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2026.10.11 - 
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備中高松城 

備中高松城は、岡山県岡山市北区高松にある平城である。備中高松城は、織田家による中国攻めの際、その部将、羽柴秀吉によって水攻めにあった城として有名である。



高松城の築城年代は不明で、地元の豪族、石川氏が築いたのが始まりとされる。石川氏は備中の戦国大名、三村氏に仕えていたが、天正3年(1575年)、毛利氏の侵攻を受けて三村氏共々、攻め滅ぼされる。この時、三村氏に属していた清水宗治は、毛利氏に鞍替えして高松城主の地位に就いた。以後の宗治は毛利氏に従って各地を転戦し、深い信頼を得るようになる。



天正5年(1577年)、織田家の部将、羽柴秀吉が中国攻めのため播磨に入り、毛利氏との全面対決が始まった。この頃の戦場は播磨であったが、天正7年(1579年)、毛利輝元に属していた備前の戦国大名、宇喜多直家が織田信長に鞍替えすると、毛利家の戦線は一挙に後退し、清水宗治が守備する備中東部が最前線となった。そして、秀吉は播磨三木城、因幡鳥取城といった主要な城を落としていくと、天正10年(1582年)3月、今度は備中高松城を攻略すべく、姫路城を出立する。秀吉は攻撃に先立って黒田官兵衛を派遣し、宗治の誘降に取り掛かった。宗治は毛利に従ってまだ7、8年ばかりの外様であり、脈は十分あると踏んだのである。



だが、宗治はこの申し出を丁重に断った。それでも秀吉は諦めず、再び使者を送って説得せしめたが、結果は同じであった。秀吉は、武力をもって高松城を奪取する他、手は無くなった。同年4月、秀吉軍は高松城北方にある竜王山に陣取り、攻略戦に取り掛かった。秀吉軍は宇喜多軍1万余を加えた3万余の大軍団で、宗治は高松城を中心に6つの支城に5千人余の兵を配置して、これを迎え撃った。



高松城は低湿地の微高地に築かれており、平城ながら三方を沼に囲まれた要害堅固な城であった。秀吉は、高松城を強攻すれば犠牲は計り知れないと判断し、低湿地に築かれている事を逆に利用して、水攻めにする事を検討する。まず手始めに、高松城を援護する支城の攻略を開始した。同年4月25日、秀吉軍は冠山城に猛攻を加えてこれを落とし、100人余を討ち取った。続いて、加茂城、日幡城と落とし、5月2日には宮地山城を開城に追い込んだ。これで高松城を支える6支城の内、4つまでが落ちた。こうして障害を取り払った後、秀吉軍は堤防工事に取り掛かる。



秀吉は、金に物を言わせて農民多数を動員し、5月8日~5月19日までの僅か12日間で、高さ7メートル、長さ3キロメートルもの堤防を完成させたと云われている。(実際には高さはもっと低く、長さも数百メートルであったらしい)。上流の足守川の水が堤防内に引き込まれ、折からの梅雨の増水もあって、高松城の大部分が水に浸かった。これによって城方は、兵糧搬入と出撃はほぼ不可能となる。秀吉の方は、水攻めによって城方を封じ込める事に成功したので、自軍の大部分を援軍にやってくるであろう毛利軍主力に備える事が出来た。



これに対して毛利方は、4月中旬に小早川隆景の軍が後詰めにやって来たが、兵力不足で成すすべがなかった。5月21日になって、吉川元春の軍や毛利輝元の本隊が到着し、毛利方はようやく陣容が整った。この時、毛利方は総力を挙げた3万~4人余の軍勢を揃えたと云われているにも関わらず、積極的な動きを見せなかった。一つは、秀吉軍の包囲網がほぼ完璧で高松城に近寄り難かった事、二つは、最早、毛利家の劣勢は覆い難く、織田家との早期和平を望んでいたからである。秀吉は毛利方のそういった弱味を熟知した上で安土に使者を送り、信長の直接出馬を仰いだ。信長もこれを了承し、明智光秀ら畿内の諸将を率いて中国戦線に赴くと答えた。



毛利方は、信長の直接出馬を知って焦りが募る一方であった。秀吉の一軍だけでも押され気味であるのに、この上に信長の本隊が現れれば、毛利家は一挙に崩壊しかねなかった。すでにこの年、天正10年(1582年)3月には、名立たる強豪であった武田家が、織田家の大攻勢を受けて滅亡している事実もある。毛利方はそうなる前にと交渉を試みたが、秀吉は有利な情勢を背景に大幅な譲歩を求めてきた。すなわち毛利領国、五カ国の割譲と、清水宗治の切腹を要求してきたのである。



