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山崎古戦場

京都府乙訓群にある大山崎町は、羽柴秀吉と明智光秀との間で行われた天下分け目の決戦、「山崎(天王山)の戦い」が行われた場所として有名です。山崎は摂津国と山城国の国境にある古くからの要衝の地であり、両軍はここで壮絶な戦いを繰り広げました。



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↑天王山頂上

宝積寺なる寺まで車で行って、そこから歩いて30分くらいで頂上に着きました。しかし、頂上は樹木に覆われて見通しはまったくなかったです。それでも、天王山の山頂では大勢の人達がいました。彼らも歴史散策をしていたのでしょう。また山頂付近では、井戸の跡や石垣が僅かに散見され、後に秀吉が築いた、山崎城の痕跡が見られました。この山崎城は一時的に秀吉の本拠地ともなった城です。 



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↑ 
天王山から見下ろす山崎決戦の地。奥は京都市街。

天王山を登る途中に、展望台がありました。天王山では、ここからの眺めが一番かもしれません。

天正10年(1582年)6月13日、この眼下から見下ろす地で、秀吉と光秀の天下分け目の合戦が繰り広げられました。往時には天にも届かんばかりに両軍の喚声がとどろいていた事でしょう。この戦いの規模は、秀吉軍2万5千~4万余に対して、光秀軍1万6千余の戦いと云われています。しかし、秀吉軍は中国大返しによる強行軍なので、脱落者が出て合戦に間に合わなかった者がいたと伝えられていますし、光秀軍も占領地警備のため、戦力分散を強いられていました。なので実際には、秀吉軍2万 対 光秀軍1万くらいだったのではないでしょうか。どちらにせよ、光秀軍の劣勢は間違いなかったでしょう。 


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 ↑
山崎の戦いに於ける、秀吉、光秀軍の布陣図

展望台に設置されていました。 



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 ↑
勝龍寺城。

天守閣の様な建物が復元されていますが、あれはレストランの様な施設でした。 光秀軍は劣勢ながら、奮戦した模様で、秀吉軍に同等の損害を与えたと伝わりますが、やはり、最終的には数の差が物を言い、光秀軍は総崩れとなります。光秀は戦いに敗れた後、700人余の兵で、この勝龍寺城に立て篭もります。

 

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↑勝龍寺城


 
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↑勝龍寺城 北門

光秀は勝龍寺城に籠城したものの、この小城では秀吉の大軍を支える見込みが立たなかったため、夜間、少数の供を引き連れ、この北門から逃れたと云います。光秀は近江坂本に帰還途中、小栗巣に於いて落ち武者狩りの襲撃を受け、重傷を負って無念の自害を遂げます。

写真の地蔵群は、説明文は見受けられなかったのですが、おそらくは山崎の戦いに於ける戦死者を弔ったものなのでしょう。
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大和高取城

奈良県高市郡、高取町にある日本3大山城の一つ、高取城に行って来た時の写真をアップします。


高取城は、標高583メートル(比高350メートル)の山上に築かれた壮大な山城です。現地説明板によりますと、高取城は、この一体を治める越智氏という豪族が南北朝時代に築城したのが始まりとされています。しかし、戦国時代になると越智氏は衰亡し、城は一時廃城となります。その後、筒井順慶が城を復興、拡張して出城として用います。


この高取城が本格的に発展するのは百万石の大名として郡山城に入った豊臣秀長・秀次・秀保の時代になってからであり、大規模な近世城郭として生まれ変わります。徳川幕府の世になっても高取城は用いられ続け、天主を始めとする建物群は明治の世を迎えるまで現存していたのですが、明治中頃になって建物群は惜しくも取り壊されてしまいます
現存していれば、間違いなく国宝として扱われていたでしょう。残念な事です。



