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伊52が帰りに持ち帰る予定の主な物品は、「水銀300トン(火薬・電気製品の原料となる)・2000馬力魚雷艇エンジンMB501・音響追尾魚雷T5・ロケットエンジン、ジェットエンジンとその設計図・新型エニグマ暗号機・レーダー装置の真空管(出来るだけ多数)・地上用レーダーウルツブルグ・レーダー逆探知装置・ベルリン型9センチ波レーダー・飛行機用レーダー・飛行機用無線電話装置・ミコシ射撃装置・潜水艦用レーダーとアンテナ・オシログラフ(振動記録器)・ラインメタル13ミリ自動機関銃設計図・その他に捕獲されたアメリカ・イギリス軍の計器類」。 東京の海軍省事務局は、これらの品を何としても持ち帰ってほしいとドイツ駐在武官宛てに電文を送った。伊52には、戦局打開の最後の望みがかけられていた。
この訪独作戦にあたって、ベルリンにある日本海軍のドイツ駐在海軍武官室が、伊52の動きをドイツ側と調整して、統制した。武官室には、およそ40名の関係者が働いており、日本への通信、訪独作戦中の伊52への指令などは、全て武官室の関係者が行っていた。日本を巡る戦況が急速に悪化する中、駐在武官に課せられた重要な任務は、ドイツの最新兵器を探し出し、それを速やかに日本に送り込む事であった。その輸送任務を担うべく期待されたのが、伊52である。作戦を開始するに当たって、伊52には「モミ」という暗号名が付けられた。
(3月21日)、伊52はシンガポールに到着し、ここに1ヶ月滞在して、錫・モリブデン・タングステン計228トン・阿片2、88トン(医療用)・キニーネ(マラリア熱の特効薬)3トン・生ゴム54トン・その他暗号本数冊と陸軍から頼まれた文書を積んだ。同じ頃、ドイツでは2隻の日本潜水艦が、日本に向かって出港していた。その1隻は、呂501(ドイツから提供されたUボート)であり、ドイツで訓練を受けた日本海軍の乗員が乗り込んでいた。もう1隻は木梨鷹一艦長率いる伊29であり、この艦は伊52と同じ訪独任務を担っていた。(3月30日)、呂501はドイツキール軍港を出港し、(4月16日)、伊29も新兵器類を積み込んで、フランスロリアンを出港する。日本へ向けて帰国する呂501と伊29、そして、ドイツへ向かう伊52、同じ時期に3隻の日本潜水艦が大西洋を航行し、すれ違う事になる。
(4月23日)、伊52はシンガポールを出港、スンダ海峡を通過し、インド洋を横断する。この任務は極秘とされていたが、5月7日の時点で、伊52の出港はアメリカ側に確認されていた。シンガポール周辺で、日本船の出入りを監視していたスパイの報告によるものと考えられている。アメリカ軍による暗号解読文、「モミは特定されていないがおそらく日本船であろう。伊52である可能性が高い。伊52は5月7日、シンガポールを発った事が確認されている。伊52はシンガポールからヨーロッパへ向かっている。おそらくインド洋にいる」
その後もアメリカ軍は、伊52の行動を徹底的に追い続けてゆく。当時、訪独作戦に関する日独間の連絡は、短波の無線通信によって行われており、その情報は深夜に浮上する伊52にも伝えられていた。通信は暗号を使って行われていたが、アメリカ側はこの暗号をほぼ完全に解読しており、暗号通信を傍受してから、4、5日後には英訳化された報告書を作成していた。
