このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
戦国史・第二次大戦史・面白戦国劇場など
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↑中央に白旗城
白い看板の後方の山が、白旗城です。左の方に民家が見えますが、その付近に登山口があります。
↑岩だらけの登山道
ごつごつした非常に険しい山道で、所々で休憩しながら登っていきました。500ミリリットルの飲み物を持っていきましたが、足りなかったです。 赤松円心を攻め立てた新田軍も苦労した事でしょう。白旗城自体が峻険な上に、山上部からこの様な岩石を放り投げられたでしょう。
↑石垣
これは、戦国期に作られたものだと思われます。
↑堀切
写真では分かり難いですが、かなりの切れ込みでした。
↑櫛橋丸跡
高台にある曲輪です。
↑櫛橋丸からの眺め
麓を流れる川は千種川
↑三の丸跡
山上部はかなり広いです。
↑三の丸にある土塁跡
本丸偏へと続く。
明石城は、兵庫県明石市にある平山城である。
元和3年(1617年)、徳川氏の譜代家臣である小笠原忠真が、信州松本から播磨明石に転封され、この地に築城する。時の将軍、徳川秀忠は西国大名の監視の役割を小笠原氏に求めた事から、普請費用として銀1千貫目を援助し、さらに普請奉行3人を派遣して、築城の手助けをした。元和6年(1620年)、明石城は、壮麗な近世城郭として完成した。ただ、天主台の石垣は築かれたものの、天守閣は築かれず、代わりに本丸に御殿が建てられた。
その後、明石城の城主は、目まぐるしく入れ替わった。寛永9年(1632年)、小笠原氏転封→松平氏入封。寛永16年(1639年)、松平氏転封→大久保氏入封。慶安2年(1649年)、大久保氏転封→松平氏入封。延宝7年(1679年)、松平氏転封→本田氏入封。天和2年(1682年)、本田氏転封→松平氏入封。以後、松平氏のまま、明治の世を迎える。明治7年(1874年)、明治政府による廃城令により、明石城は廃城となった。
この明石城は、日本の桜の名所、百選にも選ばれている桜の名所であります。私が訪れた日にも、大勢の花見客で賑わっておりました。