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「カザンからホーフガイスマーまで」3千キロの逃避行

2017.08.05 - 歴史秘話 其の三

第二次大戦末期、1945年3月6日、ドイツの都市ホーフガイスマーに住む、ヘートヴィッヒ・ビーラー夫人は、一通の封筒を受け取った。そこには、「夫君、第57擲弾兵連隊第2大隊主計へルマン・ビーラーの行方に関する調査は終了したが、徹底的な解明は出来なかった。ご主人はルーマニアのサラータ近郊の戦闘以来、つまり1944年8月22日以来、行方不明である。確たる情報をお知らせできず、残念至極であるが、ご主人がまだ元気でおり、いつの日かつつがなく帰郷される事を、共に望む次第である」とあった。夫人は、2人の娘を抱き締めて悲嘆にくれた。だが、一縷の望みもあった。それは死亡通知ではなく、行方不明とあったからだ。いつの日か、必ず夫は帰ってくる、夫人はそう信じた。


その頃、ヘルマン・ビーラー本人は、生きていた。ヘルマンは、ソ連のセロニ・ドルスク収容所に在って、強制労働をさせられていた。その収容所は、ロシアの奥深く、ソ連の首都モスクワから更に東に800キロの地点、ヴォルガ河河畔の都市、カザンの近郊にあった。当初、ヘルマンは元気であったし、労働もさほど過重だと思わなかったが、徐々に肉体的、精神的に弱っていくのを感じた。なんの自由も娯楽も無い鉄条網内の収容所暮らし、腐臭の漂う粗末な食事、日々の肉体労働、この単調な生活がひたすら続くのだ。これで、健康であり続けろと言うのが無理だった。


ソ連の捕虜となったドイツ人は300万人以上いたが、その内、100万人以上が死に至ったと云われている。1946年初夏、ヘルマンが捕虜となってから2年が過ぎ、その間に戦争も終わっていたが、今だ解放される予兆は無かった。そんな時、収容所にある噂が広まった。それはソ連の西部にある収容所から、捕虜が順に解放されていくといったものだった。しかし、ヘルマンのいるセロニ・ドルスク収容所は、ドイツから遥か3千キロも離れていた。噂によれば、東ほど帰郷は遅れるとの事だった。ヘルマンは既に42歳になっており、この生活をあと数年続けられる自信は無かった。


恐怖と焦燥に駆られたヘルマンは、ついに脱走を決した。それは危険な賭けであった。捕まれば、良くて、殴られ食事を減らされての禁固刑、悪ければ、即銃殺であった。後者の場合、見せしめとして、死体が収容所に晒される場合もある。脱走、それは捕虜なら誰もが頭に思い描いた夢物語だが、途方も無い距離と危険を鑑みて、実行する者はほとんどいなかった。その数少ない脱走者も、広大なソ連の国土から逃れる事は適わず、ほとんどが無残な失敗に終わっていた。そこで、ヘルマンは大胆不敵な脱走計画を立てた。ロシア人に紛れて列車に乗り込み、最短でソ連の国土を抜けようと考えたのだ。それも、ソ連の首都、モスクワを経由してのものだった。


ヘルマンは、パンを乾かして蓄え、建設作業の労賃も貯えた。そして、ドイツの軍服と交換して、ロシアの労働者服を手に入れた。ヘルマンには、ロシア語が喋れるという大きな強味があった。ロシア語が堪能だと、ロシア人社会に溶け込みやすく、ドイツ人だとばれる心配も少ない。ヘルマンは手始めに、建設現場からの脱走を考えた。しかし、作業現場に向かう往復の行進は、銃を構えたロシアの監視兵が付くので、まず無理だった。作業現場に着けば、監視兵が塔に上がり、そこから建設現場全体を見渡すので、これも無理だった。だが、監視兵が捕虜に背を向ける瞬間もあった。それは、監視兵が塔に向かい、登りきるまでの僅かな隙であった。


