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知られざる実力派武将

2010.05.01 - 戦国史 其の二

戦国時代の武将で、実力がありながら、あまり名の知られていない人物を、簡単な略歴と共に紹介したい。


八柏 道為(やがしわ みちため / ?~1595年)

出羽の戦国大名、小野寺家に仕える重臣であり、知友兼備の将と云われていた。出羽の狐と呼ばれた謀将、最上義光は小野寺領を虎視眈々と狙っていたが、それを防いできたのが八柏道為であった。天正14年(1586年)、有屋峠において、小野寺軍と最上軍が激突した際、八柏道為の活躍によって緒戦は小野寺軍の勝利に終わったと云う。この合戦の詳細は明らかではないが、最後は最上軍優勢の形で終わったようだ。


この後も、最上義光は小野寺領を併呑せんと狙い続けるが、その目的のためには八柏道為の存在がどうしても邪魔であった。文禄5年(1595年)、義光は一計を案じ、道為が内通しているとの偽書を送り、それを主君の小野寺義道の目に留まるようにしむけた。はたして、
義道はこの計略に引っかかり、道為を殺害してしまう。小野寺家の衰亡は、この忠臣を失った時から始まった。以後、義光は事あるごとに小野寺領を蚕食していった。


慶長5年(1600年)、関ヶ原合戦において、義道は緒戦は東軍側に身をおいたものの、義光憎しの一心から西軍に鞍替えしてしまう。関ヶ原合戦が東軍勝利に終わると、小野寺家は御家取り潰しとなり、義道は石見、津和野の地に配流の身となった。知勇兼備の将と謳われた八柏道為が存在していれば、また違った展開があったのかもしれない。ただ、八柏道為の人物像と活躍は「奥羽永慶軍記」と云う軍記によるところが大きく、それが史実であったかどうかは定かではない。


梅津 憲忠(うめづ のりただ / 1572~1630)

少年時代は浪人であったが、父、道金と共に常陸に移り住み、佐竹家の世話になるようになる。その間、憲忠は自らの研鑽に努め、後に開花する高い政治的素養を培った。やがて、佐竹義宣の近習に取り立てられ、その高い実務能力を買われて祐筆となった。憲忠は、初期佐竹藩の確立に尽力し、義宣の篤い信頼を受けて家老にまで出世する。

憲忠は実務だけでなく、馬術や鉄砲にも長ずる武功の士でもあった。大坂の冬の陣では、奮戦して重傷を負っている経歴もある。また、連歌や書道にも深い造詣がある文化人でもあった。弟の政景も優れた実務能力を有しており、兄弟揃って、佐竹家の藩政を主導した。弟の政景は、近世初期の資料として最良のものとされている、梅津政景日記を残している。


大縄 義辰 (おおなわ よしとき / ?~?)

常陸の戦国大名、佐竹家に仕えていた武将であり、佐竹義重の子息、盛重が会津の戦国大名、蘆名家を引き継ぐに当たって、共に会津に出向した。新しく蘆名家当主となった盛重であるが、まだ年少である事から、義辰がその後見役として実務を執った。義辰には、佐竹義重の意を汲んで、蘆名家を主導する事を期待されていた。

天正17年(1589年)、蘆名家は、伊達政宗と事を迎える事となり、両者は摺上原に於いて激突する。この時、蘆名先手衆の指揮官を務めたのが、佐竹系筆頭であった大縄義辰だったようだ。義辰ら蘆名先手衆は奮戦したものの、後方の蘆名部隊は戦いに参加しなかったので、衆寡敵せず伊達軍に打ち破られてしまう。蘆名家はこの戦いで滅亡し、盛重と義辰は常陸へと逃れた。義辰はその後、朝鮮出兵に伴って、肥前名護屋に在陣したり、水戸城の普請奉行を務めたりした。生没年は不詳である。

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長篠合戦後の武田勝頼

2010.02.28 - 戦国史 其の二

天正3年(1575年)5月21日、遠江国、設楽原(したらがはら)の地で、武田軍1万5千人余と織田・徳川連合軍3万8千人余が激突する(武田軍1万余、織田・徳川軍2万人余であったとも)。史上名高い、この長篠の戦いで武田方は数千人余の討死を出し、さらに武田家を支えてきた名将、多数を失って惨敗した。この戦いの結果、武田家の威信は大いに失墜したが、逆に織田信長は著しく威信を高めて、自らの覇権確立を確信するに至った。更に、織田、徳川軍はこの勝利に乗じて戦果を拡大すべく、美濃岩村城や三河、遠江の武田方諸城を囲んだ。これらの諸城が落とされれば、連鎖的に武田領国が崩壊しかねない状況であった。



