忍者ブログ

[PR]

2026.09.30 - 
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

越前大野城

越前大野城は、福井県大野市にある平山城である。



大野城は、天正4年(1576年)、織田家の部将、金森長近によって築かれたのが、最初となる。城は、標高249メートルの亀山の山頂に築かれ、野面積みの石垣の上に、2層3階の天守閣が置かれた。その後、城主は次々に入れ替わるが、天和2年(1682年)、大老、土井利勝の子、利房が入ってからは、以後代々、土井氏が城主を務めた。安永4年(1775年)、野口村から出火した火災が、城下1,400軒を焼く大火となって、大野城にも飛び火、天守閣を含む本丸を焼失した。寛政7年(1795年)、本丸は再建されたが、明治6年(1873年)、明治政府による廃城令によって、建物は取り壊された。昭和43年(1968年)、鉄筋コンクリート製の天守閣が復元されて、現在に到る。





↑麓から見た、大野城





↑城門





↑お福池





↑西を望む





↑東を望む





↑南を望む





↑北を望む






↑天守台の石垣




↑天守閣


越前大野城は、雲海に浮かぶ天空の城として知られており、福井県の名所ともなっています。しかし、個人的にはやはり、鉄筋コンクリート製の天守閣は頂けず、いずれは木製で復元してもらいたいです。




↑朝倉義景の墓所


大野城から歩いて、15分ほどの所にあります。 朝倉義景とは、かつて、越前国を支配していた戦国大名で、周辺国にも大きな影響を及ぼすほどの大大名でした。しかし、天正元年(1573年)、織田信長に大敗を喫した事から、本拠の一乗谷も危うくなり、一族の朝倉景鏡を頼って、越前大野の賢松寺へと逃れます。ところが、ここで景鏡の裏切りを受けて、賢松寺は200騎の武士に取り囲まれ、その中で無念の自刃となりました。賢松寺はその後、廃寺となりましたが、義景の墓所は現代でも、市街地の一角にひっそりと佇んでいます。

PR

由良要塞の遺構、友ヶ島

友ヶ島とは、和歌山県和歌山市の沖に浮かぶ無人島である。かつて、ここには大日本帝国の要塞が築かれていた。



由良要塞とは、明治政府が外国からの侵攻に備えて建設した要塞の1つで、紀伊半島と淡路島の間にある、紀淡海峡周辺に築かれたものである。淡路島の由良地区・和歌山県の友ヶ島地区・和歌山県の加太、深山地区・鳴戸海峡防備を担う鳴戸地区(淡路島門崎に置かれた砲台)の4地区を合わせて、由良要塞と称された。由良要塞は、大阪湾への敵艦侵入に備え、第二次大戦まで臨戦態勢にあったが、終戦を受けて撤去された。





↑20,3cm砲弾








↑第二砲台跡

終戦による爆破を受けて、半壊しています。




↑展望台からの眺め

向こうに見える島は、淡路島です。あちら側にも要塞が築かれていて、この紀淡海峡の防備にあたりました。





↑第三砲台跡

友ヶ島各所にある砲台跡の中で、最も見応えのある遺構です。トンネル内を散策する事も出来ます。内部は薄暗いので、懐中電灯か携帯のライトを使用した方が良いです。私もペンライトを片手に、内部を見学してきました。





↑砲台内

トンネル左奥に、中に入っていく通路があって、そこも見学してきました。観光客は結構、大勢いたので、賑やかでしたが、それでも不気味さは否めなかったです。






↑第三砲台跡

中央、奥に見えるトンネルに入って行きます





↑トンネル内

前に見えるのは、この世の人です。




↑第三砲台跡

この辺りの遺構が、最も廃墟っぽくて、趣きがありました。





↑第三砲台内部

ここは弾薬庫だったのでしょう。




↑将校宿舎跡


内部は朽ちています。



友ヶ島は小さな無人島ですが、実際に歩き回って見ると、思いの他、広く感じました。飲み物は桟橋付近に売っていましたが、夏に散策する場合は、島に渡る前に大きなペットボトルを買っておいた方が良いでしょう。トイレは所々にありました。この島に渡るには、船を使う他ありませんが、時刻と便数が限られているので、よく確認してから渡りましょう。第三砲台の廃墟の雰囲気と、展望台からの眺めはとても良かったです。

