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元寇と竹崎季長の奮闘 1

2012.07.13 - 歴史秘話 其の二
文永11年(1274年)10月3日、朝鮮半島の合浦(ハッポ)から、900隻もの大船団が一路、日本を目指して出航した。その船団には物々しい雰囲気が漂っており、とても平和な商船には見えなかった。甲板には屈強な男で満ち溢れており、船倉にも大量の武具が積み込まれていた。これは、大元国(モンゴル帝国)の長にして、北東アジアの覇者であるフビライの命を受けた、日本遠征軍であった。いわゆる、元寇である。


これまでフビライは度々、日本の鎌倉幕府に使節を派遣して好(よしみ)を通じようとしたが、幕府はこれを黙殺し続け、ついに関係がこじれて今回の兵役となったのだった。フビライが送ってきた国書は日本との通好を求めるもので、それほど高圧的なものではなかったのだが、モンゴル国皇帝が日本国王に書を奉るとあって、両国の上下関係を明らかにして、場合によっては兵を用いるとの文言もあった。これが、鎌倉幕府や朝廷の警戒心を呼び起こし、フビライの度々の返信使節の催促にも応じなかった理由であった。 
 
 
ともあれ、ここに至っては最早、後戻りは出来ず、両国共、軍の勝敗によって決着をつける他、無かった。元軍の規模は3万人余で、蒙古(モンゴルの兵)、漢(旧金国の兵)、高麗(朝鮮の兵)で構成されていた。総司令官はモンゴル出身の忻都(きんと)で高麗出身の洪茶丘と、旧金国出身の劉復亨の2人が副司令官であった。『八幡愚童訓』によれば、10月5日に元軍は対馬の西岸、佐須浦に上陸し、翌10月6日、地頭の宗助国(そう すけくに)が80騎余でこれを迎え撃ったものの、悉く討死し、勝ち誇った元軍は対馬の住民を蹂躙し尽くした。それによってある者は殺され、ある者は手に穴を穿たれて船に結び付けられ、ある者は異国の地に奴隷として連行されていった。


10月14日、元軍は続いて、対馬と九州の中間にある壱岐島に来襲する。守護代、平経高率いる100騎余が元軍を迎え撃ったものの多勢に無勢、こちらも悉く討死して、壱岐の住民も対馬と同様の憂き目に遭った。対馬、壱岐の住民が元軍の襲来を受けて悲惨な目に遭ったという情報は、たちまちの内に日本全国に伝わって人々は恐れ慄いた。襲来から1ヶ月後の11月11日、甲斐の国の僧、日蓮は、「大蒙古国よりよせて候」、「壱岐、対馬の様になりはしないかと思えば、人々の涙は止まらない」と書き残している。壱岐を制圧した後、元軍は博多に向かうが、その途上、松浦地方にも襲撃を加えた。


これも日蓮の書簡に拠れば、「松浦党は数百人が討たれ、また生け捕られたりしたので、蒙古が押し寄せてきた浦々の百姓達は壱岐、対馬と同様であった」と述べている。高麗側の史料に拠れば、日本で捕らえた少年少女200人を国王と后に献上したとある。元軍の船団は松浦地方から東に進み、10月19日には博多湾に姿を姿を見せた。そして、10月20日にはついに博多湾の西部、今津に上陸を果たした。元軍は福岡平野の中心部目掛けて進撃してくると、九州を中心とする日本の武士団がこれを迎え撃って、激しい合戦となった。 
 
 
この戦いの関する日本側の同時代史料は極めて少なく、『八幡愚童訓(はちまんぐどうきん)』や『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』」から実情を探る他は無い。『八幡愚童訓』は、鎌倉時代中期の作成でこれも貴重な資料であるが、八幡宮の霊徳を説く目的で作成されており、日本の軍勢は、大将でさえ1万2千騎であるとの大袈裟な表現も含まれている。『蒙古襲来絵詞』については、実際に戦闘に参加した御家人、竹崎季長によって作成されており、欠損や後世の加筆はあるものの、非常に写実的で元寇の第一級史料となっている。『八幡愚童訓』の記述を用いた通説では、日本の武士は敵に名乗りを上げて一騎打ちを挑んだが、元軍はこれを集団戦法で散々に討ち破ったとある。 
 
 
しかし、日本の武士が名乗りを上げるのはむしろ味方に向けてであって、これは自らの名前を覚えてもらって、戦功を挙げた際に証人になってもらう為である。それに、どこの誰ともつかない異国の敵に向かって一騎駆けをするなど、当時の目からしても自殺行為にしか映らなかっただろう。『蒙古襲来絵詞』には、竹崎季長が先駆けの功を狙って単騎で突撃する場面も描かれているが、その後には、日本の騎馬武士団が集団で矢を射掛けている場面も描かれている。日本の武士団も元軍も同じく、集団で戦ったと考えるのが妥当なところである。


実際に元寇をその目で見て、その肌で感じてきた竹崎季長の奮闘振りを紹介していきたい。竹崎季長は九州は肥後国の出身で、寛元4年(1246年)に生まれ、文永11年(1274年)の文永の役の際には、29歳の壮年の武者であった。しかし、同族内の所領争いに敗れた没落御家人であったので、今回の大事には、僅か5騎だけを率いての参陣であった。さて、季長一行が福岡の息浜に着くと、そこには大勢の武士が控えていた。その日の大将は少弐景資で砂丘の上に陣取り、ここで元軍を待ち受ける方策であった。しかし、季長は、「大将の指示を待っていれば戦に遅れてしまう。一門の中で季長が肥後国の先駆けをしてみせる」との決意を掲げていた。


そして、少弐景資の陣を訪れると、元軍に向かって進み出る事を願い出た。「本訴(所領に関する訴訟)がうまくいかないので、若党(従者)も従わず、私が率いるのは僅か5騎でしかありません。この5騎で、大将の御前で敵を倒して手柄をお目にかける事は適わないでしょう。ならば、兵を進めて先駆けの功を挙げる他は思い付きません。どうか、私達5騎が先駆けをした旨を将軍にご報告願い致します」。景資はこれに応えて、「私はこの合戦で命が助かるとは思っていませんが、もし助かったならば、貴方の先駆けの手柄を将軍に報告しましょう」と言ってくれた。そして、自らは500騎の兵を持っていながらも、季長に先駆けの功を譲る姿勢を見せてくれた。季長はこれに感謝の念を覚えながら、息浜を出発した。 


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↑息浜の砂丘に陣取る少弐景資とその軍勢

黒い唐櫃(からびつ)の上に腰掛けている人物が、少弐景資
 
 
季長は元軍を求めて赤坂へと向かうと、その途上、見事な装いをした武者と出会う。その武者は100騎余の郎党を率いて元軍を蹴散らし、首級2つを挙げて、それを太刀と長刀に貫いて郎党に掲げさせていた。季長はこの武士をあっぱれと思って、「どなたでございますか。たいへんすがすがしく見えますが」と声をかけた。すると相手は、「肥後国の菊池二郎武房と申す者です。そのようにおっしゃるのはどなたですか」と返してきた。季長は、「同じ肥後国の竹崎五郎兵衛季長が馬を走らせます。ご覧ください」と答えると、勇んで元軍に向かっていった。


