このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
戦国史・第二次大戦史・面白戦国劇場など
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伊豆の七島とは、東京の南、太平洋上に浮かぶ島々、北から大島、利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島の事である。これらの島々は本土から遠く離れ、周囲を海で囲まれている事から、古来より流刑の地として利用されていた。だが、本格的に流人がこの島々に送られるようになるのは、江戸時代からである。その代表格として上げられるのは、関ヶ原の合戦で副将を務めた宇喜多秀家であろう。
秀家は七島の最南端にある八丈島に流されたが、元大名であった事から客人としての待遇を受けていた。それに正妻の豪姫が北陸の大大名、前田家の出身であった事から、その援助を受けて秀家の子孫は繁栄し、明治の世には20家まで増えていた。しかし、これは例外中の例外であって、大多数の流人は地味の乏しい離島で、喘ぎ苦しみながら生活を送っていたのである。
遠島の刑は、現在の終身刑に当たる重罪である。その主な罪は、幕政批判、放火(放火の罪は重く、火あぶりと定められていたが、15歳未満の者は遠島とされた)、密貿易、恐喝、詐欺、博打(三度までは敲き(たたき)であるが、それ以上になれば遠島とされた)。遠島となっても、将軍の代替りや、慶弔、法要の折には特赦や恩赦も実施されたが、これに加えて、流人の関係者による強力な放免活動も必要であった。それも30年から40年経ってようやく放免は実現するため、それまでに死ぬ者が多かった。
八丈島に送られてくる流人は、最初は政治犯や思想犯が多く、島民は教養ある彼らを国人(くんぬ)と呼んで尊敬していたが、時代が下るにつれ無頼漢の刑事犯が増えてきたので、次第に軽蔑するようになった。江戸時代後半の例を挙げると、最多は博徒で、次に女犯の僧侶、そして喧嘩であった。ちなみに江戸時代、僧侶の妻帯は禁じられていたが、実際にはお針女とか洗濯女の名目で寺内に引き入れたり、遊里に通ったりしていた。それが発覚すれば、日本橋に3日間晒された上、寺法に則って処分された。寺持ちの僧侶であれば遠島で、相手が人妻であったなら、僧侶と言えども獄門に処された。
遠島となった者は道義に外れた者も多く、問題も多く起こした。そのため、島民は困り果てて度々、遠島の免除を願い出たが、幕府は聞き入れなかった。遠島が無くなるのは、明治の世まで待たねばならなかった。流人が配所に到着すると、島役人の人改めを受けた上で、それぞれの村に受け渡される。女流人は、男流人とは区別されて島の有力者の召使いとされた。女流人の小屋には男流人が群がって妊娠する事もあったが、子を養う力が無いため、赤子は捨てられていった。配所には流人頭がおり、流人達の世話と統率に当たった。流人頭は、流人の中から信望のある者が任命されており、親切で面倒見のある者もいたが、同じ流人を家来の様に扱って、牢屋の専制君主の様に振舞う者もいた。
流人は身分によって扱いが異なっており、武士、高僧、有識者などは「別囲」と呼ばれて、寺や島役人の離れに寄宿した。その中でも、宇喜多秀家の一族は別囲以上の扱いを受けていた。見届け物の多い裕福な流人は「家持流人」と呼ばれ、借家に住んだ。しかし、大多数の流人は「流人小屋」と呼ばれる、粗末な掘っ建て小屋に住んでいた。島送りの流人達は渡世勝手次第と言って、自分で生計を立てるのが原則であった。
一見自由に見える流人の生活にも、禁止事項はある。島抜けの禁止・再犯の禁止・水汲み女の雇い入れの禁止(島妻の禁止)・内証便の禁止(見届け物や手紙の密輸禁止)などである。伊豆の島々は水の便が悪く、それを汲むのは島の女の役目であり、それが水汲み女と称されていた。「別囲」「家持」などの流人は水汲み女を雇い入れて、実際には島妻としていた。表向き、水汲み女の雇い入れは禁止されていたが、妻子を持つと流人の心が和んで再犯防止に効果があったので、どの島でも黙認されていた。