変節の将、木曽義昌

2018.01.27 - 戦国史 其の三

天文9年(1540年)、木曽義昌は、木曾義康の嫡子として生まれる。木曽氏は、代々、信濃国筑摩郡の一部、木曽谷を支配する領主で、木曽義仲の子孫を自称した。地盤とする木曽谷は、大部分を急峻な山地が占めており、耕作地は木曽川沿いの僅かな範囲しかなかった。だが、ヒノキを始めとする豊富な木材資源を有しており、これが主要な財源となっていた。室町時代、木曽氏は、信濃守護小笠原氏の統制下に置かれたが、戦国時代に至ると、統制から離れて独立勢力となった。しかし、甲斐の戦国大名、武田信玄が信濃に勢力を伸ばして、隣接する下伊那郡まで制圧すると、天文22年(1554年)、父、義康は服属を申し入れた。信玄は、この申し入れを喜んで受け入れ、娘の真龍院(真理姫)、当時5歳と、木曽義昌、当時15歳との婚姻を定めた。義康も娘の岩姫を人質として、甲府に差し出した。



木曽氏は、武田氏に軍事的に従属する形となったが、統治面においては自立性を保った。永禄7年(1564年)、義昌が甲府に赴いて信玄に挨拶すると、その返礼として誰が木曽に赴くかが、問題となった。信玄は、出来れば自分自身が、それが出来なければ嫡男義信か、少なくとも4男勝頼が返礼に赴くべきところだと述べたが、出陣の準備で慌しいので、家臣の代参となった。それでも落ち着き次第、信玄自身が木曽領の洗馬(せば)を訪れる事にした。信玄が、木曽氏を重んじている様子が伝わってくる。木曽氏は、美濃国、飛騨国との境に位置する重要な国衆であったので、信玄は厚遇して、その心を繋ぎとめようとしていた。



義昌は、永禄8年(1565年)までには家督を相続し、木曽氏の当主となった。元亀4年(1573年)4月13日、信玄が死去して勝頼が跡を継ぎ、武田家も代替りとなった。勝頼もまた、木曽氏を重視して、美濃制圧後には1,000貫文の知行を与えると約束した。しかし、天正3年(1575年)、長篠の戦いで武田軍が惨敗すると、先の約束は空手形に終わる公算が高くなった。それどころか、隣接する美濃岩村城が、織田軍の攻撃を受けて全滅すると、にわかに木曽領が織田家に対する最前線となった。勝頼は、織田家の侵攻に備えて、義昌に指示を出し、伊那郡への援軍に位置付けると共に、木曽谷の防衛強化も申し渡した。勝頼は、木曽氏を国境防衛の要と位置付けたが、同時に寝返りも懸念して、目付けを派遣して動向を監視させた。



天正4年(1576年)、勝頼は更に念を押すように、木曽家臣に対して、勝頼、義昌の双方に忠誠を誓うという起請文を提出させた。その条文の最後には、「木曽義昌が勝頼に逆心を企てた場合は諫言し、それに従わなければ甲府に注進する」とあった。勝頼は、義昌を重視しつつ、警戒も怠らなかった。天正8年(1580年)10月、遠江にある武田家の要衝、高天神城が徳川軍によって包囲され、翌天正9年(1581年)3月25日、孤立無援のまま落城して、城兵が悉く討ち取られるという事態が起こる。この間、勝頼が援軍に駆け付ける事は一度も無く、高天神城の落城は、武田の劣勢を内外に広く知らしめるものとなった。義昌が、武田家離反を決めたのは、おそらくこの時だろう。そして、織田家に属する美濃苗木城主、遠山友忠からの誘いを受諾して、寝返りを決した。



江戸時代初期に成立した軍記「甲乱記」によれば、天正10年(1582年)1月27日、義昌の内通は、勝頼の知るところとなった。それを報告したのは、義昌の側近、千村右京進であったとされ、かねてからの勝頼の警戒策が当たった形となった。しかし、事態は深刻である。勝頼は木曽氏を討伐すべく、直ちに兵を催し、先遣隊として武田信豊を将とする3千人余の兵を木曽口に進ませ、同時に仁科盛信と2千人余の兵を伊那口へ進ませた。同年2月2日、勝頼は、人質としていた義昌の老母、嫡男の千太郎、義昌の娘を処刑すると、自らも1万5千の本隊を率いて新府城から出陣した。尚、義昌の妻は、信玄の娘、真龍院であったが、夫によって一族との絆を引き裂かれ、更に兄によって息子と娘を殺された事になる。この後、真龍院は城を出て、天保4年(1647年)、98歳で死去するまで木曽山中に隠棲したと云われている。



