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2026.10.10 - 
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ノモンハン事件

1939年、ヨーロッパにおいて緊張が高まり、第二次大戦が勃発しようとしていたこの年、極東でも、日本とソ連が一触即発の緊張状態にあった。ソ連の影響下にあるモンゴル人民共和国と、日本の影響下にあった満州国が、両国の境目にあるノモンハン周辺の帰属を巡って対立を深めていたのである。5月、モンゴルの国境警備隊が、日本側が国境線と主張するハルハ川を渡って越境する事件が起こった。これに対して現地の日本軍は断固たる処置を取る事を決定し、航空隊による爆撃を加えた。これを受けてソ連軍は大挙出動し、日本軍も大部隊を送り込んで、事態は抜き差しならないものとなっていく。この紛争の表向きはモンゴルと満州国との対立であるが、実際にはソ連と日本の勢力争いであった。


この紛争では両国共、多数の戦闘車両を投入して、戦況の推移に大きな影響を与えた。ソ連軍の主力戦車はBT-5で、重量11・5t、長砲身の45mm砲を搭載、速度52km、装甲は主要部で13mm。準主力のBA-10装甲車は、重量5・1t、長砲身の45mm砲搭載、速度53km、装甲は8mm程度。ソ連軍の装甲車両は、速度、火力で日本戦車を上回っていたが、装甲は同水準で、燃えやすいという欠点があった。



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↑BT-5快速戦車


日本軍の主力戦車は95式軽戦車で、重量7・4t、37mm砲を搭載、速度は40km、装甲は最厚部で13mm。準主力の89式中戦車は、重量11・8t、短砲身の57mm砲を搭載、速度は25km、最大装甲厚は17mm。日本軍の戦車は全般的な性能で劣っており、数でも大きな劣勢を強いられていた。だが、乗員は高い錬度を発揮して、ソ連戦車相手に互角以上の戦いを繰り広げた。また、主機がディーゼルのため、被弾しても燃えにくいという利点もあった。



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↑95式軽戦車


日本の戦車隊は夜襲を決行して、ソ連軍に大きな損害を与えている事例もある。これは高い錬度と、阿吽の呼吸とも言える連携が無ければ、実現困難な作戦だった。以上の様に活躍した日本戦車隊であったが、高価な戦車を喪失する事を恐れた軍上層部によって、紛争半ばで戦線後方に下げられてしまう。一方、ソ連軍の戦車隊は、紛争を通じて最前線にあったため、大きな損失を出し続けた。


その損害のほとんどが、日本軍の94式37mm速射砲や、75mm野砲の直接射撃によるものだった。しかしながら、紛争終盤、その高速力と火力を生かして日本軍の戦線を突破、包囲するに当たっては、大きな役割を果たした。日本軍は戦車、装甲車合わせて100両余りを投入し、その内30両余を喪失した。ソ連軍はおおむね500両余の戦車、装甲車を前線に配備し続け、紛争を通じて350両余を喪失した。


この紛争では、空でも激しい戦いが繰り広げられた。日本軍の主力戦闘機は97式戦闘機で、最大速度は460km、主武装は7・7mm機銃2挺、機体重量は1100㎏で、非常に優れた格闘能力を有していた。しかし、防御力は無きに等しく、被弾には脆かった。ソ連の主力戦闘機はポリカルポフⅠ-16で、最大速度470km、主武装は7.62mm機銃4挺、または20mm機関砲2挺と7・62mm機銃2挺、機体重量は1266㎏であった。強力な武装と防御力を誇り、急降下性能も高かったが、格闘性能は低かった。紛争序盤は97式戦闘機に格闘戦を挑まれて非常な苦戦を強いられたが、後半に入り、その優れた武装と急降下性能を生かした一撃離脱戦法を取るようになると、逆に97式戦闘機が苦境に追い込まれた。



