2世紀、世界帝国ローマは、五賢帝と呼ばれる優れた指導者達による時代を迎えて、繁栄の絶頂にあった。初代ネルウァ(在位96~98)から始まって、トラヤヌス(在位98~117)、ハドリアヌス(在位117~138)、アントニヌス・ピウス(在位138~161)、マルクス・アウレリウス(在位161~180)と続く時代である。当時のローマ帝国の領域は、西ヨーロッパと地中海全域を含んだ広大なものだった。国境の北はグレートブリテン島(イギリス本土)の中ほど、西は大西洋に面したスペイン、南はナイル中流に至るまでのエジプト、東は中東のシリアにまで達する、まさに世界帝国であった。だが、それだけに敵も多く、ローマは絶えず外敵の圧力に晒されていた。その代表的な存在が、ライン河以東のゲルマン諸部族、ドナウ河以北のダキア族、現在のイラン、イラクを含んだ地域を国家とするパルティア王国である。
これらの外敵から国民を守るため、ローマは途方も無い努力を傾けた。ライン河の河口からドナウ河を経て、黒海にまで至る長大な防衛線を引き、更にグレートブリテン島や、中東のユーフラテス河にも防衛線を引いたのである。ローマ皇帝の第一の責務は、帝国全土の安全保障であった。五賢帝時代を迎えた頃のローマには、28個の正規軍団16万8千人(1個軍団は約6千人)と補助軍団14万人余、合わせて30万人強の兵力があった。これは途方もない軍事力を有しているように見えるが、決してそうでは無い。ローマ帝国の領域は上記にも挙げた様に、西ヨーロッパと地中海全域を含む広大なものであって、これを守ろうと思えば軍団を薄く広く配置せざるを得ない。
例えば、ライン河以東には敵対的なゲルマン諸部族、数十万人が存在していたが、このライン河防衛担当のローマ軍は、4個の正規軍団とそれよりやや少ない補助軍団、合わせて4万5千人余でしかなかった。このように30万人を超える兵力でも、十分とは言い難かった。しかし、無制限に軍事力を強化すれば、国民に重税を強いる事になる。そうなれば、不満が高じて内乱にも繋がりかねない。ローマはそれを避けるため、軍の運用効率を徹底的に高める事によって不十分な兵力を補おうとした。まず、大河に沿って防衛線を築く事で少人数でも守れる態勢を作り、更に帝国全土に道路網を張り巡らせて、危急の事態が生じた際の軍団同士の相互支援と戦力集中を容易にしたのである。ローマ史上最良の時代とされる五賢帝による統治も、この防衛線を維持し、国内を安定せしめた功を評価されているのである。
↑ハドリアヌス帝の頃のローマ帝国 (ウィキペディアより)
黒い小さな四角形が、軍団の配置状況を示している。
初代ネルウァによる治世は僅か1年半でしかなかったが、軍政両面に才を発揮した将軍トラヤヌスを後継者として選び、有能な人物を養子として政権を委譲すると言う、五賢帝時代に先鞭を付けた。2代目トラヤヌスはその優れた軍事能力をもって、強大な武力を有していたドナウ川以北のダキア王国や、中東のパルティア王国に大打撃を与えるなど帝国の勢力拡張に努めた。そして、このトラヤヌスの時代に、ローマ帝国は史上最大の版図になる。3代目を継いだハドリアヌスも軍政両面に優れた皇帝であったが、これ以上の領土拡張は国益にそぐわないと考えて遠征は自制した。その代わり、帝国の最前線を隅々まで巡り歩いて防衛網を刷新強化したり、偏狭なユダヤ教徒50万人余を討滅して不満分子を取り除くなど、帝国の安定強化に努めた。