日本を出港してから2ヶ月、伊52はアフリカ南端の海域に入った。南アフリカ喜望峰にはイギリス軍の航空基地があるため、伊52は大陸から離れた沖合いを走らねばならない。だが、その海域はローリングフォーティズと呼ばれる海の難所である。台風並みの西風が吹き荒れるこの海域では、訪独任務を担った潜水艦のいずれもが激しい波を受けて、艦体に損傷を負っている。遣独第一陣を担った、伊30乗員の記録を紹介したい。「風速40メートルを越える暴風圏に入って、艦は木の葉のように翻弄された。波は艦首を越えて艦橋に激突し、海水がハッチから艦内に滝のように流れ込んだ。艦橋の分厚いフロントガラスも波の力でいつの間にか流出し、見張り員はロープで体を縛り付けて、ずぶ濡れになって2時間の当直を耐えた。
進んでは押し戻され、また少しずつ進み続けて7日目、排気口から海水が逆流し、エンジンのピストンが押し潰された。エンジンは故障し、艦は荒波に任せて漂流する危機を迎えた。漂流中の横揺れは45度、真横になるような感覚だった。艦体はみるみる東に流されて行く。機関員達は激しい揺れの中、総出でピストンを抜き取り、分解修理を始めた。ようやく組み立ててエンジンが動き出しても、次の日には停止してしまうといった事を繰り返し、やっと大西洋に出た時には2週間が経っていた」。伊52も激浪に翻弄され、乗員達は激しく動揺する艦内で苦しみ続けたであろう。1週間後ようやく暴風圏を突破した。
(5月20日頃)、伊52は喜望峰を越えて大西洋に入った。(5月30日)、ドイツ海軍は、大西洋を航行するUボートに、日本潜水艦が大西洋に入った事を無電で知らせ、その特徴を伝えて間違って攻撃しないよう注意を呼び掛けた。この頃、呂501は暗号を解読されて、アメリカ軍に補足されていた。海中を密かに進む呂501の動きをアメリカ軍は詳細に把握し、その航路に対潜攻撃部隊(護衛空母ボーグと5隻の駆逐艦)を派遣して攻撃を繰り返した。
(5月6日)、呂501からの報告、「5月6日、我々は北緯30度西経37度の海域を通過した。我々はPポイント(燃料補給のための会合場所)で燃料補給を求めなかった。付近は厳重に警戒されていて、我々は3日間にわたって爆雷攻撃を受けたが無事だった」。しかし、この報告から一週間後(5月13日午後19時)、アメリカ駆逐艦のソナーに捉えられた呂501は爆雷攻撃によって撃沈され、乗員55名も戦死した。アゾレス諸島西南、北緯18度8分、西経33度18分の海域だった。(6月4日)、一方、伊52は赤道を越えて北大西洋に入った。そして、呂501が沈められた最も危険な海域へと進んで行く。
(6月5日)、ドイツ海軍作戦本部から日本海軍宛てに、無事に伊52がドイツに到着するよう、偽の情報発表をして、連合軍を欺こうと提案してきた。しかし、この通信もアメリカによって傍受され、暗号解読されて計略は筒抜けとなっていた。しかも、翌(6月6日)には連合軍の一大反抗、ノルマンディー上陸作戦が決行され、この計画は立ち消えとなった。(6月7日)、ドイツ駐在武官から伊52への無線、「駐在武官からモミ艦長へ。英米軍がフランスのルアーブルとシェルブールの間の海岸に6月6日以来上陸している。目的地は依然ロリアンであるが、状況によってはノルウェーになるかもしれない」
ドイツ駐在武官から伊52への指令、「会合点は北緯15度西経40度。会合日時は6月22日21時15分、日没後である。貴艦は浮上した後、緯度線と平行方向に航行せよ。会合点を中心に往復しつつ、ドイツ潜水艦を待て。潜航しているドイツ潜水艦は、水中聴音器で貴艦を見つけて会合する。もし最初の日に会合出来なければ、同じ方法を翌日の夜明けまで試みる。それでも成功しない場合は無線で報告せよ」。「目的地がノルウェーに変更される場合もある。そうなれば燃料が不足するだろうが、ドイツ軍側が燃料補給を行うことは非常に困難である」
伊52からの返信、「モミ艦長から駐独武官へ。6月11日の我々の位置は、北緯10度西経31度。艦には速度11ノットで1万2千マイル進める十分な燃料と3ヶ月分の食料がある」。宇野艦長は目的地がノルウェーに変更されても、伊52が対応出来る旨を伝えた。そして、会合点に向かって北上する。