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↑97式戦闘機



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↑ポリカルポフⅠ-16


紛争初期6月中旬の段階で、日本軍は戦闘機、爆撃機合わせて126機、ソ連軍は戦闘機、爆撃機合わせて300機を配備しており、倍以上の戦力差があった。だが、日本軍航空隊の練度は高く、逆にソ連軍航空隊の錬度は低かったため、劣勢にも関わらず、前半は日本側が制空権を握った。しかし、後半に入るとソ連軍は機数を最大580機まで増強し、更にスペイン内戦や、中国戦線で経験を積んだ搭乗員を投入し始めると、200機未満でしかない日本側の損害は増大していき、やがて制空権を喪失するに至った。紛争を通じて日本軍は170機余の機体を喪失し、搭乗員110人余が死傷した。ソ連軍は250機余を喪失し、搭乗員170人余が戦死し、110人余が負傷した。



地上戦では、紛争全般を通して日本の歩兵は勇戦敢闘したが、高級参謀の杜撰な作戦と、最終段階でのソ連軍の大攻勢によって大きな損失を出した。一方のソ連兵も日本兵に劣らぬ勇戦振りを示したが、前半は日本軍に押され気味で、後半になって大量の重砲と戦車の援護を受けて勝利を掴んだ。日本軍の野砲は38式改75mm野砲、機動90式75mm野砲、38式12cm榴弾砲、96式15cm榴弾砲などであった。ソ連軍は107mmカノン砲、122mm榴弾砲、152mm榴弾砲が主力で、火力、射程、砲数、弾薬量とも日本軍の野砲に勝っていた。


この紛争で決定的な要素となったのが、両軍の補給力の差である。日本軍は、補給拠点である鉄道駅から前線までは200kmの距離があり、1,000両余の車両を駆使して補給、輸送に当たった。ソ連軍側では、補給拠点の鉄道駅から前線までの距離は650kmもあったが、これを3,300両余の車両や、馬匹まで用いて補給と輸送に当たった。日本側の方が補給線は短かく有利であったが、ソ連は大量の車両を投じて劣勢を補った。7月、日本軍は攻勢をかけ一時は優位に立ったものの、補給が続かず、戦線は膠着状態に陥った。その間、ソ連軍は大量の物資を集積し続け、8月になって大攻勢をかけて、日本軍を包囲撃滅するに至った。



紛争を通じての日本軍の人的損失は、戦死、行方不明者、合わせて9700人余りで、戦傷者8700人余、戦病者2300人余、総計21000人余りであった。ソ連軍の人的損失は、戦死、行方不明者合わせて8000人余、戦傷者15000人余、戦病者700人余、総計24000人余だった。


1939年9月16日、両軍の間で停戦協定が結ばれ、ソ連とモンゴルが主張する国境線で紛争は決着する。結果から見れば日本軍の敗北であるが、損失自体はソ連軍の方が大きく、双方痛み分けのような形であった。この紛争を通じて、日本軍はほぼ全ての面で劣勢であったが、兵士の高い錬度と旺盛な戦意によって、ソ連軍と互角に渡り合っていた。しかし、最終的には、ソ連軍の圧倒的な物量によって押し切られたのだった。この紛争から2年後、1941年、日本は、さらに圧倒的な物量を誇るアメリカとの戦争に望む事になる。


 

 
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消えたポーランド人将校

1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻を開始し、それに続いて9月17日には、ソ連もポーランドに侵攻を開始した。世界有数の軍事大国2ヶ国に前後から攻められて、ポーランドは成すすべなく敗北する。戦後、ドイツとソ連はポーランドを半分ずつ折半して、それぞれの領域に組み込んだ。それからほどなくして、両国はポーランド人に対して恐るべき弾圧を開始する。


ソ連は1万5千人余のポーランド人将校を拘束すると三つの集団に分け、ソ連領内にある収容所、コゼルスク、オスタシュコフ、スタロベルスクにそれぞれ連行していった。収容所では、ソ連の秘密警察(NKVD)が捕虜に思想教育を施そうとして、連日、共産党の宣伝映画を見せつけ、社会主義の資料を読ませた。しかし、秘密警察が熱心な教育を行ったにも関わらず、ポーランド人捕虜の大部分は思想改宗を良しとしなかった。そこで、秘密警察は非情の手段を用いる事を決した。1940年、秘密警察長官ベリヤは、ポーランド人将校の銃殺許可を求める書類を提出すると、スターリンはそれにサインを押した。


