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2026.10.04 - 
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虎御前山砦

虎御前山は滋賀県長浜市にある標高230メートルの山である。戦国時代には織田信長によって砦が築かれ、すぐ側にある小谷城の攻略に用いられた。


元亀3年(1572年)7月19日、織田信長は浅井長政を討滅せんと近江に出兵し、同年7月21日に小谷城に至って、その目と鼻の先にある虎御前山を占領する。そして、7月27日より織田軍は虎御前山に砦の建設を始め、8月中には完成させる。山の
木々は取り払われて、そこに切岸(人工的な断崖)、土塁、空堀が何重にも巡らされ、最高所には信長の陣所が設けられた。それは驚くべき土木工事量であり、何の変哲もない丘陵上に、突如として堅固な城が現出したかの様であった。この砦の完成によって浅井長政は小谷城に封じ込められ、手も足も出せなくなる。そして、天正元年(1573年)9月1日に小谷城が落ちるまで、虎御前山砦は前線基地として大きな役割を果たす事となる。


虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑虎御前山


虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑柴田勝家の陣所跡


虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑土塁と堀切


虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑土塁


この奥にある土塁が、羽柴秀吉の陣所跡です。


虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑木下秀吉の陣所跡


元亀元年(1570年)6月28日に行われた織田徳川軍と対浅井朝倉軍との激突、姉川の戦いで、織田軍は横山城を手に入れます。信長はここに木下秀吉を入れて、対浅井の最前線を任せました。ここから秀吉は2年に渡って浅井軍と対峙し、幾度となくその攻撃を撃退します。元亀3年(1572年)8月に虎御前山砦が築かれると、引き続き秀吉が城将となり、小谷城と浅井長政を押さえ込みます。そして、天正元年(1573年)8月27日夜半、秀吉は虎御前山砦より出陣すると、山麓を駆け上って小谷城の京極丸を乗っ取り、見事、落城に追い込みました。戦後、信長は、小谷城攻略の最大の功労者は秀吉であるとして、浅井の旧領、北近江三群をそっくり委ねます。これで、大名身分となった秀吉は、木下から羽柴に改名し、自他供に認める織田家の重鎮となりました。



虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑織田信長の陣所跡


虎御前山の最高所にあります。現在は木々が生い茂って見晴らしが利きませんが、往時には木々が取り払われて、四方に視界が広がっていたはずです。そして、信長はここから幾度となく、小谷城を睨みつけた事でしょう。



虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑虎御前山から小谷城を望む



虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑信長陣所近くの切岸


掘平されて段丘状になっています。


虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑滝川一益の陣所跡


今回は、虎御前山の北から柴田勝家、木下秀吉、織田信長、堀秀政、滝川一益の順番で陣所を訪ねてきましたが、山中にはこの他にも、佐久間信盛、丹羽長秀、蜂屋頼隆らの陣所もあるそうです。これらの言い伝えが本当ならば、織田家を代表する実に錚々たる顔ぶれが、この一山に出揃っていた事になります。



虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑虎御前山砦の推定復元図


相当、しっかりした作りだったのが伝わってきます。この虎御前山砦が完成した時、小谷城側からは、突如として、巨大な山城が現れた様に映ったのではないでしょうか。浅井長政とその将兵達は強い圧迫感を感じて、信長の力を否が応にも認めざるを得なかったでしょう。虎御前山砦はその存在だけで、小谷城の将兵の士気を下げる効果があったに違いないです。現場の当事者であった秀吉はこれに学んで、後年の小田原攻めで応用し、石垣山城を築いて北条氏の士気を挫き、降伏に追い込んだのでしょう。
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小谷城 2

小谷城訪問の続きです。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑小丸跡


天正元年(1573年)8月27日夜半、織田家の部将、木下秀吉は清水谷から駆け上って京極丸を急襲、奪取します。秀吉は続いて京極丸の一段上にある小丸に攻撃を集中し、浅井長政の父、久政を自刃に追い込みました。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑京極丸跡


大広間に次ぐ広さがあり、近江守護の京極氏を迎えるために用意した屋敷があったと伝えられています。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑中丸跡


本丸と京極丸の中間に設けられており、本丸とは巨大な大堀切で隔てられています。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑大堀切