元軍の本隊は麁原(すそはら)と云う小高い丘に陣取って、ひしめいていた。季長はその麁原に向かって馬を駆けようとすると、従者が、「味方は後ろから続いて来るでしょう。それをお待ちになって、証人を立ててから御合戦ください」と諫止した。ところが、季長は、「弓箭(武門)の道は先駆けをもって賞とする。ただ駆けよ!」と叫んで、突撃を開始する。元軍は麁原から鳥飼(とりかい)の干潟に下りてきて、これを迎え撃ち、雨あられの如く矢を射かけてきた。 
 
 
まず季長の旗差しが射られて落馬し、季長ら3騎も矢傷を負って血を滴らせた。更に元軍は、「てつはう」と呼ばれる炸裂弾(陶器の器に火薬と鉄片や青銅片を詰めた一種の手榴弾)を投げつけてきて、それが炸裂すると馬は驚いて飛び跳ねた。季長一行が、成すすべ無く討死せんとしていたその時、肥前国の御家人、白石通泰が後方から大勢で駆けてきたので、元軍は麁原に退いていった。季長は実に危ういところを助かり、「馬を射られずに元軍の中に駆け入り、白石通泰の軍勢がやってこなかったならば、戦死していたはずの身であった。意外にも命が助かり、お互いに合戦の証人に立った」と述べた。


この10月20日、元軍は麁原や別府(べふ)といった高台に陣取って、福岡平野の中心部に進撃してきたが、鳥飼や赤坂の地で日本の武士団の激しい迎撃を受けて阻止された。 この日の前線大将で、季長に先駆けを譲った少弐景資も勇戦し、敵の大将と思しき人物を認めて矢を射かけ、見事に命中させている。これが元軍の副将、劉復亨であったとされており、『元史』にも負傷したと記述されている。しかし、日本側も少なからぬ被害を出しており、博多の町や筥崎宮(はこざきぐう)が戦火を受けて灰燼と化し、民衆は悲嘆に暮れたと云う。


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↑元軍へ突撃せんとする竹崎季長

中央の元軍兵士3名は、左側の同軍兵士と比べて明らかに筆致が違うので、後世の追筆と見られている。


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↑竹崎季長の後方から駆け付けた白石通泰の軍勢。

この図の日本武士団は一騎駆けではなく、集団で駆けている。


 
夜を迎えてモンゴル軍は帰陣し、日本軍も大宰府の防塁である水城(みずき)に入って、翌日の合戦に備えた。ところが、翌10月21日の朝を迎えると、博多湾から元軍の船団は皆、消え去っていた。元軍は思わぬ苦戦を受けて、早期撤退を決め込んだのだった。もしくは、元軍は最初から威力偵察と示威行動のつもりで、一航過の襲撃と決めていたかもしれない。この時の元は、中国の南宋を主目標としていたので、日本遠征に全力を投入出来ない事情もあった。


それに、3万人程度では九州の制圧すら覚束ず、しかも時間を置けば日本側は本土から次々に援軍がやって来る事になる。なので、元軍は一撃離脱戦法を取ったのではないか。しかし、元軍は帰路に大きな損害を出した。『高麗史』によれば、朝鮮半島に向かっての航行中、
暴風雨に遭遇して船団、人員に多大な損失を出したとある。そして、この文永の役全体で元軍が被った人的損失は、1万3,500人余であったと云う。一方、日本側の人的損失は不明であるが、対馬、壱岐を蹂躙され、博多も焼け落ちたとあるので、この文永の役は日本側がやや劣勢で終わったのだろう。


 
 
 
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伏見城の攻防 鳥居元忠、覚悟の徹底抗戦

2012.07.01 - 戦国史 其の三
慶長3年(1598年)8月18日、天下人、豊臣秀吉が京都伏見城にて死去する。巨大な柱を失って、天下はにわかに揺れ始めた。豊臣政権は文治派と武断派に分かれて、深刻な対立状態に陥ったのである。その中で、諸大名中、最大の勢力を誇る徳川家康はこの対立を巧みに取り仕切って、急速に存在感を増しつつあった。専権を強めた家康は、慶長4年(1599年)10月、加賀の前田家を脅して屈服させ、翌慶長5年(1600年)5月には会津の上杉家を討伐すると宣言した。


その手法は強引そのものであったが、天下に家康に比肩するほどの実力と声望のある人物は存在せず、よって、多くの大名は黙ってその指示を受け入れた。しかし、反家康の機運も、急速に高まりつつあった。その中心となったのが、豊臣政権の重鎮であった石田三成である。三成は秀吉の懐刀として権勢を振るっていたが、その死後は、政権から追われた上、家康によって近江佐和山に蟄居させられていた。だが、三成はその屈辱をばねに、密かにかつ大々的な家康打倒の策略を練っていた。 家康もその内、三成が事を起こすだろうと見越していたが、よもや20万石程度の者が、天下を二分するほどの勢力を築くとまでは予想出来なかった。
 
 
慶長5年(1600年)6月16日、畿内に不穏な空気が漂い始める中、家康は会津征伐に向けて大坂城を発ち、その途上、伏見城に入った。家康は、この伏見城を畿内への抑えとして位置付け、信の置ける然るべき者に城を任せて、事態に対処せんとした。そして、譜代家臣である下総矢作(やはぎ)4万石の鳥居元忠を筆頭に、上総佐貫2万石の内藤家長、元長父子、武蔵忍1万石の松平家忠、上野三之倉5千石の松平近正ら四将を込めて、留守を委ねた。享保12年(1727年)成立の「落穂集」には、家康の伏見滞在中の逸話が載せられている。それによると、家康は上方に事変が生じる事を予期して、元忠に「天守閣の蔵には金銀の塊が納められている。変事が起きて弾丸が欠乏したら、これを鋳って補充せよ。また上方の情勢を報告する事を怠ってはならぬ」と言い含めた。翌6月17日の夜、元忠も考えるところがあって家康のもとを訪れる。
 
 
家康、「此度の城の留守役は、人数が少なくて余計に苦労をかけるのう」 
 
元忠、「恐れながら、私はそうは思いません。此度の会津への出陣は大事ですから、一人でも多くお連れになる方が良いと存じます。城将の家長や家忠もお連れになってください。当城の方は私が本丸を預かり、近正が外曲輪を守れば十分であります」 
 
家康、「事態がどの様に変わるかは分からず、城将は4人でも少ないと思うておるのに、それでも連れて行けというのは何ゆえか」 
 
元忠、「此度のお留守を預かるにつきまして、何事も起こらなければ、私と近正の2人で十分に足ります。それに、会津に向かわれた後、変事が起こり、敵が当城を囲みましたなら、近国からも敵兵が押し寄せて来ましょう。とても、我が方への援軍は得られますまい。そうなれば、今の人数の5倍、7倍という人数を残して置かれたとて、守り抜く事は出来ないでしょう。ですから、必要なだけの人数を当城に留め置かれようとのお考えは、無駄な様に思えるのです」 
 