島民が最も恐れたのは、流人の再犯である。そのため、再び犯罪に手を染めたなら厳罰を持って望んだ。その主な刑は、斬首、簀巻き(むしろで巻いて海に投げ落とす)、縛り首、断頭刑(木槌で頭を打ち砕く)、榾(ほだ)の掛け捨て(手足を丸太に挟んだまま死ぬまで放置する)などである。伊豆七島は小さな火山列島であり、耕作地は狭く、火山灰によって作物の実りも乏しい。その上、台風などによる塩害や風害を受ける事も多く、その都度、深刻な飢饉に襲われた。そうなれば島民には男1人2合、女1人1合のお救い米が幕府より支給されたが、流人とその子供は適用外であり、飢饉になると多くが餓死していった。流人がこの島で生きて行くには、親族などから送られてくる、金品や食料などの見届け物が必要不可欠であった。
宇喜多一族には、加賀100万石の前田家から、隔年で豊富な見届け物が届けられていたが、これは宇喜多一族のみに当てはまる事であって、ほとんどの流人は親族からの細々とした見届け物で命を繋いでいたのである。そして、飢饉になると頻発したのが、流人による島抜けであった。新島では、寛文8年(1668年)から明治4年(1872年)までに18件、三宅島では、明和2年(1765年)から文久3年(1863年)までに35件、八丈島では、享保7年(1722年)から万延元年(1860年)までに25件、確認されている。島を抜けるには数人がかりで船を漕がねばならないので、大抵5人から10数人で決行されている。島抜けの例を幾つか挙げてみる。
嘉永5年(1852年)6月8日、新島から竹居安五郎と云う侠客の親分が6人の仲間と共に島抜けを図った。この時、安五郎は42歳、諸般の罪科を重ねて、遠島となっていた。まず、安五郎らは島の名主宅を襲って殺害した上、鉄砲を盗み出した。そして、水先案内を捕らえると、本土へ向けて船を漕ぎ出した。翌9日、船は伊豆半島に漂着したが、この時に案内人が逃れて代官所に駆け込んだ。直ちに安五郎らの人相書きが配られて、捜索が始まった。一味はばらばらに逃れたが、3人は捕らえられて獄門に処され、3人は行方不明となり、安五郎は甲斐国へ逃れて追跡を振り切った。かつての子分達が、安五郎を匿ったのだろう。そして、安五郎は関東のあぶれ者達の集まり、甲州博徒の親分に復帰して、10年に渡って君臨する事になる。
島抜け成功者として、侠客の中でさらに重きを成していた安五郎であったが、文久元年(1861年)10月6日、ついにその悪運も尽きる時が来た。安五郎の用心棒であった、犬上郡次の密告を受けてお縄となったのである。この郡次は、安五郎の島抜けの際に殺された名主の甥であった。そして、翌文久2年(1862年)、安五郎は獄死する。しかし、密告した郡次も、安五郎の一番子分、黒駒の勝蔵の報復を受け、滅多斬りにされて殺されたのだった。
万延元年(1860年)11月、この年は飢饉だったらしく、三宅島に在島していた流人258人の内、34人が島抜けを図った。その中の1人、金子伴作は仲間13人を誘って船を漕ぎ出したが、海が荒れていたからか、島に押し戻されてしまう。そこで、一味は村の鉄砲庫を襲った上で山に逃れた。10日後の深夜、一味は再び船を漕ぎ出したが、村民に非常線を張られており、追跡されて全員が海上で殺されたのだった。
古代地中海世界、北アフリカの大地に燦然と輝く、一大商業都市があった。その名をカルタゴと云う。紀元前9世紀頃、カルタゴは、東地中海(現在のレバノン周辺)に勢力を張っていたフェニキア人の手によって建設された。当初は小さな植民都市として始まったが、カルタゴのあるチュニジアは地味豊かな大地で、しかも地中海の東西交易の中継地である事も手伝って大いに繁栄し、やがては地中海随一の貿易都市にまで発展する。だが、母国フェニキアはアッシリアやバビロニアといった周辺勢力の伸張によって衰亡していったため、カルタゴは一国家として自立せねばならなくなった。