1940年3月から、収容所から撤収と称されて、捕虜が少人数ずつ連れ出されては列車に乗せられ、何処かへ連行されていった。収容所で名簿が読み上げられると、該当する捕虜は隊伍を組んで列車駅に向かう。捕虜の多くは撤収の意味を開放だと解釈して、嬉々として列車に乗り込んでいくのだった。残される捕虜は、何故、自分達は撤収に入れないのかと、不安に包まれた。だが、そんな捕虜に対して、収容所の職員は、「撤収せずにすんで、あなたは運が良いのだ」と慰めた。撤収の意味が処刑であると知っているのは、職員のみだった。この頃から、捕虜とその家族の郵便便りは滞るようになる。結局、全ての捕虜が撤収されていった。


捕虜は列車から降ろされるとトラックに乗せられ、広々とした空き地まで運ばれる。そこには、深さ2メートルから3メートルの広い長方形の穴が掘られていた。捕虜1人に2人の兵士が付き、両腕を抱えて穴を前にして立たせる。そして、処刑人が手馴れた手つきで、弾が頸部から前額部に貫通するような角度で拳銃を発射する。抵抗がなければ捕虜は大抵一発の銃弾で止めを刺され、顔を下にして穴に落ち込んでいく。だが、処刑を悟って抵抗を試みる捕虜もいた。そういった捕虜は両手が縄で縛り上げられ、その輪が首に回されて暴れれば首が絞まるようにされた。


それでも抵抗が激しい者は、銃剣で刺されたり、数発の銃弾が撃ち込まれた。死体は10層余り積み重ねられると土が被せられ、その上に植林されて痕跡が消されていく。この殺害は、カチンの森を始めとする各所で進めれた。こうして、1万5千人以上のポーランド人将校が虐殺されていった。後に収容所の責任者が語ったところによると、処刑人は捕虜の銃殺を済ませる度、食堂で大宴会をしていたそうである。


ソ連は、1922年の社会主義政権成立当初から反体制者を容赦なく粛清している。その過程で処刑方法も磨かれてゆき、熟練の処刑人も生み出された。システム化された処刑方と専門の処刑人の手にかかれば、迅速かつ大量に処刑をこなす事が出来るのだった。1937年から1939年にかけてのスターリンの大粛清では、将校4万4千人を含む100万人以上の人間が銃殺されている。その他、ソ連は銃殺にするだけでなく、酷寒の収容所送り、飢饉を伴う強制移住、栄養不足での重労働を強いて多くの人間を死に至らしめた。1922年のソ連の成立から1991年の崩壊まで、その政策によって死亡した人間の総数は2000万人を超えると云われている。


1943年3月、ドイツ軍は、占領していたソ連領スモレンスクにて、大量のポーランド人将校の遺体を発見したと発表する。これが、カチンの森事件である。ドイツはソ連の非道さを全世界に知らしめようとして、西側の中立国家を中心とする、国際調査団を受け入れた。調査団が実際に現地に立つと、それは想像以上の惨劇であった。数え切れないほどの遺体が無残な姿を晒して、森全体に凄まじい悪臭を漂わせていた。調査団の中には、衝撃の余り座り込んでしまう者や、嘔吐する者もいた。調査団によって発掘調査が行われ、4千4百体の遺体が掘り起こされた。多くの遺体は後ろ手で縛られ、頭蓋骨に銃弾の穴が空いていた。遺体の多くが私物を所持していたので、身元の確認は比較的容易に済んだ。この調査の結果、ソ連がポーランド人捕虜を大量虐殺していた事が世界に暴かれた。


一方、ドイツによるポーランド人虐殺も、ソ連に勝るとも劣らないものだった。ドイツは1939年から1940年にかけて、小中学校の教師、大学教授、聖職者といった指導層を狩り立てて、次々に銃殺に処していった。この犠牲者数は、2万3千人余に上っている。その他にも、ポーランドのアウシュヴィッツ収容所を始めとする殺人工場が幾つか建設されて、大量の人間がそこに放り込まれていった。結局、この第二次大戦を通してポーランドは、軍民合わせて600万人もの死者、行方不明者を出した。この惨劇は、大国間の欲望によって引き起こされたものであった。


