2世紀、世界帝国ローマは、五賢帝と呼ばれる優れた指導者達による時代を迎えて、繁栄の絶頂にあった。初代ネルウァ(在位96~98)から始まって、トラヤヌス(在位98~117)、ハドリアヌス(在位117~138)、アントニヌス・ピウス(在位138~161)、マルクス・アウレリウス(在位161~180)と続く時代である。当時のローマ帝国の領域は、西ヨーロッパと地中海全域を含んだ広大なものだった。国境の北はグレートブリテン島(イギリス本土)の中ほど、西は大西洋に面したスペイン、南はナイル中流に至るまでのエジプト、東は中東のシリアにまで達する、まさに世界帝国であった。だが、それだけに敵も多く、ローマは絶えず外敵の圧力に晒されていた。その代表的な存在が、ライン河以東のゲルマン諸部族、ドナウ河以北のダキア族、現在のイラン、イラクを含んだ地域を国家とするパルティア王国である。
これらの外敵から国民を守るため、ローマは途方も無い努力を傾けた。ライン河の河口からドナウ河を経て、黒海にまで至る長大な防衛線を引き、更にグレートブリテン島や、中東のユーフラテス河にも防衛線を引いたのである。ローマ皇帝の第一の責務は、帝国全土の安全保障であった。五賢帝時代を迎えた頃のローマには、28個の正規軍団16万8千人(1個軍団は約6千人)と補助軍団14万人余、合わせて30万人強の兵力があった。これは途方もない軍事力を有しているように見えるが、決してそうでは無い。ローマ帝国の領域は上記にも挙げた様に、西ヨーロッパと地中海全域を含む広大なものであって、これを守ろうと思えば軍団を薄く広く配置せざるを得ない。
例えば、ライン河以東には敵対的なゲルマン諸部族、数十万人が存在していたが、このライン河防衛担当のローマ軍は、4個の正規軍団とそれよりやや少ない補助軍団、合わせて4万5千人余でしかなかった。このように30万人を超える兵力でも、十分とは言い難かった。しかし、無制限に軍事力を強化すれば、国民に重税を強いる事になる。そうなれば、不満が高じて内乱にも繋がりかねない。ローマはそれを避けるため、軍の運用効率を徹底的に高める事によって不十分な兵力を補おうとした。まず、大河に沿って防衛線を築く事で少人数でも守れる態勢を作り、更に帝国全土に道路網を張り巡らせて、危急の事態が生じた際の軍団同士の相互支援と戦力集中を容易にしたのである。ローマ史上最良の時代とされる五賢帝による統治も、この防衛線を維持し、国内を安定せしめた功を評価されているのである。
↑ハドリアヌス帝の頃のローマ帝国 (ウィキペディアより)
黒い小さな四角形が、軍団の配置状況を示している。
初代ネルウァによる治世は僅か1年半でしかなかったが、軍政両面に才を発揮した将軍トラヤヌスを後継者として選び、有能な人物を養子として政権を委譲すると言う、五賢帝時代に先鞭を付けた。2代目トラヤヌスはその優れた軍事能力をもって、強大な武力を有していたドナウ川以北のダキア王国や、中東のパルティア王国に大打撃を与えるなど帝国の勢力拡張に努めた。そして、このトラヤヌスの時代に、ローマ帝国は史上最大の版図になる。3代目を継いだハドリアヌスも軍政両面に優れた皇帝であったが、これ以上の領土拡張は国益にそぐわないと考えて遠征は自制した。その代わり、帝国の最前線を隅々まで巡り歩いて防衛網を刷新強化したり、偏狭なユダヤ教徒50万人余を討滅して不満分子を取り除くなど、帝国の安定強化に努めた。
こうした2代目、3代目による地ならしが成された上で、西暦138年、4代目アントニヌス・ピウスが帝位に就いた。アントニヌスは議員出身で軍務経験は皆無に等しかったが、先帝達が防衛体制を整えてくれていたお陰で、皇帝親征を必要とするような外圧は生じなかった。それによってアントニヌスは内政に専念する事が可能となり、持ち前の政治力と調整能力をもって、ローマにかつてないほどの平和と繁栄を呼び込む事になる。アントニヌスは、西暦86年9月19日、ローマ近郊のラヌーヴィオで生を受けた。父は有力な元老院議員であったが、早くに亡くなった為、母方の祖父の元で養育された。そこで行き届いた教育を施され、誰からも愛される穏やかな青年に成長した。背は高く、表情は常に晴れやかで、それでいて気品があった。やがて父方、母方の祖父や親族から多額の遺産を相続して、ローマ屈指の富裕者となる。