1946年8月6日朝、捕虜達は整列して、作業現場へと歩き出した。この日、ヘルマンは貯えた賃金とパン、それに大胆な脱走計画を持って行った。現場に到着すると、いつもどおり監視兵が塔に向かい始めた。今だ!ヘルマンは一軒の家の裏手に回り、前方に広がるジャガイモ畑に飛び出した。一心不乱に走る。背後からの銃声を恐れたが、幸い、撃たれなかった。西へ、西へ、息を弾ませて走っていく。やがて、家並みが現れ、カザンの郊外に達した。市電が走っており、ヘルマンは堂々とそれに乗り込んで、市内へと向かった。市内の駅で降り、30分並んでパンを買い求めた。大勢の市民、兵士、警察がいたが、青い労働者服を着て、雑踏に溶け込んでいるヘルマンを怪しむ者は、誰もいなかった。


線路に沿って西に向かって歩き出すと、ヴォルガ河に架かる大きな橋に達した。しかし、そこには歩哨が立っていて、通行人を調べている様子だった。ヘルマンはしばらく身を潜めて、観察していると、列車が通過する度、橋の手前で減速している事に気が付いた。そこで、暗くなってから橋に忍び寄り、減速した列車に飛び乗った。ヘルマンは貨車に隠れて、広大なヴォルガと歩哨をやり過ごした。2時間後、列車は停車し、ヘルマンは降り立った。その時、不意に懐中電灯の光を浴びせられ、心臓が凍り付いた。そこには、武装した鉄道公安官が立っていた。ところが、相手は体制に忠実な役人では無かった。公安官は、ヘルマンをキセルしたロシア人だと見なして、「金はあるか?」と問うてきた 。


ヘルマンが50ルーブル渡すと、公安官はある方向を指差し、「あそこに乗り換えの列車が停まっている。もうすぐ発車だ。とっとと失せろ」と言った。ヘルマンは言われた通りの列車に向かい、貨車に隠れ込んだ。列車が出発して数時間経ったが、ここでヘルマンは間違いを犯した。暗い内に飛び降りるべきであったのに、夜明けまで乗って、終点に着いてしまったのだ。ヘルマンは貨車から這い降りていったが、その様子をロシアの監視兵に見られていた。ロシア兵が、「どこへ行く?どこから来た?」と近寄って来た。そして、最も恐れていた、「身分証は?」との質問をされた。ヘルマンは、前回の公安官の件を思い起こし、再び買収すべく、金を取り出した。しかし、今回の相手は、体制に忠実であった。ヘルマンは銃を突きつけられ、駅の公安室に連行されて、そこで3人の警察官に引き渡された。


ヘルマンは厳重に監視されたが、列車が入って来ると、2人の警察官が検査のため、そちらに向かった。残った1人の様子を窺いつつ、隙を見てドアを飛び出した。後ろから大声が上がったが、銃弾は飛んでこなかった。ヘルマンは走りに走って最終車両にしがみ付き、やっと乗り込んだ瞬間、列車は走り出した。今度は、次の駅に着くまでに飛び降りた。通報されている恐れがあるので、駅手前の藪で暗くなるまで身を潜め、次の列車がやってくると、貨車の下部にある鉄の支柱の間に這いずり込んだ。しかし、その列車の旅は、危険かつ不快なものとなった。車輪の轟音が何時間も耳をつんざき、飛ぶように過ぎていく枕木を見ていると、幻覚に襲われた。その苦痛に耐えながら、西へ、西へと距離を稼いでいった。


ヘルマンはある寒村で、モスクワ行きの旅客列車を見つけた。暗い内に列車の屋根に這い上がり、出発を待ったが、その間、機関車の吐き出す煙にむせて、苦しんだ。列車が走り出しても、屋根にはしっかり掴める様な場所はなく、振り落とされれば、一巻の終わりであった。そこでヘルマンは、列車が停車した時、客車のステップに降り立って、車両の壁に体を押し付けた。しかし、ここで車掌に見つかった。車掌はキセルだと思って、切符を買うか、ここで降りるか、どちらかにしろと言った。ヘルマンは金を払って切符を買い、普通に客席に座れる事になった。乏しい持金から支払ったが、致し方なかった。