 
この逸話が真実ならば、元忠自身は主君のために捨て石となる覚悟であるが、犠牲となる者は最小限に止めたいと考え、こう提案したのだろう。家康もその覚悟の程は察したが、あえて返答はせず、若かりし頃、共に苦労を重ねた思い出を語り合った。2人の主従関係は50年近い。話は尽きる事なく、やがて夜も更けてくると、元忠は、「明日は、さだめし早くお発ちになられましょう。短夜でもございますゆえ、早くお休みなされますよう」と暇乞いをした。そして、「先ほど申し上げました通り、お留守中、何事もありませんでしたら、また御目見え致します。しかし、万一の事が起こりましたなら、これが今生の御暇乞いでござります」と言って退出しようとした。しかし、元忠には足に古傷があった上、長らく座り込んでいたので、なかなか立ち上がる事が出来なかった。それを見かねた家康は、小姓に、「彦右衛門の手を引いてやれ」と命じた。小姓に支えられて退出していく元忠の後ろ姿を見送りながら、家康はしきりに袖で涙を拭っていたと云う。 
 
 
翌6月18日、家康は伏見を発って、東征に向かった。元忠はそれを見送った後、畿内の情勢を睨みつつ、篭城準備に入った。7月初旬、島津義弘率いる1千人余の兵が伏見城にやってきて入城を要請したが、元忠はこれを疑って入城を拒否した。その為、島津義弘は西軍に走って、伏見城攻めに加わる事となる。7月17日、三成の主導によって西国の諸大名が糾合され、毛利輝元を総大将とする西軍が結成された。その規模は、おそらく家康の予想をも超えていただろう。最早、上方に兵乱が生じるのは確実な情勢となり、伏見城はその最前線に立つ事となった。だが、元忠は既にこの事あるを予期して篭城準備を進めており、動揺は無かった。7月18日、毛利輝元の命を受けた使者が伏見城を訪れ、城を明け渡す様、求めてきた。元忠は諸将と相談した上でこれを拒否するが、城将の1人であった木下勝俊は城から退去してしまう。西軍方の増田長盛は、家康と親しかったので、別に使者を送って元忠の説得に当たったが、元忠は、「私は徳川家のためにこの城を守っているのだ。どうして他家の言を聞く事ができようか。二度ここへ来るなら斬って捨てるぞ」と峻拒した。そして、家康との約定通り、急使を関東に送った。 
 
 
「鳥居家中興譜」による元忠の報告文、「今度の会津征伐の隙を狙って、大坂方が蜂起しました。毛利輝元の命として伏見城を明け渡せと再三言ってきましたが、既に大軍を催して今にも当城に攻め寄せて来る気配です。先日、御前で申し上げました通り、私は命のある限り戦い防ぎ、守りきれなければ城を焼き払って討死する覚悟です。篭城の諸士も全員、その覚悟で守りましょう。いやしくも、私が守城の命を受けました事、肝に銘じるところです、全知全能を尽くして一日一刻でも長く逆徒共を食い止め、東国へ攻め下るのを引き伸ばす所存です。至急、御出立される事こそ、最も肝要と存じます。元忠の一生涯は、この戦いで終わりましょう。どのような大敵が来ようとも、恐れるものではありません」  
 
 
7月18日、徳川家臣、佐野綱正がやってきて、伏見篭城に加わった。綱正は大坂城西の丸の留守を預かっていたが、西軍挙兵を受けて窮地に陥り、西の丸明け渡しを条件に、家康側室の阿茶局、お勝の方、お万の方を連れ出す事を許可された。そして、大坂城を退去して淀まで避難すると、そこで知人に側室達を預け、自らは兵500を率いて伏見城へやってきたのだった。綱正からの報告を受けて、元忠は至急、諸将と篭城の算段を練る。そして、7月19日早朝、元忠は自ら城外を巡検して、防御上支障のある人家を焼き、諸将の配置を定めた。 
 
本丸・鳥居元忠 
 
西の丸・内藤家長、元長父子、佐野綱正 
 
三の丸・松平家忠、松平近正 
 
治部少輔丸・駒井直方 
 
名古屋丸・甲賀作左衛門、岩間光春 
 
松の丸・深尾清十郎 
 
太鼓丸・上林政重 
 
 
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↑伏見城の縄張り図 (ウィキペディアより)
 
 
伏見篭城の人数は、総勢1800人余であった。 
 
元忠は将士を集めて、こう告げた。 
 
「私は使者を関東に出して、城をあくまで守り抜くと報告した。もし命が惜しいという者があれば、敵がこの城を取り囲む前に出て行くが良い。この城には僅か千人余の兵しかおらず、四方からの援軍も期待出来ない孤城である。これで、数倍の優勢な敵と戦うのだ。願わくば君恩に報いるため、志ある者は戦場に屍(しかばね)を晒し、天下の武士の鑑となるよう。それが武士としての本懐である」 
 
そして、元忠を始め、覚悟を定めた将士達は盛大な宴を開き、決別の杯を交わしたと云う。 
 
 
7月19日の薄暮、西軍の諸隊が次々にやってきて、伏見城に対する銃撃を開始する。城兵もこれに応戦したので、銃声が夜通し響き渡った。翌20日、21日も銃撃戦が交わされ、それに合わせて西軍は城際ににじり寄らんとした。22日、宇喜多秀家、小早川秀秋、鍋島勝茂の兵が加わって、銃撃戦は一段と激しくなった。23日、24日も変わらず銃撃戦は引き続いたが、城方の応戦は衰えず、城内に付け入る隙は無かった。25日、宇喜多秀家が伏見に着陣すると西軍諸将は軍義を開き、改めて部署を定めた。伏見城攻めの総大将は宇喜多秀家で、副将は小早川秀秋、その他に毛利秀元、吉川広家、小西行長、島津義弘、長宗我部盛親、長束正家、鍋島勝茂なども参加する総勢4万人余の大軍であった。これを城方から眺めると、西軍の人馬や旗がひしめき合って、麓を埋め尽くしている様に映った。だが、元忠はそれを横目に、悠々碁盤を囲んで談笑していたと云う。西軍の陣容は整い、いよいよ本格的な攻城が開始される。この日を境に伏見城に対する銃撃は一層、激しくなり、それに合わせて西軍は竹束を連ねてじりじりと濠際ににじり寄った。 
 
 
26日、西軍の毛利秀元、吉川広家らは伏見の持ち場を離れて、瀬田に転進する。27日、28日も終日銃撃戦が続き、翌29日には西軍の指導者たる石田三成自らが督戦にやって来て、諸将の奮起を促した。その頃、関東の下野小山にいた家康は、会津攻めの陣を引き払って西上せんと動き出していた。三成としては、これ以上、伏見城に手こずらされれば、家康迎撃の算段が狂ってくる。その為、何としても早期落城にもっていく必要があった。30日、三成の激を受け、西軍諸軍も力闘して四度の大攻勢を加えたが、城方は壕際を縦横に駆け巡って迎撃に努め、城内への侵入を決して許さなかった。この日、西軍は500人余が死傷し、城方も50人余が死傷したと云われている。西軍4万人余の総攻撃でも、城内への突入は敵わなかったのである。西軍は数日で伏見城を落とす算段を立てていたが、既に攻防10日を過ぎていた。西軍首脳の間には焦りが募り、ここで非情な謀略を用いる事にした。すなわち、松の丸を守備する甲賀の郷士に対して、内応せねば郷里の家族を殺害すると脅迫して、曲輪に火を放つよう迫ったのである。 
 