天正元年(1573年)8月28日、信長は京極丸まで上がると、自ら本丸攻撃の指揮を執らんとします。同日夜半、落城が目前に迫ると浅井長政は、妻、お市と、茶々、初、江の3人の娘を織田陣営に送り届けました。この時ばかりは両陣営も矛を収めて、静まり返っていたそうです。そして、翌8月29日、大堀切を挟んで、両軍最後の攻防が始まります。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑本丸跡


長政は本丸一つに押し込められながらも、抗戦意欲は衰えず、尚も数日間持ちこたます。それは己の最後を飾り立てんとする、武将の意地でした。9月1日、この日も長政は黒金門から打って出て、織田軍と激しく渡り合いますが、その後方ではついに織田軍が大堀切を乗り越えて本丸に殺到してきます。長政も異変を察して本丸に戻らんとしましたが、既に本丸周辺は織田軍で充満しており、入るに入れなくなりました。長政は本丸で自刃する心積りだったのでしょうが、それは適わなくなり、本丸直下にある赤尾屋敷へと向かいました。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑大広間跡


小谷城で最も広い平坦部で、かつては御殿が建っていたと推測されます。ここでは酒器が多く発掘された事から、城主と家臣が集って、軍儀や宴会を開いていたのでしょう。そして、浅井長政とお市も、ここで酒宴を楽しんだ事でしょう。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑首据石


天文2年(1533年)、初代、浅井亮政の時代、敵方の六角氏に通じた今井秀信の首を、この石の上に晒したとあります。



小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑虎御前山


小谷城とは、目と鼻の先にあります。織田信長は虎御前山を奪取すると、堅固な砦を築いて、小谷城攻略の前線基地としました。往時には樹木が切り払われ、簡単な小屋や塀が建てられて、旗指物が建ち並んでいた事でしょう。そして、この砦で最も見晴らしの良い場所から、一際立派な身なりをした1人の武将が腕を組んで小谷城を睨め付けていたはずです。それこそ織田信長であり、その姿を小谷城の浅井長政も見とめたかもしれません。



小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑馬洗池


この馬洗池は、文字通りの馬を洗う池ではなく、水堀の遺構だと考えられています。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑浅井長政自刃の地


浅井家重臣、赤尾清綱の屋敷跡で、本丸の東下にあります。浅井家重臣の屋敷はほとんど清水谷に置かれていたのに、この赤尾清綱だけ本丸直下にあるので、浅井家中において相当地位が高く、信頼の置ける人物であった事が窺えます。

天正元年(1573年)9月1日、本丸も落ち、追い詰められた浅井長政は赤尾屋敷に入り、ここで割腹して29歳の生涯を閉じました。自らと浅井家の滅亡を招く事になった信長離反の判断はともかく、長政が果敢な勇将であった事は間違いないでしょう。そして、長政が小谷城で見せた奮闘と潔い最期は人々の記憶に残り、お市との悲恋も絡めて、後々まで語り継がれる事になります。

小谷城 1

小谷城は滋賀県長浜市にある山城である。悲運の戦国大名、浅井長政と戦国の覇者、織田信長とが激しい攻防を繰り広げた城として余りにも有名である。


小谷城は浅井家初代、亮政によって築かれるが、正確な築城年代は不明で、大永5年(1525年)に亮政は小谷城に拠って六角軍と抗戦したとあるので、大永3年(1523年)~大永4年(1524年)間に築かれたと推測される。亮政は浅井家勃興の祖で、北近江の守護、京極氏の被官から始まって徐々に伸し上がり、京極氏に代わって北近江一の実力者となった器量人である。亮政の子、久政は父ほどの活躍は示していないが、それでも内政に勤しんで浅井家の基礎を固めた。


そして、三代目長政を迎えた頃に浅井家は全盛期を迎え、それに合わせて小谷城も拡張されて、北近江の戦国大名に相応しい一大山城となった。しかし、元亀3年(1570年)4月、長政は、同盟者で義兄に当たる織田信長から離反した事から、小谷城は信長の激しい報復攻撃に晒される事となる。小谷城は織田軍数万の攻撃を3年余に渡って持ちこたえ、その堅固さを存分に示したが、天正元年(1573年)9月、織田軍の総攻めを受けて、ついに落城する。その後、小谷城は織田家部将、羽柴秀吉の居城となるが、天正3年(1575年)、秀吉は琵琶湖畔に長浜城を築き、そこを居城と定めたので、小谷城は廃城となった。



