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豊臣秀次の菩提寺、瑞泉寺

瑞泉寺は、京都府京都市中京区にある寺である。天下人、豊臣秀吉の養子にして、関白であった豊臣秀次とその一族の悲運を今に伝える菩提寺である。



文禄4年(1595年)7月8日
、豊臣秀吉の甥で、その養子となっていた豊臣秀次は、謀反の嫌疑をかけられ、高野山に追放される。そして、同年7月15日、秀次は、金剛峯寺の柳の間にて腹を切り、28歳の生涯を閉じた。続いて秀吉は、秀次の妻子を殺害するよう命じる。秀次の正室で池田輝政の妹である若政所だけは輝政の元へと送り返されたが、側室とその子供達は許されず、斬首刑と決まった。それを聞いた妻女達は声を限りに嘆き悲しんだが、最早どうする事も出来ぬ身と悟ると、死出の旅支度を始め、沐浴をして身を清め、親しい人に遺書と遺品を残した。


8月2日、妻女達は牛車に乗せられ、市中を引き廻されて、三条大橋西南の河原に連れ出された。妻女らはそこで、塚の上に据えられた秀次の首と体面して、涙を新たにした。彼女達の哀れな姿には見物人も涙を禁じえず、警護の武士すら嗚咽した。正午頃から刑の執行は始まり、まず、秀次の遺児である男児4人と女児1人が、生母の手からむしり取られて刺し殺され、続いて、側室の上位である一の台を最初として、合計39人の婦女子が順番に斬首されていった。


11番目に斬首されたのは、出羽の大名、最上義光の息女、おいまの方(駒姫)であった。おいまの方は、東北山形から長旅をして7月に京都に到着したばかりで、秀次に対面する間も無いまま、この凶事に巻き込まれたのだった。おいまの方は東国一の美女と謳われていたが、蕾のまま、15歳で命を絶たれた。愛娘の死を聞いた最上義光は絶句し、義光夫人は8月16日に後追い自殺と思われる急死を遂げる。妻女達の遺骸は、刑場の脇に掘られた穴に無造作に放り込まれてゆき、そこに大きな塚が築かれた。


塚の頂上には、秀次の首を納めた石びつが据えられ、側に置かれた石塔には、秀次悪逆の塚と刻まれた。この異様な塚は、三条大橋を往来する人々の前に見せしめとして晒され、それは、江戸時代初期の洛中洛外図(舟木本)にも描かれている。花を手向ける者もいないその塚は、その後、鴨川の洪水を受けるなどして、荒れ果てるにまかされた。また、秀次が居住していた聚楽第や近江八幡城も破却され、秀次の痕跡はこの世から抹消されていった。


秀次は、なかなか実子に恵まれない秀吉に養子として迎え入れられ、武将としても政治家としてもまずまずの実績を残して、最有力の後継候補となっていた。しかし、秀吉に実子である秀頼が誕生すると、秀次は次第に疎まれるようになった。そして、秀次は数々の悪行を犯した挙句、謀反を企んだとして、切腹に追い込まれたのだった。秀次は20人以上の側室を抱えており、中でも、31歳の一の台と、その連れ子である13歳のお宮の方を母子揃って側室にするなど、養父、秀吉に劣らない好色振りを示していた。


秀次は品行方正では無かったかもしれないが、それでも、ここまで養父秀吉に忠実に従って、その天下制覇に貢献しており、謀反を企むような人物であったとは思えない。やはり、秀吉が我が子可愛さゆえに秀次の粛清を図ったと見るのが普通で、それに加えて豊臣政権内の内部対立も手伝って、死に追い込まれたのであろう。その処罰を正当化するため、数々の悪行を犯したとの流言が流され、秀次には殺生関白の汚名が着せられた。