西暦111年、25歳の時に会計検査官となり、西暦116年、30歳の時には法務官となった。西暦120年、34歳の時には元老院の最高職である執政官に当選し、それからしばらくは内閣の一員として国家行政に携わった。西暦134年、48歳の時に属州アジア(トルコ西部)の総督に任命されると、そこで統治の功績を上げてローマにも名声が広まった。そして、西暦138年、52歳の時、皇帝ハドリアヌスに呼び出され、後継者に指名されたのだった。ただしこの時、ハドリアヌスは一つの条件を出した。それはハドリアヌスが見出した聡明な少年、16歳のマルクス・アウレリクス(五賢帝最後の皇帝となる)をアントニヌスが養子に迎える事であった。アントニヌスはしばらく熟慮する時間をもらった後、喜んでこれを受け入れると表明した。それから程なくしてハドリアヌスは死去し、アントニヌスが世界帝国ローマの最高権力者となった。
アントニヌスは強大な権限を有する事になったが、その政治姿勢はあくまでも穏健で、独断専行を避け、他者の意見に耳を傾けながら政務を執った。また、支配階級である元老院出身でありながら、虚栄心といったものは皆無で、常に質素倹約を心掛けた。歴代の皇帝は自らの功績を後世にも示さんとして、壮大な宮殿や浴場を次々に建設していったものだが、アントニヌスの時代に築かれたのはハドリアヌス神殿のみであった。だが、この神殿にしても、先帝の時代から建設が進められていた可能性が高い。彼は、「国家の資産を、必要に迫られている訳でもないのに費消する事ほど、さもしく卑しい行為はない」と言うのだった。
先帝ハドリアヌスは帝国各地を視察して回ったが、アントニヌスはローマからほとんど動かずに統治した。それは、首都ローマに留まる方が、帝国各地から届けられる情報や陳情を受けやすく、それらを元に政策の決定や緊急の措置を取るのが容易であると判断してのものであった。アントニヌスによる治世は平穏そのものだったが、それも彼が諸般に目を通して、統治に心を砕いていたからであった。国境付近では絶え間なく異民族との小競り合いが生じていたが、必要に応じて援軍を送り込んだり、熟練した外交術をもって問題が大きくなる前に解決せしめていた。
国庫が黒字であるにも関わらず、倹約に務め、働かないで給料をもらっている官吏は容赦無く解雇した。アントニヌスはその理由として、「責任を果たしていない者が報酬をもらい続ける事ほど、国家にとって残酷で無駄な行為はない」と述べるのだった。アントニヌスは皇帝位を公僕中の公僕であると捉えており、実際、国家の為に誠心誠意を尽くした。西暦140年に最愛の妻ファウスティナを亡くした際には、その遺産に自らの私産を加えて慈善財団を発足させ、恵まれない少女のために結婚資金を援助した。また、ローマ社会には欠かせない、奴隷の待遇改善を図って、虐待を防ぐ新たな法律も制定した。
アントニヌスは民衆に対して優しく接し、それでいて甘やかす事はしなかった。その姿勢は、家庭においても同様であった。アントニヌスは息子に先立たれていたので、養子のマルクスを愛情を込めて養育したが、時には叱る事もある。そんな場合でも怒鳴るような真似はせず、紳士の態度を崩さないまま、毅然と諭すのだった。ただ、そんなアントニヌスでも、妻ファウスティナにだけは弱かったのかもしれない。彼が書いた手紙には、「神にかけて、私は彼女のいない宮殿に住まうより、彼女のいる流刑地に住まう方を選ぶ」とまで言いのけているからである。アントニヌスには2人の息子と2人の娘がいたが、次女の小ファウスティナを除いて皆早くに亡くなった。そのせいもあって、小ファウスティナを事のほか可愛がり、その大事な娘を、次期皇帝が内定しているマルクスへと嫁がせたのだった。
統治面でのアントニヌスの功績は非の打ち所の無いものであったが、唯一つ、将来を見通した国防と言う視点だけは欠けていたようである。ローマ帝国の皇帝が果たすべき責務の第一は安全保障で、次に国内統治、その次が公共施設の整備であった。そして、ローマ皇帝となる者には政治の経験も然る事ながら、軍事の経験も同様に積んでいる事を望まれていた。ローマ皇帝とは、ローマ軍30万余の総司令官でもあって、国家が危機に瀕した時には前線にも立たねばならないからだ。しかし、アントニヌスの軍事経験は皆無に等しく、その重点も国内統治に置かれていた。自ら前線を視察する事はなく、後継者となるマルクスもずっと手元に置いていた。アントニヌスの軍事面での業績と言えば、グレートブリテン島の中ほどに築かれていたローマ軍の防壁を、現地総督に命じて北に120キロ北上させた事ぐらいであった。