こうした2代目、3代目による地ならしが成された上で、西暦138年、4代目アントニヌス・ピウスが帝位に就いた。アントニヌスは議員出身で軍務経験は皆無に等しかったが、先帝達が防衛体制を整えてくれていたお陰で、皇帝親征を必要とするような外圧は生じなかった。それによってアントニヌスは内政に専念する事が可能となり、持ち前の政治力と調整能力をもって、ローマにかつてないほどの平和と繁栄を呼び込む事になる。アントニヌスは、西暦86年9月19日、ローマ近郊のラヌーヴィオで生を受けた。父は有力な元老院議員であったが、早くに亡くなった為、母方の祖父の元で養育された。そこで行き届いた教育を施され、誰からも愛される穏やかな青年に成長した。背は高く、表情は常に晴れやかで、それでいて気品があった。やがて父方、母方の祖父や親族から多額の遺産を相続して、ローマ屈指の富裕者となる。
西暦111年、25歳の時に会計検査官となり、西暦116年、30歳の時には法務官となった。西暦120年、34歳の時には元老院の最高職である執政官に当選し、それからしばらくは内閣の一員として国家行政に携わった。西暦134年、48歳の時に属州アジア(トルコ西部)の総督に任命されると、そこで統治の功績を上げてローマにも名声が広まった。そして、西暦138年、52歳の時、皇帝ハドリアヌスに呼び出され、後継者に指名されたのだった。ただしこの時、ハドリアヌスは一つの条件を出した。それはハドリアヌスが見出した聡明な少年、16歳のマルクス・アウレリクス(五賢帝最後の皇帝となる)をアントニヌスが養子に迎える事であった。アントニヌスはしばらく熟慮する時間をもらった後、喜んでこれを受け入れると表明した。それから程なくしてハドリアヌスは死去し、アントニヌスが世界帝国ローマの最高権力者となった。
アントニヌスは強大な権限を有する事になったが、その政治姿勢はあくまでも穏健で、独断専行を避け、他者の意見に耳を傾けながら政務を執った。また、支配階級である元老院出身でありながら、虚栄心といったものは皆無で、常に質素倹約を心掛けた。歴代の皇帝は自らの功績を後世にも示さんとして、壮大な宮殿や浴場を次々に建設していったものだが、アントニヌスの時代に築かれたのはハドリアヌス神殿のみであった。だが、この神殿にしても、先帝の時代から建設が進められていた可能性が高い。彼は、「国家の資産を、必要に迫られている訳でもないのに費消する事ほど、さもしく卑しい行為はない」と言うのだった。
先帝ハドリアヌスは帝国各地を視察して回ったが、アントニヌスはローマからほとんど動かずに統治した。それは、首都ローマに留まる方が、帝国各地から届けられる情報や陳情を受けやすく、それらを元に政策の決定や緊急の措置を取るのが容易であると判断してのものであった。アントニヌスによる治世は平穏そのものだったが、それも彼が諸般に目を通して、統治に心を砕いていたからであった。国境付近では絶え間なく異民族との小競り合いが生じていたが、必要に応じて援軍を送り込んだり、熟練した外交術をもって問題が大きくなる前に解決せしめていた。
国庫が黒字であるにも関わらず、倹約に務め、働かないで給料をもらっている官吏は容赦無く解雇した。アントニヌスはその理由として、「責任を果たしていない者が報酬をもらい続ける事ほど、国家にとって残酷で無駄な行為はない」と述べるのだった。アントニヌスは皇帝位を公僕中の公僕であると捉えており、実際、国家の為に誠心誠意を尽くした。西暦140年に最愛の妻ファウスティナを亡くした際には、その遺産に自らの私産を加えて慈善財団を発足させ、恵まれない少女のために結婚資金を援助した。また、ローマ社会には欠かせない、奴隷の待遇改善を図って、虐待を防ぐ新たな法律も制定した。