 
8月1日午前0時頃、内応に応じた甲賀者の手によって、松の丸にて火の手が上がり、その火勢は強まって名古屋丸にも燃え移った。これを見た西軍は大いに意気が上がり、喊声を上げて一斉に北門に攻めかかってきた。城方も槍衾を布いて必死にこれを防がんとしたが、城門にも火がかけられ、次々に攻め寄せてくる西軍に押し切られて、ついに突入を許してしまう。その勢いは止められず、松の丸と名古屋丸が制圧され、城の中枢部にまで食い込まれた。伏見城は王手をかけられた形となり、最早、篭城の見込みは無くなった。この情勢を見て小早川秀秋は休戦を命じ、使者を城内に送って開城を促した。元忠も代理を送ってこれと会見させたが、条件はまとまらなかった。元忠は、これも時間稼ぎの一つとしたのかもしれない。交渉は決裂して、西軍の攻撃は再開される。同日午前3時、治部少輔丸に西軍が侵入して来ると、松平家忠は自ら槍を振るって群がり寄る敵兵と渡り合ったが、やがて傷付き、一旦撃退した後、自刃して果てた。松平近正もこの時、戦死したと見られ、従っていた兵800人余も悉く討死して、治部少輔丸は落ちた。 
 
 
天守閣にも火がかけられ、落城は目の前に迫った。元忠の家来は主に自害を勧めたが、元忠はこれを拒否して、あくまで戦い抜く決意を示した。 
 
「この戦いでは、既に死は覚悟の上である。それでも防戦に努めるのは、なにも名誉の為だけでは無い。一刻でも長く、関東へ災禍が及ぶのを遅らせんとの願いからだ。だから足軽の手にかかって死ぬ事も苦では無い。わしの足は元亀3年の三方原の戦いで傷付き、歩くには不便だが、今日の西軍をなんで恐れようか」 
 
元忠は更に、「味方の戦死を顧みるな。敵兵ならば貴賎を問うてはならぬ。出会った者は殺すだけだ。将と見れば刺し違えてでも殺せ」と命じ、生き残りの数百人の兵を率いて本丸門から打って出た。そして、死兵と化した城兵は西軍と斬り結んでは押し返し、多数を殺傷した。西軍も決死の敵と斬り結んでは犠牲が増えるばかりと見て、城兵が突出する度に横合いから攻撃を加えて徐々に討ち減らしていった。既に外郭は全て破られ、残るは内藤家長の篭もる西の丸と、元忠が篭もる本丸のみとなる。 
 
 
内藤家長も西の丸で奮闘を続けていたが、やがてここも追い詰められる。家長は、部将の安藤定次に自害するまでの時間稼ぎを頼むと、鐘楼に登って薪を積み、家来の原田某に、「お前は囲みを抜けて関東へ行き、落城の模様を家康公、秀忠様、それに我が長子の政長に報告してほしい」と言い付けると、自害して果てた。原田某はその命に従い、鐘楼に火を放ってから、城から脱出した。16歳になる元長は父の側で死なんと駆け付けたが、既に火勢が強くて近づけなかった。そこで、腹を切った上、火中に身を投じて思いを遂げた。内藤家の部将、安藤定次も討死し、西の丸の守将の1人、佐野綱正も乱戦の中で命を失った。この他、駒井直方は敵に紛れて去り、深尾清十郎は捕らえられて斬られた。上林政重や岩間光春も戦死して、甲賀作左衛門は生死不明となった。 
 
 
元忠は本丸手前で尚も西軍と渡り合っていたが、多数の傷を負い、残す兵も僅か10人余となっていた。辺りは火災と硝煙の煙が立ち込めて夕闇の様に薄暗く、その下には敵味方の死体が累々と横たわっていた。元忠は1人、火炎渦巻く本丸内へと入って行き、傷付き疲れ果てた身を石段に寄りかけて休めた。そこへ、西軍方の将、雑賀重次がその姿を認めて近寄って来た。元忠もそれを認めると、「我こそが伏見城の主将、鳥居元忠である」と名乗り、おもむろに薙刀を取って立ち上がった。すると、重次は跪いて、「火は既に全城に及び、大事は終わりました。どうかお静かに自害なされますよう。私は謹んで貴方の首級を賜り、後世の誉れと致します」と言った。元忠も最早、十分役目は果たしたと思い直したのか、これを受け入れ、兜を脱いで静かに腹を切った。そして、重次はうやうやしくその首級を受け取った。8月1日、午後15時頃の事であった。鳥居元忠、享年62。主命を帯びた僅かな脱出者を除いて、城兵1,800人余は悉く討死した。攻めての西軍も、3千人以上の死傷者を出したと云われる激闘であった。 
 
 
この後、伏見城の主将達、鳥居元忠、松平近正、松平家忠の首は大坂に送られて、京橋口にて晒された。だが、西軍方もその烈々たる忠誠心は認めて、敬意を込めてその首を公卿台に載せたと云われている。慶長5年(1600年)9月15日、徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利を収め、晴れて天下人となった。そして、戦後、鳥居元忠、内藤家長、松平家忠、松平近正ら伏見篭城四将を評して、その子息達に加増して功に報いた。元忠の子、忠政は下総矢作4万石から陸奥磐城(むついわき)10万石に加増転封し、更に元和8年(1622年)には出羽山形22万石に加増転封した。内藤家長の長子、政長は上総佐貫2万石に1万石が加増され、元和8年(1622年)には、陸奥磐城平7万石に加増転封された。松平家忠の嫡男、忠利は武蔵忍1万石から、念願であった三河深溝1万石に旧領復帰し、慶長17年(1612年)には三河吉田3万石に加増転封された。松平近正の嫡男、一生は上野三之倉5千石に5千石を加増され、大名身分となった。元和7年(1621年)、一生の子、成重の代の時には、更に丹波亀山2万2千石に加増転封される。 
 
 
しかし、大坂城西の丸で家康側室の護衛役を担っていた佐野綱正は、その任を全うせずに伏見に篭城したので、家康は、「肥後守綱正を死なせたのは惜しいが、あれは本当の道を知らなんだ。主命を重んじてどこまでも預かった者供を守り、その時に応じて苦心すべきであったのだ。それなのに、預かった者を人手に渡して、自分は伏見で討死するとは、忠義の道が違う」と言ったそうである。佐野綱正は近江と上総に3千石の禄高を与えられていたが、その嫡男でまだ幼少の吉綱には近江国野洲の800石のみとされ、小姓として取り立てられた。同じ、枕を並べて討死した将士であっても、評価の明暗は分かれたのである。それと、西軍に囲まれる前に伏見城から退去した木下勝俊は、若狭小浜6万2千石を没収された。また、伏見城で内通した者18人は、関ヶ原戦後の10月1日に京都栗田口にて磔に処された。 
 
 
これまで挙げてきた伏見城を巡る元忠らの会話や、やり取りが実際にあったのかどうかは確証しかねるし、多分に講談が含まれているだろう。だが、鳥居元忠らの忠節と奮闘は本物であったに違いない。もし、伏見城が数日で落ちていれば、西軍は勢力圏を更に広めて、史実以上に家康を苦戦させていただろう。そうなれば、歴史の流れすら変わっていたかもしれない。元忠らは見事な働きをもって時間を稼ぎ、西軍の展開を妨げたのだった。この伏見篭城は、老境にあった元忠にとって、武士の死に花を咲かせる晴れの舞台でもあった。そして、三河武士の鑑と讃えられて、歴史に美名を刻む事になる。だが、無骨な忠魂の士、元忠にとって、何よりの願いは、己の生涯を捧げて仕えてきた主君、家康の勝利であったろう。それを、草葉の陰から見届けた時、元忠の魂は微笑みながら天に昇っていったであろう。 


