このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
戦国史・第二次大戦史・面白戦国劇場など
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岡山城は、岡山県岡山市北区にある平山城である。
岡山城は、南北時代に前身となる砦が築かれ、戦国期には金光氏と云う豪族の居城となっていた。天正元年(1573年)、備前国制覇を進める、宇喜田直家によって金光氏は滅ぼされ、直家はその居城を自らの本拠と定め、大規模な改修を施す。直家の子、秀家の時代になると、城は近世城郭へと作り変えられ、慶長2年(1597年)には天守閣の完成を見る。しかし、秀家は慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の合戦に破れて、八丈島へと島流しとなり、代わって小早川秀秋が新たな城主となる。
秀秋は岡山城を更に改築し、城域は2倍に拡張された。しかし、秀秋は慶長7年(1602年)に死去して、その治世は僅か2年で終わる。その後には、池田輝政の次男、忠継が入城し、以後代々、備前池田家の居城となる。池田氏治世の間にも城は逐次、増改築されてゆき、御殿や、後楽園などが作られていった。明治の世となると、城郭は取り壊されていき、天守閣と幾つかの櫓を残すのみとなる。やがて、天守閣は国宝に指定され、その保存が決まったものの、昭和20年(1945年)の米軍の空襲によって、惜しくも焼け落ちてしまう。その後、空襲の被害から免れた、月見櫓、西の丸西手櫓が国の重要文化財に指定され、天守閣は、昭和41年(1966年)、鉄筋コンクリート製で再現された。
↑岡山城
↑表書院跡
かつては、この辺りに御殿や書院が立ち並んでいました。
↑塀と狭間
↑石垣
↑月見櫓
↑天守閣
見た目はすこぶる立派なのですが・・・
↑城内部
中に入ると、近代的な建物で、エレベーターもあって興醒め・・・
その他、天守閣内部には、甲冑や槍、刀、文献資料などが展示されていました。
↑天守閣
天守閣の石垣は、米軍空襲時の激しい火災によって、変色している箇所があるとの事です。
↑天守閣からの眺め
↑天守閣からの眺め
弓木城は京都府、与謝野町岩滝にある山城で、近くには日本三景として有名な天橋立がある。
弓木城の詳しい歴史は定かではなく、鎌倉時代末期に地元の豪族、稲富氏が丹後岩滝の地に城を構えたのが、始まりであると云われている。室町時代になり、幕府の四職である一色氏が丹後守護となると、稲富氏はこれに従う。以後代々、稲富氏は一色氏の家臣として仕え、戦国に至る。天正6年(1578年)頃から、畿内には織田信長の支配が浸透し始め、その矛先は丹後一色氏にも向けられるようになる。信長は配下の細川藤孝や明智光秀らを差し向け、丹後攻略に当たらせた。
当時の一色氏当主は義道で、建部山城を居城として織田軍に抵抗した。しかし、翌天正7年(1579年)、相次ぐ国人の裏切りによって義道は孤立し、建部山城も落城する。義道は但馬に逃れようとして、途中、中山城に立ち寄ったところ、そこで家臣の裏切りに遭い、自害して果てた。義道死後、子の義定(満信とも)が残党を引き連れて、弓木城に立て篭もった。細川藤孝・忠興父子は弓木城を攻め立てるが、剛勇の誉れ高い義定の抵抗は激しかった。この戦いでは、一色氏の家臣の稲富直家(祐直とも)も、よく主家を支えて戦った。この直家は稀代の鉄砲の名手であり、細川方を大いに悩ませた。