3へ続く・・・
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1995年3月末、大西洋の広大な海原で、アメリカの冒険家達が海洋調査船に乗って、ある1隻の沈没船を捜し求めていた。その沈没船には金塊2トン(時価80億円以上)もの財宝が積まれているはずであり、彼らはそれを引き揚げる予定であった。しかし、調査を開始してから5週間を経ても、今だ沈没船は見つからず、クルーに諦めの色が浮かび始めた頃、ついに彼らはソナーの画面に、大きな黒い影を捉えた。謎の物体は、水深5千メートルの深みにあった。
水中カメラが海底に降ろされると、そこには、大小無数の傷が刻まれた鋼鉄の巨大な船体が映し出され、周辺にも積荷の箱のような物が多数、散乱していた。その船は、平らな甲板、異様に細長い船体、とがった船首、舵を保護するための鉄枠といった特徴があった。いずれも旧日本海軍が使用していた、伊号潜水艦の特徴であった。この潜水艦は第二次大戦中、機密任務にあたり、そのまま行方不明となっていた伊52である事が判明した。
●伊52の性能要目
全長108.7メートル
最大幅9、3メートル
排水量、通常2583トン
排水量、満載3,158トン
水上4,700馬力
水中1,200馬力
水上速力17.7ノット
水中速力6.5ノット
航続距離、水上16ノットで2万1千海里
航続距離、水中3ノットで105海里
53センチ魚雷発射管、艦首6門
前部甲板14センチ砲1門
後部甲板25ミリ機関砲1基
安全潜航深度100メートル
飛行機格納筒はもたない
1944年、第二次大戦後半、日本の敗色は濃厚となっていた。そこで日本は同盟国ドイツから最新の兵器技術を提供してもらい、そこに戦局挽回の望みを見出そうとした。しかし、ドイツ側も、ただでは最新技術を渡してはくれない。ドイツは当時、国内で枯渇していた戦略物資の提供と、巨額の対価を日本側に求めた。戦争に必要な戦略物資は日本でも不足していたが、日本側にはドイツの最新技術と交換し得る、優れた技術を持ち合わせていなかったので致し方なかった。
当時、日本とドイツとの間には、広大な連合国の勢力圏があって、航空機での両国の連絡は不可能であった。しかし、この困難な任務も、深海を深く静かに進む潜水艦ならば可能と思えた。そこで日本は、合計5隻の潜水艦をドイツへと送り出した。その最後の遣独潜水艦となったのが伊52である。伊52は、日本の呉から出港し、連合軍の厳重な哨戒網が張り巡らされた大西洋を超え、ドイツ占領下にあるフランスのロリアンを目指した。そこで新兵器類を積み込んで、再び日本に帰り着かねばならない。実に往復3万5千海里(6万キロメートル)もの過酷な航海であった。
この任務にあたる伊52の艦長と乗員のほとんどは、この訪独任務が非常に危険で生還する見込みが薄い事を知っていた。彼らは出発前それぞれ実家に里帰りをして、お世話になった人達に挨拶回りをすませ、遺書を書き残していった。伊52には民間の技術者達も乗り組む事になっていた。彼らも生還の見込みが少ない事を知っており、ある人は生前に自分の墓を立て、ある人は知人に、「生きて帰れる確率は4、5パーセントしかないだろう」と話していた。伊52には艦長、宇野亀雄中佐以下、軍人117名・ドイツ語通訳1名・技術者7名・合計125名の乗員が乗り込み、さらに49個の箱に収められた純度99,5パーセントの金塊146本、合計2トンが積み込まれた。
(1944年3月10日午前8時50分)、伊52は密かに呉を出港して行った。
2へ続く・・・