毛利方にとって領土の割譲は、最早、受け入れざるを得なかったが、毛利家に忠節を尽くし、今でも城を守り続けている清水宗治の切腹だけはどうしても受け入れ難かった。こうして和平交渉は暗礁に乗り上げたが、秀吉には焦る素振りは無かった。何故なら信長の親征を前にして、毛利方に更なる譲歩を要求出来る立場にあって、交渉を急ぐ必要などなかったからである。だが、信長が中国戦線に現れる事は永久になかった。天正10年(1582年)6月2日、本能寺において、織田信長、信忠父子が明智光秀によって討たれたからである。



同年6月3日夜半、高松の秀吉陣営にて1人の密使が捕らえられた。その密使が携えていた書を見て、秀吉は信長の死と明智光秀の反逆を知った。秀吉は長年仕えてきた主君の死の衝撃と、自らが置かれている危険な状況を鑑みて暗澹たる思いになった。しかし、秀吉に逡巡する時間は無かった。毛利方に信長の死が知れ渡るのは時間の問題であり、そうなれば光秀と毛利氏の挟撃を受ける恐れがあった。実際、そうしようとして光秀の密使が来たのである。



毛利方に正確な情報が伝わる前に、秀吉には直ちに和平交渉をまとめる必要があった。秀吉は密使を斬り、周辺の街道を封鎖して厳重な情報統制を行った。その上で秀吉は、この6月3日の夜中か、翌4日早々に毛利家の使僧、安国寺恵慶を呼び出した。会談にあたって秀吉は、面目上、清水宗治の切腹は譲れないが、領土の割譲に関しては、ほぼ現状を維持する形で講和すると大幅な譲歩案を示した。



千両役者の秀吉は信長の死を秘し、「上様の親征を前にして、これが最後にして最良の和解の機会である」と説いた。毛利方にはまだ、信長の死は伝わっていなかった。安国寺恵慶はこれが最良の和解条件と信じて秀吉陣から出ると、その足で高松城へと赴いて、宗治に和解条件の事を伝えた。暗に切腹を促すためである。この頃、高松城では餓死者が出始めるなど、篭城の限界に近づいていたらしく、すでに宗治は自身の切腹と引き換えに開城する決意を固めていた。



そして、宗治は自らの命一つで、高松城の将兵と毛利家が救われるのならば本望であると述べ、直ちに切腹開城の運びとなった。6月4日巳の刻(午前10時)、宗治は湖上に船を浮かべ、敵味方多くの将兵が見守る中、「浮き世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」との時世の句を残すと、従容として死の徒についた。清水宗治、享年46。そして、宗治の兄、月清入道や、弟の難波伝兵衛、毛利家の軍監、末近左衛門らもその後を追った。



この清水宗治の自刃をもって、毛利家と織田家との和解は成り、高松城は秀吉軍に明け渡された。そして、毛利方が信長の死を知ったのは、そのすぐ後の6月4日夜半か、翌5日であったようだ。毛利方では、この機に乗じて秀吉を襲わんとの声も挙がったが、すでに高松城を明け渡して和約を結んでいる以上、名分が立たなかった。それに和約を破棄して攻撃せんとしても、秀吉はまだ陣を固めたままであり、隙は無かった。



また、毛利方がこの時に得ていた上方の情報は、はなはだ不正確で(明智光秀と柴田勝家が結託して謀反を起こしたと見なしていた)判断に迷っていた事もあり、ここは一旦、兵を引き情勢を見極める事に決した。そして、6月6日、毛利軍は、当初の和約通りに兵を引いた。秀吉は、この毛利軍の陣払いを見届けた上で撤退に取り掛かった。そして、宇喜多軍1万人余を毛利軍への備えとして残すと、明智光秀と雌雄を決すべく、2万人余りの兵を率いて急速に東上を開始するのである。



毛利方は、この秀吉の撤退を黙って見逃した。間に宇喜多軍が立ちはだかっているとは云え、もし、この時に大挙して毛利方が襲い掛かっていれば、情勢はどう転んでいたか判らない。本能寺の変後、織田家の関東方面軍司令官だった滝川一益が、北条家の逆撃を受けて大敗北を喫している事実もある。また、光秀の密使が迷わずに毛利陣に手紙を届けていれば、これまた情勢は大きく変わっていただろう。そうなれば、高松城の開城も清水宗治の自害も無くなり、おそらく、毛利軍は大挙して反撃を試みていただろう。秀吉は強運の持主であった。だが、強運だけでなく、好機を逸する事なく行動した秀吉には、やはり天下人の器があったのだろう。



