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- 2009.06.27 五稜郭に埋もれた遺骸
- 2008.11.10 目が開く掛け軸
- 2008.10.30 いわくつきの城
- 2008.10.26 大根占での怪奇現象
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大正15年(1926年)10月8日夕暮れ、五稜郭周辺に住む女性が買い物帰り、何気なく郭内にある三号売店の方を見た。すると、人魂のようなものが漂っており、それはスーッと五稜郭の橋の袂の方へと消えていった。翌10月9日、桜の木の植替え作業中、函館戦争で戦死した者と思われる遺骨4体が発見されたのだった。その内の一体は遺骨は驚くほど形が保たれていたが、誰であるかは判明しなかった。五稜郭では、明治11年(1878年)にも遺骸が発見されている。土塁の修復作業中、旧幕府軍の戦死者と思われるおびただしい数の遺骸が発見されたのだった。それらは願乗寺に埋葬されたが、後に高等な位置に移葬されたと云う。
函館戦争は明治元年(1868年)10月21日、榎本武揚率いる旧幕府軍が函館近くに上陸した時から始まり、明治2年(1869年)5月18日、五稜郭に立て篭もった旧幕府軍が、降伏するまでの間に行われた戦いである。兵力は、新政府軍が9000人余で、旧幕府軍は3000人余、戦いによる戦死者は、旧幕府軍で800人余、新政府軍は300人余であったらしい。五稜郭周辺で戦死した旧幕府軍は、郭内や付近の寺院に埋葬されていた。
函館戦争で戦死した人物の中で最も有名なのは土方歳三である。
明治2年(1869年)5月11日、新政府軍総攻撃のこの日、歳三は一本木関門辺りで戦闘指揮している最中、腹部を撃ち抜かれて戦死した。歳三の遺体は、従卒によって五稜郭に運ばれたと云われており、郭内に埋葬されていると考えられている。土方歳三の墓は、伊庭八郎の墓の傍らにあったとも云われている。しかし、歳三が眠っている場所は、現在でもはっきりとは分かっていない。
いわくつきの城と言えば東京都に在る八王子城が有名です。この城は戦国時代に北条氏照が築いた山城です。(1590年)豊臣秀吉によって北条氏が討伐されるに至って北条家は本城、小田原城に主力を集めて征討軍を迎え撃つ事とし、これに伴い氏照も主力を率いて小田原城に移ります。このため八王子城では氏照の家老が留守を預かり、女子供を含む領民達を動員して2000名程の人員と共に城を守っていました。
天正18年(1590年)6月23日早朝、八王子城は、征討軍の攻撃を受けます。城方は所々で奮戦しますが、城主と主力部隊の不在が響き、僅か半日で落城してしまいます。落城に際して、秀吉は北条家に対し見せしめにするという意向もあって、城内の生ける者達の多くは殺戮されます。その犠牲者数は女子供も含めて千名にも上ったとか。
以来、八王子城では現在に至るまで、様々な怪奇談が語られています。(6月23日)落城の日の夜には城兵達の恨めしげなうめき声が聞こえてくる、婦女子達が自害した滝の側では幽霊が目撃される、等などテレビでも心霊スポットとして取り上げられていました。
もう1ついわくのありげな城跡を紹介します。
戦国時代、三木城の別所氏は播磨の有力大名でありましたが、織田家の部将、羽柴秀吉が進出してくるとこれに従い、その与力となりました。しかし、別所氏は天正6年(1578年)3月、突如、三木城に立て篭もり、織田家に反旗を翻します。以後、秀吉方と別所方は三木城周辺を舞台に戦いを繰り広げ、両軍共、おびただしい数の犠牲者を出します。やがて、三木城は秀吉方によって完全に包囲され、2年にも及ぶ兵糧攻めを受けて多くの餓死者を出した末、天正8年(1580年)に落城します。