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↑鳥居元忠(1539~1600) ウィキペディアより

 
主要参考文献 「旧参謀本部編纂 関ヶ原の役」


 

丹波金山城

丹波金山城(きんざんじょう)は、兵庫県篠山市にある山城である。この城は標高540メートルの金山山頂にあって、明智光秀の丹波侵攻時に築かれた。


天正3年(1575年)10月、織田信長の命を受け、明智光秀は丹波攻略に着手する。光秀は若狭、丹後を経由して丹波の北から攻め入ると、丹波第一の勢力を誇る赤井(荻野)直正の居城、黒井城を囲んだ。しかし、翌天正4年(1576年)1月、光秀に従っていた丹波の有力国人、波多野秀治が突如として反旗を翻すと、黒井城包囲中の明智軍の背後を襲わんとした。これを受けて、明智軍は総崩れとなり、第一次侵攻は無残な失敗に終わった。だが、天正5年(1577年)3月、丹波の赤鬼とも謳われた傑物、赤井直正が病死すると、これを好機と見てか、同年5月、光秀は丹波に再侵攻を開始する。光秀は前回の失敗に懲りて、今回はじわじわと地歩を進めていく堅実な作戦を取った。そして、翌天正6年(1578年)9月頃、丹波の二大勢力である八上城の波多野氏と黒井城の赤井氏との連携を断つべく、その中間地点に位置する金山に築城を開始した。その上で、同年10月頃から八上城の包囲を開始する。


公家で吉田社の神官である吉田兼見は、金山城築城中の光秀を訪ねている。兼見が書いた日記「兼見卿記」によれば、天正6年10月、光秀は丹波氷上郡柏原で新城を普請中であるとの記事があるので、それが金山城の事だろう。この時、兼見は、光秀を陣中見舞いして小袖を送り、夕食を共にしている。翌朝、兼見は忙しい光秀の身を気遣ってか、暇乞いを告げぬまま京に戻ろうとすると、光秀は使者を送って引き留めてきた。そして、光秀はわざわざ城から下りてきて兼見と会い、しばし親しく語り合ってから、2人は別れた。光秀と兼見の親密振りが窺える話である。丹波攻略に難渋していた光秀にとって、親しい友との語らいは心安らぐ一時であったのだろう。一方、八上城の波多野勢と、それを包囲する明智軍の間では絶え間なく、小競り合いが続いていた。天正7年(1579年)1月には、八上城の北1キロにある明智軍の陣所に波多野勢が攻め寄せてきて、激しい合戦となった。この時、明智軍の前線指揮官、小畠越前守が討死するが、何とか波多野勢を撃退する事に成功している。


これを受けて封鎖は一層強化され、以降、八上城では餓死者が続出する事態となる。まだ包囲を受けていない赤井氏の黒井城では、八上城を救わんとしてあらゆる方策を練ったはずであるが、その支援は金山城によって遮られたのだろう。同年6月、八上城の篭城は限界に達し、城兵の忠誠や結束も揺らぎ始めていた。光秀は城兵の不満に付け込んで調略を仕掛けると、案の定、八上城では内紛が生じて、ついに波多野秀治を捕縛する事に成功する。そして、安土に送られた波多野秀治は、6月4日に磔に処された。赤井直正亡き後、波多野秀治が丹波の反織田勢力の精神的支柱となっていたが、その滅亡を受けて動揺が広がる。光秀は間髪置かずに兵を進め、同年8月には赤井氏の黒井城も落とした。これにて難航を極めた丹波の平定は完了し、光秀は天下に面目を施す事となった。これで金山城も役割を終える形となったが、光秀は城代を置いてしばらくは管理していたようだ。しかし、天正10年(1582年)6月13日、光秀が滅亡すると、金山城はまったく不要の存在となり、朽ち果てるに任された。現在でも、
本丸跡には苔むした石垣が残されており、それだけが当時の張り詰めた緊張を伝えている。



丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑大乗寺


金山城の南麓にある、小さな寺です。この寺からやや下った所に、金山城への登り口があります。この他に東麓にある、追入神社の横から登るルートもあります。



丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑園林寺跡


かつて、ここには園林寺と言う寺があって、石垣はその名残です。寺院跡には朽ち果てた材木が散乱していて、不気味な無常観を漂わせていました。それと、この寺院跡の前は広々とした削平地となっていたので、金山城健在時には、ここに曲輪が設けられていたのでしょう。



丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑馬場跡


長大な空間が広がっていますが、山上にあって実際に馬場として用いられたかどうかは疑問です。



丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑本丸跡


光秀はここで築城の指揮を執って、滞在した事もあったはずです。



丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑本丸南側にある石垣



この石垣は、築城当時のものでしょう。


丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑本丸北から、黒井城を望む


残念ながら霞がかっていて、どれが黒井城かは判別出来ませんでした。


丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

本丸南東から八上城を望む。


奥に広がっているのは、篠山市街です。しかし、こちらも霞がかっていて、どれが八上城なのかは判別出来ませんでした。それでも、両城の中間地点に楔を打ち込み、赤井氏と波多野氏の連携を断つという戦略意図は実際にその場に立って理解できました。


丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑鬼の架け橋


金山城の北東には、鬼の架け橋と呼ばれる景勝地があって、江戸時代の浮世絵師、安藤広重の「六十余州名所図会・鐘坂」にも描かれています。明智光秀が友の吉田兼見を金山城に迎えた際にも、この鬼の架け橋を案内して、談笑しつつ、岩場から覗いたりしたのではないでしょうか。



丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑鬼の架け橋上からの眺め



丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑麓から眺める金山城


山深い地にあって、統治には向いていない城です。丹波が戦乱状態にあってこそ、価値のある城だったのでしょう。





里見家の興亡 後

2012.06.09 - 戦国史 其の三
永禄11年(1568年)末、関東情勢は激変して、里見家にとって非常に好都合な展開となる。武田信玄の駿河侵攻を契機に三国同盟が解消され、北条家と武田家が交戦状態になったのである。これによって北条家の主力は駿河方面に釘付けとなり、房総半島には手出し不能となった。義堯はこれを絶好の機会と捉えて、攻勢を強める。それとは反対に北条氏康は、上杉家や里見家に背後を脅かされて窮地に陥り、両家との和睦を心から望んだ。そして、永禄12年(1569年)1月、義堯の元に、氏康からの懇願に近い和平提案書が送られてきたが、義堯は頑としてこれを受け付けなかった。そして、同年2月には義弘率いる里見軍が下総に侵攻して、北条方の諸城を攻め始め、更に水軍をもって三浦半島も襲撃させた模様である。 
 
