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敵持(かたきもち)

2010.05.27 - 歴史秘話 其の一

敵持とは、かつて人を殺めたため、討手から逃れている者の事である。逃亡の身である敵持に取って、深編笠、鎖鉢巻、鎖帷子は必需品であった。中には剃髪して僧となって身分を隠したり、虚無僧となって逃亡生活を続ける者もいた。討手に遭遇せず、無事生涯を終えんとしても、その死の間際まで緊張は解けなかった。そして、墓場まで秘密を持って行かねば成らなかった。敵持の身に、真の安息はなかったのである。


元文3年(1738年)に成立した「老死語録」と云う本には、ある敵持の話が載せられている。


徳川幕府に仕える旗本、杉浦内蔵助には親しく付き合っていた2人の老人がいた。1人は小山六左衛門と云う60代の独身の老人で、内蔵助が話相手として屋敷に住まわせていた。もう1人は内海意三と云う70代の独身の町医者で、六左衛門と同じく内蔵助の話相手として、その屋敷によく寝泊りしていた。


屋敷では2人の老人が同じ日に寝泊りする事も多く、おのずと親交が深まっていった。そういったある夜、寝物語に2人の老人はしみじみと語り合った。意三は、六左衛門を信用出来る友人と見込み、これは誰にも話さないでほしいと念を押した上で、自らの身の上話を始めた。「今から50年前、わしが20余りの頃、喧嘩で人を殺めた事がある。その後、殺害した者の子が成人して、仇討ちに江戸に出たと聞いたが、顔も知らないであろうし、名前も変えているので、まず見つかる事はないだろう。しかし、敵持の身を隠して仕官は出来ず、経歴を述べるのも憚られる。そのため、今まで奉公も結婚もしなかったのだ。」


六左衛門は意三が人を殺めた事があると聞いて驚いたが、それでも友人の話に聞き入っていた。しかし、その話は、段々と自分の身の上に重なってくる事に愕然とした。実は、この意三に討たれた者の子こそ、六左衛門に他ならなかったからである。六左衛門が11歳の時、父が討たれ、成人すると敵(かたき)を求めて江戸に出てきた。しかし、敵の行方はようとして掴めず、ただただ、歳月のみが過ぎていった。その探し求めた敵が、実に50年振りに、それも目の前にいたのである。六左衛門は、仇を討つと決した。


そして、後日の早朝、六左衛門は屋敷の門で待ち伏せをした。意三が薬箱持ちと共に門に入ってくると、60代前半の六左衛門は刀を振り上げ、「親の敵!」と名乗りを上げる。すると、70代前半の意三も刀を手に取って、返り討ちの構えを取った。そして、老人同士の斬り合いが始まった。六左衛門は、意三の薬箱持ちに一刀を浴びせられ、傷を負いながらも10歳若い事がものを言ったのか、とうとう意三を討ち果たす事に成功したのである。敵持は、墓場まで秘密を持って行かねばならない。気心の知れた老人であるからと秘密を漏らしたのは、意三の一生の不覚であった。


一方、六左衛門は町奉行所に出頭し、仇討ち成就を報告した。これで、50年間の苦労は報われるはずであった。ところが奉行所では、仇討ちが正当なものであるのかどうか、書類で確かめなければならず、その間、六左衛門は拘束される身となった。六左衛門が仇討ちを申請してから、既に40年余の歳月が流れており、その書類を探し出すのに奉行所は苦労した。六左衛門は老体で、負傷の身でもあったので、この長時間の拘束は実に応えた。ようやく仇討ちが認められ、六左衛門は解放されたものの、破傷風に罹ってしまい、ほどなくして病没してしまった。


この話が、本当にあった出来事なのかは定かではないが、同様の事例は確かにあったのだろう。

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白旗城 2

白旗城、訪問記の続きです。


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↑奥が本丸


ここまで来るのに1時間かかりました。これは本格的な登山でした。



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↑本丸


本丸には老夫婦がおられました。達者な足をお持ちです。



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↑本丸からの眺め


黄砂の影響でしょうか、白く霞んで、遠くまで見通せなかったのが残念でした。



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↑本丸に展示されている、城の航空写真




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↑散りかけた山桜


本丸に咲いていました。



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↑本丸にある石碑




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↑麓にある五輪塔


新田義貞との攻防戦時に出た、戦死者を祭ったものと伝わります。白旗城の麓には、赤松円心の館跡もあります。今では畑のようになっていましたが、往時には立派な居館があって、普段はそこで政務を執っていたのでしょう。