三木城は現在では住宅街に埋め尽くされ、見る影もありませんが、いわくありげな城跡ではあります。そして、三木城からやや離れた場所ではありますが、(1990年代前半)道路造成工事を行った際、古い祠か墓を撤去したそうです。それは、三木合戦で戦死した武士の墓であったのかもしれません。その後、道路は開通して、多くの車両が行き来するようになりますが、ある交差点の付近では事故が多発するようになります。そして、その事故を起こした多くの人が、武士の霊を目撃したと言うのです。特に深夜、雨がよく降る日に武士の霊が目撃されたそうです。この噂は当時、この付近全域に伝わっていました。
私も当時、その道を通った事はありましたが、幸いその霊を目撃する事はありませんでした。どこかで聞いた噂話によると、余りにも事故が多発するという事で、その武士の霊を慰めるため祠を立て直し、供養をおこなったところ、武士の霊は現れることはなくなったそうです。しかし、この交差点付近では今でも事故がたびたび起こるようでして、通るたびに、電柱に花が飾ってあるのを見ます。 南無阿弥陀仏・・・
戦国時代、現代の鹿児島県に当たる大隈国では、島津氏と肝付氏が九州南部の覇権を争って戦いを繰り広げていた。そして、時には500人以上の戦死者を出す事もあった。両者の戦いは大根占の地でも行われ、おびただしい数の武士の骸が戦場に横たわった。付近の農民達は戦いがある度に避難して隠れていたが、戦いが終わると戦死した武士の祟りを恐れて、塚を作って弔い、丁重に供養を続けた。しかし、時が流れる内にそのような歴史も徐々に忘れ去られていった。
現代に至り、とある場所で塚を撤去して工事が行われる事が決まった。しかし、いざ工事が始まると、その現場では作業者達の事故が相次ぎ、死者も出るなどして、工事はなかなかはかどらなかった。「塚を撤去した祟りではないのか!?」と言う声が囁かれ始めたが、その工事を請け負う会社社長は取り合わず、工事を続行させた。
ある日の夕刻、付近の住民がその工事現場を通りかかった際、驚くべきものを目撃した。人魂のようなものが舞い上がって、とある方向へ飛び去っていったのだ。その人魂は目を凝らせば、生首の様に見えたと云う。そういった現象が度々目撃され、ある日、会社社長の死が伝わってきた。
その社長は突然、高熱に襲われ、「武者の生首が襲い掛かって来る!」とうわ言を言い、その顔は恐怖でひきつりながら息絶えたと云う。工事現場から飛び立った生首の人魂が向かっていたのは、その社長の家の方向であったのだ。人々は恐れおののいて工事は中止となり、改めて塚を作り直し、供養を行うと怪奇現象は治まったと云う。
この大根占付近での別の話。
夜間、ある人が隣町まで出掛けようとしてバイクを走らせていた。その内、道が鬱蒼と茂った林の中へと続くと、その人はただならぬ気配を感じ始めた。そして、両側の木々の間から、鎧兜を身に着けた大量の人影が現れて来たのだ。その人は恐怖に囚われてバイクのアクセルを強めると、人影達は一斉に襲い掛かって来た。バイクのライトに照らされてもその人影の顔は見えず、「ぶつかる!」と思った瞬間、その林の道を通り抜け、事無きを得ることが出来た。後日の昼間、その人があの時、何があったのか確かめようとその道を調べて見ると、林の道の両側には武士達の墓が立ち並んでいたと云う。
日本には大根占だけでなく、全国各地に首塚や供養塔があります。その中でも、とりわけ有名なのは平将門の首塚でしょう。第二次世界大戦後、GHQが周辺の区画整理をしようとして将門の首塚を撤去しようとした際、ブルドーザーが転倒して運転手が死亡したという事故が起きたため、造成計画を取り止めたという話があります。こういったものを撤去するとやはり良い事は起こらないのでしょう。あな、恐ろしや・・・しかし、武士の霊は一度、この目で見てみたい気もする。