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↑壺阪口中門跡



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↑本丸の石垣

この城はとにかく石垣が立派の一言です。特にこの本丸石垣は高さがあって迫力があります。

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↑本丸石垣上からの眺め



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↑高取城の石碑

記念写真はここでどうぞ。




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↑大手門跡

城好きな方が、奈良県を訪れる事があれば是非、高取城を訪れてみてください。城に興味がない方でも古代遺跡の中を探索しているような感覚になって楽しめると思います。

丹波黒井城

2008年10月、兵庫県丹波市にある黒井城に登って来ました。この城は標高356メートル、比高242メートルの山城であります。


黒井城は、建武年(1335年)、播磨の実力者、赤松円心の次男、貞範が猪ノ口山山頂に砦を築いたのが始まりであるとされている。戦国時代に至ると、地元の有力者、赤井氏(荻野)が城を支配する様になる。天正7年(1579年)、織田信長の部将、明智光秀によって黒井城は落城し、光秀の持ち城となる。天正10年(1582年)、本能寺の変で明智光秀が滅亡すると、代わって羽柴秀吉の部将、堀尾吉晴が城主となる。


天正12年(1584年)、羽柴秀吉と徳川家康が尾張長久手の地で激突した時、赤井直正の末弟、時直が徳川家に通じて一揆を起こし、黒井城に立て篭もる。しかし、一揆はほどなくして鎮圧されたと見られる。慶長6年(1601年)、関ヶ原合戦後、川勝秀氏が城主となるが、ほどなくして廃城になったと見られる。



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↑黒井城全景

猪ノ口山と言う、山全体が城域となっており、遠めにも堂々たる風格があります。 この城を大規模な城に改修したのは、丹波の赤鬼と呼ばれた傑物、赤井(荻野)直正(1529年~1578年)です。直正は丹波6群26万石の内、3群13万石余り?を支配した丹波最大の勢力であった模様です。直正が織田信長と敵対するに至ると、武田・毛利・本願寺はこの地に使者を遣わして、直正と誼を結び、共に織田家に対抗します。


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↑八分くらい登った所にある休憩所。

登り始めると角度の強い坂道が続き、息が切れたので、ここで一服。


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↑休憩所の下には、アリ地獄の巣がありました。

私はアリ地獄や食虫植物などの罠を張るような生物が好きなんですよね。このアリ地獄を持ち帰って「さあ、このアリをお食べ」と言って、怪しく微笑む私の姿が思い浮かぶ様です。しかし、持って帰る手立てもないので、愛しいアリ地獄達はそのままにしておきました。


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↑東曲輪跡

なかなか立派な石垣ですが、これは織田家が黒井城を支配していた時に作られたものだと思われます。


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↑手前が二の丸で奥が本丸


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↑本丸

休み休み登って行きましたが、30分くらいで登頂出来ました。 ここからの眺めは素晴らしく、「やったどー!おらは天下を取ったどー!」と叫びたくなりました。


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↑黒井城から北方を望む

手前の山も城の一角です。
天正3年(1575年)明智光秀の第一次黒井城攻めの際、こちら北方から進攻して来たと思われます。天正4年(1576年)1月、光秀は黒井城包囲中、波多野秀治の裏切りに遭って軍勢は総崩れとなり、命からがらで丹波から脱出し、第一次黒井城攻めは失敗となります。


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↑頂上から、京都亀岡方面を望む

下にタンクが見えますが、かつてはそこにも砦がありました。 明智光秀の第二次黒井城攻めの際は、この方面から進攻して来たと思われます。天正7年(1579年)6月、光秀は波多野秀治の居城、八上城を攻め落とすと、余勢をかって、一挙に丹波を平定しようと、この黒井城にも攻め掛かります。この時、赤井家では、柱石である赤井直正が前年天正6年(1578年)に病死してしまっており、求心力を失っていました。そのため、黒井城はろくな抵抗も出来ないまま、天正7年(1579年)8月9日、城は落城してしまいます。


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↑黒井城の麓にある興禅寺

ここは黒井城の下館跡であり、赤井氏は普段ここに居住して政務を執っていたと伝わります。明智光秀が丹波を拝領すると、その重臣、斉藤利三が黒井城を任されます。天正7年(1579年)、この斉藤利三を父として、後の春日局ことお福がこの地で生まれます。