この白旗城は、色々見応えがあって良き城跡でした。また、地元の方が草刈を行ったり、杖を置いてくれてたりして、登山者に便宜を図ってくれています。お蔭様で、バテながらも気持ちよく登山できました。

白旗城 1

白旗城は、兵庫県赤穂郡上郡町にある山城である。この城は、標高440メートルの白旗山の山上部に築かれていて、南北朝時代の動乱期に主戦場となった。



白旗城は、建武3年(1336年)、播磨の実力者、赤松円心(則村 / 1277~1350))が白旗山に築いたのが始まりとされる。



後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を唱えて挙兵すると、円心はこれに加担する。しかし、鎌倉幕府打倒後、後醍醐天皇は独裁的な政治を始める。円心は倒幕戦に活躍したものの、恩賞もなく冷遇されたため、怒って播磨に引き込んだ。やがて、足利尊氏と後醍醐天皇が対立し、南北朝時代の幕が開けると、円心は北朝の尊氏に味方した。しかし、尊氏は南朝軍との戦いに敗れて、一旦、九州へと逃れた。



尊氏を破った南朝側は、今度は円心を討つべく、新田義貞を始めとする6万人余り(実数は2万人ほど?)の兵を播磨に向かわせた。円心は、白旗城を盾に2千人余の兵をもってこれを迎え撃った。義貞は圧倒的な兵力を有しながら、天険の要害である白旗城を攻めあぐね、50日余りもこの地に釘付けとなった。



その間、九州で勢力を回復した尊氏は東上を開始する。新田義貞は、尊氏東上を聞くと白旗城より撤退を開始するが、ここで赤松軍の追撃を受けて大きな打撃を被った。義貞は体制を立て直すべく、兵庫まで兵を引くが、ここで尊氏との決戦となった。この戦いでは、衰亡した新田軍が目立った働きを示す事はなかった。南朝の楠木正成は1人奮戦したものの退勢は変わらず、正成は討死し、南朝側は総崩れとなった。



この後も、南北朝の戦いは続いてゆくが、湊川の戦いは勢力が逆転する大きな転換点となった。そして、この尊氏の勝利に大きく貢献したのが、円心であった。建武3年(1336年)、室町幕府が成立すると、尊氏は円心の功を評し、播磨守護職に任命する。その後、赤松氏はさらに発展し、播磨、美作、備前の三カ国の守護に任ぜられると共に、京極、一色、山名と並ぶ四職として重んじられた。以後、白旗城は赤松氏の本城として用いられる。



その後の赤松氏と白旗城の歴史


康安元年(1361年)、南朝が京を占拠し、赤松則祐は逃れてきた足利春王丸(後の足利義満)を白旗城に迎えた。


嘉吉元年(1441年)4月、赤松満祐が第6代将軍、足利義教を殺害すると云う大事件を起こす(嘉吉の乱)。この後、赤松一族は満祐諸共、征討軍によって討ち滅ぼされた。この時に白旗城も落城したと見られる。


その後、赤松氏の残党である、赤松政則(1445~1496)が御家を再興し、再び播磨、美作、備前の守護となって勢力を盛り返す。しかし、その本拠は置塩城に移り、白旗城は支城として用いられた。白旗城は、戦国期にも用いられていたようだが、廃城の時期は不明である。


戦国期に入ると、家臣であった備前の浦上氏や播磨の別所氏、小寺氏らが実力を付けてきて戦国大名化するに伴い、赤松氏は勢力を縮小させていった。慶長5年(1600年)、関ヶ原合戦時には、赤松氏は僅か1万石の小大名となっていた。しかし、赤松氏は西軍に加担した事から、所領は没収され、名族、赤松氏はここに滅亡した。


 

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↑中央に白旗城


白い看板の後方の山が、白旗城です。左の方に民家が見えますが、その付近に登山口があります。



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↑岩だらけの登山道


ごつごつした非常に険しい山道で、所々で休憩しながら登っていきました。500ミリリットルの飲み物を持っていきましたが、足りなかったです。 赤松円心を攻め立てた新田軍も苦労した事でしょう。白旗城自体が峻険な上に、山上部からこの様な岩石を放り投げられたでしょう。



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↑石垣


これは、戦国期に作られたものだと思われます。


 

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↑山肌を流れる谷川


白旗城では、水に困る事はないでしょう。



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↑堀切


写真では分かり難いですが、かなりの切れ込みでした。


 