以降、カルタゴは、地中海の雄、ギリシャと激しく競り合いながら強力な海軍を築き上げ、紀元前5世紀には西地中海一帯に領域を持つ、一大海洋国家に成長する。後にカルタゴの宿敵となるローマであるが、この頃はまだイタリアに数ある都市国家の一つに過ぎず、カルタゴを上位と認める条約を結んでいた。だが、紀元前3世紀になるとローマはイタリア半島全域に支配力を及ぼす、一大国家に成長していた。自然、両大国はお互いを意識して、緊張が高まってゆく。そして、イタリア半島のローマと北アフリカのカルタゴの中間に位置し、お互いの勢力が交錯するシチリア島にて、ついに両者は激突した。時に紀元前264年、第一次ポエニ戦争の始まりである。
シチリアは地中海のほぼ中心に位置する要衝で、この島を制すると、周辺の制海権はおろか、地中海全体に影響を及ぼす事も可能であった。そのため、両国とも総力を挙げて、島の争奪戦を繰り広げた。カルタゴはその経済力をもって各地から庸兵を招集してシチリアに送り込み、ローマは市民から徴兵した国民軍を送り込んでいった。当初、海軍戦力はカルタゴ側の圧倒的優勢であったが、ローマは1から海軍を育て上げ、それに新戦術を加えて、カルタゴ海軍と互角以上の戦いをするまでになった。勢いに乗ったローマ海軍は度々勝利を収め、制海権を握るかに見えたが、嵐を受けて数万人もの人員が海没する大被害を二度も受けてしまい、以後は振るわなくなった。
それでも、ローマ軍は10数年の歳月をかけて、一歩一歩、シチリア島の地歩を固めていった。長引く戦争で、両国とも国力と人員を大きく消耗し、国民に重税を課す事でようやく戦線を維持していた。両国とも疲弊しきっていたが、より苦境にあったのは、シチリアから追い落とされつつあったカルタゴであった。ここでカルタゴは、ハミルカルと云う新進気鋭の将軍をシチリアに送り込んで、事態の打開を図った。このハミルカルこそ、かの有名なハンニバルの父である。ハミルカルは天才的な指揮官で、寡兵をもって要害に立て篭もると、以後、数年に渡って優勢なローマ軍相手に互角に渡り合った。ローマ軍は、地上ではどうしてもハミルカルを撃ち破る事が出来ず、この戦争に勝利するにはハミルカルへの補給を断つしかないと察した。そして、最後の努力を傾けて200隻の艦隊を建造すると、それを、ハミルカルに補給物資を運び入れようとしていたカルタゴ艦隊にぶつけた。この運命の海戦でカルタゴ海軍は壊滅し、制海権を完全に喪失してしまう。
こうして補給路を断たれ、敵中に孤立する形となったハミルカルは、ローマと不利な和議を結んでシチリアを去らざるを得なかった。こうして第一次ポエニ戦争は、ローマの勝利に終わった。時に紀元前241年、24年に渡る長い消耗戦であった。この戦争を契機にローマは一大海軍を築き上げ、地中海の制海権を握るに至った。しかし、その代償も大きく、戦争によってローマ市民の人口は17%も減少した。前251年の統計では、成人市民の数は29万7,797人であったのに、前246年の統計では25万1,211人に減少していた。一方、カルタゴはその主兵が傭兵であったため、人的被害は少なかったが、国富は底を突き、海軍は弱体化し、要衝シチリア島も失った。その上、10年払いで3200タレントの賠償金を課せられた。
戦後、カルタゴは深刻な財政難に陥った。そして、雇っていた傭兵の賃金を出し渋ったため、紀元前240年、4万人を越える傭兵が大反乱を起こした。この反乱には、第一次ポエニ戦争中、重税が課せられていた北アフリカの諸都市も加担し、一時は10万人の規模にまで膨れ上がる。更にカルタゴの勢力範囲であったサルデーニャ島(イタリア半島南西にある大きな島)でも反乱が勃発し、その支配から離れた。存亡の危機に立ったカルタゴは急遽、市民を動員し、新たに庸兵も雇い入れた。そして、再びハミルカルを指揮官に任命して、カルタゴの命運を託した。反乱軍側の方が規模は大きかったが、ハミルカルは卓越した軍才を発揮して、反乱軍を追い詰めていった。そして、最終的には4万人以上の庸兵全てが殺される形で、本土の反乱はようやく終息した。時に紀元前238年、3年半に渡る戦いであった。戦後、カルタゴは蜂起に加担した都市や部族に報復を加え、女子供を含む多くの人間を処刑していった。