歴史の転換点の舞台となった高松城であるが、落城後は宇喜多氏の持ち城となり、江戸時代初期には廃城となった。清水宗治の死後、その嫡子の景知は、秀吉から大名に取り立てようとの誘いがあったと云うが、これを断って小早川家の家臣として仕えた。その後、小早川家が断絶した事から景治は毛利家に復帰し、父以来の忠勇を評されて重臣格の身上となって、そのまま明治の世まで続く事となる。








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↑高松城全景




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↑高松城近辺の水田

かつて、この辺りが湿地帯であった事を偲ばせます


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↑高松城東方の山


秀吉の本陣が置かれていたとされる山です。



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↑資料館


高松城のすぐ近くにあります。


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↑水攻めの模型


資料館内にあります。これを見ると、大規模な堤防が築かれている様子が窺えますが、実際には堤防はもっと小規模であった模様です。また、高松城には5千人もの人数が篭っていたされる資料もありますが、これは誇張で、資料館の方に伺うと実際には千人程度ではなかったかと言う事でした。



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↑高松城本丸


かつて清水宗治らが、立て篭もっていた場所です。



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↑清水宗治の首塚


近辺の石井山に祭られてあったものが、明治時代になって高松城内に移築されました。



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↑清水宗治時世の句



「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」


宗治の兄、月清入道の時世の句も載せておきます。


「世の中に 惜しまれる時散りてこそ 花も花なれ 色も色なれ」

実際には、下記の句を読んだのは宗治であって、上記の句を月清入道が読んだとの声があります。いずれにせよ、心に響くものを感じます。



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↑清水宗治自刃の地


宗治自刃の地は、高松城の駐車場から歩いてすぐの寺の近くにあります。



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↑ごうやぶ遺跡


宗治自刃の地のほど近くにあり、宗治を慕って自害した家臣を祭ったものであるとされています。こういうものが現在まで語り残されている事から、この出来事は史実であると思われます。



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↑ハスの花


このハスは、高松城で公園造成工事をしていた際に見つかった種が、自然繁殖したものです。宗治在城時に咲いていたものと推測され、約400年振りに花を咲かせました。このハスは宗治ハスと呼ばれており、清廉な武人、清水宗治を偲ばせます。
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岡山城

岡山城は、岡山県岡山市北区にある平山城である。


岡山城は、南北時代に前身となる砦が築かれ、戦国期には金光氏と云う豪族の居城となっていた。天正元年(1573年)、備前国制覇を進める、宇喜田直家によって金光氏は滅ぼされ、直家はその居城を自らの本拠と定め、大規模な改修を施す。直家の子、秀家の時代になると、城は近世城郭へと作り変えられ、慶長2年(1597年)には天守閣の完成を見る。しかし、秀家は慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の合戦に破れて、八丈島へと島流しとなり、代わって小早川秀秋が新たな城主となる。


秀秋は岡山城を更に改築し、城域は2倍に拡張された。しかし、秀秋は慶長7年(1602年)に死去して、その治世は僅か2年で終わる。その後には、池田輝政の次男、忠継が入城し、以後代々、備前池田家の居城となる。池田氏治世の間にも城は逐次、増改築されてゆき、御殿や、後楽園などが作られていった。明治の世となると、城郭は取り壊されていき、天守閣と幾つかの櫓を残すのみとなる。やがて、天守閣は国宝に指定され、その保存が決まったものの、昭和20年(1945年)の米軍の空襲によって、惜しくも焼け落ちてしまう。その後、空襲の被害から免れた、月見櫓、西の丸西手櫓が国の重要文化財に指定され、天守閣は、昭和41年(1966年)、鉄筋コンクリート製で再現された。



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↑岡山城



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↑表書院跡


かつては、この辺りに御殿や書院が立ち並んでいました。



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↑塀と狭間



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↑石垣



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↑月見櫓



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↑天守閣


見た目はすこぶる立派なのですが・・・



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↑城内部


中に入ると、近代的な建物で、エレベーターもあって興醒め・・・

その他、天守閣内部には、甲冑や槍、刀、文献資料などが展示されていました。




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↑天守閣


天守閣の石垣は、米軍空襲時の激しい火災によって、変色している箇所があるとの事です。



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↑天守閣からの眺め



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↑天守閣からの眺め

硫黄島の日本兵

硫黄島は、太平洋戦争における、激戦地として知られている。だが、この島で戦った日本兵が、壮絶な環境下で戦っていた事はあまり語られていない。硫黄島は、東京から南、約1,250キロメートルの位置にあって、亜熱帯気候に属する。活発な火山活動によって形成されており、地熱が高く、島内各所から硫黄ガスが吹き上がる灼熱の島である。人が住むにはあまりにも過酷な土地であるが、それでも戦前には、1,000人余の人々がこの島に住んでいた。