ヘルマンはモスクワの郊外で降りて、翌朝、モスクワ市内を歩いて抜けていった。なるべく目立たぬよう、大通りは避けて進んだ。この街を支配するソ連の独裁者スターリンは、今も尚、100万人以上のドイツ人を収容所に押し込んで、強制労働に就かせていた。この赤い首都を、1人のドイツ人逃亡者が通り過ぎて行く。ヘルマンは7時間歩いて、モスクワの西端に着き、線路から程近い、荒れ果てた墓地で夜を過ごした。翌朝、近くにあった大操車場を観察して、西行きの列車を探した。そして、この日の夜、目的の列車を見つけた。車両の札には、「カリーニングラード行き」とあった。カリーニングラードは、旧名ケーニヒスベルクと言って、元はドイツの都市であった。


だが、ソ連はケーニヒスベルクを含む東プロイセン北部を自国領に編入して、1946年7月4日をもって、ケーニヒスベルクからカリーニングラードに改名していた。ヘルマンも、どこかでそれを聞いていたのだろう。ヘルマンは、錠の掛かっていない手荷物車を見つけると、それに乗り込んで荷物の中に身を潜めた。ヘルマンは、ソ連西方の都市スモレンスクで降りると、そこでパンを買い求めた。この都市は独ソの戦場となって破壊されており、その廃墟の一角で一晩を過ごした。翌夕方、駅まで歩いて行き、再び「カリーニングラード行き」の列車を見つけた。しかし、ヘルマンは躊躇する。何故なら、その列車は軍用で、大勢のソ連兵が乗り込んでいたからだ。


それでも、ヘルマンは西行きの列車の魅力には抗い難く、今までの行動で大胆にもなっていたから、思い切って乗り込む事にした。そして、炭水車に這い上がり、石炭の山の後ろに身を隠した。すると、2人のロシア人がその隠れ場所にやって来た。今度こそ万事休すか、いや、彼らも逃亡者だった。ロシアには、昔から大勢の逃亡者がいる。ヘルマンが出会った2人も、労働収容所からの逃亡者らしく、身分証も持っていなかった。こうして、3人の逃亡者が身を寄せ合って、西へと進んだ。しかし、途中、罐焚(かまたき)に発見され、石炭用のシャベルで脅されたので、次の駅で降りざるを得なかった。2人のロシア人逃亡者とは、ここで別れを告げた。それぞれ己の故郷を目指すのだ。


ヘルマンはまた、西行きの列車を見つけると、手荷物車に隠れて昼も夜も過ごし、1千キロ以上の距離を稼いだ。カリーニングラードに到着したが、この街は戦場となって廃墟と化しており、ドイツ兵捕虜が再建工事をさせられていた。ドイツ人住民の多くは追放されていたが、まだ数万人、居住していた。ヘルマンはここで、数週間振りにドイツ語の響きを聞いた。廃墟の中には大勢の人間がたむろしていて、そこで闇商売が行われていた。ヘルマンは、地下室で死亡したドイツ人の身分証を手に入れた。これはソ連司令部発行のものだったので、逃亡者として捕まる恐れは減った。しかし、ここに留まり続けると、いずれは嗅ぎ付けられる。長居は出来なかった。