小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑小谷城の絵図


本当は清水谷から、金伍丸を経て本丸まで行ったのですが、今回は反対側の山崎丸から紹介していきます。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑清水谷(きよみずだに)より小谷城を望む


正面に映る大きな山が大獄城で、その右手に小谷城があり、左手の山にも山崎丸や福寿丸といった砦があります。この清水谷の入り口は往時には土塁と水堀で固められており、その奥に浅井家重臣の武家屋敷が建ち並んでいました。



小谷城
小谷城 posted by (C)重家


↑山崎丸跡


元亀3年(1572年)7月21日、織田信長は大軍をもって小谷城に迫り、その外郭線である虎御前山と雲雀山(ひばりやま)を奪った事から、小谷城は危機に瀕します。同年7月29日、朝倉義景の援軍が遅まきながらやってきて大獄を固め、その上で山崎丸、福寿丸といった砦を築いて小谷城の側面を固めた事から、なんとか危機を乗り越えました。この時に山崎丸を築いたのが朝倉家の重臣、山崎吉家であった事から、その名が付けられました。山崎吉家は、軍略、政略に長けた朝倉家の重鎮であったようです。また、同年8月2日には、朝倉義景もこの山崎丸に陣取っています。




小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑福寿丸跡


この砦も元亀3年(1572年)8月頃に築かれました。朝倉家の築城術は浅井家よりも先進的で作りも違うので、それによって朝倉家による小谷城強化の跡が窺えます。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑大獄城跡


小谷城(標高494メートル)の最高所にあります。大永4年(1524年)頃、浅井長政の祖父、亮政によって小谷城が築かれた当初は、この大獄を本丸としていた模様です。その後、浅井氏は東尾根に新たな本丸を築くと、大獄は砦として用いられたと思われます。元亀3年(1572年)8月、信長の大軍が小谷城に迫って来た時、救援に赴いた朝倉義景は、この大獄に陣取り、ここを中心に山崎丸、福寿丸、月所丸といった砦を築いて小谷城全体の防御力を強化します。しかし、天正元年(1573年)8月12日、大獄北面を守っていた浅井家の臣、浅見対馬守が信長に寝返って織田軍を引き入れた事から、大獄は陥落します。これで小谷城は朝倉家との連絡を絶たれて、完全に孤立します。



小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑大獄城から山本山城を望む


正面中央に写っている山が山本山城で、その左奥には竹生島があり、右奥には賤ヶ岳があります。山本山城が、小谷城の側面を守っているのが、よく分かるかと思います。天正元年(1573年)8月8日、山本山城主の阿閉貞征が織田家に寝返った事から、織田軍は小谷城の側背面に回り込んで、全面包囲する事が可能となりました。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑大獄城から小谷城を望む


大獄城と小谷城とは、尾根伝いに繋がっているのが分かります。そして、大獄城は、
本丸よりも高所にあるので、防御上、非常に重要な拠点となります。こういった場所を朝倉軍が守っていたという事実が、朝倉家が浅井家よりも上位の存在であった事を物語っています。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑六坊跡


浅井久政の時代に、領国内の有力寺院六つの出張所をここに設けた事から、六坊と名付けられました。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑山王丸跡


小谷城の主郭の最上段にあり、石垣で厳重に固められていました。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑山王丸の石垣


小谷城 2に続きます。

二条城

二条城は京都府中京区二条通にある、平城である。


慶長6年(1601年)5月、関ヶ原の戦いを経て天下の権を握った徳川家康は、重要な政治都市である京都に新城を築く事を決定する。同年12月、西国諸大名に費用及び、労務負担が割り当てられて大々的な天下普請が始まり、慶長8年(1603年)3月に落成する。同年2月12日に征夷大将軍に就任していた家康は、3月27日に二条城で将軍就任の祝賀の儀を執り行い、ここに徳川幕府の開府を見る。慶長11年(1611年)、家康と豊臣秀頼は、二条城の二の丸御殿にて初対面する。それから3年後の慶長14年(1614年)、大坂の陣が始まると、家康はこの二条城に本営を置いて、翌元和元年(1615年)に豊臣家を滅ぼした。