1944年7月、サイパン島を始めとする、マリアナ諸島がアメリカ軍の攻撃を受けて陥落した。アメリカは、ここに戦略爆撃機B-29の基地を建設する。マリアナ諸島から飛び立ったB-29の大編隊は、日本の大都市を次々に焦土に変えていった。しかし、サイパン島から東京までは、2千キロもの距離があって、損傷機や故障機が力尽きて、墜落する事も多かった。そこでアメリカ軍は、東京から約1,080キロ南に位置する、硫黄島に目を付けた。そこに中間基地を設ければ、損傷機、故障機は容易に収容可能であるし、往路と復路に護衛戦闘機を付ける事も可能だった。こうして、アメリカは硫黄島攻略を決定する。日本側もその意図を察し、守備を固めるため、栗林忠道中将を始めとする2万1千人余の将兵を送り込んだ。戦局の逼迫を受けて、硫黄島民の壮年男性は徴用され、残る大部分は本土へと移送された。


硫黄島の守備に就いた日本兵であるが、彼らが最も困ったのは、飲料水の確保であった。島内に河川、湖沼などは無く、飲料水は雨水に頼る他なかった。硫黄島には毎日、スコール(熱帯地方の突発的豪雨)が降る事から、それが兵士達の命水となった。スコールが降り出すと、兵達は夜中であろうと飛び起きて、あらゆる容器を用いて水の確保を図った。水はドラム缶に貯蔵され、古いものから順に飲んでいった。だが、水にはドラム缶の錆びが混じって赤茶けており、ひどい味と臭いがした。その上、蝿(はえ)や蚊にたかられて汚染される事が多く、ほぼ全ての兵士が下痢に悩まされた。水不足は、当初から日本軍に重く圧し掛かっており、例え汚染された水であっても、兵士達は飲まざるを得なかった。


硫黄島に召集されて来た日本兵は、30~40代の年配者や10代の少年兵が多く、まともな戦闘訓練も受けていなかった。そんな彼らに与えられた最初の任務は、手掘りでの地下壕作りだった。しかし、この作業は、想像を絶する苦しみを伴った。壕内は熱気によって40度以上の高温に包まれ、掘り出した土も火傷をするくらい熱かった。また、壕内に硫黄ガスが充満して、呼吸困難に陥ったり、体調不良を訴える者が続出した。狭く熱い壕内での重労働は、当然、大量の汗が吹き出す。しかし、軍から支給される飲み水は、1人1日当たり、水筒1本分でしかなかった。無論、それで足りるはずも無く、スコールを掻き集めるのだが、それでも足りず、兵達は常に激しい喉の渇きを訴えていた。苦しみの果てに作り上げた壕であったが、そこには兵士だけでなく、大量の蟻(あり)やゴキブリも住まった。そして、寝ている兵士の体を這いずり回るのだった。


硫黄島の兵士達には、アメーバ赤痢、パラチフスが蔓延し、それに栄養不足、水不足が加わって、ふらふらの状態で陣地構築に勤しんでいた。大勢いた40代の応召兵は、衰えた老人の様になっていたと云う。過酷な環境下でひどく体調を崩したとしても、制空権、制海権を喪失した戦況下では、本土への後送など望み薄であった。アメリカ軍が上陸する以前から、爆撃、過労、病気によって命を失う者が、度々出ていた。彼ら兵士達を支えていたものは、御国のため、家族のために戦うという思いであった。それと、劣勢となっても、本土から援軍が駆けつけてくれるという淡い希望を抱いていた。1945年1月、アメリカ軍の上陸を目前に控え、栗林中将は、あくまでも陣地を死守し、一人十殺せよと兵士達に訓示する。


1945年2月16日、アメリカの大艦隊が硫黄島を埋め尽くすかのように取り巻き、それに合わせて猛烈な砲爆撃を開始する。その轟音と振動は地下壕にも響き渡り、恐怖を隠せずガタガタと震え出す兵士もいた。凄まじい準備射撃が3日間続いた後、2月19日、ついにアメリカ軍は上陸を開始する。日本軍は水際では抵抗せず、内陸にアメリカ軍を引き込んで叩く作戦を取った。日本兵が命懸けで作り上げた地下縦深陣地は存分に威力を発揮し、アメリカ軍を大いに苦しめた。