2代目皇帝トラヤヌスは、外敵がローマの脅威となる前にそれを先制して撃ち破り、3代目皇帝ハドリアヌスも、自ら前線を巡り歩いて防衛線を再構築していった。アントニヌスも自国を取り巻く情勢を注意深く見張っていたが、それでも前線を見て初めて分かる事も多い。アントニヌスは老齢であったので首都で統治するにしても、後継者となるマルクスはまだ若者であったので、多少の軍務はさせておくべきであったろう。マルクスの健康面には不安があったので、それを憂慮して手元に置いていたのかもしれないが、後から考えるとやはり軍務経験も必要であった。何故なら、マルクス帝の時代を迎えた途端にパルティア王国は軍事侵攻を開始し、その数年後にはゲルマン諸部族もライン川の防壁を破って侵入を繰り返すようになるからである。それは皇帝親征も必要となる、深刻な国防の危機であった。
しかし、マルクスには、47歳になるまで軍務経験が無かった。パルティアの侵攻には有能な将軍を派遣して沈静化せしめたものの、自らが臨んだゲルマン諸部族との戦いは苦戦続きであった。彼は、若い頃に軍務経験を積まなかった事を悔やんだかもしれない。それでもマルクスは前線に立ち続け、命をすり減らしながら懸命に国家を守らんとした。だが、戦いは長期に及んで、アントニヌス帝時代に積み上げられた国富も消耗し尽し、ローマは緩慢にだが、確実に衰えていく事になるのである。これは、例え平和な時代であっても、国家指導者たる者、国内統治も然る事ながら、将来を見通した国防も決して疎かにしてはならないと言う事を示唆している。
アントニヌスは、後継者マルクスに対して軍事面での教えは欠いたが、それでも統治者として、1人の父親として、多くの事を彼に教えた。マルクスもアントニヌスを人生の師と見なし、彼に対する尊敬の念は終生変わる事は無かった。マルクスは皇帝となった後、「自省録」という著書を記している。それはゲルマン部族と対戦中の軍営の中で書かれたもので、無常観に満ちて、自分自身を深く見つめ直す内容である。その書き出しには、自分を導いてくれた人々に対する深い敬愛の念も記されている。まず祖父、父、母、家庭教師、哲学者の順で述べられた後、養父アントニヌスには特に多くの文字を費やして述べられていた。
「私は父から次の諸事を学んだ。決断を下す際の慎重、穏健、それでいて確固たる持続性。社会的名声への軽蔑。仕事への愛と忍耐。公益に利するならば、いかなる提言にも耳を傾ける態度。各人の業績に報いる際に示した公正な評価。政務は慎重に対処し、助言を参考にしつつ、自らも十分に調査を行った上で決断を下した。また、この様な場合に起こりがちな、周囲の意見に惑わされる事も無かった。自らが成せる範囲を成すだけで満足しており、それゆえ常に穏やかな人で在り続ける事が出来たのだった。予測する才能があり、それが些細な問題であったとしても軽く見ず、十分な対策が成されるように努めた。しかも、それらが世間の話題にならない内にやり遂げる人であった。国家が必要としている事柄には常に注意を怠らず、国費の乱用を抑え、それによって民衆から不満の声が上がったとしても耐えた。
人気を得ようとして民衆を褒めちぎったり、過度の恩恵を与えるような真似はしなかった。万事において、節制の人であった。彼の最大の徳であったのは、才能があると認めた者には羨望など感じず、その才能を十分に発揮する機会や地位を与えた事である。私生活でも、彼から多くの事を学んだ。私用の宮殿や別邸の建造に熱意を傾けない事、食事に必要以上の関心を持たない事、衣服の枚数や色の多彩に気を遣わない事、世話働きをする奴隷達を容色によって選ばない事、などである。彼の言動の全てが熟慮の結果であって、時と場合に完璧に適合しており、その言動に秩序と一貫性と調和を与えていた。老齢となって健康と持続力が衰えてきても、彼は穏健さと落ち着きをもって、それを補う術を知っていた。それは、清廉で不屈の精神の持ち主である事の証であった。」
