬山城
犬山城 posted by (C)重家


犬山城の開門は朝の9時なのに、6時にここに着いてしまいました。3時間も待つ気は無いので、外観だけの眺めになってしまいました。



犬山城
犬山城 posted by (C)重家

↑城内にある三光稲荷神社



犬山城
犬山城 posted by (C)重家



犬山城
犬山城 posted by (C)重家



犬山城
犬山城 posted by (C)重家

せめて間近から天守閣を眺められればと思っていましたが、天守閣へと繋がる門は無情にも閉じられていました・・・



犬山城
犬山城 posted by (C)重家

↑犬山城

木曽川対岸からの眺めです。次にここを訪れる時は、天守閣からの眺めを写真に収めたいです。

岐阜城

岐阜城は、岐阜県岐阜市にある山城である。岐阜城は戦国史上において、最も名高い山城の一つである。



建仁元年(1201年)、鎌倉幕府の政所執事であった、二階堂行政が砦を築いたのがその始まりとされる。岐阜城は、低いながらも険しい金華山の山頂にあって、山麓には長良川が流れる天然の要害である。それを麓から眺めたなら、平野にそそり立つ難攻不落の城に映った。しかし、山上の地積が狭いのと、ここを普段の住居とするには険しすぎるのが欠点であった。


室町時代には美濃守護、土岐氏の最有力家臣で美濃守護代を務めた、斉藤氏の居城となり、天文2年(1533年)には、下克上の道を駆け上りつつあった斉藤道三(この頃の名は長井新九朗規秀)が城主となった。道三の時代、岐阜城は稲葉山城の名で呼ばれており、道三はここを拠点に美濃第一の実力者となりつつあった。だが、織田信長の父で尾張の実力者である、織田信禿が美濃攻略に乗り出すと、一時、支城の大垣城を奪われるなど苦戦に陥った。


天文13年(1544年)9月22日には織田信秀軍に稲葉山城下まで攻め入られるも、道三は夕刻を迎えて引き揚げる織田軍の一瞬の隙を突いて逆襲を加え、1千人余を討ち取る大勝利を収めた(加奈口の戦い)。この戦いで戦死した織田将兵を弔うために建てられた塚は織田塚と呼ばれ、現在でも金華山の麓に存在している。天文20年(1551年)頃、道三は、美濃守護で主筋に当たる土岐頼芸を放逐して美濃国主となり、下克上を極めた。そして、天文23年(1554年)、子息の義龍に家督と稲葉山城を譲って、自身は近隣の鷺山(さぎやま)城に隠居したとされる。


しかし、道三と義龍の仲は次第に険悪なものとなり、弘治2年(1556年)4月18日には両者は軍勢を催して、長良川を挟んで対峙する事態となった。人数は道三軍が3千人未満であったのに対し、義龍軍は1万人以上であったと云う。4月20日には合戦となったが、衆寡敵せず、道三は鼻を削がれたうえで、首を上げられた。道三の娘婿となっていた織田信長は、援軍を率いて美濃に向かっていたが、道三討死の報を聞いて空しく引き揚げていった。


血塗られた道を経て美濃の支配者となった義龍はなかなかの実力者で、度々の信長の侵攻を撃退して国内に踏み込ませなかったが、永禄4年(1561年)、35歳の若さで急死した。義龍の跡を継いだ龍興はまだ14歳の若年であり、信長はそれを当て込んで度々、美濃に攻め入った。それでも美濃勢は当初は若い当主を支えて、信長の侵攻を食い止めんとした。しかし、信長の圧力は強まる一方であるのに対し、今だ年少の龍興に指導力は期待出来ず、次第に美濃勢の結束は揺らいでいった。


そして、永禄7年(1564年)には、家臣の竹中半兵衛重治と安藤守就が背いて、稲葉山城を急襲、占拠する事件が起こった。城はすぐに返還されたものの、この事件は斉藤龍興の権威を失墜させ、信長の侵攻を加速させる契機となった。永禄10年(1567年)9月頃、ついに稲葉山城は落ちて、龍興は長良川を下って伊勢長島へと逃れた。この落城の際、火災が生じたらしく、麓にはその時のものと思われる焼土層が残っている。信長はこれにて念願の美濃攻略を果たし、100万石級の大大名となって、一躍、天下人への道が開かれた。


信長は稲葉山城を新たな本拠に定めると、その麓に4階の豪勢な居館を築いてそこを平時の住まいとした。そして、信長は、稲葉山城とその城下の井ノ口を岐阜と改名し、ここから天下布武の大号令を下したのだった。永禄12年(1569年)に岐阜城の信長の下を訪れたルイス・フロイスによれば、その居館は驚くほど壮麗で、欧州でもこれに比肩するものは無かったと云う。居館の外には4つから5つの庭園があり、形の良い石や白砂が撒かれて池には美しい魚が泳いでいた。


1階には20余の部屋があって、それぞれに絵画と塗金が施された屏風が飾られてあった。2階は更に美麗な装飾が施された婦人部屋があり、その前の廊下は中国製の金襴(きんらん)の幕で覆われていた。3階は一転、静寂優雅な佇まいで、ここには茶室が設けられていた。4階からの展望は素晴らしく、美しい庭園や、岐阜の町並みを一望する事が出来た。信長の独創的な発想は岐阜居館の作りにも存分に反映され、それは後に幻の名城、安土城へと繋がってゆく。だが、天正10年(1582年)6月2日、天下統一を目前に控えた信長は、突如として本能寺に消えた。