武田軍は2万人余の兵力をもって、木曽谷に押し寄せんとしていた。存亡の危機に立った義昌は、弟の上松義豊を差し出して、織田家に援軍を要請する。それに応じて、遠山友忠の軍が木曽谷に急行した。同年2月3日、織田信長はこの機に乗じて武田家を討滅すべく、家中の大半を動員し、更に徳川、北条の諸大名にも呼びかけて、ここに大掛かりな甲州征伐が始まった。同年2月16日、武田方の部将、今福昌和率いる3千人余が木曽領に侵攻すべく、鳥居峠に押し寄せて来る。義昌は織田家の援軍と共同して、午前10時から午後16時まで激戦を繰り広げ、兵卒数百人と武者40人余を討ち取って、これを撃退した。累々と横たわる武田方の戦死者は近くの沢に埋葬され、そこは葬沢と呼ばれた。同年2月25日、今度は武田の親類衆、穴山信君も離反して、2月29日には、駿河江尻城を徳川家康に明け渡した。勝頼にとって、義昌の離反は最悪の事態であったが、まだ想定の範囲内であった。しかし、穴山信君の離反は想定外であったに違いない。



信君の離反は、駿河が無傷で徳川軍の手に渡り、更に本拠地、甲斐に踏み込まれる事を意味していた。勝頼は信濃で織田軍を迎え撃つ心積もりであったが、背後にも敵を迎えて、甲斐に引き返さざるを得なかった。そして、この報を聞いた兵達は戦意喪失して、たちまちの内に逃げ去った。武田家は内部崩壊を起こして、3月2日の高遠城の戦いを除いて、まともな抗戦も出来なかった。勝頼は最後の頼みとした小山田信茂にも離反され、天正10年(1582年)3月11日、天目山にて無念の自害を遂げた。武田滅亡後、信長は信濃に進駐して、仕置きを行った。そして、同年3月20日、義昌は、上諏訪に在陣していた信長に出仕し、馬2頭を献じた。信長は、義昌の功を褒めて、後藤源四郎作の見事な刀剣と、黄金100枚を下賜した。



更にこの場で、本領の木曽谷の安堵に加えて、信濃国の内、安曇(あづみ)、筑摩の2郡の加増を申し渡し、退出の際には、信長自ら屋形の縁まで見送った。破格の待遇を受けた義昌は、これで木曽の一国衆から一転、10万石余の大名身分となった。同じく離反した穴山信君は、遅めであったので現状維持で、土壇場で離反した小山田信茂は、斬首となっていた。報復攻撃をものともせず、人質の処刑も顧みず、真っ先に内応した義昌を、信長は最も高く評価したのだった。義昌は、深志城に城代を置いて、新領経営の拠点とした。しかし、それから3ヵ月後、天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変にて信長が横死すると、信濃国は大混乱に陥り、義昌の身辺も激変する。



北信濃(川中島4郡)の領主であった森長可は変報を受けると、所領を放棄して、木曽谷を通って美濃金山の本領に帰還せんとした。長可は、川中島4郡から集めた人質を伴って来ており、それを義昌に引き渡すという条件で、木曽谷の通過を認められた。続いて、織田家の重臣、滝川一益が、本拠の伊勢長島に帰還すべく、木曽谷の通行許可を求めてきた。だが、義昌はこれを拒否する。そこで一益は、「通してくれれば、佐久郡、小県郡の人質を進上する」との条件を持ちかけた。一益は、上野国及び信濃国の佐久郡、小県郡の領主であった。義昌はこれを了承して、人質を受け取った上で、通過を認めた。義昌はこれらの人質を利用して、信濃全土に支配を及ぼそうと目論んだ。


しかし、義昌の目論見は崩れ去る。越後の戦国大名、上杉景勝が、旧信濃守護、小笠原長時の弟、洞雪斎を擁立して、義昌の所領、安曇郡、筑摩郡に侵攻して来たからである。上杉軍の後援と旧小笠原家臣の協力を受けた洞雪斎の勢いは強く、同年6月下旬頃、重要拠点である深志城を攻め落とされ、木曽谷を除く所領の放棄を余儀なくされた。これで義昌は、多くの犠牲を払って手にした新領を失い、元の木阿弥となった。その後、信濃には北条家、徳川家も侵攻して来て、三つ巴の争いとなると、義昌は当初、徳川家と交渉して帰属する姿勢を見せた。しかし、北条家の勢いが増してくると、密かに帰属を打診して、両属の構えを取った。義昌は、徳川家、北条家を天秤にかけて、様子見を決め込んだ。