西教寺 明智光秀ゆかりの寺

西教寺は、滋賀県大津市坂本にある寺院で、比叡山の東麓にある。明智光秀ゆかりの寺として知られている。


西教寺の開祖は聖徳太子であると云われているが、詳らかではない。西教寺は、室町時代の文明18年(1486年)、天台真盛宗の開祖、真盛上人が入寺してから、発展していった。しかし、元亀2年(1571年)、織田信長による比叡山焼き討ちの際には、この西教寺も焼き払われてしまう。その後、坂本を領有するようになった明智光秀によって西教寺は復興され、以降、光秀と西教寺は、深い関係を有するようになる。


この西教寺には、光秀が戦死した家臣を弔うために書いた戦没者供養米寄進状が残されている。これは、元亀4年(1573年)2月、光秀が軍を率いて近江堅田の城を攻めた際、18人の戦死者を出したため、彼らの名前を列記した上で西教寺に米を寄進し、その冥福を祈った書状である。光秀は、この他にも負傷した家臣を労わる書状を幾つか残している。家臣へのこのような細やかな心遣いは、他の武将ではほとんど見られないものだった。その一方で光秀は「明智光秀家中軍法」と云う軍法を定めており、家臣に厳しい軍律も課している。家臣に規律を遵守させつつも、思いやりの心で接する、おそらく光秀軍は織田家中の精鋭であった事だろう。


光秀には妻木熙子(ひろこ)と云う正室がいたが、彼女は光秀に先立って、天正4年(1576年)11月7日に亡くなったと云われており、その墓も西教寺にある。光秀は、熙子の葬儀をこの西教寺で盛大に執り行ったとか。また、この寺には光秀の妻の実家である、妻木一族の墓も建てられている。彼ら妻木一族は最後まで光秀に忠節を尽くし、多くの戦死者を出したとある。天正10年(1582年)6月2日、光秀は本能寺の変を起こすが、6月13日の山崎の戦いで敗死し、残された一族も坂本城で最後を迎える。6月18日、熙子の父とされる妻木広忠は、西教寺に明智一族と妻木一族の墓を建てた後、墓前で切腹して果てたと云われている。以降、西教寺では、縁が深かった明智一族と妻木一族の菩提を弔い続けた。



西教寺
西教寺 posted by (C)重家

↑西教寺の総門


この門は、坂本城の城門を移築したものであると伝えられています。


西教寺
西教寺 posted by (C)重家

↑西教寺の墓石群


雪煙が舞う墓石群の中に、明智一族の墓もあります。



西教寺
西教寺 posted by (C)重家

↑明智一族の墓


坂本城で散っていった明智一族の菩提が弔われています。



西教寺
西教寺 posted by (C)重家

↑妻木一族の墓


明智光秀の妻、煕子(ひろこ)は妻木氏の出で、その一族は光秀と深い繋がりを有しています。


西教寺
西教寺 posted by (C)重家

↑西教寺本坊


この本坊は昭和33年に改築されたものですが、元は光秀が寄進した坂本城の陣屋であったとされています。



西教寺
西教寺 posted by (C)重家

↑西教寺の日本庭園



西教寺
西教寺 posted by (C)重家

↑西教寺内に安置されている石仏



西教寺
西教寺 posted by (C)重家

↑客殿に安置されている光秀とその妻、煕子の木像


寺の方の承諾を得て、撮らせてもらいました。左に安置されている鞍は、光秀の重臣で湖水渡りの伝説を残した明智左馬助 秀満のものであると云われています。

近江坂本城

近江坂本城は、滋賀県大津市坂本にある平城である。


現在の坂本城は城域に国道が走り、宅地開発も進んで、坂本城跡の石碑と、光秀の石像がぽつんと立つだけの何とも侘しい城跡となっている。遺構らしい遺構は残されておらず、琵琶湖の渇水時に僅かに石垣の礎石が見られる程度である。だが、かつてここには華麗なる水城があった。



坂本城は、元亀2年(1571年)9月、織田信長による比叡山延暦寺の焼き討ちを経て、その部将である明智光秀に坂本の地が委ねられてから、築城が始まる。この坂本は比叡山の門前町として栄え、要路の北国街道(西近江路)がすぐ脇を通り、琵琶湖の水運の要衝でもあった事から、当時、日本有数の商業地として賑わっていた。この地に坂本城を築くよう命じたのは信長であった。琵琶湖は畿内の物流、交通の要であり、それに目を付けた信長は湖に面した地に多数の城を築かせている。