圧倒的な物量を誇るアメリカ軍に対し、日本軍は兵力、武器弾薬、食料水、全てにおいて大きく劣り、過酷な環境下で戦う前から消耗していた。だが、そんな状況であったにも関わらず、日本軍の戦意だけはアメリカ軍に勝るものがあった。アメリカ軍の死傷者は増え続け、攻略予定日の2月23日を過ぎても、激戦は続いた。そして、この23日、日米の兵士の士気に影響する、大きな出来事が起こる。アメリカ軍が、硫黄島の最高峰である摺鉢山を制圧して、山頂に星条旗を打ち立てたのである。6名のアメリカ兵が旗を打ち立てる姿は、劇的な戦場写真となって、世界中に知れ渡った。そして、戦後、この写真を元に、アーリントン国立墓地に巨大な海兵隊戦争記念碑が建てられる事になる。


擂鉢山を巡る攻防において、一つの話が伝えられている。海兵隊が苦労して打ち立てた星条旗であるが、翌朝、旗めいていたのは、なんと日本軍の日章旗であった。付近の残存日本兵が、夜の間に差し替えていたのだった。この日章旗は、硫黄島の守備隊からも目撃されており、彼らは大いに発奮した。アメリカ軍はすぐさま日章旗を降ろし、星条旗に差し替えた。ところが、翌朝になると、再び日章旗が翻っていたのである。しかし、この日を最後に擂鉢山に日章旗が翻る事はなかった。日本軍は少なからず落胆したが、それでも擂鉢山守備隊の、徹底抗戦の執念は受け継がれた。実際、戦いはここから激しさを増していくのである。世界で最も有名な戦争写真の主人公となった6名のアメリカ兵であるが、引き続く戦闘で3名が戦死する事になる。


限られた武器弾薬しかない日本軍は、地の利を生かし、肉弾戦をもってアメリカ軍に挑む。日本兵は死体に紛れて、アメリカ兵をやり過ごすと背後から手榴弾を投げ付けたりもした。それを受けて、アメリカ軍は日本兵の死体を見かけると、銃撃を加えるようになった。また、アメリカの強力なM4中戦車に対して、日本兵は爆雷を担いで、まさに捨て身の攻撃を行った。だが、アメリカ軍も肉薄攻撃への対策として、火炎放射器や機関銃で地面を薙ぎ払うように前進しだすと、日本兵の犠牲が増える一方となった。アメリカ軍は地下壕を見つける度、火炎放射器の火が奥まで届くよう、徹底的に焼き払って前進した。だが、日本兵は地下壕の奥深くに潜んでこれをやり過ごし、夜間になると姿を現して襲撃を加えた。


日本軍は必死の抵抗を見せていたが、絶海の孤島で補給も補充もないまま、いつまでも抵抗し続ける事は不可能だった。3月に入ると、日本軍は島の北部と東部の拠点を僅かに占有するのみとなる。3月15日、日本軍の抵抗はまだ続いていたが、アメリカ軍は既に大勢は決したと見て、硫黄島を占領したと宣言する。3月17日、追い詰められた栗林中将は、大本営に決別電報を打った。そして、3月25日夜半、栗林中将は、最後に一矢報いんと、4百人余の兵を率いてアメリカ軍陣地に突撃した。それは断末魔の万歳突撃ではなく、組織だった強攻だった。アメリカ軍は一時混乱し、日本軍はさらに進軍して飛行場突入を試みたが、その途上で、栗林中将共々、力尽きて散華した。3月26日、この栗林中将の戦死をもって、日本軍の組織的な抵抗は終わりを告げる。


だが、島内各地の地下壕には、まだ千人以上の日本兵が生存していた。彼らにとっては、これからが本当の地獄だった。残存日本兵の多くは、玉名山陣地にある南方空(南方航空隊本部壕)を目指した。南方空は巨大な地下壕で、アメリカ軍の上陸以前には、水、食料が豊富に備蓄されていたからである。しかし、アメリカ軍の警戒網を抜けられず、多くの残存兵が南方空に辿り着くまでに命を落とした。運良く残存兵が辿り着いたとしても、薄暗い壕の中で彼らが見たものは、絶望的な光景だった。うず高く積み上げられた死体に、うめき声を上げて横たわる大勢の負傷兵、それに、やせ衰えた残存兵達の姿であった。残っていた食料、水も僅かで、それらはすぐに底を突いた。壕の底には兵士達の排泄物が溜まっており、それらが放つ臭いと、死体の腐敗臭、熱気の入り混じった凄まじい空気が立ち込めていた。