その衝撃は美濃にも波及して、織田信忠の家臣の斉藤利堯なる者が岐阜城を乗っ取る事件も起こった。斉藤利堯はしばらく岐阜城から天下の動静を覗っていたが、羽柴秀吉が明智光秀を破って上方を掌握すると、岐阜城を明け渡した。この後、岐阜城は信長の三男信孝の居城となるが、信孝は秀吉との対立を深めてゆき、天正10年(1582年)12月には秀吉の大軍に攻められた。信孝は一旦、人質を差し出して降伏するが、翌天正11年(1583年)3月、柴田勝家が越前から出陣すると、再び挙兵して岐阜城に立て篭もった。


しかし、頼みの勝家が賤ヶ岳の戦いで滅亡すると岐阜城は孤立無援となり、信孝は再び秀吉に降伏して、城を明け渡した。だが、信孝は許されずに切腹となり、岐阜城には池田恒興の嫡男、元助が入った。天正12年(1584年)4月、小牧、長久手の戦いで池田恒興、元助父子が討死すると、次男の輝政が岐阜城主となった。天正19年(1591年)4月、池田輝政は三河に転封され、代わって秀吉の養子、豊臣秀勝が城主となった。


文禄元年(1592年)9月、秀勝が病没すると、信長の孫に当たる織田秀信が城主となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、秀信は西軍側で参戦し、西上する東軍を岐阜城で迎え撃たんとした。そして、同年8月22日、秀信軍6千人余は岐阜城から出撃して木曽川の線で東軍1万8千余を撃退せんとした。だが、兵力不足から強攻渡河を許し、そのまま数に勝る東軍に押し切られて岐阜城へと退いた。8月23日、勢いに乗った東軍は金華山を駆け上がり、岐阜城を激しく攻め立てた。


岐阜城の見た目は堅固そのものであるが、山上部の地積が狭い事から、ここまで攻め入られれば、長くは持ち堪えられなかった。それでも秀信軍は激しく抵抗し、上格子門や二の丸門を巡る戦闘では双方多数の死傷者を出したと云う。だが、岐阜城の抵抗もここまでで、秀信軍は千人余が討ち取られ、同23日に秀信は降伏した。壮麗を極めた信長居館も、この時の戦災で焼失したのであろう。



戦後、秀信は高野山に追放され、代わって岐阜の地には徳川家康の家臣、奥平信昌が入った。だが、家康は岐阜城の廃城を決定し、信昌に加納城を築かせて、そこを統治の拠点とさせたので、岐阜城を巡る激動の歴史はここに終わった。それから4百年近い時を経た、昭和31年(1956年)、岐阜城跡に、鉄筋コンクリート製の3層4階建ての天守閣が復元された。決して風情を感じる建物ではないが、そこからの眺望だけは素晴らしいものがある。


それはかつて、斉藤道三や、織田信長が大望を抱きながら眺めた光景と一緒である。また、金華山の麓にあるロープウェー駅のすぐ側には、壮麗を極めたと云う信長の居館跡が存在する。安土城の前身とも言えるこの居館跡を発掘調査した結果、かつては居館を中心に広大な庭園が巡らされていたようだ。現在は山の一角と化し、訪れる人も少ないが、ここには確かに信長の息吹が残っている。






岐阜城
岐阜城 posted by (C)重家

↑上格子門跡


慶長5年(1600年)8月23日の岐阜城を巡る攻防戦では、この門付近で福島正則や池田輝政を始めとする東軍諸隊と、織田秀信軍との間で激しい戦闘が繰り広げられたそうです。



岐阜城
岐阜城 posted by (C)重家

二の丸門跡


慶長5年(1600年)の岐阜城攻防戦では、この二の丸門付近でも激しい戦闘があって、門付近にあった火薬庫が大爆発して、夜空を焦がしたと云います。



岐阜城
岐阜城 posted by (C)重家

↑岐阜城天守閣


岐阜城は、標高329メートルの金華山の山頂にあって、平野部からの比高は308メートルあります。標高はそれほど高くはないのですが、見た目は険難そのものなので、麓にあるロープウェイを使って登るのが無難でしょう。天守閣は、昭和31年(1956年)に鉄筋コンクリート製で再建されたものです。外見は綺麗ですが、内部は味気ないです。



岐阜城
岐阜城 posted by (C)重家

↑岐阜城天守閣からの眺め


写真中央、市街地の中にある小さな丘は、斉藤道三の隠居城であった鷺山(さぎやま)城跡です。岐阜城から長良川を渡った辺りが、斉藤道三とその息子、義龍とが父子相討つ戦いを繰り広げた場所です。そして、弘治2年(1556年)4月20日、斉藤道三はこの長良川の畔で、首を上げられました。道三の首塚は、付近の市街地の一角に存在しています。



岐阜城
岐阜城 posted by (C)重家

↑岐阜城天守閣からの眺め


これは、西の方角だったと思います。織田信長もここから西を眺めては、天下への野望を逞しくした事でしょう。



岐阜城
岐阜城 posted by (C)重家

↑信長居館跡


ロープウェイからの眺めです。かつては眼下に壮麗な建物がそびえ立っていたのでしょう。


岐阜城
岐阜城 posted by (C)重家

↑かつての岐阜城の姿



岐阜城
岐阜城 posted by (C)重家

↑信長居館跡


ロープウェイ駅のすぐ側にあるので、乗られる際には足を運んでみる事をお勧めします。



岐阜城
岐阜城 posted by (C)重家

↑信長居館の奥にある小さな滝


近くには、滝へと下りる古い石段がありました。信長や斉藤道三などの歴代城主も政務の合間に、ここで一息入れる事もあったでしょう。



岐阜城
岐阜城 posted by (C)重家

信長居館前にある庭園


信長居館の周囲には、かつては、ルイス・フロイスも感嘆したと云う庭園がありました。現在、そのほとんどは埋もれてしまっているようですが、それでも僅かに往時を偲ばせてくれます。
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重家 
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