弓木城を攻めあぐねた藤孝は、娘を義定に娶らせて、その懐柔を図る。義定もこれを受け入れ、細川氏の支配下に収まったかに見えた。しかし、天正10年(1582年)6月、本能寺の変が起こると、藤孝、忠興父子は明智光秀から距離を取ったのに対して、義定は光秀に味方する。山崎の戦いにて光秀が敗死すると、勝者となった羽柴秀吉は、義定を不信の目で見た。同年9月、その意向を受けた藤孝、忠興父子は、義定を宮津城へと招き入れ、これを謀殺せしめた。 この時、一色家の家臣、雑兵100人も殺害された。
義定謀殺後、一色家では義定の叔父である義清が跡を継ぎ、弓木城に拠って最後の抵抗を試みた。しかし、細川方はすぐさま軍を派遣し、弓木城を激しく攻め立てる。一色方の敗色は濃くなり、義清は最早これまでと細川方の本陣に斬りこみ、下宮津の海辺にて壮絶な討死を遂げたと云う。そして、弓木城も落城した。一色氏滅亡後、稲富直家は、その鉄砲の腕を買われて細川家に召抱えられ、弓木城はほどなくして廃城となった。尚、この丹後一色氏に関しては不明な点が多く、詳しい事柄は分かっていない。
↑天橋立と弓木城
奥に見えるのが天橋立で、真ん中下よりの丸い丘陵が、弓木城です。
↑麓から眺めた弓木城
↑弓木城内にある稲荷神社
夜には何か、出て来そうです・・・
↑弓木城
↑副郭
↑副郭付近からの眺め
往時には、眼下から細川方が攻め上がり、城からは弓、鉄砲が撃ち放たれて熾烈な攻防戦が繰り広げられたのでしょう。
↑主郭手前からの眺め
写真では分かり難いですが、急な坂道となっています。
↑上が主郭
堅固な構えであった事が伺えます。
↑主郭
ここに館があって、一色氏の当主が立て篭もっていたのでしょう。
↑主郭にある石碑
弓木城は比較的、街に近い山城ですが、訪れる人も少ないようで、ひっそりとしていました。弓木城は、かつての城主、一色氏共々、忘れ去られた城跡のようです。
上月城は、兵庫県佐用郡佐用町にある山城である。
上月城は、延元元年(1336年)、播磨守護赤松氏の支族である上月氏が播磨国西部、佐用の地に築城したのが、始まりであるとされている。嘉吉元年(1441年)、嘉吉の乱に巻き込まれて上月氏が滅亡すると、その後は赤松氏の持ち城となって戦国に至る。やがて中国地方の雄、毛利氏と、畿内の覇者、織田氏の勢力が播磨の地で接触するようになると、この山間の小さな城はにわかに注目を浴びる事となる。
天正5年(1577年)10月下旬、織田信長は毛利氏との対決を見据えて、有力部将の羽柴秀吉を播磨に送り込む。秀吉は任地に入るや、播磨中を飛び回って、各地の諸領主を次々に支配下に収めていった。秀吉の精力的な働きによって、播磨の過半は平定され、残るは宇喜多氏の支配下にある播磨西端のみとなる。当時の宇喜多氏は毛利氏に従属していたので、この地は毛利氏の最前線に当たっていた。そして、この播磨西端で一際、重要な城が上月城であった。上月城は備前、美作、播磨の三つの国の境目にある交通の要衝で、秀吉が中国地方に攻め入らんとすれば、何としても手に入れたい城であった。そして、 同年11月、秀吉は、上月城目指して進軍を開始する。
当時の上月城の主将は、宇喜多直家に属する赤松政範で、近隣の福原城と連携しつつ、秀吉軍に対抗する構えを見せていた。同年11月下旬、上月城は秀吉自らが主力をもって攻略に当たり、福原城の方へは竹中半兵衛と黒田官兵衛らの別働隊を差し向けた。秀吉軍が7日間休まず上月城を力攻すると、城兵は敵わずと見て、主将、赤松政範の首を取って降参を申し入れてきた。しかし、秀吉はこれを許さず、城兵全て撫で斬りとした上、捕虜とした女子供200人余を備前、美作の国境まで引っ立てて、悉く磔(はりつけ)にかけて晒したのだった。もう一方の福原城でも、城兵250人余が悉く斬り捨てられた。これらの過酷な処置は、周辺の諸領主に対する秀吉の脅しであった。