西暦161年春、74歳になっていたアントニヌスは危篤に陥った。知らせを聞いたマルクスが駆けつけて来ると、国葬を壮麗にし過ぎないようにとだけ伝えると静かに息を引き取った。ローマ人は老齢の者の死に際しては、自然なものと受けとめて深い悲しみを示す事はない。だが、このアントニヌスだけは別だった。全ローマ人が一様にその死を惜しみ、悲しんだのだった。元老院はその功績を讃えて、アントニヌスとファウスティナ神殿を建設する事を満場一致で決定した。アントニヌスは軍事能力こそ欠いていたが、それでも自らの得意、不得意とするところは心得ており、持ち前の政治能力で成せる範囲の事は成し遂げた。ローマ皇帝となった者には、「国家の父」という尊称が与えられるが、アントニヌスはその意味するところを十分理解しており、尊称に恥じない献身的な働きで、「秩序の支配する平穏」と称される23年間の安寧の時代を創り出した。人々は、そんなアントニヌスに敬虔なる人を意味するピウスの称号を贈った。すなわち、アントニヌス・ピウスである。穏やかな春の陽差しの様な皇帝であった。

↑アントニヌス・ピウス(西暦86~161) (ウィキペディアより)
ソ連軍は湿地帯を踏破するのに難渋したが、それでも物量にものを言わせて、着実に包囲の輪を縮めていく。これを受けて大木大尉は、外周の警戒部隊を要塞内に撤収させた。堅固な陣地に拠っての、篭城戦の開始である。戦闘状況報告書によれば、8月9日午後13時、41センチ榴弾砲を含む各種要塞砲が火を噴き、イマン鉄橋やソ連軍火点に向けて猛砲撃を開始したとある。これらの反撃砲火によってソ連軍の火砲は一時沈黙し、イマン鉄橋も損傷してシベリア鉄道は一時通過不能となった。41センチ榴弾砲は、まさに期待通りの破壊力を示したのだった。しかし、虎頭要塞のもう一つの切り札であった24センチ列車砲は、他方面に分解輸送中であったのでこちらは未使用のまま終わっている。
8月10日未明、各所でソ連軍に対する、斬り込み戦闘が行われた。午前6時半、要塞から対岸のソ連陣地に向けて先制砲撃が開始されると、これに応じてソ連軍重砲も反撃して来たため、河を挟んでの熾烈な砲撃戦となった。午後12時、ソ連軽爆撃機40機が飛来し、日本軍陣地や砲列に向けて銃爆撃が加えられた。これらの砲爆撃によって、日本軍は砲数門と、二つの観測所を破壊された。午後17時30分、対岸のソ連軍重砲が制圧射撃を加えた後、18時から20時にかけてソ連軍部隊による総攻撃が行われた。日本軍はこれを陣地前で迎撃し、肉迫斬り込み攻撃を加えて撃退せしめた。日本軍は必死の奮闘を見せてソ連軍の浸透を阻み続けたが、虎頭要塞は敵中に孤立しており、激しい激突を繰り返す度に戦力を磨り減らしていくのだった。中猛虎山の弾薬庫は運び込まれた重傷者で埋まってゆき、壁際には死体が積み上げられていった。一方のソ連軍は度々、撃退されつつも、無尽蔵とも思えるほどの補給と補充があった。
8月13日午前、ソ連軍は多数の戦車と火砲を並べて押し潰すような猛攻を加え、西猛虎山と中猛虎山の山頂を奪い取った。そして、ソ連軍は煙突や換気口にガソリンを流し込んで、要塞内部を燻り始めた。日本軍はなんとしても山頂を奪還すべく、斬り込み隊を送り込んで白兵戦を繰り返したが、ついに奪還はならなかった。8月15日正午、昭和天皇の玉音放送が流れ、日本は無条件降伏する。だが、日本の降伏後もソ連は侵攻を止めなかったし、大木大尉も玉音放送をデマと受け取ったので尚も虎頭要塞の戦闘は続行された。この日も終日、激闘は続き、斬り込み隊が虎頭街のソ連軍指揮所を攻撃して、兵舎2棟を焼き払った。8月16日午後17時、日本軍は15センチ加農砲を山頂のソ連軍に向けて射撃し、これを駆逐せしめた。ソ連軍もすぐに重砲の反撃砲火を浴びせた後、部隊を差し向けて奪還に取り掛かったが、日本軍はその意図を看破して逆撃を加えて撃退せしめた。
満州では、虎頭を始め、ハイラル、東寧にある日本軍要塞は奮戦してソ連軍の大部隊を食い止めていたが、全体的な戦況は絶望的であった。関東軍主力は当初の方針通り、南部の通化目指して総撤退に入っていたが、国境付近の守備隊と居留民の多くは、ソ連軍の津波の前に取り残される形となった。居留民の多くは取る物も取り敢えず、自力で数百キロの距離を走破して避難せねばならなかった。飢えと疲労が重く圧し掛かる中、急に牙を剥き始めた漢人、朝鮮人、満人による襲撃を受け、それにソ連軍による蹂躙が加わって、居留民達は塗炭の苦しみを味わった。ソ連軍は進撃路上に避難民がいるとそのまま戦車でひき潰し、逃げ惑う人々に自動小銃を浴びせかけた。ソ連軍に占領された都市では日本人は徹底的に略奪され、婦女子は繰り返し性暴行を受けた。多くの避難民が逃避行に絶望して家族諸共、自決の道を選んだのだった。中には漢人に子供を預けてから逃避行したり自決する者もいて、この過程で多くの残留孤児が生まれる事になる。