紀元前237年、カルタゴは本土の反乱は平定したので、今度はサルデーニャ島の反乱鎮圧に取り掛かろうとした。しかし、これに先んじてローマが兵を派遣し、サルデーニャ島とその北にあるコルシカ島まで占領してしまう。ローマは、カルタゴの弱体化に付け込んで、両島を不法占領したのだった。カルタゴはこれに激しく抗議して艦隊の準備に取り掛かると、ローマは、カルタゴの出兵準備はローマに対する侵攻準備であるとして、宣戦を布告してきた。庸兵の反乱を受けてまったく余力が無かったカルタゴは、何としても戦争を回避すべく1200タレントの追加賠償金を支払った上、両島も放棄せざるを得なかった。このサルデーニャ島は重要な交易拠点にして、食料供給地でもあったのでカルタゴの受けた打撃は大きかった。そして、ローマに対する深い遺恨を覚えた。
第一次ポエニ戦争、庸兵の反乱、ローマによるサルデーニャ島、コルシカ島の占領を受けて、地中海におけるカルタゴの勢力範囲と国力は大きく減退した。だが、カルタゴにはまだ、スペインという植民地が残されていた。このスペインは豊富な銀を産出して、カルタゴの苦しい財政を助けていた。しかし、このスペイン植民地は、南部の沿岸部を占有するに留まっていて、内陸部はほとんど手付かずの状態にあった。このまま手隙の状態が続くと、今度はローマがスペインを狙う可能性があった。この時、カルタゴの指導者となっていたハミルカルはスペインの確保を確固たるものとすべく、遠征を主張する。
おそらく、ハミルカルはこう考えていた。ローマが介入する前にスペイン全土を掌握し、その地からもたらされる富をもって、カルタゴの財政を復興させる。そして、戦力を蓄えた上でローマに報復し、カルタゴを再び地中海の覇者へと導く、と。このスペイン遠征案は政府に承認され、正式にカルタゴの国家戦略となった。紀元前237年、ハミルカル率いる大船団がカルタゴから出航せんとしていた時、9歳になっていたハンニバルは父に同行を願った。それに対してハミルカルは、「ローマを生涯の敵とせよ」との誓いを立てさせた上で、同行を許したと云う。ハミルカルは勇躍スペインに上陸したものの、諸部族の抵抗は思いのほか激しく、戦いに次ぐ戦いの日々が続いた。それでも徐々に支配地は広がっていって、経営が軌道に乗り出したところ、紀元前229年頃、ハミルカルは壮図半ばで、戦死してしまう。
だが、ハミルカルの残した基盤は、娘婿であったハズドルバルが引き継ぎ、それを更に発展させていった。紀元前221年、ハズドルバルが不慮の死を遂げると、25歳になっていたハンニバルがその跡を引き継いだ。ハンニバルはしばらくはスペインの諸部族相手に戦い、貴重な戦闘経験を得ると共に地盤を固め直した。そして、紀元前219年、ハンニバルは亡き父との誓いを果たさんとしてか、大軍を連ねて、遥かローマを目指して進軍を開始する。第二次ポエニ戦争の始まりである。しかし、地中海の制海権はローマの手にあるので、ハンニバルは未開のフランスを横断し、峻険なアルプスを越えてイタリアに向かわねばならなかった。ハンニバルとその軍は苦心してイタリアに辿り着くと、そこからイタリア全土を縦断してローマに凄まじい損害を与え続けた。