慶長16年(1611年)、京都の豪商、角倉了以は、運河である高瀬川の開削工事に取り掛かった際、秀次悪逆塚と刻まれた石塔と、無残に荒廃した塚を見つける。了以は、秀次とその一族の悲運を思い、彼らの魂を慰めるべく、塚のあった場所に寺院を建立した。これが瑞泉寺の始まりで、瑞泉とは秀次の戒名の事である。現在、瑞泉寺は京都の街並みにひっそりと佇み、悲劇の歴史を今に伝えている。

 



瑞泉寺
瑞泉寺 posted by (C)重家

↑瑞泉寺


瑞泉寺は、豊臣秀次の菩提を弔うために建てられた寺で、鴨川の畔、三条大橋のすぐ側にあります。京都の街中にありますが、ここだけは静かで、悲しみを湛えた厳かな空気が漂っています。


瑞泉寺
瑞泉寺 posted by (C)重家

↑豊臣秀次の墓


中央の石びつには、秀次の首が納められていました。


瑞泉寺
瑞泉寺 posted by (C)重家

↑秀次と5人の殉死者


瑞泉寺
瑞泉寺 posted by (C)重家

↑処刑された秀次の妻子達


瑞泉寺
瑞泉寺 posted by (C)重家

↑洛中洛外図に描かれた塚


三条河原
三条河原 posted by (C)重家

↑現在の三条大橋


過去も現在も大勢の人が行き交う橋で、未来もそれは変わらないでしょう。


三条河原
三条河原 posted by (C)重家

↑三条大橋の袂下にある古い石仏


かつての三条河原は、処刑場として使われていました。ここでは大盗賊の石川五右衛門が釜茹でにされて処刑されており、戦国武将の石田三成も六条河原で処刑された後、その首は三条河原で晒されています。また、新撰組の近藤勇も東京の板橋で斬首された後、その首は三条河原まで運ばれて晒されています。その他にも、名も無き多くの罪人がこの地で処刑されたり、首が晒された事でしょう。上記の石仏はそういった罪人達を弔うために、置かれたのでしょう。


三条河原
三条河原 posted by (C)重家

↑三条河原


かつての鴨川は幾筋かに分かれて流れており、この辺りは大きな中州であったそうです。その荒れた河原で、秀次の妻子達は殺されました。そんな凄惨な事件も時の流れと共に忘れ去られ、橋を行き交う人々は何事も無かったかのように通り過ぎて行きます。そして、現在の三条河原は人々の憩いの場となって、穏やかな空気に包まれています。悲運に泣いた彼女達の魂も、今は安らかな眠りについている事を祈ります。

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松本城再訪

松本城の記事は以前にも書いているので、説明文は簡略化します。ただ、その時は写真が少なかったので、今回は写真を多めに載せてみます。


松本城は、永正元年(1504年)に小笠原氏の支城の一つとして築かれたのが始まりで、天正18年(1590年)~慶長18年(1613年)の石川氏の統治時代に大規模な近世城郭に作りかえられ、現在にその姿が伝えられています。