しかし、故郷、ホーフガイスマーまでには、まだ三つの難関が立ちはだかっていた。

ソ連邦ロシア⇔ポーランド

ポーランド⇔ソ連のドイツ占領地

ソ連のドイツ占領地⇔西側諸国のドイツ占領地


これらの国境間は、厳重な警戒下に置かれていた。ソ連の支配下に入った東プロイセンでは、大勢のドイツ人がヘルマン同様、列車に紛れて国境を突破しようとしていた。しかし、その大半が失敗に終わり、警戒も強化されていた。ヘルマンもその事を聞き知っていたが、故郷を目指す決意に揺るぎはなかった。ヘルマンは夜間、列車の下部に潜り込み、枕木の幻覚に襲われながらも、第一の難関を突破した。そして、ポーランド領に編入された旧ドイツ都市、バルテンシュタインの駅に着いた。ヘルマンは西行きの列車を見つけて、空のタンク車に入り込み、容器の奥底に隠れこんだ。蓋は開いていたので、窒息の心配は無かった。列車は走り出し、やがて、旧ドイツ都市キュストリンで一時停車した。


誰か、砂利を踏みしめる足音が、近付いて来る。そして、ヘルマンのいるタンク車で立ち止まり、棒で叩いて、「出て来い!」と声を上げた。ヘルマンは、身を潜め続ける。この間、ヘルマンは息も止めようとしたが、顎が震えるのを止められなかった。再び、「出てこい!」との声が響いた。しばしの沈黙、ヘルマンは、何かおかしいと気付いた。存在が分かっているなら、どうしてタンクをよじ登って、中を確認しようとしないのか。そう、相手はかまをかけて、逃亡者を見つけ出そうとしていた。そうやって、いちいち確認する手間を省いていたのだ。足音は遠ざかって行き、離れた場所で、また、「出て来い!」と聞こえてきた。その直後、列車は出発した。何時間かして、列車は大きな駅に着いた。ヘルマンは、タンクの縁から慎重に辺りを窺うと、駅名はベルリンとあった。ドイツの首都だ。1946年8月25日、こうしてヘルマンは、第二の難関も突破した。


ヘルマンは、ベルリンに設けられていた難民集合所に向かった。そこで改めて身分証をもらい、久しぶりに温かい真っ当な食事をもらった。ここに到るまで、食料は僅かなパンと、生のジャガイモ、ニンジン、タマネギ、トマトで済ませ、水は、駅にあった水樽を飲み、時にはそれで体を洗っていた。この日、ヘルマンはちょっとした解放気分を味わうべく、映画館に足を運んだ。それは、ひどい吹き替えのロシア映画であったが、中身ではなく、映画を見ているという自分自身の自由を楽しんだ。しかし、ここに大きな危険が潜んでいた。上映が終わり、観客が退出しようとした際、出入り口で大騒ぎが起こっていた。ロシア兵が労働に適した男女を捕らえて、強制的にトラックに押し込んでいたのだ。これまでの逃避行で、本能が研ぎ澄まされていたヘルマンはすぐ様、事態を悟った。そして、映画館のロビーに戻り、壁際の凹みに隠れつつ、裏口を求めて脱出した。


ヘルマンは、ベルリンの東西境界線を突破すべく、しばらく情報収集に努めた。東西冷戦の象徴として有名な、ベルリンの壁である。だが、当時はまだ、鉄条網も地雷も無く、監視兵が時折、巡回するだけであった。1946年8月29日、ヘルマンは道を教わって、難なく境界線を越える事が出来た。最後の難関を突破して、西側のドイツ都市ヘルムシュテットに達した。ここからは通常の旅客者として、列車に乗り込んだ。そして、1946年8月30日、ついに故郷、ホーフガイスマーの自宅前に立った。数年に渡った戦争と捕虜生活、そして、ロシアの都市カザンから、ドイツの都市ホーフガイスマーまでの3千キロの旅もようやく終わる。ヘルマンは階段を上がり、震える手でドアを叩いた。ドアが開かれ、ヘートヴィッヒ夫人が、「ヘルマン!」と声を上げた。11歳と17歳の娘も、「パパ!」と駆け寄って来た。ヘルマンは、家族の温もりの中へと包み込まれていった。



戦後、ドイツでは捕虜の実体験を後世に伝えるため、大勢の復員兵から聞き取り調査を行った。この話は、その証言の1つであり、実話とされている。


主要参考文献、パウル・カレル及びギュンター・ベデカー共著「捕虜」


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