この領国の一大危機に対し、勝頼はまず、軍を立て直す事から始めねばならなかった。減少した戦闘員を急遽、補充すべく、戦死した武士の年少の子息や、僧侶、町人まで取り立てて、遮二無二に軍の再建に臨んだ。そして、3ヶ月後には何とか1万3千の軍を編成し、徳川軍に包囲されていた遠江小出城の後詰めへと向かった。 同年9月7日、武田の援軍が小出城に現れると、徳川方はこれほどの短期間で武田軍が立て直されるとは思っていなかったから、驚いて撤退していった。徳川方は勝頼の手腕を手放しで賞賛したが、武田軍の中には多くの百姓人夫が混じって、人数合わせをしているという点は見抜いていた。こうして勝頼は、小出城の後詰めには成功したが、織田の大軍に囲まれている美濃岩村城の方は、如何ともし難く、後回しにした。同年11月、勝頼は甲斐、信濃に再び動員をかけて、岩村城の後詰めに向かった。武田軍は夜討ちを仕掛けて、包囲網を討ち破らんとしたが、織田方の激しい反撃を受けて撃退され、救出は絶望的となった。



天正3年(1575年)11月21日、粘っていた岩村城もついに力尽き、織田軍によって、城兵は1人余さず皆殺しとなった。この凶報は、武田領国を震撼させる。 同年12月16日、勝頼はかつてない危機感を覚えて、領国各地より身分を問わず、15歳以上60歳以下の男子を20日間の期限付きで、総動員するよう布告する。それと平行して、勝頼は武田軍を近代化すべく、軍政改革を行う。まず信玄以来の軍法を改めて新たな軍法を制定し、かつ装備を改善するため、長柄槍を減らし、騎馬武者の増員と鉄砲装備の拡充を目指した。 こうした努力の結果、武田軍は兵力の回復には成功したものの、その反面、軍務に適さない者を大量に動員したため、以前と比べて質的には見劣りする軍となった。 また、連年の出兵による領内の疲弊に加え、武田の財政を支えてきた金山収入の減少もあって、装備の改善もままならなかったと思われる。



長篠の戦いでは、武田家の領国支配を分担し、意思決定にも加わっていた宿老達のほとんどが戦死していた。これら有能な人材を多数、失った事が武田家にとって最も大きな打撃であった。勝頼は、必然的に新たな人材の登用を迫られる。駿河・遠江方面は、山県昌景が駿河江尻城代としてこの地域を統括していたが、戦死後には穴山信君に代わった。この江尻城は、長篠合戦後、攻勢を強める徳川家に対応するための重要拠点だった。 西上野は、内藤昌秀(昌豊)が箕輪城代として統括していたが、戦死後しばらくは、城主は置かれず、天正6年(1578年)以降から、真田昌幸がこの地域を統括するようになる。そして、勝頼の側近として重く用いられるようになったのが、武田信豊、跡部勝資、長坂光堅らだった。特に信豊と勝資は、武田家の意思決定に深く関与する事になる。


天正5年(1577年)1月22日、織田、徳川家による軍事的圧迫は引き続いていた事から、勝頼は背後を固める目的で、関東の北条氏政の妹を娶った。この時、勝頼32歳、北条夫人14歳であった。典型的な政略結婚であったが、そのような事に関係なく、2人は深く愛し合ったようである。この婚姻によって両家の絆は深まったかに見えた。しかし、両家の蜜月は束の間であった。天正6年(1578年)3月、越後の雄、上杉謙信が死去し、その跡目を巡って2人の養嗣子、景勝、景虎による後継争い(御館の乱)が勃発すると、武田家と北条家は思惑が行き違って、溝を深めていく事になるのである。


北条氏政はこの機に乗じて、越後を北条家の影響下に置こうと考え、自身の弟である景虎の支援を開始する。しかし、北条家の主力は関東で佐竹氏らと対陣中で、すぐには動けなかったので、勝頼に軍事支援を仰いだ。勝頼はこの要請を受諾して、越後への進軍を開始し、その過程で信濃飯山城、越後越知城、越後不動山城、越後赤沢城を手に入れる(これらは乱終結後、正式に武田家に割譲される)。勝頼は、春日山城に達すると、軍事圧力を加えながら、景勝と景虎の双方に、和睦するよう呼びかけた。本来なら、ここで景虎を全力支援すべきであったのだが、勝頼は、景虎が勝利して、北条家の勢力が越後にまで伸びる事は避けたかった模様である。


それに、出兵の間にも攻勢を強める徳川家に、早急に対応せねばならない事情もあった。そして、景勝と景虎いずれも支援せず、両者が和睦するよう努力を傾けた。勝頼としては、武田・北条・上杉による三和が望ましかったようだ。 同年8月、勝頼は苦労して、景勝と景虎との和睦を取りまとめたが、徳川軍、駿河侵入の報を受けて、和睦継続を見守る間も無く、撤兵せざるを得なかった。そして、勝頼の撤兵後、和睦は脆くも崩れ去り、戦は再開された。そもそも両者は、越後で唯一の統治者たらんとして争っているのであって、話し合いで収まる訳などなかった。


結局、勝頼は、景虎になんらの支援も与えなかったので、北条氏政は不信感を抱きつつあった。それに、勝頼の部将、真田昌幸が、景虎方の上野沼田城攻撃の姿勢を見せたり(これは昌幸の独断で、北条家の抗議と、勝頼からの叱責を受けて取りやめた)、景勝が、しきりに勝頼の援軍到来を宣伝したので、北条方の不信感は増幅されていった。 天正7年(1579年)1月、武田・北条の関係は軋みながらも、まだ同盟は維持されており、年初の挨拶が交わされた。だが、同年3月24日、北条方の景虎が敗死し、御館の乱が景勝の勝利に終わると、北条家の態度は硬化する。


