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満州国と虎頭要塞 前

中国東北部、黒竜江省虎林市虎頭鎮、ここはロシアと接する辺境の地で、付近には大河アムールに繋がる支流、ウスリー川が滔々と流れている。この地域には雄大な自然が残されており、厳寒期は深い静寂に包まれる。しかし、ここは、第二次大戦末期、砲声轟く激戦地であった。それを物語る戦跡の数々が、ウスリー川西岸にある高地に残されている。そこには巨大なコンクリートの砲座や塹壕の跡が残されており、錆びた銃砲弾も所々に散らばっている。また、高地の麓には地中深く掘られたトンネル網があって、人知れず人骨も埋もれている。かつて、ここには日本が築いた大要塞があった。それも、圧倒的なソ連軍相手に徹底抗戦した日本軍将兵達の玉砕の地である。その名を虎頭要塞と言う。 
 
 
何故、このような辺境の地に日本軍の大要塞が作られたのか?その経緯から説明しておきたい。虎頭要塞が存在する黒竜江省を始め、遼寧省、吉林省を合わせた地域は、現在、中華人民共和国の支配する所で、その東北部と呼ばれている。だが、かつてこの地は満州と呼ばれており、ツングース系や、モンゴル系の北方騎馬民族の勢力範囲であった。そして、この満州からは、漢民族以外の国家である、高句麗、渤海、遼、金などの大国を生み出している。その中でも最大の勢力が、ツングース系の女真族が立てた清である。清は満州から勃興して、やがて中国大陸をも飲み込んだ。しかし、数百年の歳月を経て清も衰えると、1911年の辛亥革命によって倒された。代わって漢民族による中華民国が打ち立てられ、清の領域を継承すると宣言したが、それは大軍閥の力に頼った非常に不安定な政権だった。中央の支配が行き届かないため各地に軍閥が割拠する事態となり、満州も馬賊出身の張作霖が支配する所となった。 
 
 
1905年の日露戦争から満州に権益を持つようになっていた日本は、この張作霖と組んで権益の保全を図る。しかし、張作霖は中央政局に介入しようとして失敗し、日本とも距離を置き始めたため、1928年、満州駐留の日本軍、すなわち関東軍によって爆殺された。昭和6年(1931年)、関東軍は満州の確保を確実なものにせんとして、軍事行動に打って出た。張作霖の跡を継いでいた張学良の軍を撃ち破って、満州の主要都市と鉄道沿線を制圧した。これが満州事変である。そして、翌昭和7年(1932年)には、清朝の血を引く愛新覚羅溥儀を立てて、満州国を建国するに至った。だが、米中などは、満州国は日本の傀儡国家であるとして、これを認めようとしなかった。満州国は日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による5族協和による国民国家であると謳われていたが、実態は確かに日本の強い影響下にあって、その戦時経済に供するために建国されたものだった。しかし、そうであったとしても、中国やアメリカにそれを非難するほどの大義名分や論拠があったとは思えない。 
 
 
そもそも漢民族の勢力範囲は、北方騎馬民族の脅威から身を守る為に自らが築いた万里の長城までであって、その以北にある満州は漢民族の支配の及ばぬ地域であった。ここに漢民族が大量に流入するようになるのは、清朝末期の20世紀初頭からである。少数民族が雑居する人口希薄な満州に漢民族は洪水の様に押し寄せて、たちまち圧倒的多数派となった。こうして住み着いた漢民族の居留をもって、自国の領土であると主張し始めたのである。国家の成り立ちまで書けばきりがないのであるが、アメリカ自体、元々アメリカ大陸に住んでいた先住民を虐殺し、追い散らして成り立っているのであって、その後も帝国主義の風潮に乗っ取ってフィリピンやハワイを併合して来ている。そして、更なる利権獲得を狙って中国にも手を伸ばしてきたのであるが、その最大の競争相手となるのが日本であった。ここから日米の対立が始まるのである。 
 