松本城
松本城 posted by (C)重家

↑在りし日の壮大な松本城

松本城
松本城 posted by (C)重家

↑太鼓門


松本城
松本城 posted by (C)重家

↑二の丸御殿跡


松本城
松本城 posted by (C)重家

↑天守閣下層


天守閣内部は、火縄銃が豊富に展示されていました。


松本城
松本城 posted by (C)重家

↑天守閣最上部


天井に祭られているのは、松本城の守護神、二十六夜神です。


松本城
松本城 posted by (C)重家

↑天守閣からの眺め


松本城
松本城 posted by (C)重家

↑天守閣からの眺め


松本城
松本城 posted by (C)重家


松本城
松本城 posted by (C)重家



松本城
松本城 posted by (C)重家


松本城を訪問するのは今回で二度目ですが、何度見ても、その質実剛健な姿には感嘆します。特に漆黒の天守閣は渋く、これぞ武士の城という感じがします。

虎御前山砦

虎御前山は滋賀県長浜市にある標高230メートルの山である。戦国時代には織田信長によって砦が築かれ、すぐ側にある小谷城の攻略に用いられた。


元亀3年(1572年)7月19日、織田信長は浅井長政を討滅せんと近江に出兵し、同年7月21日に小谷城に至って、その目と鼻の先にある虎御前山を占領する。そして、7月27日より織田軍は虎御前山に砦の建設を始め、8月中には完成させる。山の
木々は取り払われて、そこに切岸(人工的な断崖)、土塁、空堀が何重にも巡らされ、最高所には信長の陣所が設けられた。それは驚くべき土木工事量であり、何の変哲もない丘陵上に、突如として堅固な城が現出したかの様であった。この砦の完成によって浅井長政は小谷城に封じ込められ、手も足も出せなくなる。そして、天正元年(1573年)9月1日に小谷城が落ちるまで、虎御前山砦は前線基地として大きな役割を果たす事となる。


虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑虎御前山


虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑柴田勝家の陣所跡


虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑土塁と堀切


虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑土塁


この奥にある土塁が、羽柴秀吉の陣所跡です。


虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑木下秀吉の陣所跡


元亀元年(1570年)6月28日に行われた織田徳川軍と対浅井朝倉軍との激突、姉川の戦いで、織田軍は横山城を手に入れます。信長はここに木下秀吉を入れて、対浅井の最前線を任せました。ここから秀吉は2年に渡って浅井軍と対峙し、幾度となくその攻撃を撃退します。元亀3年(1572年)8月に虎御前山砦が築かれると、引き続き秀吉が城将となり、小谷城と浅井長政を押さえ込みます。そして、天正元年(1573年)8月27日夜半、秀吉は虎御前山砦より出陣すると、山麓を駆け上って小谷城の京極丸を乗っ取り、見事、落城に追い込みました。戦後、信長は、小谷城攻略の最大の功労者は秀吉であるとして、浅井の旧領、北近江三群をそっくり委ねます。これで、大名身分となった秀吉は、木下から羽柴に改名し、自他供に認める織田家の重鎮となりました。



虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑織田信長の陣所跡


虎御前山の最高所にあります。現在は木々が生い茂って見晴らしが利きませんが、往時には木々が取り払われて、四方に視界が広がっていたはずです。そして、信長はここから幾度となく、小谷城を睨みつけた事でしょう。



虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑虎御前山から小谷城を望む



虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑信長陣所近くの切岸


掘平されて段丘状になっています。


虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑滝川一益の陣所跡


今回は、虎御前山の北から柴田勝家、木下秀吉、織田信長、堀秀政、滝川一益の順番で陣所を訪ねてきましたが、山中にはこの他にも、佐久間信盛、丹羽長秀、蜂屋頼隆らの陣所もあるそうです。これらの言い伝えが本当ならば、織田家を代表する実に錚々たる顔ぶれが、この一山に出揃っていた事になります。



虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑虎御前山砦の推定復元図


相当、しっかりした作りだったのが伝わってきます。この虎御前山砦が完成した時、小谷城側からは、突如として、巨大な山城が現れた様に映ったのではないでしょうか。浅井長政とその将兵達は強い圧迫感を感じて、信長の力を否が応にも認めざるを得なかったでしょう。虎御前山砦はその存在だけで、小谷城の将兵の士気を下げる効果があったに違いないです。現場の当事者であった秀吉はこれに学んで、後年の小田原攻めで応用し、石垣山城を築いて北条氏の士気を挫き、降伏に追い込んだのでしょう。

小谷城 2

小谷城訪問の続きです。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑小丸跡


天正元年(1573年)8月27日夜半、織田家の部将、木下秀吉は清水谷から駆け上って京極丸を急襲、奪取します。秀吉は続いて京極丸の一段上にある小丸に攻撃を集中し、浅井長政の父、久政を自刃に追い込みました。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑京極丸跡


大広間に次ぐ広さがあり、近江守護の京極氏を迎えるために用意した屋敷があったと伝えられています。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑中丸跡