置塩城

2008年11月初旬、姫路市にある標高370メートルの山城、置塩城に登って来ました。この城は戦国大名、赤松氏の居城でありまして、播磨最大級の山城でもあります。


室町時代、赤松氏は播磨・備前・美作の3カ国を統治する有力守護大名であった。しかし、嘉吉元年(1441年)6月、赤松満祐の代の時、満祐は時の将軍、足利義教を暗殺する大事件を起こす(嘉吉の乱)。そのため満祐は山名宗全を始めとする幕府軍の討伐を受ける事となる。満裕は領内の守りを固めるが、三方から攻め入った幕府軍に敗れ、9月10日、最後は城山城にて一族諸共、滅亡する。


赤松惣領家は完全に滅亡したかに見えたが、辛うじて生き延びた一族と残党の者達の尽力によって、やがて御家を再興し、赤松政則の代になって、再び播磨・備前・美作の3カ国の守護にまで返り咲く。この政則という人物は、応仁の乱でも活躍した相当な傑物であったようだ。文明元年(1469年)、政則は置塩城を築いたと伝わる。


置塩城は戦国期中頃、赤松政村(晴政)・義裕・則房の時代に大規模な山城へと改修される。しかし、戦国期になると周辺では浦上・別所といった諸家の力が強まり、赤松氏は衰亡してゆく。置塩城も、度々襲撃されたと伝わる。天正8年(1580年)、赤松氏は、中国攻めで播磨に進出してきた織田家に降り、置塩城は羽柴秀吉の城割令によって廃城となる。天正13年(1585年)、秀吉によって、赤松氏は阿波1万石に移封される。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの折、赤松氏は西軍側に加担したため所領は召し上げられ、古くからの名門、赤松氏はここに滅亡する。



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↑案内板。画像をクリックすると大きくする事が出来ます。

山頂まで、だいたい40分ほどかかります。山深い城なので誰とも出会わないのではないか?と思っていましたが、意外にも家族連れ・夫婦・初老の方々のグループなど結構、大勢の人とすれ違いました。姫路市が近いので、そこから人が訪れるのでしょう。


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↑茶室跡


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↑三の丸の土塁


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↑二の丸付近の石垣

石垣の下にはブルーシートが被せられていました。現在でも発掘作業中のようで、土器など、1万点以上に及ぶ生活遺物が発見されているそうです。


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↑二の丸の大広間

置塩城は、この二の丸付近が城の中枢であったようです。往時には立派な建物が立ち並んでいたのでしょう。

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↑本丸からの眺め 北

本丸付近は樹木が多く、あまり眺めは良くなかったです。本丸付近には瓦の破片が散らばっていましたが、持ち帰りは禁止であります。往時には天守閣的な性格をもった建物が建てられていたそうです。



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↑本丸からの眺め 南

姫路市街の方向ですが、さすがに姫路城は見えなかったです。
右側に見える山には書写山円教寺がありまして、映画「ラストサムライ」が 撮影された場所でもあります。

赤松氏関連サイト「落穂ひろい」

http://homepage2.nifty.com/OTIBO_PAGE/index.htm

越前平泉寺 

養老元年(717年)、平泉寺は、白山の開祖、泰澄大師の手によって創建された。以降、平泉寺は白山信仰の修験場として栄え、聖俗両界に影響を及ぼす、北陸屈指の大寺院となる。戦国時代、平泉寺は社領9万石、僧兵8千余を有していたと云われており、戦国大名に匹敵するほどの勢力を誇っていた。谷々には数多くの建物が軒を連ね、寺内には48の神社、36の御堂、6千軒の坊院(僧侶の家屋)があったとされている。