 
しかし、同年3月、反北条の盟主と見なされていた上杉謙信は、里見家を始めとする関東諸将からの猛反対を受けながらも、北条家と盟約を結んでしまう。これに憤慨した里見父子は、同年8月頃、甲斐の武田信玄と盟約を結んで、北条打倒を約し合った。だが、関東の情勢は目まぐるしく変転する。元亀2年(1571年)10月3日、北条氏康が死去し、氏政が当主となると上杉家との同盟は破棄され、翌元亀3年(1572年)1月に武田家と同盟を結び直したのだった。そして、同年2月、氏政は、信玄を通して里見家に和平を提案してきたが、義堯はあくまでこれを受け付けなかった。 
 
 
この元亀3年には、下総の半分は里見家の勢力範囲になっていたようだ。太閤検地によれば下総は37万石であり、この内の18万石が里見領国と言う事になる。それに上総38万石に安房4万5千石を加えると、里見家の版図は60万石にもなる。10万石に付き2500人の動員力が得られたと計算すると、里見家は1万5千人の動員力を有する、戦国有数の大大名に成長していた事になる。対する北条家は武蔵67万石、相模19万石、伊豆7万石の93万石に加えて、関東各地を切り取っていたので優に120万石はあって、3万人の動員力はあっただろう。まだまだ両家の力の差は大きかったが、里見家は今までこの大敵と戦って版図を拡大してきたのである。義堯の北条打倒の信念は、決して揺るがなかった。
 

天正元年(1573年)4月、武田信玄が死去すると、里見家と武田家の同盟は自然消滅となり、それから程なくして上杉謙信と里見家の同盟が復活した模様である。これで謙信と義堯は友誼を取り戻し、再び協力して北条家に当たる事となった。その北条家は天正年間から、下総の簗田晴助が守る関宿城攻略に全力を注ぎ始める。この関宿城は関東地方の中心に近く、しかも利根川水系の水運を一手に押さえる事も可能な戦略拠点だった。この城の存在が、北条家の膨張を抑える防波堤の様な役割を果たしていた。それが分かっている上杉謙信と反北条の関東諸将は、関宿城救援に力を注ぐのだが、北条氏政もまた一族の総力を上げて、攻略に執念を燃やすのだった。天正2年(1574年)6月、関宿城を巡る攻防が続く中、里見義堯は68歳でこの世を去った。国中の人々がその死を悲しみ、宿敵の北条方ですら、その人となりを讃えたと云う。


同年11月、関宿城は落城し、北条家を抑え込む堤防は決壊した。その怒涛は房総半島にも流れ込み、天正3年(1575年)8月、北条軍は陸上、海上の二方面から下総に攻め入って、力押しで里見軍を圧倒し始めた。義堯の跡を継いだ義弘も必死に防戦したものの、やはり、一対一の総力戦となれば戦力に劣る里見側が不利であった。天正4年(1576年)冬には、戦場は上総に移り、じわじわと里見家は追い詰められていった。この退勢を挽回するには、強力な外部勢力の助けが必要であった。そこで義弘は、天正5年(1577年)1月、2月の2度に渡って上杉謙信に救援を求める書状を送った。しかし、この頃の謙信は北陸攻略に全力を投入していたので、関東を顧みる余裕は無かった。 
 
 
同年11月、孤立無援の義弘は、義堯以来の北条打倒の方針を改めざるを得なくなり、ついに氏政に和議を請うた。義弘は意地よりも、自家存続を優先したのだった。そして、氏政の娘が、義弘の弟、義頼に嫁ぐ形で講和は成立し、両家の数十年に渡る抗争はここに終結した。天正6年(1578年)3月13日、関東に大きな影響を及ぼしてきた上杉謙信が死去した事で、北条家の優勢がほぼ確立される。それから2ヵ月後の同年5月20日には、里見義弘も54歳でこの世を去った。義弘の代になって北条家に屈する形となったが、それでもこの義弘の存在無くして、里見家は存続し得なかっただろう。義弘は自分の死後には、上総は実子の梅王丸に、安房は養子としていた弟の義頼に相続させる予定であったと云う。だが、義弘死後の里見家は、梅王丸を支持する勢力と義頼を支持する勢力とに二分され、内乱状態に陥った。 
 
 
天正7年(1579年)、年長で経験もあった義頼は、戦いを優勢に進めて上総の諸城を落としていき、天正8年(1580年)4月には梅王丸を捕らえて出家させ、領国の再統一を果たした。同年7月5日、義頼は更なる支配強化を図り、不穏な動きを見せたとして、重臣の正木憲時討伐に取り掛かった。正木憲時は里見家の重臣であるが、安房東部から上総東部にかけての地域を支配する、半独立的な有力国人でもあった。義頼はこれを切り崩して、直接支配しようと試みたのである。だが、憲時を始めとする正木一族は、上総大多喜城を中心に一宮、勝浦城、吉宇城、興津城、浜荻城、金山城、山乃城などの支城を持っており、小戦国大名と言って良いほどの基盤を有していた。この内、勝浦城の正木一族は義頼方に付いたものの、それでも容易に倒せる相手では無かった。義頼は支城を一つ一つ攻めつぶしながら、徐々に大多喜城に迫っていった。こうした攻防戦の最中、甲斐の武田勝頼や、越後の上杉景勝の使者が訪れて共に北条氏を打倒しようと提案してきたが、この時の義頼にそんな余裕は無かった。 
 
 
天正9年(1581年)9月29日、正木憲時は内応した家臣によって殺され、大多喜城は落城する。義頼は、義弘死後から始まる内乱と、正木憲時の討滅に3年もの歳月を費やしたが、反対派は全て滅ぼしたので、その権力は揺るぎないものとなった。北条家との関係は、天正7年3月に両家の鎹(かすがい)である、義頼の妻(氏政の娘)が死去した事から、次第に冷却化していった模様である。両家の間で戦いが再燃したのかどうかは定かではないが、下総、上総では不穏な状況が続いた。天正15年(1587年)10月23日、里見義頼は45歳で死去し、若干15歳の義康がその跡を継いだ。その頃、中央では豊臣秀吉による天下制覇が進み、翻って関東では北条家による覇権が確立されつつあった。この様な重大な局面で、したたかな外交手腕を持っていた義頼を失った事は、里見家にとって不幸であった。 
 
 
天正16年(1588年)10月、里見義康は、豊臣秀吉に使者を送って太刀一振りと黄金10両を献上し、上総南半分、安房一国を現状のまま保持する事を認めてもらった。天正18年(1590年)春、豊臣秀吉による小田原攻めが始まると義康も参戦し、同年4月には三浦半島に攻め入った。秀吉からは早急に小田原に参陣するよう求められていたが、義康はしばらく三浦半島に留まり、滅亡した小弓公方の再興のために便宜を図ろうとしたり、本来、秀吉が出すべきであった禁制を三浦半島で独自に発給したりした。義康が何時、小田原の秀吉の下に参陣したのかは不明だが、その勝手な行動を咎められて、しばらく面会は許されなかったと云う。そして、義康による小弓公方再興運動と独自の禁制発給は惣無事令違反に当たるとして、上総国の召し上げを通告されたのだった。これは義康のみならず、その家臣にとっても晴天の霹靂の様な衝撃であった。里見家の領国は上総半国だけでも19万石あったが、それが安房一国4万5千石に押し込められる形となったからである。里見家臣はこの後、召し放たれたり、知行が三分の一以下になる事を覚悟せねばならなかった。 
 