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↑櫛橋丸跡


高台にある曲輪です。


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↑櫛橋丸からの眺め


麓を流れる川は千種川



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↑三の丸跡


山上部はかなり広いです。




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↑三の丸にある土塁跡



本丸偏へと続く。



近世初期の武家の華「衆道」

2010.05.10 - 戦国史 其の二
16世紀から17世紀にかけて、日本の武家では衆道、すなわち男色(少年愛)が流行していた。それは単なる同性愛だけでなく、少年が年長の若者と深く交わる事によって、深い信頼関係を築くと共に、その知識や技術を教えてもらう切っ掛けともなっていた。また、裏切りが横行していた戦国時代、男色は信頼できる兄弟分を得る機会でもあった。しかし、男色は、時に男女の関係以上に燃え上がり、感情のもつれや、少年を巡る恋争いから刃傷沙汰になる事も珍しくなかった。


武田信玄がまだ20代であった頃、源助という小姓と男色関係にあった。しかし、源助は、信玄が弥七朗と云う少年と関係をもったとの噂を聞き、ひどく腹を立てた。それを知った信玄は、源助をなだめようとして自筆の誓文を送った。「弥七朗に対し、これまで何度も言い寄った事はあるが、その度、彼は腹痛を理由に断ってきた。この事について、私は全く嘘はついていない。
弥七朗に夜伽をさせようとした事はなかったし、これまでも無かった。いわんや昼も夜も、そのような事はしていない。ましてや今夜だってしようとは思っていない。お前とは特に親しくしたいと思っているのにこのような疑いをかけられ、はなはだ困り果てている。この言葉にうそ偽りがあれば、当国一二三大明神、富士、白山、八幡大菩薩、諏訪上下大明神の罰を蒙ろう」


信玄は、この誓文で潔白を主張しているが、誘った事には変わりなく、また、主君の誘いを、弥七朗が無下に断われたものだろうか?甚だ怪しいものである。そして、この書状の面白いところは、後に甲斐の虎とも称される大武将が、年下の小姓の機嫌を損ねないよう、必死に弁解する様子が伝わってくるところである。しかし、この信玄自筆の誓文に関しては、諸説がある。花押がぎごちなく、墨色が異なるところがあるので、後に模写されたものであるとの説と、信玄らしい流麗な書体が見られるので自筆であるとの説もあって、はっきりしない。だが、信玄が男色関係をもっていた事を強く示唆する書状ではある。


永禄2年(1559年)、上杉謙信は上洛の徒につく。京に着くと、謙信は室町将軍、足利義輝の館に招かれ、そこに関白、近衛前嗣(このえ さきつぐ)も加わって、盛大な酒宴が催された。若盛りの義輝、謙信、前嗣は大いに語り合い、飲み明かした。後日、今度は近衛前嗣の館で酒宴が催された。この場では、華奢な若衆がたくさん集められ、酒を飲み夜を明かした。前嗣によれば、謙信は若衆好きである事を公言していた。


天正12年(1586年)10月、東北会津の戦国大名、蘆名盛隆は小姓の大庭三又衛門と男色関係にあった。しかし、盛隆の寵愛が衰えてくると、三又衛門はこれを恨みに思い、主君を斬り付けるという凶行に走った。このため、将来を嘱望されていた蘆名盛隆は、僅か24歳でこの世を去った。三又衛門はすぐに誅されたが、これで蘆名家の屋台骨は大いに揺らぎ、後に伊達政宗の台頭を許す一因ともなった。


江戸時代初期、かつて東北で勇名を馳せた伊達政宗も、老境に差し掛かっていた。政宗は孫もいるような年齢であったが、この時、小姓の只野作十郎と大恋愛をしていた。そういったある日、政宗は酒の席にて、作十郎が他の男と寝ているのではないかと放言してしまう。これを聞いた作十郎は怒って、「浮気など思いもよらぬ事であります。自らの腕を切りつけ、その血判をもって潔白を証明致します」と記した起請文を差し出した。これを受けて政宗は大いに短慮を恥じ、「自分がその場にいたならば、脇差を押さえこんででも、その腕を傷付けはさせなかっただろう」と起請文に記し、更に自らの血判を押して、作十郎に謝罪の意を表した。 


尚、政宗はこの起請文において、「あなたも御存知の通り、私も若い頃は、酒の肴にするように腕や腿(もも)を突き通して衆道にのめりこんだものだが、昨今は世間の物笑いになりかねないので控えている。けれでも、私の腕や腿を見てもらいたい。(傷跡で)隙間もないほど、昔はこうした事をしてきたものである。さすがに今はもう出来ない」と述べている。つまり、政宗の腕と腿には多数の傷があって、しかも、それは衆道の愛の証として、自らが傷付けたものであったのである。それと、戦国の世も終わり、江戸の世を向かえつつあると、衆道もはばかれるようになってきた事が窺える。