やがて、朝倉氏が勃興して越前の支配者となると、平泉寺もそれに従った。朝倉義景の代となって、近江に出兵するようになると、平泉寺も援兵を出している。天正元年(1573年)8月、義景は、織田信長に大敗を喫すると、従兄弟の朝倉景鏡と平泉寺の武力を頼って、越前大野まで落ち延びていった。だが、ここで景鏡の裏切りにあって、無念の自害を遂げる。そして、越前が信長の手に落ちると、平泉寺と景鏡はこれに忠節を誓った。しかし、翌天正2年(1574年)1月、越前において一向一揆が勃発すると、平泉寺に暗雲が垂れ込み始める。


越前全土に一向一揆の嵐が吹き荒れ、これに身の危険を感じた朝倉景鏡は、平泉寺へと逃れた。一向一揆は、景鏡を敵と見なしていたので、それを匿った平泉寺も敵と見なした。こうして、一向一揆の大軍が平泉寺へと押し寄せて来る。まず一揆軍は、平泉寺と目と鼻の先にある村岡山に砦を築き始めた。これに危機感を覚えた平泉寺は、主力を差し向けて攻撃したが、一揆勢の激しい抵抗に遭って攻めあぐねる。そして、この主力が出払っている隙に、一揆軍の別働隊が平泉寺へと向かっていた。


一揆軍は間道を伝って平泉寺の背後に出ると、一気に寺内に乱入した。一揆軍は、突然の敵襲を受けて逃げ惑う人々を斬り捨てながら、寺内を放火して回った。壮大な伽藍にも火が放たれ、高僧達は経を唱えながら炎に飲まれていったと云う。朝倉景鏡もここに至って最後を悟り、僅か3騎で一揆軍に斬り込んでいって討死を遂げた。多くの人々が住む、一大宗教都市であった平泉寺は業火に飲み込まれ、全てが灰と化した。その後、平泉寺は、豊臣秀吉と越前松平氏の援助を受けて復興を遂げたが、往年の大寺院の姿を取り戻す事はついに無かった。明治の世を迎えると、信仏分離令により、平泉寺は仏教色を取り除いた白山神社となって今に至る。


現在、白山神社は小さな社であるが、その周辺の山林には手付かずの遺構、遺物が数多く眠っている。近年の発掘作業によれば、青磁製の皿に茶碗、青磁製の燭台、鎧の断片、銅銭、硯、風炉、行火(あんか)などが見つかっている。これらの出土品は、僧侶達が豊かな生活をしていた証であった。さらに僧坊跡から見つかった中国、景徳鎮産の青白磁観音像は、極めて希少価値が高い物であって、平泉寺が相当な財力を持っていた事を窺わせている。



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↑平泉寺参道

この平泉寺こと白山神社は、福井県勝山市にあります。ここは山間の広大な敷地に小さな社がたたずむ、緑豊かで静かな神社でありました。現在、福井県で最も有名な寺は、永平寺だと思いますが、もし、この平泉寺が往時のまま残されていたなら、県下1の名刹として大いに賑わっていた事でしょう。しかし、現在では規模の大きな石垣跡だけが往時を偲ばせるばかりで、訪れる人も少ないようです。


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↑御手洗池(みたらしいけ)

この御手洗池で、泰澄大師は白山の神の信託を受け、神を祭る社を建てる事を決したそうです。池の近くには、石組みが残り、建物が建てられていた形跡がありました。かつてはこの池のほとりで、僧侶達が祈りを捧げていたのでしょうか。


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↑杉並木と緑の苔

静かで厳かな雰囲気が漂っていました。この平泉寺は苔の寺としても有名です。


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↑平泉寺のかつての姿



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↑草むした石畳の道

かつては左右に建物が立ち並んでおり、大勢の人々の往来があったのでしょう。文治3年(1187年)、源義経が兄、頼朝の手から逃れて奥州に向かう途中、この平泉寺に立ち寄ったと伝えられています。


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↑発掘作業現場

平泉寺の発掘作業は現在でも進められており、何時の日か、その全貌が明らかとなるでしょう。

この日は10月初めだったにも関わらず、まだかすかにセミの音が響いていました。



 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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