 
義康は失意のどん底にあったが、それでも大名として生き残るため、妻子を人質として上方に送り、困難な知行の再配分も成し遂げた。そして、豊臣大名の1人として、二度に渡る朝鮮出兵の際には数百人の兵を率いて九州名護屋まで出向いた。慶長2年(1597年)、豊臣政権による再検地が行われて、安房国は9万1千石に改められる。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、義康は徳川方に参加して宇都宮に在陣する。そして、関ヶ原本戦が東軍の勝利で終わると、常陸国に3万石を加増され、里見家は合わせて12万石となった。しかし、慶長8年(1603年)11月16日、里見義康は31歳の若さで病死し、10歳の梅鶴丸が跡を継ぐ。大きな挫折を味わったものの、家運がやや盛り返しつつあった矢先の死であった。慶長11年(1606年)11月、梅鶴丸は将軍、徳川秀忠の前で元服し、その一字を賜って忠義と名乗り、慶長16年(1611年)には幕府の老中、大久保忠隣の孫娘を妻として迎えた。忠義は幕府との関係を密にし、順調に近世大名としての地歩を固めつつあった。 
 
 
しかし、慶長19年(1614年)9月、幕府内部に権力闘争が起こって大久保忠隣が失脚し、それに連座したとして忠義も改易を通告される。忠義には辛うじて伯耆国倉吉に4千石が与えられたものの、これまで先祖代々慣れ親しんだ房総半島の地から遠く離れた、山陰の寒村に移り住む事となった。だが、元和3年(1617年)6月、因幡、伯耆の新領主として赴任してきた池田光政によって、その4千石も召し上げられ、忠義は、倉吉田中村に100人扶持のみを与えられる身となった。悲運に悲運を重ね、しかも慣れない山陰の気候で体を壊したのか、元和8年(1622年)6月19日、忠義は29歳の若さでこの世を去った。忠義には側室に子がいたとされるが、嗣子無しと見なされて里見家はここに断絶する。同年9月19日、忠義の死から3ヵ月後、安房以来の家臣8人が主君の命日に合わせて殉死した。彼らには最早、どこにも身の置き所がなく、生きる望みを失っていたのだった。戦国時代から幾多の存亡の危機を乗り越えてきた武門の家、里見家はこうして、哀れなる最後を迎えた。


主要参考文献 「房総里見一族」



 

里見家の興亡 前

2012.06.09 - 戦国史 其の三
戦国時代、関東の覇者として君臨したのが、小田原を本拠とする大大名、北条家であった。だが、その北条家を相手に、関東の覇を競い合った気概ある戦国大名がいた。その名を里見家と云う。里見家は、清和源氏新田氏の流れを汲み、室町時代に関東の何処から房総半島に移り住んで安房国に勢力を伸ばしていったとされる。その出自には不明な点が多いが、永正年間(1504~1520年)には安房国の支配者的な存在となっていたようである。この里見家を全盛期に導いたのが、里見義堯である。だが、その人生は浮き沈みの大きい、波乱に満ちたものであった。 
 
 
義堯は永正4年(1507年)に生まれ、天文2年(1533年)、27歳の時に父実堯が本家の里見義豊によって討たれると云う悲運に見舞われた。義堯は安房を逃れて西上総の百首城に立て篭もり、小田原の北条家や安房東部の正木家に援助を請うた。そして、天文3年(1534年)4月6日、義堯は北条や正木の援軍を得て反抗に転じ、義豊と決戦して、これを討ち滅ぼす事に成功した(犬掛合戦)。これで、義堯が晴れて安房一国の支配者となったのだが、その統一には北条氏綱の助力によるところが大であったので、しばらくはその旗下に属する事となった。天文4年(1535年)には北条氏綱の要請に応えて武蔵国に援軍を派遣したり、鎌倉の鶴岡八幡宮の造営にも協力している。だが、義堯には北条の属将のままで終わる気は無く、野望を胸に秘めて雄飛の機会を待った。 
 
 
その頃、上総の有力戦国大名、真里谷武田家では、信隆と信応(のぶまさ)の二派に分かれて跡目争いをしていた。北条氏綱は信隆方を応援したので、それに属する義堯も当初はこれを支援していたが、天文6年(1537年)10月になって、小弓公方の足利義明の要請を受けて、信応方に転じたのだった。そして、この内紛は、足利義明と里見義堯の有力な支援を受けた信応方優勢で和議が成立する。義堯はこの内紛に乗じて西上総に勢力を伸ばし、この頃に房総半島の中心に位置する場所に久留里城を築いて、そこを本拠にしたと見られる。義堯は、この内紛を機に足利義明に鞍替えする形となったが、それは同時に北条家との決裂も意味していた。北条と里見、両家の長い宿命の対決はここから始まる。 
 
 
天文7年(1538年)10月、足利義明は北条氏綱との決戦を目論んで、里見義堯や武田信応を始めとする房総半島の諸将を召集する。そして、1万人余の諸軍を率いて、武蔵との境目に当たる下総国府台まで進出した。一方、北条氏綱も2万人余の兵を率いて迎撃に向かい、両軍は江戸川を挟んで対峙した。同年10月7日、北条軍は大胆にも、江戸川を敵前渡河して突撃を開始する。足利軍は絶好の攻撃機会をみすみす逃したが、緒戦は善戦して北条軍と互角に渡り合った。しかし、北条軍が陣容を整えて数に物を言わせて攻め寄せてくると、ついに足利軍は崩れ出し、総大将の義明も戦死するという惨敗を喫した(第一次国府台合戦)。この戦いで義堯は積極的には動かなかった模様で、軍勢を温存したまま撤退したようだ。そして、ほどなくして西上総に侵攻を開始し、その地を切り取っていった。房総半島の一大勢力であった足利義明の討死によって軍事的な空白が生じ、かえって義堯の勢力拡大に弾みがついたのだった。天文10年(1541年)、北条家では氏綱が死去して、その子、氏康が跡を継ぐ。その頃、義堯は自ら西上総の攻略に当たる一方で、里見家の盟友とも言える正木家に命じて東上総を切り取らせていった。 
 
 
義堯は少しずつであるが確実に北上を押し進め、天文21年(1552年)を迎える頃には上総の大部分が里見家の勢力範囲となり、同年中には下総にも進出して、北条方の有吉城を攻撃したと云う。だが、北条氏康もこの情勢を黙って見過ごす訳はなく、勢力を増しつつある里見家を陥れるべく、強烈な謀略を仕掛けた。天文22年(1553年)、里見支配下にあった上総、安房の土豪達をそそのかして、一斉に叛旗を翻させたのである。これらの土豪達は半独立的な存在で、里見家の支配は彼らの頭を押さえて、戦時の際に兵員を供出させるに留まっていた。しかし、里見家の勢力が増大するに従い、これらの土豪達は独立性と既得権益が侵されるとの危機感を覚えたようだ。北条家はそこを突いて彼らの知行を安堵したり、物資を援助して、反乱をそそのかしたのだった。
 