 
日本は、米中との軋轢が深まったとしても、日露戦争以来、大量の血と国富を費やして手に入れた、満州の利権を手放すつもりなど毛頭無かった。この地を領域に組み込みたいのはやまやまであったが、日本にもそれを正当化するだけの論拠がなかったため、新国家を建設して間接統治するに留めたのだった。このまま何事もなく数十年の時を経れば、戦後のイギリス連邦諸国の様に、満州国も日本の手を離れて自立していったかもしれない。だが、風雲急を告げる国際情勢がそれを許さなかった。日本は来るべき事態に備えて、満州に莫大な投資を始める。そして、鉄道、道路、橋を敷設して社会基盤を整え、巨大ダムを建設して電気を起こし、田舎町を工業都市へと生まれ変わらせていった。高度な技術を要する、戦車や航空機の製造すら可能となった。こうして満州は短期間で飛躍的な発展を遂げ、日本の国防上、経済上からも決して手放せない土地となる。 
 
 
張作霖などの軍閥は、住民に重税を課して内戦に明け暮れるばかりで、産業への投資などはほとんど行わなかった。そうであったから治安は乱れ、馬賊や匪賊が跋扈する無法地帯となっていた。それが日本の軍事力によって、満州全土に蔓延っていた匪賊や馬賊は討伐されて、治安も大幅に改善される事となった。軍閥支配下にあった時代より、満州が住み良い環境になったのは確かであろう。こういった満州の発展を尻目に、中国本土では、国民党と共産党が果てしない内戦を繰り広げて、国土を荒廃させていた。しかし、満州事変を一つの切っ掛けとして、これらの勢力は抗日を叫んでアメリカやソ連に支援を仰ぐようになる。そして、満州にも国民党や共産党の勢力が侵入して、権益を脅かす事態となった。当初、日本は長城以南は中国固有の領土であるとして自制していたが、中国側の度重なる挑発行動に堪えかねて、ついには長城線を越えて作戦を実施するようになった。結果論となるが、日本は軍部の独走を抑えこんで、進出を満州までで止めておくべきであったし、それ以前から諸外国と協調しつつ利害の調整をしておくべきであったろう。こうして日中は、なし崩し的に全面衝突に向かう事になる。 
 
 
だが、満州に最大の脅威を与えていたのは交戦相手の中国ではなく、北方の大国ソ連であった。共産主義のソ連と日本は相容れない関係で、1917年にロシアで社会主義革命が起こると、それがアジアにも波及する事を恐れて日本は干渉戦争も行っている(シベリア出兵)。それ以来、ソ連と日本は緊張状態にあって、特に強権的なスターリン時代になると、ソ満国境において紛争が頻発するようになる。そして、昭和13年(1938年)には張鼓峰事件、翌昭和14年にはノモンハン事件といった大規模な軍事衝突も起こった。これ以降もソ連は極東の軍事力を強化し続け、その戦力は満州駐留の日本軍の倍以上となった。このソ連の脅威から、かけがいの無い満州を守るべく、日本は国境の要地に多数の要塞を建設する事を決した。その一つとなるのが、虎頭要塞である。この要塞は、満州東方からのソ連軍侵攻に備えて、ソ満国境沿いを流れるウスリー河西岸の高地上に建設が決まった。 
 
 
工事は昭和9年(1934年)から始まり、昭和13年(1938年)に完成を見る。それと同時に30センチ榴弾砲2門、24センチ榴弾砲2門、15センチ加農砲6門が備え付けられ、その他にも順次、多数の野砲、高射砲、速射砲が運び込まれていった。その中でも極めつけが、41センチ榴弾砲1門である。この巨砲はコンクリートの覆いで守られ、約1トンの砲弾を20キロ先まで飛ばす事が可能だった。それと、フランスから購入した24センチ列車砲1両も配備されており、その射程は最大50キロにも達していた。これらの要塞砲は対岸のソ連領、イマン市(現在名ダリネレチェンスク)を睨んでおり、極東ロシアの生命線とも言えるシベリア鉄道と、それが走るイマン鉄橋をも射程に収めていた。要塞の主陣地は中猛虎山で、他に虎北山、虎東山、虎西山、虎粛山の5つの地下陣地で構成されていた。これらの要塞陣地は交通壕で連結しており、相互支援が可能である。 
 