8月17日の虎頭要塞。ソ連軍は捕虜とした日本人5人を軍使として差し向け、降伏するよう呼び掛けた。要塞本部付きの中尉がこれに応対し、降伏勧告状を受けとって中猛虎山の逆襲口に戻っていった。しばらくして中尉が出てくると、「よし、ソ連軍に伝えよ。我が軍はこの地を死守せよとの命令を受けている。我々はこの地を死守し、大日本帝国悠久3千年の大儀につくのだ」と宣言し、勧告状に赤線で大きく×印を書き込んで、代表の森軍使に手渡した。しかし、何を思ったか、森氏がにわかに走り出したため、中尉は怒鳴りつけて呼び止め、一刀のもとに斬り捨てたのだった。戻ってきた4人の軍使の報告を受けたソ連軍は、以降、降伏勧告を送る事を止め、日本軍の殲滅を決定した。守備隊は生き延びる道を自ら閉ざしたのであるが、ソ連軍が今現在、満州で続けている蛮行を鑑みれば、この降伏拒否もやむを得ない出来事であったのかもしれない。それに、降伏勧告を受け入れていたとしても将兵の大半はシベリアの凍土で強制労働を課せられた上、民間人の多くも略奪、暴行の憂き目にあったのは間違いないだろう。
ソ連軍の攻撃は再開され、地下要塞にガソリンを注ぎ込んでは深部まで焼き払い、また、大量の一酸化炭素を発生させて窒息死に追い込んでいった。8月18日、虎頭要塞の象徴とも言える41センチ榴弾砲も、最後の時を迎える。これまでに百数十発の巨弾をソ連軍に叩き込んだが、ついに火薬庫に直撃弾を受け、コンクリートの覆いごと吹き飛んだのだった。8月19日、中猛虎の砲兵陣地は、ソ連軍のカチューシャロケットによる猛射を浴びせられ、それに続くソ連軍部隊の攻撃によって中猛虎一帯が制圧された。これによって中猛虎の地下要塞は、各陣地との連絡を閉ざされて孤立する。ここに本部を置いていた守備隊首脳部は最早これまでと定め、50キロの爆薬を要所に設置させた。そして、午後20時、爆薬に点火し、大音響と共に要塞ごと自爆して果てたのだった。避難していた民間人300人も最後を共にする。戦後の調査では、子供を含む多数の人骨が発見されている。 本部の全滅によって、組織的な抵抗は終わった。だが、まだ幾つかの要塞陣地は残っており、最後まで激しく抗戦する。
8月21日、西猛虎陣地の将兵達はソ連軍に最後の斬り込みを行った後、全滅。8月26日早朝、最後に残った虎粛山陣地に苛烈な砲撃が加えられ、午後15時、それを生き残った70人余の日本軍に対して、ソ連軍1千人が総攻撃し、午後15時30分に陣地は陥落した。これで、虎頭要塞は完全に沈黙する。殲滅戦であったため、将兵も居留民も捕虜となったのは僅かで、戦後、内地に帰還した者は53人に過ぎなかった。8月9日の開戦以来、17日間に渡る死闘であった。満州防衛の要であった虎頭要塞の陥落によって、日本が大陸に抱いた見果てぬ夢も砕け散った。満州全体での日本軍の戦死者は推定8万人、日本人居留民の死者は推定18万人と見られている。ソ連軍の戦死者は8,200人、負傷者は2万2千人であった。関東軍主力は戦わずして後退し、そのままソ連軍に降伏するという憂き目にあったが、虎頭要塞を始めとする少数の国境守備隊は命を賭して時間を稼ぎ、避難民の後退を助けた。彼ら国境守備隊の奮闘が無ければ、居留民の犠牲者はさらに増えていただろう。彼らの戦いは、決して無駄では無かったはずである。
ソ連はその後、満州全土と日本領の樺太南部、千島列島全てを占領する。そして、それらの地域で捕虜とした軍民70万人余を強制連行し、シベリアを始めとするソ連各地に送り込んでいった。彼らは極寒の気温の中、栄養不足で重労働を課せられ、次々に息絶えていった。これらシベリア抑留者の実態は、今だ明らかになっておらず、その死者数は10万人を超えるとも言われている。日本が満州に心血を注いで築いてきたものは、敗戦によって全て失われた。それは、言葉では言い表せないほど膨大なものであった。残された工業、産業、鉄道施設は当時の金額で約400億円、現在の金額で何十兆円にもなる。だが、満州を占領したソ連は工業、産業施設の内4割を持ち去り、4割は破壊していったとされる。