 
この反乱によって安房、上総国内は未曾有の混乱に陥り、各地の城や寺が焼けていった。しかも、そうした状況を見越して北条家は直接、里見領に攻め入らんとした。天文23年(1554年)春、北条氏康は武田晴信、今川義元と三国同盟を結んで背後の憂いを取り去り、関東制覇に全力を傾ける事が可能となっていた。義堯も越後の上杉謙信(この頃は長尾景虎)と結んでこれに対抗せんとしたが、当面は自力で北条家の鋭鋒を退けねばならなかった。軍記の「関八州古戦録」によれば、天文23年(1554年)11月10日、北条氏の勇将、北条綱成率いる1万2千の兵が義堯の本拠、久留里城を囲み、翌11日に一斉攻撃を加えてきたが、里見軍4千人は激闘の後にこれを退けたと云う。また、弘治元年(1555年)3月1日にも、北条方の将、藤沢播磨守率いる2千人余の兵が押し寄せてきたが、里見軍はこれも撃退し、藤沢播磨守の首を討ち取ったと云う。 
 
 
弘治2年(1556年)を迎えた頃には、義堯は度重なる北条軍の襲来を退け、国内の反乱もようやく鎮める事に成功したようだ。「関八州古戦録」によれば、同年10月、義堯は子息義弘を総大将とする水軍を三浦半島に送り込んで、北条家に逆襲を試みたようである。そして、北条水軍と船軍(ふないくさ)となったが、戦いは里見水軍優勢で運び、一時的に三浦半島は里見家の勢力範囲になったようである。里見軍が房総半島に引き返すと、三浦半島は再び北条家の支配に戻ったが、これ以降も里見水軍は頻繁に襲撃を加えて来るため、三浦半島の住民達は困り果てて、年貢の半分は里見氏に献上して、攻撃を控えてもらうようにした。北条家はこれを苦々しく思ったが、里見水軍に東京湾の制海権を握られている現状では、これを認めざるを得なかった。こうした里見水軍の優勢は、天正年間(1573年)を迎える頃まで続いたようである。だが、北条水軍も隙を突いては、房総半島の沿岸に度々、襲撃を加えたので、里見方も沿岸の防備を固めざるを得なくなった。このような東京湾を挟んでの両水軍の戦いは、里見、北条の対立が続く限り、止む事は無かった。 
 
 
永禄3年(1560年)8月上旬、北条氏康は大軍を催して、義堯の本拠、久留里城を囲んだ。窮地に立たされた義堯は、越後に急使を派遣して上杉謙信(この頃は長尾景虎)の来援を請う。同年9月、謙信はこの要請に応えて越山し、関東へと攻め入った。これを受けて氏康は久留里城の囲みを解いたので、義堯は危機を脱した。義堯は、謙信に書状を送って深謝すると共に、共に北条家を打倒する事を申し合わせた。そして、永禄4年(1561年)3月に謙信が北条家の本拠、小田原城を囲んだ際には、里見家からも義弘が海を渡って参陣した。その間に義堯は下総に手を伸ばし、重臣の正木家に命じて小弓、臼井の城を攻め取らせた。謙信率いる関東諸勢は一ヶ月に渡って小田原城を攻め立てたものの、無類の堅城が落ちる気配は無く、謙信は攻城を諦めて越後に帰っていった。 
 
 
だが、謙信(この頃は上杉政虎)がいなくなると、北条氏康はすぐさま奪われた諸城を取り戻していくのだった。これ以降の関東では、こうした上杉家と北条家の攻めぎあいが延々と繰り返される事になる。永禄6年(1563年)12月、謙信は越山して上野国へと入り、里見義堯、義弘父子にも出兵を促した。翌永禄7年(1564年)1月、義弘は要請に応えて安房、上総の兵を率いて出陣し、岩槻の大田資正の軍勢と合流して、下総の国府台に陣取った。北条氏康は上杉軍に背後を襲われる前に決着をつけるべく、里見軍に向かって急行した。「関八州古戦録」によれば、北条家は一族郎党の総力を結集した2万人余の兵力であったのに対し、義弘率いる里見勢は6千人で、大田資正率いる2千人を合わせても8千人でしかなかった。里見軍は半分以下の劣勢であったが、台地上の地の利を生かして、攻めかかってくる北条勢の先鋒を斬り崩し、遠山直景や富永政家などの名のある侍多数を討ち取って、緒戦を勝利で飾った。 
 
 
しかし、この日の夜、勝利に気を良くした里見軍は酒を飲み交わし、ゆったりと休息をとった。北条氏康は密偵からの報告を受けて、里見軍が油断しきっていると知ると、軍を二手に分けて明朝払暁をもって奇襲する事を決した。そして、1月8日の夜明けをもって北条軍が一斉に国府台に攻め上がって来ると、里見軍は大混乱に陥り、大将の義弘自ら太刀を手に取って、囲みを切り抜けねばならないほど、無残な敗北を喫した。北条軍は敗走する里見軍を追撃して、その先鋒は上総に入ったが、背後に謙信がいたので深追いは避けて兵を返した。だが、同年4月に謙信が帰国すると、北条軍は大挙して上総に攻め入り、その勢いを恐れた上総の諸城の多くは北条家に降っていった。同年10月には久留里城も落城し、義堯は安房へと退いた。同年末、落ち目の里見家に追い討ちをかけるように、片腕と頼んでいた勝浦城主の正木時忠まで北条家に寝返ってしまう。 
 
 
上総国では大多喜城の正木憲時と、土気(とけ)城主の酒井胤治だけが里見方として残ったものの、里見家はほぼ安房一国に押し込められる形となった。義堯が半生を費やして築いてきたものは、音を立てて崩れ去ったのだった。上杉謙信もこの情勢を憂いて、里見父子を慰める書状を送っている。永禄8年(1565年)11月、謙信が越山して関東に入ると、里見義弘はこれに呼応すべく、安房国中に重い棟別銭を課して出陣準備を整えた。そして、翌永禄9年(1566年)3月、上杉軍が下総に攻め入ると、義弘も参陣して共に北条方の城を攻め立てた。同年5月、謙信は越後に帰っていったが、その関東遠征の余慶を受けて、里見家は上総南部を奪回する事に成功したようだ。だが、永禄10年(1567年)8月、北条氏政は、里見家が再び息を吹き返しつつあるのを見て、今度こそ引導を渡さんとして大軍を率いて上総へと攻め入った。 
 
 
北条氏政率いる本隊は、里見義弘の居城、佐貫城を望む要所、三船山に陣取り、三浦方面からは北条綱成が水軍を率いて安房侵入を図った。この時、北条軍は3万人余で、これを迎え撃つ里見軍は8千人余であったと云う。里見家は、これまでに無い存亡の危機に立った。だが、義弘率いる里見軍は知略と死力を振り絞って、北条軍に乾坤一擲の決戦を仕掛ける。そして、ものの見事に、北条軍を打ち負かす事に成功したのだった。この頃、北条綱成率いる水軍も里見水軍に阻まれて、上陸を阻止された模様である。北条軍は、殿を務めた岩槻城主の大田氏資が戦死するなど、多数の戦死者を出した(三船山合戦)。戦後、北条氏政は戦死した家臣の相続問題に心を配らねばならなくなり、それとは反対に里見義堯、義弘父子は意気揚々たる戦勝報告書を、安房にいる義頼(義堯の子息)に送った。 この勝利によって、里見家は滅亡の淵から一転、飛躍の時を迎える。上総の大部分が里見家の版図に戻り、下総侵攻にも着手した。この過程で、先に反逆した正木時忠も里見家に帰参した。

 
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重家 
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