寛永3年(1626年)、徳川二代将軍、秀忠の時代、二条城は大改築されて、新たに本丸が築かれ、そこに廃城となった伏見城の天守閣が移築された。しかし、寛延3年(1750年)、落雷を受けて天守閣は焼失し、天明8年(1788年)にも京都の大火を受けて本丸御殿が焼失してしまう。この後、天守閣と本丸御殿が再建される事は無かった。時は流れて、慶応3年(1867年)、徳川十五代将軍、慶喜の時代、さしもの徳川幕府も力を失い、慶喜は二条城にて大政奉還、すなわち、政権を朝廷に返還したのだった。二条城は徳川幕府成立と、その終焉を見届けた城となった。



二条城
二条城 posted by (C)重家

↑東南隅櫓



二条城
二条城 posted by (C)重家

↑二の丸御殿


慶長8年(1603年)完成の御殿で、国宝に認定されています。二の丸御殿の廊下はうぐいす張りとして有名で、床板を踏みしめるとキュッキュッという音が鳴り響きます。


二条城
二条城 posted by (C)重家

↑二の丸御殿の装飾


二の丸御殿には各所に見事な装飾が施されており、建物全てが芸術品と言って良いでしょう。その絢爛豪華さから、徳川幕府設立時の勢いを感じさせられます。御殿内部は撮影不可ですが、ここにも見事な襖絵が飾られています。



二条城
二条城 posted by (C)重家

↑本丸櫓門



二条城
二条城 posted by (C)重家

↑本丸庭園



二条城
二条城 posted by (C)重家

↑本丸御殿


かつて、ここには二の丸御殿に匹敵する規模の本丸御殿があったのですが、天明8年(1788年)に京都の大火を受けて焼失してしまいました。現在ある建物は、弘化4年(1847年)に京都御所で建てられた桂宮御殿を、明治27年(1894年)に二条城に移築したものです。重要文化財に指定されており、内部は非公開となっています。



二条城
二条城 posted by (C)重家

↑天守台跡



二条城
二条城 posted by (C)重家

↑天守台からの眺め



二条城
二条城 posted by (C)重家




二条城
二条城 posted by (C)重家




二条城は将軍が滞在する城としては規模が小さいですが、ここでは徳川家康と豊臣秀頼の会見、徳川幕府成立時の祝賀、幕末の大政奉還など、大きな歴史的出来事が起こっています。

東本願寺

東本願寺は京都府京都市にある、浄土真宗大谷派の総本山である。


この東本願寺は、戦国時代に一大勢力を誇った本願寺から分裂して誕生した教団で、分裂の切っ掛けを作り、東本願寺の創立者となったのが教如である。永禄元年(1558年)、教如は、本願寺第11代法主、顕如の長男として生まれ、元亀元年(1570年)に得度(僧侶となるための儀式)をした。教如は身の丈6尺(約180センチメートル)の偉丈夫で、猛々しい性格の持ち主であったようだ。そして、奇しくもこの元亀元年は、戦国の風雲児、織田信長との対決の始まりの年であり、教如は若さ故の情熱も手伝って主戦派として教団を引っ張って行く事になる。しかし、信長の力は想像以上で、本願寺は徐々に追い詰められ、天正8年(1580年)3月、父、顕如はついに抗戦を諦めて、信長と和議を結び、本願寺の本拠、石山の地を明け渡す事を決した。そして、同年4月9日、顕如は恭順派を引き連れて石山を退去するが、抗戦派は納得しておらず、教如を立てて尚も抵抗せんとした。


教如自身も和議には納得しておらず、抗戦派の声に応えて石山篭城を続けんとしたので、顔をつぶされる形となった顕如は怒って教如に義絶を申し渡した。既にこの時、本願寺は分裂の様相を呈していた。同年8月2日、再度の説得を受け、教如はようやく石山の地を信長に明け渡した。しかし、故意か偶然か、教如が退去した直後に本願寺は炎に包まれ、壮大な伽藍は悉く、灰燼と化した。信長が熱望して止まなかった石山の地は、焼け残りの柱が立つだけの焦土となった。教如は石山退去後、紀州にある鷺森別院(さぎのもりべついん)に移ったが、僅か数日滞在しただけで、毛利氏の勢力下にある安芸の国へと旅立つ。その後の教如の足跡は不明であるが、天正10年(1582年)春には、一向一揆の勢力が残る越中五箇山に赴いていた模様である。石山退去後も、教如は密かに反信長活動を続けていたのであろう。