これに対して中国政府は、「満州国の遺産は中国に帰属するものである」と、厳重に抗議したが、ソ連は満州を開放したのは我々であるとして聞き入れなかった。それでも、日本が満州に残していった近代国家の基盤は、中国にとってかけがいの無いものであった。この地域に残された工業施設が、戦後の中国経済の発展を支える事になるのである。だが、日本が築いた満州国にも負の一面はあった。それは、満州における阿片製造である。阿片は中毒性のある麻薬であり、これが満州国における主要財源となっていた。満州における阿片生産は古くからのもので、張作霖、張学良の軍閥時代にも行われていたものだが、新国家建設という莫大な費用を要する事業を推進するため、日本もこれを継承していたのだった。
現在、中華人民共和国は、満州国を偽満州国と呼んで非難し、虎頭要塞も日本帝国主義の残照として紹介している。だが、かつての満州が異民族の支配する土地であった事実と、日本がそこに築いた産業基盤によって中国経済が支えられてきた事実は伏せられている。その中国は国共内戦の終結後、チベットやウイグルに侵攻して少数民族を弾圧虐殺し、多数の漢民族を送り込んで自国領土であるとの既成事実を作り上げるに到った。この様な中国が捏造する歴史に、日本が迎合する必要は無い。満州国は、未開の大地に近代産業を築き上げた、日本人の開拓精神の象徴として、そして虎頭要塞は、自国民を守るべく玉砕していった、将兵達の愛国心と自己犠牲の象徴としてとらえるべきだろう。国際社会は今も尚、弱肉強食である。日本は敗れたからと言って卑屈にならず、主張すべき事は主張せねばならない。そして、苦杯を嘗めた第二次大戦の教訓も生かしつつ、これからも国家を守っていかねばならない。

↑満州国の首都、新京(長春) (ウィキペディアより)
日本が満州に建設した近代都市

↑昭和製鋼所 (ウィキペディアより)
日本が満州に建設した製鋼所
中国東北部、黒竜江省虎林市虎頭鎮、ここはロシアと接する辺境の地で、付近には大河アムールに繋がる支流、ウスリー川が滔々と流れている。この地域には雄大な自然が残されており、厳寒期は深い静寂に包まれる。しかし、ここは、第二次大戦末期、砲声轟く激戦地であった。それを物語る戦跡の数々が、ウスリー川西岸にある高地に残されている。そこには巨大なコンクリートの砲座や塹壕の跡が残されており、錆びた銃砲弾も所々に散らばっている。また、高地の麓には地中深く掘られたトンネル網があって、人知れず人骨も埋もれている。かつて、ここには日本が築いた大要塞があった。それも、圧倒的なソ連軍相手に徹底抗戦した日本軍将兵達の玉砕の地である。その名を虎頭要塞と言う。
何故、このような辺境の地に日本軍の大要塞が作られたのか?その経緯から説明しておきたい。虎頭要塞が存在する黒竜江省を始め、遼寧省、吉林省を合わせた地域は、現在、中華人民共和国の支配する所で、その東北部と呼ばれている。だが、かつてこの地は満州と呼ばれており、ツングース系や、モンゴル系の北方騎馬民族の勢力範囲であった。そして、この満州からは、漢民族以外の国家である、高句麗、渤海、遼、金などの大国を生み出している。その中でも最大の勢力が、ツングース系の女真族が立てた清である。清は満州から勃興して、やがて中国大陸をも飲み込んだ。しかし、数百年の歳月を経て清も衰えると、1911年の辛亥革命によって倒された。代わって漢民族による中華民国が打ち立てられ、清の領域を継承すると宣言したが、それは大軍閥の力に頼った非常に不安定な政権だった。中央の支配が行き届かないため各地に軍閥が割拠する事態となり、満州も馬賊出身の張作霖が支配する所となった。
1905年の日露戦争から満州に権益を持つようになっていた日本は、この張作霖と組んで権益の保全を図る。しかし、張作霖は中央政局に介入しようとして失敗し、日本とも距離を置き始めたため、1928年、満州駐留の日本軍、すなわち関東軍によって爆殺された。昭和6年(1931年)、関東軍は満州の確保を確実なものにせんとして、軍事行動に打って出た。張作霖の跡を継いでいた張学良の軍を撃ち破って、満州の主要都市と鉄道沿線を制圧した。これが満州事変である。そして、翌昭和7年(1932年)には、清朝の血を引く愛新覚羅溥儀を立てて、満州国を建国するに至った。だが、米中などは、満州国は日本の傀儡国家であるとして、これを認めようとしなかった。満州国は日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による5族協和による国民国家であると謳われていたが、実態は確かに日本の強い影響下にあって、その戦時経済に供するために建国されたものだった。しかし、そうであったとしても、中国やアメリカにそれを非難するほどの大義名分や論拠があったとは思えない。