アントニヌスは民衆に対して優しく接し、それでいて甘やかす事はしなかった。その姿勢は、家庭においても同様であった。アントニヌスは息子に先立たれていたので、養子のマルクスを愛情を込めて養育したが、時には叱る事もある。そんな場合でも怒鳴るような真似はせず、紳士の態度を崩さないまま、毅然と諭すのだった。ただ、そんなアントニヌスでも、妻ファウスティナにだけは弱かったのかもしれない。彼が書いた手紙には、「神にかけて、私は彼女のいない宮殿に住まうより、彼女のいる流刑地に住まう方を選ぶ」とまで言いのけているからである。アントニヌスには2人の息子と2人の娘がいたが、次女の小ファウスティナを除いて皆早くに亡くなった。そのせいもあって、小ファウスティナを事のほか可愛がり、その大事な娘を、次期皇帝が内定しているマルクスへと嫁がせたのだった。
統治面でのアントニヌスの功績は非の打ち所の無いものであったが、唯一つ、将来を見通した国防と言う視点だけは欠けていたようである。ローマ帝国の皇帝が果たすべき責務の第一は安全保障で、次に国内統治、その次が公共施設の整備であった。そして、ローマ皇帝となる者には政治の経験も然る事ながら、軍事の経験も同様に積んでいる事を望まれていた。ローマ皇帝とは、ローマ軍30万余の総司令官でもあって、国家が危機に瀕した時には前線にも立たねばならないからだ。しかし、アントニヌスの軍事経験は皆無に等しく、その重点も国内統治に置かれていた。自ら前線を視察する事はなく、後継者となるマルクスもずっと手元に置いていた。アントニヌスの軍事面での業績と言えば、グレートブリテン島の中ほどに築かれていたローマ軍の防壁を、現地総督に命じて北に120キロ北上させた事ぐらいであった。
2代目皇帝トラヤヌスは、外敵がローマの脅威となる前にそれを先制して撃ち破り、3代目皇帝ハドリアヌスも、自ら前線を巡り歩いて防衛線を再構築していった。アントニヌスも自国を取り巻く情勢を注意深く見張っていたが、それでも前線を見て初めて分かる事も多い。アントニヌスは老齢であったので首都で統治するにしても、後継者となるマルクスはまだ若者であったので、多少の軍務はさせておくべきであったろう。マルクスの健康面には不安があったので、それを憂慮して手元に置いていたのかもしれないが、後から考えるとやはり軍務経験も必要であった。何故なら、マルクス帝の時代を迎えた途端にパルティア王国は軍事侵攻を開始し、その数年後にはゲルマン諸部族もライン川の防壁を破って侵入を繰り返すようになるからである。それは皇帝親征も必要となる、深刻な国防の危機であった。
しかし、マルクスには、47歳になるまで軍務経験が無かった。パルティアの侵攻には有能な将軍を派遣して沈静化せしめたものの、自らが臨んだゲルマン諸部族との戦いは苦戦続きであった。彼は、若い頃に軍務経験を積まなかった事を悔やんだかもしれない。それでもマルクスは前線に立ち続け、命をすり減らしながら懸命に国家を守らんとした。だが、戦いは長期に及んで、アントニヌス帝時代に積み上げられた国富も消耗し尽し、ローマは緩慢にだが、確実に衰えていく事になるのである。これは、例え平和な時代であっても、国家指導者たる者、国内統治も然る事ながら、将来を見通した国防も決して疎かにしてはならないと言う事を示唆している。
アントニヌスは、後継者マルクスに対して軍事面での教えは欠いたが、それでも統治者として、1人の父親として、多くの事を彼に教えた。マルクスもアントニヌスを人生の師と見なし、彼に対する尊敬の念は終生変わる事は無かった。マルクスは皇帝となった後、「自省録」という著書を記している。それはゲルマン部族と対戦中の軍営の中で書かれたもので、無常観に満ちて、自分自身を深く見つめ直す内容である。その書き出しには、自分を導いてくれた人々に対する深い敬愛の念も記されている。まず祖父、父、母、家庭教師、哲学者の順で述べられた後、養父アントニヌスには特に多くの文字を費やして述べられていた。