衆道の絆は、時に肉親の関係以上のものとなる事もあり、その様な兄弟分が討たれた場合、もう一人の兄弟分は命懸けで仇討ちをした。しかし、兄弟分となった者が他の若衆にうつつを抜かしてしまうと、もう一人の兄弟分は激しく嫉妬し、浮気をした兄弟分を討つと云うことも少なくない。そして、討たれた兄弟分の浮気相手が、またその仇を討つという事もあった。当時の庶民はこのような衆道仇討ちを果たした者を、武士の誉れであると拍手喝采したのだった。このように衆道は、事件の火種になり易い危険な関係でもあった。そのため、幕府や諸大名は次第に衆道に否定的な立場を取るようになり、江戸中期を境にして衰退していった。

知られざる実力派武将

2010.05.01 - 戦国史 其の二

戦国時代の武将で、実力がありながら、あまり名の知られていない人物を、簡単な略歴と共に紹介したい。


八柏 道為(やがしわ みちため / ?~1595年)

出羽の戦国大名、小野寺家に仕える重臣であり、知友兼備の将と云われていた。出羽の狐と呼ばれた謀将、最上義光は小野寺領を虎視眈々と狙っていたが、それを防いできたのが八柏道為であった。天正14年(1586年)、有屋峠において、小野寺軍と最上軍が激突した際、八柏道為の活躍によって緒戦は小野寺軍の勝利に終わったと云う。この合戦の詳細は明らかではないが、最後は最上軍優勢の形で終わったようだ。


この後も、最上義光は小野寺領を併呑せんと狙い続けるが、その目的のためには八柏道為の存在がどうしても邪魔であった。文禄5年(1595年)、義光は一計を案じ、道為が内通しているとの偽書を送り、それを主君の小野寺義道の目に留まるようにしむけた。はたして、
義道はこの計略に引っかかり、道為を殺害してしまう。小野寺家の衰亡は、この忠臣を失った時から始まった。以後、義光は事あるごとに小野寺領を蚕食していった。


慶長5年(1600年)、関ヶ原合戦において、義道は緒戦は東軍側に身をおいたものの、義光憎しの一心から西軍に鞍替えしてしまう。関ヶ原合戦が東軍勝利に終わると、小野寺家は御家取り潰しとなり、義道は石見、津和野の地に配流の身となった。知勇兼備の将と謳われた八柏道為が存在していれば、また違った展開があったのかもしれない。ただ、八柏道為の人物像と活躍は「奥羽永慶軍記」と云う軍記によるところが大きく、それが史実であったかどうかは定かではない。


梅津 憲忠(うめづ のりただ / 1572~1630)

少年時代は浪人であったが、父、道金と共に常陸に移り住み、佐竹家の世話になるようになる。その間、憲忠は自らの研鑽に努め、後に開花する高い政治的素養を培った。やがて、佐竹義宣の近習に取り立てられ、その高い実務能力を買われて祐筆となった。憲忠は、初期佐竹藩の確立に尽力し、義宣の篤い信頼を受けて家老にまで出世する。

憲忠は実務だけでなく、馬術や鉄砲にも長ずる武功の士でもあった。大坂の冬の陣では、奮戦して重傷を負っている経歴もある。また、連歌や書道にも深い造詣がある文化人でもあった。弟の政景も優れた実務能力を有しており、兄弟揃って、佐竹家の藩政を主導した。弟の政景は、近世初期の資料として最良のものとされている、梅津政景日記を残している。


大縄 義辰 (おおなわ よしとき / ?~?)

常陸の戦国大名、佐竹家に仕えていた武将であり、佐竹義重の子息、盛重が会津の戦国大名、蘆名家を引き継ぐに当たって、共に会津に出向した。新しく蘆名家当主となった盛重であるが、まだ年少である事から、義辰がその後見役として実務を執った。義辰には、佐竹義重の意を汲んで、蘆名家を主導する事を期待されていた。

天正17年(1589年)、蘆名家は、伊達政宗と事を迎える事となり、両者は摺上原に於いて激突する。この時、蘆名先手衆の指揮官を務めたのが、佐竹系筆頭であった大縄義辰だったようだ。義辰ら蘆名先手衆は奮戦したものの、後方の蘆名部隊は戦いに参加しなかったので、衆寡敵せず伊達軍に打ち破られてしまう。蘆名家はこの戦いで滅亡し、盛重と義辰は常陸へと逃れた。義辰はその後、朝鮮出兵に伴って、肥前名護屋に在陣したり、水戸城の普請奉行を務めたりした。生没年は不詳である。

 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
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