この信濃の大混乱を見て、旧信濃守護、小笠原長時の3男、小笠原貞慶は旧臣を糾合して、旧領復帰を目指した。そして、同年7月16日、徳川家の後援を受けつつ、上杉方の深志城を落した。そうと知った義昌は、深志城を奪還すべく、侵攻を開始する。7月19日頃、木曽軍と小笠原軍は激突するも、木曽軍は大敗し、本拠へと敗走する。小笠原軍はそれを追って、木曽領まで逆侵攻したが、ここで義昌による伏兵攻撃を受け、今度は小笠原軍が大敗して、敗走する羽目となった。この後、小笠原貞慶は徳川家から離反して、北条家に帰属した。北条家を後ろ盾とした、小笠原家に対し、義昌は織田家を後ろ盾とすべく、信孝(信長の3男)に支援を要請した。しかし、織田家の支援を得るには、その同盟者である徳川家に協力する必要が生じ、ここで義昌は本格的に徳川家に帰属する事を決した。そして、家康から、安曇郡、筑摩郡を義昌に安堵すると言う約定を得た上で、信濃衆の人質を譲り渡した。



天正10年(1582年)10月29日、徳川家と北条家との間で和睦が成立し、旧武田領(信濃、甲斐、駿河、上野)を巡る大戦は終息した。義昌は、家康から安曇郡、筑摩郡を安堵するとの約定をもらっていたが、それが果たされる見込みはまったく立たなかった。そして、天正12年(1584年)、豊臣秀吉と徳川家康の対立が激化して、小牧、長久手の戦いに発展すると、義昌は、豊臣方に寝返った。義昌は、かつて武田家を滅亡に導いたように、再び豊臣家の軍勢を呼び込もうとした。一方、家康からすれば、自らの勢力圏内に豊臣家の楔(くさび)を打ち込まれた形となって、事態は深刻であった。同年5月、家康は、小笠原貞慶に命じて木曽攻めをさせたが、義昌は鳥居峠を固めて、これを撃退した。同年8月、家康は再び、菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠らを派遣して、義昌の支城、妻籠城を攻撃させた。徳川軍は数千人余、妻後城の城兵は300人余であったが、城将の山村良勝は良く守って、これを撃退した。



義昌は、豊臣家の大攻勢を願っていたであろうが、事態は思わぬ方向に進んでしまう。天正14年(1586年)、豊臣家と徳川家の間で講和が成立し、しかも、義昌を始めとする信濃の諸将は、家康の傘下に組み込まれてしまったのである。義昌からすれば居心地が悪く、苦虫を噛み潰す思いであったろう。そして、天正18年(1590年)、家康が関東に転封されると義昌もこれに従い、木曽谷から、下総阿知戸1万石に転封された。先祖代々住み慣れた土地から引き離されるのは、不本意であったろう。それでも義昌は、町作りを推し進めるなどして、阿知戸の発展に努めた。そして、文禄4年(1595年)~文禄5年(1596年)の間に死去した。享年は56、もしくは57。嫡男の義利が跡を継いだが、叔父の上松義豊を殺害するなど、粗暴の振る舞いが多かったとされ、慶長5年(1600年)、家康によって改易された。大名としての木曽氏は、ここに滅亡する。



木曽義昌は、時流を見る目に長け、大勢力相手にも粘り強い戦いを見せる、一角の人物であった。そして、武田家滅亡の足掛かりを作った事で、一時の栄転を預かる。しかし、その後は運が振るわず、転落の道を辿っていった。境目の国衆の寝返りは、戦国の日常茶飯事で、真田昌幸などはその典型と言えよう。しかし、義昌の場合は、武田という大勢力を滅亡に導いた事で、悪い意味で名が知れ渡ったであろう。秀吉も家康も、義昌に利用価値はあっても信は置けないとして、重用しようとはしなかった。その一方、秀吉は、九州大友家の一家臣、立花宗茂を見込んで、大名にまで引き立てている。宗茂はその父、紹運と共に斜陽の大友家に尽くし、赫々たる武勲も上げて、秀吉に激賞されている。徳川家康もまた、武田旧臣である依田信蕃の人となりに惚れ込んで、境目の領主に抜擢している。武田時代、信蕃は遠江二俣城や、駿河田中城に籠城して、徳川家康を苦しめたが、斜陽の武田家に尽くし続ける姿勢を評価されて、一命を助けられ家臣に迎え入れられている。戦国の世は、裏切りが日常茶飯事であったとは言え、信義にもとる者はやはり軽視され、家運が栄える事は無かった。