「私は父から次の諸事を学んだ。決断を下す際の慎重、穏健、それでいて確固たる持続性。社会的名声への軽蔑。仕事への愛と忍耐。公益に利するならば、いかなる提言にも耳を傾ける態度。各人の業績に報いる際に示した公正な評価。政務は慎重に対処し、助言を参考にしつつ、自らも十分に調査を行った上で決断を下した。また、この様な場合に起こりがちな、周囲の意見に惑わされる事も無かった。自らが成せる範囲を成すだけで満足しており、それゆえ常に穏やかな人で在り続ける事が出来たのだった。予測する才能があり、それが些細な問題であったとしても軽く見ず、十分な対策が成されるように努めた。しかも、それらが世間の話題にならない内にやり遂げる人であった。国家が必要としている事柄には常に注意を怠らず、国費の乱用を抑え、それによって民衆から不満の声が上がったとしても耐えた。
人気を得ようとして民衆を褒めちぎったり、過度の恩恵を与えるような真似はしなかった。万事において、節制の人であった。彼の最大の徳であったのは、才能があると認めた者には羨望など感じず、その才能を十分に発揮する機会や地位を与えた事である。私生活でも、彼から多くの事を学んだ。私用の宮殿や別邸の建造に熱意を傾けない事、食事に必要以上の関心を持たない事、衣服の枚数や色の多彩に気を遣わない事、世話働きをする奴隷達を容色によって選ばない事、などである。彼の言動の全てが熟慮の結果であって、時と場合に完璧に適合しており、その言動に秩序と一貫性と調和を与えていた。老齢となって健康と持続力が衰えてきても、彼は穏健さと落ち着きをもって、それを補う術を知っていた。それは、清廉で不屈の精神の持ち主である事の証であった。」
西暦161年春、74歳になっていたアントニヌスは危篤に陥った。知らせを聞いたマルクスが駆けつけて来ると、国葬を壮麗にし過ぎないようにとだけ伝えると静かに息を引き取った。ローマ人は老齢の者の死に際しては、自然なものと受けとめて深い悲しみを示す事はない。だが、このアントニヌスだけは別だった。全ローマ人が一様にその死を惜しみ、悲しんだのだった。元老院はその功績を讃えて、アントニヌスとファウスティナ神殿を建設する事を満場一致で決定した。アントニヌスは軍事能力こそ欠いていたが、それでも自らの得意、不得意とするところは心得ており、持ち前の政治能力で成せる範囲の事は成し遂げた。ローマ皇帝となった者には、「国家の父」という尊称が与えられるが、アントニヌスはその意味するところを十分理解しており、尊称に恥じない献身的な働きで、「秩序の支配する平穏」と称される23年間の安寧の時代を創り出した。人々は、そんなアントニヌスに敬虔なる人を意味するピウスの称号を贈った。すなわち、アントニヌス・ピウスである。穏やかな春の陽差しの様な皇帝であった。
↑アントニヌス・ピウス(西暦86~161) (ウィキペディアより)
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18世紀、ヨーロッパの海洋帝国イギリスは、世界中から富を収奪し、それをもって世界初の産業革命を成し遂げた。イギリスの科学、工業水準は世界の最先端を走り、帝国は更に発展、拡大しつつあった。しかし、その一方でイギリスの医療水準は科学の進歩から取り残されて、人々は老いも若きも病に苦しんでいた。医療は中世からほとんど進歩しておらず、古代ギリシャの医師ヒポクラテスの教義、「全ての病気は体液の不均衡から生じる」を教義として、それを踏襲するのみだった。そして、人々は病気になれば、あらやる誤った治療法を取り入れた。カニの眼球や木屑に群れるシラミを有効な薬と信じて飲む、水銀などの有毒物資を薬として飲む、胃腸を洗浄すれば治ると信じて下剤や嘔吐剤を飲む、静脈を切開して血を抜く瀉血(しゃけつ)を行う、などなどの治療を行っては、かえって寿命を縮めるのだった。医療事故も日常茶飯事で、医者にかかれば、かえって天に召される時間が短縮される感さえあった。