夜になると兵士達は、食料、水を求めて島内を彷徨った。薬莢を拾って、溜まっていた僅かな水を飲み、埋まった壕を掘り起こしたり、死体をまさぐったりして、食べ物を求めた。また、アメリカ軍が捨てていったゴミから食べ物を探したり、危険を承知の上で、夜間、アメリカ軍陣地に忍び込んで、缶詰を強奪したりもした。だが、この忍び込みは非常な危険を伴い、成功するしないは別として、参加した兵士の半数は命を失ったと云う。飢えた兵士達は、シラミやウジ虫、炭まで食した。食べ物もそうだが、とにかく水、水が飲みたかった。兵士達は心身共に疲弊仕切って、その日1日を生き延びるだけで精一杯となる。場所によっては階級の上下もなくなり、横暴を振るった上官は兵士達によって壕から追放された。激しい飢餓によって、助け合う余裕もなくなり、僅かな水、食料を巡って仲間同士が争って、殺し合いになる事もあった。傷病兵の多くは治る見込みがなく、自決や、衰弱死の運命をたどった。


アメリカ軍は、まだ多くの日本兵が潜んでいる事を知ると、大掛かりな掃討作戦を開始する。アメリカ軍が投降を呼び掛けても、これに応じる日本兵は僅かだった。日本兵は、生きて虜囚の辱めを受けずとの教えを刷り込まれている。また、アメリカ軍の捕虜となると殺されると信じていたのと、家族共々、国賊扱いされるのを恐れて、あくまで投降を拒否したのである。日本兵のゲリラ戦は続き、3月26日以降もアメリカ軍には、死傷者が出続けた。アメリカ軍も容赦はなくなり、あらゆる手段を使って日本兵を一掃せんとした。壕の中に発煙弾、黄燐ガス弾を投げ込んで燻り上げ、更に爆薬をもって壕ごと爆破していった。また、大量の海水とガソリンを壕に流し込んで点火し、奥まで徹底的に焼き尽くしていった。


栄養失調、負傷、火傷、病気に加え、激しい掃討作戦によって日本兵達は次々に命を失っていった。この最中には、意識不明の傷病兵がそのまま捕虜となったり、抗戦を諦めて投降する日本兵も出た。5月17日、アメリカ軍は、掃討作戦が終わったと発表する。しかし、海岸沿いや地下壕の奥深くには、まだ日本兵は残っていた。彼らのゲリラ戦は、終戦まで続いたのである。そして、最後の残存兵2名が投降したのは、戦後の1949年1月の事であった。硫黄島での戦いでは、日本兵2万人が戦死し、1千人が捕虜となった。これは95%の死亡率である。アメリカ兵は6,900人が戦死し、2万2千人が負傷した。これは、太平洋戦争において、唯一、アメリカ軍の死傷者数が日本軍を上回った戦いであった。戦後から現在まで、硫黄島からは日本兵9千柱の遺骨が収集された。しかし、未だ、1万柱を超える遺骨が灼熱の地下に埋もれている。




海賊黒髭

2010.07.19 - 歴史秘話 其の一
世間で、「黒髭」と聞いたなら、樽に剣を1本1本刺していくと、突然、人形が飛び出す玩具、「黒髭危機一発」の事が、まず思い浮かぶ事だろう。実はこれにはモデルがあり、黒髭なる海賊は実在していたのである。


黒髭の前半生は定かではなく、1680年頃、イギリスのブリストルに生まれ、姓はエドワード、名はティーチ、タッシュ、サッチなどと伝わっている。1710年頃、黒髭は、国家公然の海賊活動である私掠船の1船員となってジャマイカに渡った。それからほどなくして、ホニーゴールド船長率いる海賊に加わる。黒髭には海賊としての天分があったらしく、類まれな勇猛さと統率力を発揮して、たちまち頭角を現していった。黒髭はホニーゴールドに見込まれて、2隻の船の内、もう1隻の指揮を任されるようになる。


ホニーゴールドの下、黒髭は目覚しい活躍を見せて、次々に獲物を仕留めていった。1717年、セント・ビンセント沖で、ホニーゴールドらはフランスの奴隷船を発見する。それは大きく頑丈で、40門の武装を誇る強力な相手であった。だが、2人は協力して、この大物を捕らえる事に成功する。蓋を開けてみれば、この船は宝の船で、金銀宝石、奴隷が山の様に積まれていた。ホニーゴールドはこれまでの黒髭の功を讃えて、この立派な捕獲船を与えた。黒髭は、この船をクイーン・アンズ・リベンジ号と名付けて、自らの乗船とした。この後、ホニーゴールドはほどなくして引退したため、海賊達の指揮は黒髭が執るようになった。