まずは琵琶湖西南、明智光秀の坂本城、続いて琵琶湖東北、羽柴秀吉の長浜城、琵琶湖西北、津田信澄(信長の甥)の大溝城、そして、琵琶湖東岸にあって、それらの城の中心となるのが、信長の居城、安土城であった。安土城の脇を固める形になるこれらの城には、信長にその能力を認められ、信頼を受けていた者が配されたのである。そして、それらの城の先駆として築かれたのが坂本城であった。


坂本城には、信長の構想力、光秀の築城術に加え、当時の先端技術がふんだんに注ぎ込まれていた。当時、瓦葺きによる城は少なかったのだが、坂本城では大々的に取り入れられた。また、坂本には寺院が多く、石垣作りが盛んであった事から、その技術集団である穴太衆の手によって総石垣の城となった。本丸は琵琶湖に突き出し、陸地に向かって二の丸、三の丸と築かれた。


それぞれの区画間に堀が廻らされ、三重の堀を成していた。しかも、それら全てが琵琶湖に直結していた。城には船着場があり、船での往来も可能であった。そして、本丸には日本初とも云われる天守閣が建てられ、それに対面する形で小天守閣もあったと推察されている。この様に瓦葺き、総石垣、天守閣といった新機軸が取り入れられた坂本城は、近世城郭の走りとも云える存在であった。


イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスも坂本城を見聞しており、「豪壮華麗で、信長が安土山に築いたものに次ぎ、明智の城ほど有名なものは、天下にないほどであった」と述べている。余談であるが、天正5年(1575年)5月14日、薩摩の武将、島津家久が上京して来た折には、光秀に舟遊びに誘われ、坂本城の付近を周遊するといった出来事もあった。


翌5月15日、城下にて連歌師、里村紹巴も交えて茶会が催され、この時にも家久は招かれた。しかし、家久は根っからの武人であったからか、茶道に疎く、ただ湯を所望するのみであったと伝わる。また、天正6年(1578年)には、堺の商人、津田宗及が坂本城に招かれて、茶会が催されている。茶会後、宗及は城内より、御座船を用いて安土に向かった旨が「天王寺屋会記」に記されている。


坂本城には光秀の妻子が住まわり、この華麗な城郭は、明智一族の繁栄の象徴でもあった。だが、それが急転直下するのが、天正10年(1582年)6月2日に光秀自身が起こした本能寺の変である。そして、同年6月13日、山崎の戦いにて光秀が敗死すると、坂本城にも羽柴秀吉の軍が押し寄せる。坂本城には、光秀の腹心であった明智秀満が僅かな一族、郎党と供に城に立て篭もった。


秀満は既に死を決しており、一緒に燃えるには惜しいとして、多くの宝物を羽柴軍の指揮官、堀秀政に明け渡したそうである。しかし、ルイス・フロイスの記述によれば、羽柴軍が坂本城に到着するにあたって、多量の黄金を湖に投げ入れたとも。いずれにせよ、それらを終えると秀満は一族を刺し殺してゆき、城に火を放った。そして、天下第二の城と謳われた坂本城は、明智一族と供に、炎の中へと消えていった。


戦後、羽柴秀吉の命を受け、丹羽長秀が坂本城を再建した。だが、天正14年(1586年)、琵琶湖南岸に大津城が築城されるに当たって、坂本城の廃城が決定する。大津城の築城に坂本城の資材が転用されたため、その遺構はほとんど消え去る事となった。その後、坂本城は人々の記憶から忘れ去られ、その位置も長らく不明となった。だが、昭和54年(1979年)、住宅開発に伴って発掘作業が実施されたところ、坂本城本丸付近と見られる場所から、厚さ10cmから30cmにもなる焼土層が発見された。