18世紀半ばのイングランドの平均寿命は37歳で、とりわけ子供の死亡率は高かった。1750年から1769年の間に生まれた赤ん坊の内、半分は2歳を迎えるまでに死亡している。子供が生き延びるには体の丈夫さと、運の良さが要求された。この死と隣り合わせの年少期を切り抜けると、体に免疫が付くので、その後は比較的、長く生きる事が出来た。しかし、それでも病気の材料には事欠けなかった。当時のロンドンの居住環境は不浄そのもので、排水溝には人間の排泄物や動物の死骸が流れており、一度、水が溢れれば、それらは路上を覆い尽くした。建物からは住民の排泄物が投げ捨てられ、馬車はそのしぶきを歩行者に浴びせかける。この様な環境であるから定期的に悪性の伝染病が発生し、多くの人々が命を落としていった。勿論、抗生物質のような便利なものもないので、感染症に罹ればひとたまりも無かった。また、当時のロンドンは性風俗が盛んで、聖職者、貴族、軍人、一般市民などあらゆる階層の人々が梅毒、淋病などの性病を抱えていた。人々は絶えず病に脅かされており、生きるというのはサーカスの綱渡りの様なものであった。
内臓疾患は、不治の病に等しかった。患者が激しい腹痛を訴えても、18世紀にレントゲン撮影は存在しないので、内科医は病根を突き止められなかった。内科医も外科医も内臓疾患には基本的に無力で、病人に対して嘔吐剤や下剤を飲ませるか、瀉血を施すのみだった。瀉血はあらゆる病気に対して広く行われたが、これは何の意味も無いばかりか、瀉血のし過ぎで免疫機能が低下し、かえって病気が悪化する事も多かった。外目にもそれと分かる腫瘍や、外傷に対しては外科手術も行われたが、当時は麻酔も消毒も存在せず、道具も大昔からほとんど変わらない両刃刀とノコギリが使われるなど野蛮そのものだった。麻酔が使用されるようになるのは19世紀中頃で、消毒が確立されるのも19世紀後半である。そのため、外科手術を受ける患者は、手足を縛られて激痛に耐えねばならない。消毒の概念も無いので、傷口から細菌が侵入して重い感染症に罹る事も多かった。手術は一か八かの賭けに等しい。
戦場は、最も感染症に罹りやすい環境だった。野戦病院に銃弾がめり込んだ負傷者が運ばれてくると、軍医は拡張術と呼ばれる手術を施し、傷口を開いて銃弾をピンセットか指で摘み出し、散らばっている骨片や弾片を取り除いて、最後に傷口を縫合する。しかし、この手術を受けられるのは主に手足を負傷した者で、腹部に重傷を負った者にはお手上げで、患者は死を待つのみであった。だが、適切と思われる、この銃弾摘出手術を受けると、かえって死ぬ者が多く出た。弾丸を体内に残すと患者に痛みを残すし、そこから感染症が広がる恐れもあるので、それを摘出するという考え自体は間違っていない。だが、麻酔無しで裂けた傷口を更に広げる手術は、患者に激痛と大量出血をもたらして弱らせ、その上、軍医は消毒無しの汚れた手術器具や手で傷口をまさぐるので、感染症の機会を大幅に増やしてしまうのだった。傷の状態にもよるが、そのまま放置して自然治癒力に委ねた方が、治りが早い事例も報告されている。また、戦地は兵士の汚物で溢れ、水も汚れているので、赤痢やチフスなどの集団感染症もよく発生する。戦地では、どちらか言えば銃弾で死ぬよりも、病気で死ぬ者の方が多かった。
虫歯もイギリス人の悩みの種であった。ヨーロッパ社会で広く紅茶が飲まれるようになると、それに合わせて砂糖も大量に消費されるようになる。虫歯は老若男女を問わず、上流階級から下層階級まで平等に襲い掛かった。美しく着飾った貴婦人が微笑みかけても、その歯はがたがたで、黒ずんで欠けているなど日常茶飯事だった。当時は虫歯に対しても効果的な治療法が無いので、悪化すれば抜歯する他なかった。その抜歯であるが、何故か地位の低い者がする仕事との風潮があったので、床屋や、行商人、鍛冶屋などが主に行っていた。しかし、彼らの技量や方法はまちまちで、患者の中には歯肉をごっそりえぐられて顔が腫れあがり、一日中、激痛に苦しむ事もままあった。18世紀には、貧しい者から健康な歯を買い上げて、その歯を上流社会の者に移植する手術も流行っている。しかし、この移植された歯は、血管と神経まで縫合されていないので生着はせず、数年も経てば抜け落ちた。しかも、この移植で梅毒を移される例もあった。