本丸と京極丸の中間に設けられており、本丸とは巨大な大堀切で隔てられています。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑大堀切


天正元年(1573年)8月28日、信長は京極丸まで上がると、自ら本丸攻撃の指揮を執らんとします。同日夜半、落城が目前に迫ると浅井長政は、妻、お市と、茶々、初、江の3人の娘を織田陣営に送り届けました。この時ばかりは両陣営も矛を収めて、静まり返っていたそうです。そして、翌8月29日、大堀切を挟んで、両軍最後の攻防が始まります。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑本丸跡


長政は本丸一つに押し込められながらも、抗戦意欲は衰えず、尚も数日間持ちこたます。それは己の最後を飾り立てんとする、武将の意地でした。9月1日、この日も長政は黒金門から打って出て、織田軍と激しく渡り合いますが、その後方ではついに織田軍が大堀切を乗り越えて本丸に殺到してきます。長政も異変を察して本丸に戻らんとしましたが、既に本丸周辺は織田軍で充満しており、入るに入れなくなりました。長政は本丸で自刃する心積りだったのでしょうが、それは適わなくなり、本丸直下にある赤尾屋敷へと向かいました。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑大広間跡


小谷城で最も広い平坦部で、かつては御殿が建っていたと推測されます。ここでは酒器が多く発掘された事から、城主と家臣が集って、軍儀や宴会を開いていたのでしょう。そして、浅井長政とお市も、ここで酒宴を楽しんだ事でしょう。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑首据石


天文2年(1533年)、初代、浅井亮政の時代、敵方の六角氏に通じた今井秀信の首を、この石の上に晒したとあります。



小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑虎御前山


小谷城とは、目と鼻の先にあります。織田信長は虎御前山を奪取すると、堅固な砦を築いて、小谷城攻略の前線基地としました。往時には樹木が切り払われ、簡単な小屋や塀が建てられて、旗指物が建ち並んでいた事でしょう。そして、この砦で最も見晴らしの良い場所から、一際立派な身なりをした1人の武将が腕を組んで小谷城を睨め付けていたはずです。それこそ織田信長であり、その姿を小谷城の浅井長政も見とめたかもしれません。



小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑馬洗池


この馬洗池は、文字通りの馬を洗う池ではなく、水堀の遺構だと考えられています。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑浅井長政自刃の地


浅井家重臣、赤尾清綱の屋敷跡で、本丸の東下にあります。浅井家重臣の屋敷はほとんど清水谷に置かれていたのに、この赤尾清綱だけ本丸直下にあるので、浅井家中において相当地位が高く、信頼の置ける人物であった事が窺えます。

天正元年(1573年)9月1日、本丸も落ち、追い詰められた浅井長政は赤尾屋敷に入り、ここで割腹して29歳の生涯を閉じました。自らと浅井家の滅亡を招く事になった信長離反の判断はともかく、長政が果敢な勇将であった事は間違いないでしょう。そして、長政が小谷城で見せた奮闘と潔い最期は人々の記憶に残り、お市との悲恋も絡めて、後々まで語り継がれる事になります。

小谷城 1

小谷城は滋賀県長浜市にある山城である。悲運の戦国大名、浅井長政と戦国の覇者、織田信長とが激しい攻防を繰り広げた城として余りにも有名である。


小谷城は浅井家初代、亮政によって築かれるが、正確な築城年代は不明で、大永5年(1525年)に亮政は小谷城に拠って六角軍と抗戦したとあるので、大永3年(1523年)~大永4年(1524年)間に築かれたと推測される。亮政は浅井家勃興の祖で、北近江の守護、京極氏の被官から始まって徐々に伸し上がり、京極氏に代わって北近江一の実力者となった器量人である。亮政の子、久政は父ほどの活躍は示していないが、それでも内政に勤しんで浅井家の基礎を固めた。