高射砲塔とは、第二次大戦中、連合軍の爆撃機から、ドイツの都市を防衛するために建設された要塞である。しかし、その建造には膨大な費用と労力を要する事から、ベルリン、ハンブルグ、ウィーンなどの重要都市に限定して建設されていった。各高射砲塔のデザインはそれぞれ異なっており、大きさ、武装も様々である。どの塔においても対空火力の強力さは折り紙つきで、その絶大な火力と防御力は、地上軍との戦闘においても有効であった。
高射砲塔は、多数の高射砲を装備したG塔と、対空射撃の精度を高めるため、ヴュルツブルクレーダーやマンハイムレーダーなどの高度な射撃指揮装置を備えたL塔とが、セットで建設され、迎撃も両塔が連携して行う。 G塔はコンクリート製で壁は2mから2.5mもの厚さがあり、高さは40mから50m、その頂部に12,8cm連装高射砲などの大口径砲を4基装備、塔の上部の張り出しには自己防衛用に37mmから20mmの口径の対空機関砲が12基装備されている。 砲塔内部には発電機や弾薬庫、人員の居住施設、貯水槽が設置されており、自立的な戦闘が可能だった。設計段階での収容人数は8千人程であるが、最大3万人を収容したとの記録もある。
これらの高射砲塔は、肝心の連合軍爆撃機との交戦の機会はあまりなかった。だが、ドイツに侵攻してきたソ連軍との間では、激しい地上戦を行っている。こうした高射砲塔群の中でも、有名なのがベルリンのツォー高射砲塔である。12,8cm連装高射砲を4基装備し、その強力な火力と防御力でベルリンに押し寄せるソビエト軍と熾烈な地上戦を展開し、ライヒスタークに押し寄せるソ連軍にも大きな損害を与えた。 大物量を誇るソ連軍でも、さすがにこの要塞を武力で攻略するのは手に余り、ツォー高射砲塔に対して軍使を派遣して降伏せしめている。
第二次大戦終結後、高射砲塔は無用の長物となり、解体が検討されるが、それは容易な作業では無かった。高射砲塔は余りにも巨大で頑丈であったため、その解体にも莫大な費用と労力を必要としたからである。ベルリンにあった高射砲塔は苦労して解体されていったが、ハンブルクとオーストリアのウィーンには今でも高射砲塔が残されており、周囲を圧する異様な迫力を醸し出している。
![Flakturm.jpg](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/7218110a8f726b6e572bc7f5fd70859f/1299302753?w=250&h=163)
↑高射砲塔
1945年4月末、第二次世界大戦界大戦末期、ドイツの首都ベルリンは、ソ連の大軍によって包囲され、風前の灯火となっていた。この様な絶望的状況にも関わらず、ヒトラーは尚も戦局挽回を夢見ていた。そして、あくまで首都を守り抜かんとして、ベルリン中の老若男女を動員し、ろくな武器も与えないまま、市街戦に投入していった。即席の動員兵が守る拠点は、圧倒的物量を誇るソ連軍によって次々に押しつぶされていったが、それでも多数のソ連兵を道連れにしていった。崩れ落ちた市街での戦いは、基本的に守備側が有利であり、ソ連軍の進撃は多大な犠牲を伴うものだった。しかし、人的犠牲を顧みないソ連軍は遮二無二に突進して、着実に包囲の輪を狭めていった。
![Berlin3.jpg](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/7218110a8f726b6e572bc7f5fd70859f/1228968745?w=250&h=158)
↑戦車の砲塔を用いたベルリンの防衛陣地