18世紀のイギリスでは、「全ての病気は体液の不均衡から生じる」という古典的な教義に拘る医療従事者は今だ多かったが、それでも新進気鋭の医者の中には、患者の生前の病態と、その死後の体の状態を調べて死因を特定するという実践的、科学的な手法を取り入れる者も現れ始める。そして、人体に対する研究熱が高まって、死体解剖が広く行われるようになった。だが、その熱意に反して、検体の数は余りにも少なかった。検体には、主に死刑囚の死体が使われたがそれでも足りず、墓場に収められたばかりの新鮮な死体が次々に盗みだされていった。解剖医達は、あらゆる病死体や幼児、妊婦を含む老若男女の死体を求めたため、やがて、死体盗掘を専門とする組織まで現れ、墓荒しが横行する事態となった。真っ先に狙われるのは浅く埋められている貧しい人々の墓で、その需要が高まった時には空っぽの墓ばかりとなった。死体を巡って盗掘団同士が暴力沙汰を起こす事もあったし、珍しい病態の死体を巡って解剖医の間で争奪戦が繰り広げられる事もあった。
政府は腕の良い外科医が不足している現状を認識していたため、こういった死体泥棒や解剖医の存在を大目に見ていた。しかし、死体目的の殺人が起こるなど、死体盗掘が大きな社会問題となってくると、1832年には解剖令が施行されて、この悪習にも終止符が打たれた。医師達は、人々の目の前で犬や羊など生きた動物の腹を割いて実験して見せたり、人体実験を兼ねた危険な新治療を数限りなく行って失敗と成功を重ねていった。いくら医療の発展のためとは言え、彼らの行為は社会の規範や道徳を逸脱する面があって、数多くの批判を受けた。だが、こうした新進気鋭の医師達のあくなき探究心の結果、今まで説明のつかなかった病気の因果関係が明らかとなり、将来の予防や治療に光を当てる形となった事も確かである。そして、19世紀に入ると、観察と実験、証拠を突き詰めて病気を明らかにするという科学的手法が一般的となり、医学は飛躍的な進歩を遂げる事になるのである。
主要参考文献 「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」
1820年の中頃を迎えると、ナポレオンの健康状態は目に見えて悪化していた。体力は衰え、屋内で過ごす日が多くなる。肉を飲み込む事が出来なくなり、肉汁だけを飲んだ。侍従達や医師は、ナポレオンの許す範囲で懸命に治療に務めたが、良くなる気配は無かった。1821年を迎えると、四輪馬車に乗る事も、散歩に出るのも稀になり、3月17日にはついに寝たきりの状態となる。ナポレオンは胃の幽門がやられていると言っていたが、当時の医療ではどうしようもなかった。3月後半、ナポレオンが口に出来るのは、少量のゼリーとスープのみだった。イギリス人軍医はその様子を見て、吐剤を飲ませようとしたが、ナポレオンはこれを拒否する。
ナポレオンは医者を信用しておらず、軍医に向かって、「そなた達医者は、無分別に仕事をしておられる。医学は命を救うよりも、奪う事の方が多いのですぞ」と言うのだった。当時の医療水準はまだまだ低く、誤った治療法が満延して、それによって命を落とす者は実に多かった。明敏なナポレオンは、それを察していたのだろう。ナポレオンは、カンゾウ(漢方薬に用いられるマメ科の多年草)の根が入ったボンボン入れを持ち合わせており、これが唯一好みの薬だと語っていた。そして、これをジュースにして飲むのが常だった。4月、イギリス人軍医から、広くて風通しも良い新居が完成したと告げられたが、最早、何の意味も無かった。ナポレオン曰く、「遅きに失するとはこの事ですぞ。今になって新居の鍵を渡されても、余はもう終わりだ」