天正10年(1582年)6月、本能寺の変によって信長が倒れると、教如の流転の旅も終わり、父、顕如とも和解して、共に寺務に携わる様になった。文禄1年(1592年)、顕如が死去すると、教如が第12代法主となったが、教如はかつて石山篭城を共にした強硬派を重用したので、顕如と共に和議に応じた穏健派との間で対立が生じた。時の天下人、豊臣秀吉は、武闘派として知られている教如の法主襲名を快く思っていなかったようで、本願寺の内紛に介入し、翌文禄2年(1593年)、教如に隠遁を命じる一方、その弟の准如を第12代法主とした。



慶長3年(1598年)、秀吉が死去すると、教如は法主返り咲きの機会と見たのか、徳川家康に接近して、慶長4年(1599年)秋に会見を行い、翌慶長5年(1600年)7月には、教如は関東まで赴いて会津攻めの陣中にあった家康と会見を行った。しかし、時はまさに関ヶ原の戦雲漂う中であり、教如の明らかな家康寄りの姿勢は西軍の首魁、石田三成に見咎められ、密かに教如抹殺の指令が下された。そして、同年8月、教如一行が墨俣の渡しまで戻って来たところ、突如として三成の手勢に襲われた。思わぬ襲撃を受けた教如であったが、地元の門徒達が救援に駆けつけてくれたお陰で、なんとか美濃の光顕寺まで逃れた。


しかし、三成勢は尚も追跡の手を緩めず、追い詰められた教如は光顕寺の須弥檀(しゅみだん)に身を隠し、時世の句を木板に刻む程であった。この時の木板は現在も、東本願寺に安置されている。教如は近郷から駆けつけた屈強の門徒82名に守られながら京を目指さんとしたが、三成勢の追跡は執拗で、途中、18人の門徒が戦死する。窮した教如一行は美濃と近江の国境にある国見峠まで逃れ、ここから更に道無き山中に分け入って鉈ヶ岩屋(なたがいわや)という岩窟に身を潜めた。



慶長7年(1600年)9月15日、岩屋で窮乏生活を続けていた教如に石田三成敗れるとの朗報が舞い込んだ。これを受け、教如はようやく安堵して山を下り、同年9月20日、大津城で家康との再会を果たした。翌年慶長7年(1601年)にも両者は二度、会見を行い、それらの活動が功を奏して、慶長8年(1602年)、教如は、家康より京都鳥丸七条の地を寄進される。そして、翌慶長9年(1603年)、浄土真宗の宗祖、親鸞の木像を迎えて、ここに東本願寺の創立を見た。これで本願寺の分裂は決定的となり、准如を法主とする西本願寺と、教如を法主とする東本願寺が並存する事となった。慶長19年(1614年)、教如は57歳で入寂する。僧侶としては破天荒な生涯であった。



東本願寺
東本願寺 posted by (C)重家

↑御影堂


東本願寺に創立時の建物はほとんど残っておらず、この御影堂も明治28年(1895年)の再建です。とは言え、明治期の建築、芸術の粋を集めて作られた一大木像建築物であり、十分、見応えがあります。



東本願寺
東本願寺 posted by (C)重家

↑御影堂



東本願寺
東本願寺 posted by (C)重家

↑御影堂


東本願寺にはこの他にも、阿弥陀堂、御影堂門など壮大な木像建造物が存在するのですが、この時は残念ながら修復工事中でした。



渉成園
渉成園 posted by (C)重家>

↑渉成園(しょうせいえん)


ここは東本願寺の飛地境内で、東本願寺から東に150メートル行った所にあります。承応2年(1653年)に書院式の回遊庭園として作庭され、歴代法主の隠退所として、また外賓の接待所として用いられました。



渉成園
渉成園 posted by (C)重家


渉成園
渉成園 posted by (C)重家


渉成園
渉成園 posted by (C)重家



渉成園
渉成園 posted by (C)重家




渉成園
渉成園 posted by (C)重家



渉成園
渉成園 posted by (C)重家



渉成園は見応えのある日本庭園で、心が落ち着きます。特に春の桜と、秋の紅葉の時期に訪れるのが良いでしょう。東本願寺を訪れる事があれば、この庭園も合わせて見学する事をお勧めします。
 プロフィール 
重家 
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重家
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男性
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史跡巡り・城巡り・ゲーム
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歴史好きの男です。
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