 
要塞の規模は東西10キロ・南北4キロを誇り、重要箇所は厚いコンクリートで固められた。しかも、周囲は沼沢地という天然の要害である。そして、1万2千名の兵員が着陣して、鉄壁の守備を誇った。しかし、昭和16年(1941年)の太平洋戦争開戦とその後の戦況悪化に伴って、満州の関東軍の戦力は順次、太平洋戦線に引き抜かれていった。そして、戦争末期の1945年8月を迎えると、満州防衛の切り札で、かつて精鋭を謳われた関東軍も著しく弱体化し、今や張子の虎と化していた。虎頭要塞もその例から漏れず、兵員を大幅に減らされて自己防衛すら困難になっていた。一方、ソ連は1945年5月のドイツ降伏を受けて、大量の兵員、戦車、火砲をヨーロッパ戦線から極東に振り向けつつあった。ソ連は、日本との間で結ばれていた日ソ中立条約を破棄して参戦する決意を固めていた。それを一言で表現すると、「瀕死の病人から財布を奪い取る」ためであった。 
 
 
満州は広い。その面積は110万平方キロもあって、日本の国土の3倍もある。関東軍もソ連の参戦は近いと肌で感じていたが、弱体化した戦力で広大な満州を守る事は不可能であると判断し、ソ連軍侵攻の際には満州の三分の二を放棄して、朝鮮半島から程近い南部の通化に主力を結集して戦う方針を定めた。この方針自体は間違っていないが、問題なのはその侵攻時期の予測であった。昭和20年夏、国境付近にソ連軍が充満し、いつ何時、砲火が撃たれるか分からない状況だったにも関わらず、関東軍首脳はソ連参戦は9月以降と考えて、国境付近の居留民に対してなんの避難勧告も出さなかった。また、国境を守る守備隊にも、ソ連軍を刺激しないよう指示するのみだった。この緊迫した時期、虎頭要塞でも、守備隊長の西脇大佐が作戦会議に呼ばれて不在となった。関東軍が、ソ連軍の侵攻時期を見誤っていた何よりの証左である。 
 
 
1945年8月9日午前1時。この夜は、満州各地で雷雨が降り注いでいた。だが、突如、雷鳴をも打ち消すほどの轟音が響き渡った。それはソ連軍による一斉砲撃であった。侵攻ソ連軍の規模は、兵員157万人、火砲26,000門、戦車、自走砲、装甲車合わせて5,500両、戦闘機、爆撃機合わせて3,400機、それに海軍艦艇とその作戦機1,200機も加わる一大戦力であった。これに対して関東軍は、兵員70万人(その内10万人は丸腰)、火砲5,360門、戦車200両、航空機350機でしかなかった。圧倒的なソ連軍の攻勢を前にして、満州の150万人余の日本人居留民の命が危機に瀕した。この様な状況にも関わらず、全満州の責任を負うべき関東軍の高官の中には、家族を連れて逸早く本土に逃げ帰る者も現れる始末であった。だが、その一方、居留民の後退を助けるため、ソ連軍に敢然と立ち向う日本軍部隊もいた。満州東部の要衝、虎頭要塞もその一つである。 
 
 
虎頭要塞はソ連軍の不意討ちを受けた上、要塞守備隊長の西脇大佐も作戦会議で不在であったため、当初は混乱も生じたが、砲兵隊の指揮官であった、大木正大尉が臨時の守備隊長となって現場を統制する。この時の要塞兵力は僅か1,500人で、しかも、その内600人は緊急動員の新兵であった。要塞には、近隣から避難してきた居留民500人余も入る。しかし、要塞正面のソ連軍の規模は兵員6万人、火砲950門、戦車・自走砲166両という10倍以上の戦力であった。ソ連軍の浸透により虎頭要塞は早々に味方戦線から切り離されたが、将兵達はあくまで戦い抜く決意を固めていた。ソ連軍の重砲の砲撃は、午前1時5分から午前5時まで続き、それに合わせてウスリー河を渡河したソ連軍が侵入を開始する。最前線で監視にあたっていた小部隊は、ソ連軍に包囲されて次々に全滅した。


Manchukuo_Railmap_jp.jpg













↑満州沿線図(ウィキペディアより)

地図の右下辺りにある虎頭に要塞があった。

地図の左下辺りにある山海関から満州国との国境に沿って、万里の長城がある。この万里の長城以南が長らく、漢民族の領域だった。



 
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