4月13日、ナポレオンは僅かなゼリーしか受け付けられなくなり、それすら戻すようになった。そして、口述で遺言書の作成を始める。4月16日、ナポレオンはぶどう酒に浸したビスケットを一枚、口にしたがすぐに戻した。この日、侍従達が心配する中、自ら遺言状を書き続けた。ナポレオンは医者を信用していなかったが、フランス人軍医のラレイだけは手放しで賞賛した。「ラレイはエジプトでもヨーロッパでも、どれだけの兵士達の病気を看てくれたか。隊列の先頭から後尾まで走り回って、看病していた。何という男だ。実に勇敢な、立派な男だった。余は心から敬意を払ったが、決して裏切られる事はなかった。もし軍が記念碑を建てるなら、ラレイをモデルにするべきであろう」。(ドミニク・ラレイ医師、当時の劣悪な医療の改善に力を注ぎ、敵味方の区別なく治療にあたった時代の良心)
4月20日、ナポレオンはイギリス人軍医に、イギリス政府を非難する言葉を伝えた。
「余は誠実なもてなしを求めて、英国政府のもとにやってきた。この世には、あらやる真っ当なものがあるにも関わらず、イギリスは鉄鎖で余に答えた。最低限の家族との連絡さえ禁止され、妻と息子の消息は一切知らされなかった。住居として住むには最も適さない場所が与えられ、殺人的な熱帯性気候にも悩まされた。そして、全ヨーロッパを駆け巡っていた余が、四つの壁に閉じ込められねばならなかった。先生、これが貴国の政府から受けた、もてなしですぞ。余は詳細な長期計画で暗殺されつつある。あの忌まわしいハドソン・ロウは貴国の大臣達の手先だ。余はこの恐ろしい岩山で死し、イギリスの統治するこの屋敷に死という汚名を遺贈する」
5月3日、ナポレオンは、ぶどう酒を垂らした砂糖水を少し口にするのみだった。5月4日、しゃっくりが出るようになり、うわ言をもらすようになった。それは、フランス、我が息子、軍隊と聞き取れた。5月5日、17時50分、侍従達に見守られながら、稀代の征服者は逝った。ナポレオン・ボナパルト、51歳。一族や家族の付き添いも無い、なんとももの悲しい最後であった。5月7日、ナポレオンの顔からデスマスクが取られた。ナポレオンは生前、息子にも同じ病気が生じた時に備えて、遺体を解剖し、自らの病根を明らかにするよう遺言していた。それから、心臓と胃はメチルアルコール入りの銀器に収めて、妻のマリー・ルイーズ宛てに送るようにとも伝えていた。
↑ナポレオンの死去
ナポレオンの遺体解剖にはフランス人侍医アントムマルキと、ハドソン・ロウから派遣されたイギリス人医師6人が加わって、作業が行われた。
●アントムマルキによる解剖記録。
皇帝は著しく痩せ、私が赴任した時の半分以下になっている。
遺体には頭に傷跡、左手の薬指に傷跡、左の腿(もも)に深い傷跡。
頭頂から足の先まで1メートル67センチ42ミリ
首は短いが正常、胸が広く、良い体型をしている。
心臓、肺、腸は正常だった。肝臓は充血し、通常以上の大きさだった。
胃の大きな湾曲部を切開すると、不快な刺激臭のする黒ずんだ液体物質が観察された。それを取り除くと、広範囲に癌性腫瘍の瘍が見られた(イギリス人医師団の見解は、癌に発達する可能性のある硬性癌種)。癌性腫瘍は特に胃の内壁上部を占め、上部の噴門開口部から、幽門の2、5cmのところまで広がっていた。胃の潰瘍性内壁面は著しく膨らんで、固くなっていた。