そして、三代目長政を迎えた頃に浅井家は全盛期を迎え、それに合わせて小谷城も拡張されて、北近江の戦国大名に相応しい一大山城となった。しかし、元亀3年(1570年)4月、長政は、同盟者で義兄に当たる織田信長から離反した事から、小谷城は信長の激しい報復攻撃に晒される事となる。小谷城は織田軍数万の攻撃を3年余に渡って持ちこたえ、その堅固さを存分に示したが、天正元年(1573年)9月、織田軍の総攻めを受けて、ついに落城する。その後、小谷城は織田家部将、羽柴秀吉の居城となるが、天正3年(1575年)、秀吉は琵琶湖畔に長浜城を築き、そこを居城と定めたので、小谷城は廃城となった。



小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑小谷城の絵図


本当は清水谷から、金伍丸を経て本丸まで行ったのですが、今回は反対側の山崎丸から紹介していきます。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑清水谷(きよみずだに)より小谷城を望む


正面に映る大きな山が大獄城で、その右手に小谷城があり、左手の山にも山崎丸や福寿丸といった砦があります。この清水谷の入り口は往時には土塁と水堀で固められており、その奥に浅井家重臣の武家屋敷が建ち並んでいました。



小谷城
小谷城 posted by (C)重家


↑山崎丸跡


元亀3年(1572年)7月21日、織田信長は大軍をもって小谷城に迫り、その外郭線である虎御前山と雲雀山(ひばりやま)を奪った事から、小谷城は危機に瀕します。同年7月29日、朝倉義景の援軍が遅まきながらやってきて大獄を固め、その上で山崎丸、福寿丸といった砦を築いて小谷城の側面を固めた事から、なんとか危機を乗り越えました。この時に山崎丸を築いたのが朝倉家の重臣、山崎吉家であった事から、その名が付けられました。山崎吉家は、軍略、政略に長けた朝倉家の重鎮であったようです。また、同年8月2日には、朝倉義景もこの山崎丸に陣取っています。




小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑福寿丸跡


この砦も元亀3年(1572年)8月頃に築かれました。朝倉家の築城術は浅井家よりも先進的で作りも違うので、それによって朝倉家による小谷城強化の跡が窺えます。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑大獄城跡


小谷城(標高494メートル)の最高所にあります。大永4年(1524年)頃、浅井長政の祖父、亮政によって小谷城が築かれた当初は、この大獄を本丸としていた模様です。その後、浅井氏は東尾根に新たな本丸を築くと、大獄は砦として用いられたと思われます。元亀3年(1572年)8月、信長の大軍が小谷城に迫って来た時、救援に赴いた朝倉義景は、この大獄に陣取り、ここを中心に山崎丸、福寿丸、月所丸といった砦を築いて小谷城全体の防御力を強化します。しかし、天正元年(1573年)8月12日、大獄北面を守っていた浅井家の臣、浅見対馬守が信長に寝返って織田軍を引き入れた事から、大獄は陥落します。これで小谷城は朝倉家との連絡を絶たれて、完全に孤立します。



小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑大獄城から山本山城を望む


正面中央に写っている山が山本山城で、その左奥には竹生島があり、右奥には賤ヶ岳があります。山本山城が、小谷城の側面を守っているのが、よく分かるかと思います。天正元年(1573年)8月8日、山本山城主の阿閉貞征が織田家に寝返った事から、織田軍は小谷城の側背面に回り込んで、全面包囲する事が可能となりました。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑大獄城から小谷城を望む


大獄城と小谷城とは、尾根伝いに繋がっているのが分かります。そして、大獄城は、
本丸よりも高所にあるので、防御上、非常に重要な拠点となります。こういった場所を朝倉軍が守っていたという事実が、朝倉家が浅井家よりも上位の存在であった事を物語っています。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑六坊跡


浅井久政の時代に、領国内の有力寺院六つの出張所をここに設けた事から、六坊と名付けられました。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑山王丸跡


小谷城の主郭の最上段にあり、石垣で厳重に固められていました。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑山王丸の石垣


小谷城 2に続きます。
 プロフィール 
重家 
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重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
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