この焼土層からは、安土桃山時代の物と見られる変色した鬼瓦や陶磁器等が出土した事から、坂本城が焼け落ちた時に生じたものと推測された。出土品の中には中国産の白磁、青磁や、銭貨、鏡、刀装具が数多く発見され、また、本丸跡からは、城主とその一族が居住していたと見られる邸宅の石組みも見つかった。これらの発掘調査から、城主とその一族が優雅な生活を送っていた事が窺えた。これらは、明智一族の夢の跡であった。





近江坂本城
近江坂本城 posted by (C)重家

↑坂本城碑


国道161号線のすぐ脇にありますが、車で通行していると、ほとんどの場合、気付かずに通り過ぎてしまうでしょう。



近江坂本城
近江坂本城 posted by (C)重家

↑明智光秀の石像



近江坂本城
近江坂本城 posted by (C)重家

↑この辺りは本丸付近で、山に向かって二の丸、三の丸とありました。



近江坂本城
近江坂本城 posted by (C)重家

↑本丸付近の石垣


この石垣は一見して古さは感じず、公園を作る際に組まれたものだと思われます。かつてはこの辺りに御殿が建ち並び、明智一族が住まっていたと思われます。



近江坂本城
近江坂本城 posted by (C)重家

↑本丸付近からの眺め


琵琶湖の北方を望んでいます。湖に張り出した本丸跡で、この辺りに天守閣が建っていたのでしょう。往時には、光秀は湖に船を浮かべて賓客をもてなし、自慢の城を酒の肴としていた事でしょう。



近江坂本城
近江坂本城 posted by (C)重家

↑本丸付近からの眺め


琵琶湖の南、大津方面を望みます。湖に沈んでいるとされている、石垣の礎石の跡を探しましたが、見つける事は出来ませんでした。天下第二の名城と謳われた坂本城は、泡沫(うたかた)のように消えてしまっていました。


比叡山延暦寺 

比叡山延暦寺は、滋賀県大津市坂本にある大寺院である。標高848メートルの比叡山全域が境内であり、東塔、西塔、横川塔の3地区に分かれている。比叡山延暦寺とは、これら堂塔群の総称である。


比叡山は古代より、神の鎮座する山として人々に崇められていた。そして、平安時代初期、延暦7年(788年)、この神域に伝教大師こと最澄上人が上がり、寺院を建立する。これが、比叡山延暦寺の始まりである。以来、延暦寺は王城鎮護の寺として崇められ、大いに繁栄していった。この延暦寺からは、法然、親鸞、良忍、一遍、真盛、栄西、道元、日蓮といった多くの高僧を輩出しており、日本仏教の母山とも称されている。また、紀貫之、源義経、吉田兼好、上杉謙信といった多くの歴史上の人物もこの寺を訪れている。



この様に、延暦寺は日本の歴史にも関わる重要な寺院であったが、その一方、大きな権威を振りかざして、度々、横暴な振る舞いも行った。また、強力な僧兵集団を抱えている事もあって、時の権力者であっても容易に手を出せる存在ではなかった。平安時代、院政を布いて強力な権勢を誇っていた白河法皇ですら、「余のままならぬものが、賀茂川の水、双六の賽、比叡山の山法師である」と嘆かせるほどであった。また、室町時代には、時の将軍、足利義教と抗争し、一触即発の事態にもなっている。



戦国時代に入っても、延暦寺はその権威と武力をもって一種の独立国家の状態を守っていた。しかし、戦国も後半に入ると、時代の風雲児、織田信長が台頭してきて、延暦寺の寺領も押収される事態となった。自らの権威と領域を侵された延暦寺は、これに強い反発を覚える。そして、元亀元年(1570年)、朝倉、浅井家が信長と敵対し、両軍が近江西方で対峙する事態が起こると、延暦寺は朝倉、浅井軍に加担し、比叡山一帯に陣所を提供した。



無論、信長はこれに激怒するが、山上に朝倉、浅井軍が立て篭もっている現状では、手の出しようが無かった。それにこの時、信長は、朝倉、浅井軍だけでなく、大阪本願寺、三好家、長島一向一揆といった敵対勢力に取り囲まれており、非常な苦境にあった。そこで信長は、延暦寺に対し、申し出を行った。寺領を返還するので朝倉、浅井軍に味方する事を止めてもらいたい。出家の身ゆえ、一方に味方する事が出来ぬと云うなら、せめて中立を守ってほしい。もし、それも叶わぬと云うならば、全山焼き払うと。しかし、これに対する延暦寺の返答は無かった。これで信長の決意は固まった。