そもそも漢民族の勢力範囲は、北方騎馬民族の脅威から身を守る為に自らが築いた万里の長城までであって、その以北にある満州は漢民族の支配の及ばぬ地域であった。ここに漢民族が大量に流入するようになるのは、清朝末期の20世紀初頭からである。少数民族が雑居する人口希薄な満州に漢民族は洪水の様に押し寄せて、たちまち圧倒的多数派となった。こうして住み着いた漢民族の居留をもって、自国の領土であると主張し始めたのである。国家の成り立ちまで書けばきりがないのであるが、アメリカ自体、元々アメリカ大陸に住んでいた先住民を虐殺し、追い散らして成り立っているのであって、その後も帝国主義の風潮に乗っ取ってフィリピンやハワイを併合して来ている。そして、更なる利権獲得を狙って中国にも手を伸ばしてきたのであるが、その最大の競争相手となるのが日本であった。ここから日米の対立が始まるのである。
日本は、米中との軋轢が深まったとしても、日露戦争以来、大量の血と国富を費やして手に入れた、満州の利権を手放すつもりなど毛頭無かった。この地を領域に組み込みたいのはやまやまであったが、日本にもそれを正当化するだけの論拠がなかったため、新国家を建設して間接統治するに留めたのだった。このまま何事もなく数十年の時を経れば、戦後のイギリス連邦諸国の様に、満州国も日本の手を離れて自立していったかもしれない。だが、風雲急を告げる国際情勢がそれを許さなかった。日本は来るべき事態に備えて、満州に莫大な投資を始める。そして、鉄道、道路、橋を敷設して社会基盤を整え、巨大ダムを建設して電気を起こし、田舎町を工業都市へと生まれ変わらせていった。高度な技術を要する、戦車や航空機の製造すら可能となった。こうして満州は短期間で飛躍的な発展を遂げ、日本の国防上、経済上からも決して手放せない土地となる。
張作霖などの軍閥は、住民に重税を課して内戦に明け暮れるばかりで、産業への投資などはほとんど行わなかった。そうであったから治安は乱れ、馬賊や匪賊が跋扈する無法地帯となっていた。それが日本の軍事力によって、満州全土に蔓延っていた匪賊や馬賊は討伐されて、治安も大幅に改善される事となった。軍閥支配下にあった時代より、満州が住み良い環境になったのは確かであろう。こういった満州の発展を尻目に、中国本土では、国民党と共産党が果てしない内戦を繰り広げて、国土を荒廃させていた。しかし、満州事変を一つの切っ掛けとして、これらの勢力は抗日を叫んでアメリカやソ連に支援を仰ぐようになる。そして、満州にも国民党や共産党の勢力が侵入して、権益を脅かす事態となった。当初、日本は長城以南は中国固有の領土であるとして自制していたが、中国側の度重なる挑発行動に堪えかねて、ついには長城線を越えて作戦を実施するようになった。結果論となるが、日本は軍部の独走を抑えこんで、進出を満州までで止めておくべきであったし、それ以前から諸外国と協調しつつ利害の調整をしておくべきであったろう。こうして日中は、なし崩し的に全面衝突に向かう事になる。
だが、満州に最大の脅威を与えていたのは交戦相手の中国ではなく、北方の大国ソ連であった。共産主義のソ連と日本は相容れない関係で、1917年にロシアで社会主義革命が起こると、それがアジアにも波及する事を恐れて日本は干渉戦争も行っている(シベリア出兵)。それ以来、ソ連と日本は緊張状態にあって、特に強権的なスターリン時代になると、ソ満国境において紛争が頻発するようになる。そして、昭和13年(1938年)には張鼓峰事件、翌昭和14年にはノモンハン事件といった大規模な軍事衝突も起こった。これ以降もソ連は極東の軍事力を強化し続け、その戦力は満州駐留の日本軍の倍以上となった。このソ連の脅威から、かけがいの無い満州を守るべく、日本は国境の要地に多数の要塞を建設する事を決した。その一つとなるのが、虎頭要塞である。この要塞は、満州東方からのソ連軍侵攻に備えて、ソ満国境沿いを流れるウスリー河西岸の高地上に建設が決まった。