ナポレオンの肝臓は著しく肥大していたのだが、不思議な事にこれは問題にはされなかった。そして、ナポレオンの胃に癌性腫瘍が発見された事から、直接の死因は胃癌となった。しかし、これにはハドソン・ロウから医師団への強要があったとされる。肝臓疾患となると、ナポレオンを不健康な環境に留め置いた、自分の管理責任が問われかねない。そこでロウは、イギリス人医師を呼んで肝臓疾患に関するくだりを報告書から削除させてもいる。侍医アントムマルキの回想によると、胃壁は癌に見える硬性癌種に覆われていたが、胃癌ではなかったと述べている。
アントムマルキの解剖所見では、ナポレオンは著しく痩せていたとなっているが、正反対の証言もある。ナポレオンが死亡する少し前、島の名士ウィリアム。ダブトン卿が訪ね見たところ、「支那の豚みたいに肥え太っていた」と述べている。解剖に参加したイギリス人医師ワルターヘンリーは、1823年9月23日のロウへの報告で、「ナポレオンの体の表面全体が脂肪に覆われていました。脂肪の層は5センチ余りありました」と述べている。ナポレオン死去時、従僕のマルシャンがその時の光景をスケッチに描いているが、それを見るとナポレオンの死に顔はふくよかに見える。普通、胃癌になると痩せ衰えていくので、肥満になるのはおかしい。いずれにせよ、ナポレオンの死因は謎に包まれており、今だにはっきりしていない。
ナポレオンを追い込んだハドソン・ロウであるが、その後、同国人のイギリス人にまでその狭量さを軽蔑され、不遇な生涯を送る事になる。1816年8月18日の会見時、ナポレオンはロウに向かって、こう告げている。
「余の名声は不朽のもので、イギリス政府が書かせた誹謗中傷など無意味である。余の名前は太陽のごとく永遠なのだ。君が振りかざす命令を出している当の政府は、いつの日か君を捨て去り、イギリス国民は君を非難するだろう。世界のどこに行っても、世論は君を追い詰めるだろう。やがて君は、この予言を辛い思いで思い出す事になる。ナポレオン皇帝の呪いが君の上に襲い掛かる事を覚悟しておくがよい」
この予言は的中し、ナポレオン自身による非難の言葉、取り巻きの侍従や侍医達の非難の言葉は歴史となって書き残され、ロウは永遠に汚名を着る事となった。そして、ロウは閑職にまわされ、社交界からも敬遠されて孤独に陥った。これがナポレオンの彼に対する復讐であった。
ハドソン・ロウの述懐
「セント・ヘレナ滞在の頃は、自分の言動が歴史に残るなど、想像もしていなかった。まさか、ボナパルトが口にした悪口が海を越えて伝わろうとは。しかし、こうして歴史は完成し、自分の言動は永遠の文字で書かれて、一行も消し去る事は出来ないのだ・・・」
ヨーロッパ全土を駆け巡り、一時はその大半を制した男が一転、絶海の孤島に閉じ込められ、憂悶の日々を送らねばならなかった。しかし、絶望の淵にあってもナポレオンは決して自暴自棄にはならず、己を貫き通した。そして、最後は激しい痛みや嘔吐で何度も中断しながらも、多くの遺言状を手書きで、それも正確に、しっかりとした字で書き込んでいった。その遺言状は、妻マリー・ルイーズや子息のナポレオン2世だけでなく、共に戦った将軍や、一兵士、エジプト転戦時の召使いにまで到る、非常に行き届いたものだった。それは、この人物が最後まで強烈な意志と精神力を宿していた事を物語っている。ナポレオンの遺体は、セント・ヘレナ島の渓谷の木陰に埋葬された。ナポレオンは生前、自らの遺体をフランスの母なる大河セーヌの畔に埋葬するよう遺言していたが、その願いが適うのはそれから20年後、1840年の事であった。現在、ナポレオンの遺体は、パリにある廃兵院礼拝堂(アンヴァリッド)に安置されている。遺言にあったセーヌの畔では無かったにせよ、心から愛したフランスの大地に身を委ね、深く静かな眠りについている。
↑廃兵院礼拝堂(アンヴァリッド)に安置されているナポレオンの遺体
主要参考文献 「ナポレオン最後の日」