翌元亀2年(1571年)8月、信長は3万余りの大軍を率いて、近江に出陣する。織田軍は、南近江の浅井方の諸城を幾つか攻め取った後、三井寺(園城寺)近くに陣を張った。織田軍は、そのまま京に入るかに見えた。しかし、信長の真の目的は、延暦寺にあった。そして、同年9月12日、織田軍が琵琶湖西岸の坂本に到着するや否や、あらやる家屋に一斉に火を放ち始めた。この坂本は、平安時代から延暦寺と深いつながりを有しており、それに伴って大勢の僧侶も居住していた。だが、織田軍の見境のない放火によって、当時、近江で最も栄えていた町は灰燼に帰す事となる。


織田軍は続いて、延暦寺の守護神とされている日吉神社も放火し、さらに比叡山を駆け上って、根本中堂を始めとする諸堂を焼き払っていった。しかし、延暦寺の堂舎の多くは坂本にあったため、殺戮と放火は主に麓を中心に行われた。火に巻かれた僧侶、町人、女、子供らは方々を逃げ惑ったが、織田軍はそれを容赦なく斬り捨てていった。この惨劇は4日間続き、比叡山が炎上する様は、京都からも窺えたと伝えられている。当時の公家の日記である「言継卿記」によれば、この焼き討ちによる死者は3千人から4千人に上ったそうである。これによって、歴史ある大社、延暦寺と日吉大社は、多くの人々ごと、その存在を抹消された。


この比叡山焼き討ちで、大きな役割を担っていたのが明智光秀である。光秀は元亀元年(1570年)末から、比叡山の近隣にある宇佐山城に在城しており、以来、近隣の土豪や村の懐柔工作にあたっていた。焼き討ちの十日前、光秀が地元の土豪に宛てた書状には、山麓をなで斬りにすると、その決意のほどが述べられている。焼き討ちの後、信長は光秀の果たした役割を評して、延暦寺領を含む、滋賀郡約5万石の所領を委ねている。光秀には合戦で戦死した将兵の菩提を丁重に弔うなど、慈悲深い面もあったが、このように冷酷に徹する一面もあった。光秀には、信長とも通じる冷徹かつ合理的に物事を進めるところがあり、それが重用された一因ともなったのだろう。


その後、延暦寺は、豊臣秀吉の時代に再建が始まり、さらに徳川時代になって多くの建物が復興された。現在、延暦寺の中心とも云える根本中堂は、徳川家光による再建である。延暦寺は険しい山上にあるが、現在は車やケーブルで気軽に行ける寺院となっている。しかし、今だにかつての悲劇を物語る遺跡も残されている。昭和初期、ケーブルの建設工事中に多数の石仏が発見され、それらは山麓に一箇所にまとめられて祭られた。この石仏群は、焼き討ちからまだ間もない頃、地元の人が大勢の死者の冥福を祈って、作ったものであると伝えられている。比叡山坂本ケーブルの脇にある、霊窟と呼ばれる場所がそれである。




比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家

↑麓にある石段


かつては、ここから延暦寺に上がっていったのでしょう。


比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家

↑延暦寺の略図


昔は麓にも寺院が広がっており、坂本は延暦寺の門前町として栄えました。延暦寺は全国各地に寺領を所有しており、それが坂本を通じて寺に収められていたそうです。


比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家

↑延暦寺の象徴とも言える、根本中堂


この建物は、寛永19年(1641年)、徳川家光の手によって再建されたもので、国宝に指定されています。



比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家



比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家



比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家

↑戒壇院(かいだんいん)


延宝6年(1678年)建立の重要文化財です。



比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家

↑比叡山からの眺め。


写真中央、琵琶湖東岸に見える山の右端付近に、信長の居城、安土城跡があると思われます。



比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家

↑比叡山からの眺め


眼下に広がるのは坂本の町で、奥には大津市街が広がっています。今でこそ平穏な町ですが、信長による焼き討ち時には、麓は焼き尽くされ、阿鼻叫喚の地獄が広がっていたのでしょう。


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重家 
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