1945年4月30日、ついにソ連軍は、ヒトラーが立て篭もる総統官邸にまで達し、あと1日持ちこたえられるか、どうかという状況となった。ここに至ってヒトラーも最後を悟り、総統官邸の薄暗い地下室にて、結婚したばかりの妻エヴァ・ブラウンと共に自殺を遂げた。だが、ヒトラーの死で、戦いが終わった訳ではない。ソ連の勝利を決定付けるには、ヒトラーの死だけでは不十分で、ドイツという国家を象徴する建造物にソ連の赤旗を掲げる必要があった。それが、ライヒスターク、すなわちドイツの国会議事堂である。ヒトラーの死の少し前、ソ連軍は総統官邸攻略と並行して、ライヒスタークの攻略も目指していた。ライヒスタークを始めとする官庁街の北側には、シュプレー川が流れており、それが堀の役割を果たしていた。だが、そこには歴史的な橋、モルトケ橋も架かっており、これを奪取すれば官庁街に突入可能だった。
勿論、ドイツ軍もこの橋の重要性を理解しており、爆破の備えをした上、橋の両岸に障害物を築き、南岸のビル群に陣取って厳重な火線下に置いていた。4月29日早々の深夜、ソ連軍は準備射撃をせず、静かに強襲を行ったが、ドイツ軍に察知され、熾烈な銃砲火を浴びせられて撃退された。次に戦車を先頭に突破を図ったものの、これも対戦車兵器の攻撃を受けて撃退された。ソ連軍は死傷者を積み重ねながらも、波状攻撃を繰り返し、人海戦術によってドイツ側の人員、弾薬を消耗させていった。ドイツ軍は守り切れないと見てモルトケ橋を爆破したものの、人が渡れる程度には残っていた。ソ連軍は重砲で対岸のドイツ軍を制しつつ、夜通し攻撃を続行し、夜明けを迎える頃、ようやくモルトケ橋を突破する事に成功した。続いて、内務省ビルを占拠し、対岸に橋頭堡を築いて、ライヒスタークを遠望できる地点に達した。モルトケ橋からライヒスタークまでは、距離にして僅か600m、目と鼻の先である。だが、ソ連軍は、この距離を死者無しには突破出来ないと悟っていた。ライヒスタークを初めとする官庁街には、まだ1万人余のドイツ軍が厳重に守りを固めており、ここからが戦闘の本番であった。
まず、ライヒスターク前面にあるケーニヒスプラッツ(前広場)には、川から水を引いた水壕に加えて、多数の塹壕と砲座を組み合わせた堅固な陣地が築かれていた。更にライヒスタークを始めとする周辺のビル群には、隙間という隙間に銃眼を設けたレンガが積み重ねられており、砲撃にも耐えうる事ができた。つまり、ライヒスタークと周辺のビル群は、それぞれ堅固な要塞と化して、相互支援する態勢となっていた。更にこれを、動物園にあるツォー高射砲塔(コンクリート製の強固な対空要塞で、大口径砲を多数、備えている)が火力支援した。4月30日午前6時、ソ連軍の最初の1個中隊がライヒスタークを目指して駆け出したが、50メートルも進まぬ内にドイツ軍の激しい銃砲火を受けて、地面に釘付けにされた。続いて2個大隊が突撃するが、これも多数の戦死者を出して阻止された。ライヒスターク自体から繰り出される猛烈な銃砲火と、ケーニヒスプラッツ西側に位置するクロール・オペラハウスからの側面攻撃もあって、正面からの突破は甚だ困難であった。ソ連軍がライヒスタークを攻略するには、まず、クロール・オペラハウスと周辺のビル群を抑える必要があった。
同日午後13時00分、ソ連軍はライヒスターク周辺のビル群攻撃と並行して、再びライヒスタークに突撃を開始した。激しい銃火を潜り抜け、ソ連兵はケーニヒスプラッツの水壕に達した。そして、いよいよライヒスタークに乗り込もうとした時、突如、背後から猛砲撃を受けた。2km後方にある、ツォー高射砲塔の大口径砲が火を噴き始めたのだった。ケーニヒスプラッツのソ連軍はたまらず遮蔽物に身を隠し、攻撃停止を余儀なくされた。だが、この間にも、モルトケ橋から多数の戦車と自走砲を渡して戦力を増強し、周辺ビル群の掃討を続けた。また、ライヒスタークに打撃を与えるべく、152mm迫撃砲と203mm迫撃砲を含む90門余りの火砲、それにカチューシャロケットによる絶え間ない砲撃が加えられた。ソ連軍の砲撃は熾烈を極めたが、ライヒスタークの堅牢な建物はこの砲撃をよく耐えて、砲煙の間から重厚な存在を示し続けた。同日午後18時前後、濃い煙と夕闇に紛れて、ソ連軍はライヒスタークへの再突撃を開始した。そして、戦車の濃密な援護を受けつつ、ライヒスタークの外壁に取り付く事に成功した。しかし、窓や扉は全て障害物やレンガで塞がれており、内部には入れなかった。そこで重砲による至近距離からの砲撃、またはレンガに爆薬を仕掛けるなどして、突破口を開いた。