↑木曽義昌像(ウィキより)





波賀城

波賀城は、兵庫県宍粟市にある山城である。


伝承によれば、その昔、波賀七朗なる武士がこの地に城を築いたのが最初とされる。13世紀中頃には、鎌倉幕府御家人の中村氏がこの地に入り、戦国時代末期に至るまで治めていた。その後、天正8年(1580年)、羽柴秀吉による播磨攻めの際に落城したと思われる。波賀城の歴史は不確かで、廃城の時期も定かではない。















↑二層櫓





↑二層櫓





↑二層櫓内部

木造建築で、ちょっとした資料館となっています。





↑北西を望む






↑西を望む




↑南西を望む

波賀城が、三つの街道を制する位置にある事が分かります。




↑北を望む






波賀城の人影はまばらで、眼下に広がる景色を静かに堪能出来ました。11月初旬であったにも関わらず、まだツクツクボウシが一匹だけ鳴いていました。

佐用城(福原城)

佐用城は、兵庫県佐用郡にある平山城である。


南北朝時代の建武年間(1334~1338年)、播磨赤松氏の一族、佐用範家が築いたのが、佐用城の始まりとされる。その後、同じ赤松氏の一族、福原氏が城主となったため、福原城とも称された。戦国時代、福原氏最後の当主となったのが、福原則尚(ふくはら のりなお)である。佐用城は、近隣にある上月城と共に赤松氏の城郭群を担っていたが、織田信長の勢力が播磨にまで伸びてくると、その部将、羽柴秀吉の攻撃を受ける事となった。そして、天正5年(1577年)11月27日、秀吉自身は上月城を攻め立て、佐用城には与力の黒田孝高と竹中重治を差し向けた。


秀吉自身の文書によれば、佐用郡にある敵城三つの内、佐用城の城兵が打って出て来たので、竹中半兵衛と黒田官兵衛を先陣として、これを迎え撃たせ、数多を討ち取った。秀吉配下の平塚三郎兵衛が城主(則尚)を討ち取り、助太刀に来た城主の弟も討ち取ったとある。信長公記によれば、城兵250人余が討死したそうだ。翌11月28日、秀吉は上月城に攻めかかり、7日後に城兵は敵わずと見て、城主、赤松政範の首を差し出してきたが、秀吉はこれを許さず、城兵を備前、美作国境に連行して、悉く磔(はりつけ)に処したとある。こうして佐用城と上月城は、共に凄惨な最後を迎えた。それからほどなく、佐用城は廃城になったと思われる。






↑本丸跡





↑説明版





↑福原霊社

落城時の城主、福原則尚の首級と魂を祀るため、地元の人々が建てたものと伝わります。そのため、この神社は、頭様(こうべさま)とも云われているそうです。





↑佐用城の郭(くるわ)跡





↑福原霊社から東を望む

秀吉軍との戦いでは、この正面が主戦場だったのでしょう。





↑福原霊社脇の道路

ここは、空堀だったのかもしれません。


城の写真は少ないので、ついでに寄った、飛龍の滝の写真も載せておきます。佐用郡にあって、落差は20メートルとの事です。





↑飛龍の滝





↑滝の不動明王

増水していて、不動明王の姿は確認出来ませんでした。




↑飛龍の滝

普段はもっと水が少ないようですが、この日は雨の翌日だったので、水量豊富で迫力ありました。





↑飛龍の滝

 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
 最新記事 
(06/06)
(05/25)
(05/09)
(12/13)
(11/16)
 カウンター 
 アクセス解析 
 GoogieAdSense 
▼ ブログ内検索
▼ カレンダー
08 2026/09 10
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30
▼ 最新CM
[03/14 お節介爺]
[05/12 杉山利久]
[07/24 かめ]
[08/11 重家]
[05/02 通りすがり]
▼ 最新TB
▼ ブログランキング
応援して頂くと励みになります!
にほんブログ村 歴史ブログへ
▼ 楽天市場