秀吉は攻略した上月城に、尼子氏の残党である尼子勝久、山中幸盛(鹿之助)ら7,8百人余を込めて守備を任せた。この時点で秀吉は播磨、但馬の大部分を支配下に収め、中国平定戦は順調に進んでいた。しかし、翌天正6年(1578年)3月、播磨最大の国人である別所氏が離反した事で、播磨平定は一からやり直しとなった。秀吉は直ちに三木城の封じ込めに取り掛かったが、ここで最も恐れていた事態が起こる。同年4月18日、毛利、宇喜多両軍がこの機に乗じて播磨に攻め入り、尼子残党が篭る上月城を囲んだのである。秀吉は三木城に押さえの兵を残すと、同僚の荒木村重と共に上月城の後詰めに向かった。
秀吉、村重軍1万人余は、上月城の北方にある高倉山に陣取って毛利、宇喜田軍3万人余と向かい合った。だが、秀吉軍は劣勢で手の出しようが無く、これから2ヶ月余り、ただただ遠巻きに上月城を見守る事しか出来なかった。万策尽きた秀吉は上洛し、信長の指図を仰いだ。だが、信長の出した命は、現実的で非情なものであった。上月城を見放し、三木城の攻略に専念せよとの断を下したのである。秀吉はこれに従うしかなかった。同年6月26日、秀吉、村重軍は高倉山の陣を引き払って撤退していった。上月城の将兵達はそれを見て、絶望に打ちひしがれた。
上月城の尼子残党は毛利軍に開城する事を決し、尼子勝久ら責任者の自刃をもって、城兵の助命を申し出た。同年7月3日、申し出は受け入れられ、まだ若い26歳の尼子勝久と、その嫡男で幼年の豊若丸も自害となった。尼子軍の主要人物であった山中幸盛は投降したが、危険人物であると見なされていたので、備中国高梁川、合の渡しにて斬殺された。山中鹿助幸盛、享年34か。この尼子主従の死によって、大名としての尼子再興の夢は閉ざされた。一方、かつての尼子家当主で、永禄9年(1566年)に毛利家に降伏していた尼子義久は客分として遇されており、その子孫は毛利家代々の重臣となっている。
落城後、上月城は廃城となった。この地を制した毛利、宇喜多両軍であるがこれ以上、進撃する事はなく、本国へと引き返していった。これで秀吉は一息入れる事が出来、以後、三木城の攻略に専念する事となる。翌天正7年(1579年)、宇喜多直家が離反した事から、毛利氏が播磨に関わる余裕は無くなった。戦闘の焦点から外れた上月城は急速に草木に埋もれてゆき、やがて忘れ去られていった。しかし、現在でも上月城周辺に目を凝らせば、包囲側の毛利軍の遺構や、それに対面する織田軍の遺構を見る事が出来る。それは、かつてこの地が織田、毛利の一大決戦地であった事を物語っている。そして、山麓にある尼子勝久と山中幸盛らを偲ぶ石碑が、今に尼子氏の悲運を伝えている。
↑歴史資料館
上月城の麓には、資料館があります。城への登山口は、ここからすぐの所です。本丸までは歩いて2、30分といったところでしょう。
↑堀切
↑中腹からの眺め
前方の山には、毛利軍が陣取って上月城を囲んでいたのでしょう。
↑上月城本丸
ここに尼子勝久らが詰めていたのでしょう。御家再興の儚い夢を抱きながら・・・
↑本丸にある赤松政範の供養碑
赤松政範は、秀吉軍に攻め入られた際、城兵にその首を掛かれ、無念の最後を遂げています。その後、城兵、女子供も皆殺しとなりました。
↑二の丸跡
ここには、山中鹿之助らが詰めていたのでしょうか。上月城は小さな山城で、千人以上の篭城は困難な様に思えます。軍記では2千人が篭っていたそうですが、実際には7、8百人ぐらいがせいぜいではないでしょうか。
↑二の丸辺りからの眺め
眼下には、上月城の城下が広がっています。この城下も、かつては古戦場であったと伝わります。
↑麓にある尼子勝久の供養碑
尼子勝久は、山中鹿之助らが担いだ神輿の様な存在で、影は薄いのですが、その最後は立派なものでした。