この後、黒髭は、北米ヴァージニアから、中南米のホンジュラスまで暴れ回って、20隻以上の船を拿捕した。黒髭はその内の何隻かを船団に加えて、更に強大になった。また、30門の大砲を積んだイギリス軍艦を打ち負かして、大いに名を上げた。黒髭のやり口は単純かつ冷酷で、相手が黙って積荷を差し出した場合は、そのまま生かして帰したが、抵抗した場合には容赦無く皆殺しにした。黒髭は恐怖の海賊、悪魔の申し子と呼ばれて、人々の恐怖の的となる。黒髭自身の自己喧伝もあって、カリブ海で彼の名を知らぬ者はいなくなった。引退していたホニーゴールドは、今や大海賊となった黒髭が、かつては自分の部下であったのだと人々に自慢した。


黒髭は長身かつ大柄な体格で、非常に恐ろしげな風貌をしていた。いかつい顔立ちに、たてがみのような黒髪をたなびかせ、そのあだ名の由来ともなった長い顎鬚は、編み込まれてへその辺りまで伸びていた。自慢の髭の両端には火縄が結い付けられ、それが煙を上げてくすぶる様は、見る者をたじろがせた。彼の気質は、その見た目同様、突飛で破天荒なものだった。黒髭は、ラム酒と火薬を混ぜた強烈な酒を愛飲していたと云う。また、黒髭は各地の港に愛人を持ち、その数は14人に達していた。


ある晩、黒髭は部下2人と共に酒盛りをした。黒髭は酒を飲みつつ、テーブルの下でピストルを2挺抜いた。船長の予想の付かない行動を知る部下の1人は、危険を察知して甲板へと逃れたが、もう1人はそのまま飲み続けた。すると、黒髭は突然、ロウソクを吹き消して真っ暗闇にすると、2挺のピストルを発射した。部下は膝を撃ち抜かれ、生涯不具の身となってしまった。他の乗員達から、何故そのような行為をしたのか問われると、黒髭は怒って、「時々、こういう事をしなきゃ、お前らも俺がどういう人間か忘れちまうだろうが!」と喚き散らしたと云う。


黒髭は、北米の大西洋岸から西インド諸島にかけての航路に絶えず出没して、付近を航行する船舶を荒らし回った。北米ヴァージニアの貿易業者達は黒髭に恐れ慄き、その貿易活動に支障を来たすまでになった。それらの人々の懇請を受け、イギリス海軍は討伐隊を送り込む事を決した。討伐隊の構成は、2隻のスループ船(中型の帆走軍艦)で、指揮官はロバート・メイヤード中尉であった。メイヤードは、まずは情報収集に努め、黒髭がノース・キャロライナのオクラコウク湾に潜んでいるらしいと聞き付けると、すぐさま現地に向かった。


1718年11月21日、この日、黒髭は拿捕した船を伴って、オクラコウク湾に停泊していた。イギリス海軍が迫っている事も知らず、黒髭は船上で18人の部下達と盛大な酒盛りを始めた。そして、翌日の朝になっても、まだ酒を飲んでいた時、突如、メイヤード率いる2隻の船団に急襲されたのである。だが、そんな泥酔状態であったにも関わらず、一旦、戦端が開かれると海賊達は手強かった。海賊達は猛反撃に転じて、1隻のスループ船の船長を殺して、乗員の大半を殺傷する。黒髭と海賊達は続いてメイヤードの船に斬り込みをかけ、熾烈な接近戦が始まった。


黒髭は、メイヤードを見かけると至近距離からピストルを発砲した。しかし、弾丸は逸れ、今度はメイヤードが反撃のピストルを撃って、黒髭に命中させた。黒髭は負傷に怯む事なく、今度はカトラス(短刀)を持って斬りかかった。黒髭は喚きながら激しく斬りかかり、メイヤードの剣を叩き折る。そして、黒髭が止めを刺そうと剣を振り上げたその瞬間、海軍兵の1人が剣をもって、その喉を切り裂いた。黒髭は瀕死の重傷を負ったにも関わらず、その闘志はまったく衰えを見せなかった。首から血を吹き出させつつ、尚もピストルを乱射し、海軍兵と渡り合った。だが、海軍の水兵に次々に斬り付けられて、20箇所もの刀傷を負い、弾丸も5発受けると、さすがの巨人もゆっくりと崩れていった。その罪業はともかく、勇猛果敢な海賊らしい死に様であった。