ハンニバルの戦歴の頂点となるのが、紀元前216年に行われたカンナエの戦いである。ハンニバル率いるカルタゴ軍5万人は、ローマの頭脳たる元老院議員多数を含んだローマ軍8万人余と決戦し、その内7万人余を殺害すると云う空前の大勝利を収めた。この結果、イタリア半島南部のほとんどの都市がカルタゴ支持に回り、さらにバルカン半島中央部の大勢力マケドニア、シチリア島のシュラクサイといった勢力もカルタゴ側に付いた。これに加えて、イタリア半島北方のガリア人もカルタゴ側に味方する。こうしてローマは、ハンニバルが構築した巨大な包囲網に捕われ、存亡の危機に立った。
だが、ローマはここから、実に粘り強かった。非常に苦しい状況であったにも関わらず、ハンニバルからの和平提案を峻拒し、市民に大動員をかけてじりじりと反抗した。だが、その過程でイタリア半島は戦場となって荒れ果て、多くの耕作地が放棄された。特に南イタリアの状況は酷く、両軍による略奪と破壊を受けて、荒廃しきっていた。戦争による人口減少も甚だしく、前233年のローマの成人市民の数は、27万713人であったのに、前204年の統計では21万4千人に減少していた。ローマだけでなく、同盟都市の人的資源も大きな打撃を被っていたが、それでもローマの国力、軍事力はカルタゴを上回るものがあった。
ローマは底力を発揮して、やがてハンニバルをイタリア半島のつま先に押し込める事に成功する。そして、若き新星スキピオを立てて攻勢に転じ、ハンニバルの根拠地であるスペインを奪取し、更にカルタゴ本国へと攻め入った。このカルタゴの危機を救えるのは、ハンニバル唯1人であった。紀元前203年、ハンニバルは本国からの召還令を受け、北アフリカに帰還する。そして、紀元前202年、北アフリカザマの大地で、スキピオ率いるローマ軍と、ハンニバル率いるカルタゴ軍が国運を賭けて決戦した。この戦いで勝敗を左右する存在となったのが、カルタゴの隣国にあって強力な騎兵を有していたヌミディア王国である。このヌミディアの王、マシニッサはローマに味方して参戦し、その強力な騎兵をもってカルタゴ軍を撹乱し、ローマの勝利に大きく貢献した。ザマの会戦でハンニバルは生涯初の惨敗を味わい、カルタゴの未来も大きく閉ざされる結果となった。
ザマの会戦後、カルタゴは抗戦を諦め、使節を派遣してローマとの間に講和条約を結ぶ。だが、この戦争でカルタゴが失ったものは、余りにも大きかった。スペインを始めとする全ての海外領土を失った事に加えて、10隻を除く、全ての軍船がローマ側に引き渡された事は何よりの痛手であった。これで伝統を誇るカルタゴ海軍は消滅し、自衛のための最小限の軍備しか持てなくなった。ローマは、カルタゴを独立した同盟国と見なして駐留軍は置かず、その自治は認めたが、以後、ローマの承認無しに戦争する事は禁じられた。更に、賠償金として50年払いで1万タレントの支払いも課せられた。カルタゴの農園は1年に1万2千タレントの収益があったと云わているが、それでも長期の戦争で疲弊しきったカルタゴにとって、とてつもない負担であった。こうして、カルタゴは大国としての地位を失い、ローマの覇権下で生きる一地域国家、すなわち属国に等しい存在になった。
戦後、カルタゴでは経済が悪化し、それを立て直すためハンニバルが再び先頭に立った。ハンニバルは政治面でも持ち前の指導力を発揮し、増税はせずに経費の削減と予算の見直しによって見事に国内経済を建て直した。だが、その反面、既得権益を侵される立場にあった貴族達の反感を喰らい、これら反対派の要望を受けて、ローマから視察団がカルタゴに派遣される事になった。この視察団はハンニバル暗殺の密命を受けていたと云われており、危険を察知したハンニバルは国外に逃亡する。しかし、その後もローマは執拗にハンニバルを探索し、紀元前183年、亡命先のビィテニア(現トルコ)で自害に追い込んだ。ハンニバル・バルカ、65歳。奇しくも同時期に、最大の好敵手であったスキピオ・アフリカヌスも54歳で死去している。カルタゴはハンニバルと云う偉大な指導者を失ったが、彼が行った改革を元に着実に復興を遂げていく。
↑紀元前264年頃のカルタゴの勢力範囲(ウィキペディアより)
カルタゴの滅亡2に続く・・・