工事は昭和9年(1934年)から始まり、昭和13年(1938年)に完成を見る。それと同時に30センチ榴弾砲2門、24センチ榴弾砲2門、15センチ加農砲6門が備え付けられ、その他にも順次、多数の野砲、高射砲、速射砲が運び込まれていった。その中でも極めつけが、41センチ榴弾砲1門である。この巨砲はコンクリートの覆いで守られ、約1トンの砲弾を20キロ先まで飛ばす事が可能だった。それと、フランスから購入した24センチ列車砲1両も配備されており、その射程は最大50キロにも達していた。これらの要塞砲は対岸のソ連領、イマン市(現在名ダリネレチェンスク)を睨んでおり、極東ロシアの生命線とも言えるシベリア鉄道と、それが走るイマン鉄橋をも射程に収めていた。要塞の主陣地は中猛虎山で、他に虎北山、虎東山、虎西山、虎粛山の5つの地下陣地で構成されていた。これらの要塞陣地は交通壕で連結しており、相互支援が可能である。
要塞の規模は東西10キロ・南北4キロを誇り、重要箇所は厚いコンクリートで固められた。しかも、周囲は沼沢地という天然の要害である。そして、1万2千名の兵員が着陣して、鉄壁の守備を誇った。しかし、昭和16年(1941年)の太平洋戦争開戦とその後の戦況悪化に伴って、満州の関東軍の戦力は順次、太平洋戦線に引き抜かれていった。そして、戦争末期の1945年8月を迎えると、満州防衛の切り札で、かつて精鋭を謳われた関東軍も著しく弱体化し、今や張子の虎と化していた。虎頭要塞もその例から漏れず、兵員を大幅に減らされて自己防衛すら困難になっていた。一方、ソ連は1945年5月のドイツ降伏を受けて、大量の兵員、戦車、火砲をヨーロッパ戦線から極東に振り向けつつあった。ソ連は、日本との間で結ばれていた日ソ中立条約を破棄して参戦する決意を固めていた。それを一言で表現すると、「瀕死の病人から財布を奪い取る」ためであった。
満州は広い。その面積は110万平方キロもあって、日本の国土の3倍もある。関東軍もソ連の参戦は近いと肌で感じていたが、弱体化した戦力で広大な満州を守る事は不可能であると判断し、ソ連軍侵攻の際には満州の三分の二を放棄して、朝鮮半島から程近い南部の通化に主力を結集して戦う方針を定めた。この方針自体は間違っていないが、問題なのはその侵攻時期の予測であった。昭和20年夏、国境付近にソ連軍が充満し、いつ何時、砲火が撃たれるか分からない状況だったにも関わらず、関東軍首脳はソ連参戦は9月以降と考えて、国境付近の居留民に対してなんの避難勧告も出さなかった。また、国境を守る守備隊にも、ソ連軍を刺激しないよう指示するのみだった。この緊迫した時期、虎頭要塞でも、守備隊長の西脇大佐が作戦会議に呼ばれて不在となった。関東軍が、ソ連軍の侵攻時期を見誤っていた何よりの証左である。
1945年8月9日午前1時。この夜は、満州各地で雷雨が降り注いでいた。だが、突如、雷鳴をも打ち消すほどの轟音が響き渡った。それはソ連軍による一斉砲撃であった。侵攻ソ連軍の規模は、兵員157万人、火砲26,000門、戦車、自走砲、装甲車合わせて5,500両、戦闘機、爆撃機合わせて3,400機、それに海軍艦艇とその作戦機1,200機も加わる一大戦力であった。これに対して関東軍は、兵員70万人(その内10万人は丸腰)、火砲5,360門、戦車200両、航空機350機でしかなかった。圧倒的なソ連軍の攻勢を前にして、満州の150万人余の日本人居留民の命が危機に瀕した。この様な状況にも関わらず、全満州の責任を負うべき関東軍の高官の中には、家族を連れて逸早く本土に逃げ帰る者も現れる始末であった。だが、その一方、居留民の後退を助けるため、ソ連軍に敢然と立ち向う日本軍部隊もいた。満州東部の要衝、虎頭要塞もその一つである。
虎頭要塞はソ連軍の不意討ちを受けた上、要塞守備隊長の西脇大佐も作戦会議で不在であったため、当初は混乱も生じたが、砲兵隊の指揮官であった、大木正大尉が臨時の守備隊長となって現場を統制する。この時の要塞兵力は僅か1,500人で、しかも、その内600人は緊急動員の新兵であった。要塞には、近隣から避難してきた居留民500人余も入る。しかし、要塞正面のソ連軍の規模は兵員6万人、火砲950門、戦車・自走砲166両という10倍以上の戦力であった。ソ連軍の浸透により虎頭要塞は早々に味方戦線から切り離されたが、将兵達はあくまで戦い抜く決意を固めていた。ソ連軍の重砲の砲撃は、午前1時5分から午前5時まで続き、それに合わせてウスリー河を渡河したソ連軍が侵入を開始する。最前線で監視にあたっていた小部隊は、ソ連軍に包囲されて次々に全滅した。

↑満州沿線図(ウィキペディアより)
地図の右下辺りにある虎頭に要塞があった。
地図の左下辺りにある山海関から満州国との国境に沿って、万里の長城がある。この万里の長城以南が長らく、漢民族の領域だった。