戦後、黒髭の首はメイヤードによって切り落とされ、船の船首に吊り下げられた。その首はヴァージニアへと運ばれ、ハンプトン河の河口に見せしめとして吊るされた。そして、戦いで捕虜となった黒髭の部下15人の内、13人も死刑となった。黒髭が海賊の首領として行動していた期間は、僅か2年余でしかなかったが、その激しい活動と破天荒な人物像は人々の語り草となり、やがて伝説となった。その後、作られた海賊ものの小説、映画などには、黒髭の印象が多分に取り入れられて現在に至っている。



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↑海賊黒髭


弓木城

弓木城は京都府、与謝野町岩滝にある山城で、近くには日本三景として有名な天橋立がある。



弓木城の詳しい歴史は定かではなく、鎌倉時代末期に地元の豪族、稲富氏が丹後岩滝の地に城を構えたのが、始まりであると云われている。室町時代になり、幕府の四職である一色氏が丹後守護となると、稲富氏はこれに従う。以後代々、稲富氏は一色氏の家臣として仕え、戦国に至る。天正6年(1578年)頃から、畿内には織田信長の支配が浸透し始め、その矛先は丹後一色氏にも向けられるようになる。信長は配下の細川藤孝や明智光秀らを差し向け、丹後攻略に当たらせた。



当時の一色氏当主は義道で、建部山城を居城として織田軍に抵抗した。しかし、翌天正7年(1579年)、相次ぐ国人の裏切りによって義道は孤立し、建部山城も落城する。義道は但馬に逃れようとして、途中、中山城に立ち寄ったところ、そこで家臣の裏切りに遭い、自害して果てた。義道死後、子の義定(満信とも)が残党を引き連れて、弓木城に立て篭もった。細川藤孝・忠興父子は弓木城を攻め立てるが、剛勇の誉れ高い義定の抵抗は激しかった。この戦いでは、一色氏の家臣の稲富直家(祐直とも)も、よく主家を支えて戦った。この直家は稀代の鉄砲の名手であり、細川方を大いに悩ませた。



弓木城を攻めあぐねた藤孝は、娘を義定に娶らせて、その懐柔を図る。義定もこれを受け入れ、細川氏の支配下に収まったかに見えた。しかし、天正10年(1582年)6月、本能寺の変が起こると、藤孝、忠興父子は明智光秀から距離を取ったのに対して、義定は光秀に味方する。山崎の戦いにて光秀が敗死すると、勝者となった羽柴秀吉は、義定を不信の目で見た。同年9月、その意向を受けた藤孝、忠興父子は、義定を宮津城へと招き入れ、これを謀殺せしめた。 この時、一色家の家臣、雑兵100人も殺害された。


義定謀殺後、一色家では義定の叔父である義清が跡を継ぎ、弓木城に拠って最後の抵抗を試みた。しかし、細川方はすぐさま軍を派遣し、弓木城を激しく攻め立てる。一色方の敗色は濃くなり、義清は最早これまでと細川方の本陣に斬りこみ、下宮津の海辺にて壮絶な討死を遂げたと云う。そして、弓木城も落城した。一色氏滅亡後、
稲富直家は、その鉄砲の腕を買われて細川家に召抱えられ、弓木城はほどなくして廃城となった。尚、この丹後一色氏に関しては不明な点が多く、詳しい事柄は分かっていない。







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↑天橋立と弓木城


奥に見えるのが天橋立で、真ん中下よりの丸い丘陵が、弓木城です。



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↑麓から眺めた弓木城




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↑弓木城内にある稲荷神社


夜には何か、出て来そうです・・・



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↑弓木城



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↑副郭



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↑副郭付近からの眺め


往時には、眼下から細川方が攻め上がり、城からは弓、鉄砲が撃ち放たれて熾烈な攻防戦が繰り広げられたのでしょう。



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↑主郭手前からの眺め


写真では分かり難いですが、急な坂道となっています。



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↑上が主郭


堅固な構えであった事が伺えます。


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↑主郭


ここに館があって、一色氏の当主が立て篭もっていたのでしょう。




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↑主郭にある石碑



弓木城は比較的、街に近い山城ですが、訪れる人も少ないようで、ひっそりとしていました。弓木城は、かつての城主、一色氏共々、忘れ去られた城跡のようです。

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