![Berlin2.jpg](https://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/7218110a8f726b6e572bc7f5fd70859f/1228968852?w=250&h=166)
↑ライヒスターク
ソ連兵は突入する度、次々に撃ち倒されていく。しかし、ソ連兵に後退はありえない。ソ連の独裁者スターリンは、ライヒスタークの早急な奪取を望んでいた。4月30日夜に開かれる、メーデー(労働者の祭典の日)に彩りを添えるためである。ソ連の威信を内外に示すためなら、兵士達にどのような犠牲が生じようともスターリンは意に返さなかった。上官に急き立てられ、ソ連兵は大きな危険が待っている、小さな穴に次々に飛び込んでいく。躊躇すれば銃殺が待っているので、行くしかないのである。一方のドイツ軍にも後退はあり得ない。彼らは街の片隅に追い詰められ、後退する場所など存在しなかった。また、ドイツ軍は大戦中、ソ連軍捕虜を人として扱わず、多くを死に至らしめていた。そのため、ソ連軍に投降しても、人として扱われる保障はなかった。実際、ソ連に囚われたドイツ兵捕虜の多くが、ロシアの土と化している。彼らは戦って目の前の敵を倒し、束の間の生を得るしかなかった。
ライヒスターク内での戦い。ドイツ軍は建物内部の各所で、構造物の段差や陰影を利用して待ち伏せの構えを取っている。特に、中心部の議場ホールの守りは固く、障害物を築いて、多数のドイツ兵が配置に付いていた。そこへソ連軍が突入して来ると、上階のドイツ兵がパンツァーファーストで狙い撃ちし、更に機関銃で追い討ちをかけた。壮麗な石壁や石柱には、たちまち銃痕が刻まれてゆき、そこに飛び散った血肉が張り付いていった。そして、弁論で応酬するはずの議場ホールは、銃火と手榴弾で応酬する場となり、ホールはたちまち死で埋め尽くされた。ソ連軍が上階に進出し始めると、地階のドイツ兵がその背後を襲った。建物内各所で、銃声、罵声、うめき声、爆発音が響き渡り、さらに内部の火災がこの戦場を燻しあげる。
4月30日22時50分、ソ連軍の発表によれば、激戦の最中、赤旗第5号旗を抱えたソ連軍兵士が建物内を駆け上がり、ライヒスタークの屋上に到達して、高々と赤旗を掲げたとされる。それは、モスクワ時間のメーデーの日が明ける70分前の出来事であったとされる。しかし、その時間帯、建物内部は、まだ激戦の真っ只中にあって、本当にメーデーの日に間に合ったのかどうかは定かではない。ソ連軍が屋上に旗を立てたとしても、ライヒスターク内ではまだ、建物の1室1室を巡って、死闘が繰り広げられていた事は確かである。地上階は徐々にソ連軍に制圧されていったが、ドイツ軍は地下室から尚も抵抗を続けた。だが、追い詰められ、弾薬も使い果たしたドイツ兵は、5月2日、ついに降伏する。 暗い地階から300人余のドイツ兵が投降し、奥には500人余の負傷兵と200人余の戦死者が横たわっていた。この戦闘におけるソ連軍の死傷者数は不明だが、ドイツ軍を遥かに上回るものであったろう。
戦闘終了後、ヨーロッパでの第二次大戦終結を印象付ける、かの有名な写真がライヒスターク屋上で撮られる事となる。