この御館の乱の間、勝頼が、景勝や景虎に直接的な軍事支援を行った事は一度もなかったが、乱の半ば以降からは、明らかに景勝寄りの姿勢を見せていた。氏政はこれに対して、景虎を支援しなかったのは約定違反であるとして怒り、武田家との亀裂は決定的なものとなる。そして、同年9月、両者は手切れして、戦争状態に入った。敵となった北条家は、織田家と結んで、武田を挟撃せんとした。「信長公記」の天正7年9月の記事によれば、北条家は、織田家に鷹を進上して音信を図ったとある。続いて、年10月の記事によれば、北条家は、織田家と好(よしみ)を通じて、武田攻撃のため、出陣したとある。


武田家にとって最大の味方であった北条家は、いまや直面する最大の脅威となった。天正7年(1579年)10月20日、勝頼は景勝との関係を深める必要に迫られ、妹を嫁がせて、上杉家と軍事同盟を結ぶ。さらに常陸の佐竹義重とも同盟を結んで、北条家を東西から挟撃せんとした。一方の北条家も、織田家、徳川家と同盟を結んで武田家を挟撃せんとした。 そして、同年10月25日には、徳川家と示し合わせて、数万の大軍をもって伊豆三島に陣取り、駿河侵攻を窺った。これに対応するため、勝頼も駿河に出陣して北条軍と対峙する。それから勝頼は徳川軍に向かい、軍事圧力を加えて追い返した。この対陣は、同年12月9日、勝頼が甲斐に帰還するまで続いた。


勝頼は東の北条家に全力を注ぐため、西の大敵、織田家との和解を試みる。織田家と武田家との間は、天正5年(1575年)に岩村城が落城した後からは、大きな戦闘は起こっていなかった。そこで、天正7年末から、佐竹義重の仲介で和解交渉が開始される。条件の隔たりから和解は難航するが、勝頼はこの後も粘り強く交渉を続けた。武田家はただでさえ、織田、徳川家に劣勢であったのに、ここで北条家まで敵に回したのは致命的であった。武田家は、西、南、東を戦国屈指の強豪大名によって囲まれたのである。北に唯一、味方として上杉家が存在しているものの、内乱の影響で弱体化しており、援軍は期待出来そうに無かった。北条家とは全面戦争に入ったため、武田家もこちらに全力を投入せねばならなかったが、その隙に、織田家に攻め入られれば最早、どうしようも無かった。


天正8年(1580年)を迎えた時点で、織田家の軍事力は、武田家の遥か上を行っており、これに自力で対抗するのは最早、不可能となっていた。それにこの頃から、織田家臣や地方大名も、信長の事を上様と尊称しており、戦国大名の枠を超えた、より上位の権力者であると認識していた。なので勝頼は、織田家への服属も視野に入れて交渉していたと思われる。それは、後の江戸幕府と外様大名との関係の様に、信長の覇権を認める一方、甲信の地に地方大名として存続する方向であったろう。しかし、信長は、武田家に激しい敵意を抱いていたので、交渉は難航を極めた。勝頼としては、可能な限り現状を維持しての服属を模索しただろうが、苛烈な性格の持ち主である信長は、せいぜい甲斐一国の安堵しか認めなかったろう。この条件では、さすがに勝頼も承服しかねただろう。



勝頼は、服属を視野に置いた和解交渉を進める一方、北条家を討ち滅ぼし、関東を併呑する事も考えていたと思われる。北条領を編入する事に成功したなら、武田家は250万石を超える一大勢力となって、織田家と言えども容易には手が出せなくなる。そうなれば、和解交渉も有利に運んでいただろう。交渉ごとは、古今東西、力の大きい方の言い分がまかり通る。力無き者が、交渉を有利に進めんとすれば、相手との力の差を埋める他は無い。それに何より、関東を制すれば、徳川家を圧倒し、織田家への自力の対抗も見えて来る。勝頼は、織田家との和解交渉を継続しつつも、上野国への大攻勢を開始する。上野国の内、西部は武田家が領有していたが、東部は上杉家と北条家の領有する所であった。だが、御館の乱後、上杉家は東上野から手を引いたので、武田、北条家はこの地を巡って激しい争奪戦を繰り広げる事となる。


天正8年(1580年)、武田家と佐竹家は、共同して上野へ出兵した。勝頼は軍事圧力を加えて、東上野の諸領主を次々に服属させて行き、上野での戦いは武田家優勢で進んだ。しかし、遠江、駿河方面では、武田家が劣勢に立たされており、同年3月からは徳川軍による遠江、高天神城攻撃が始まる。高天神城の将兵達は、勝頼の来援を期待して篭城戦に入った。だが、勝頼は西は守って、東に攻勢をかける方針で、主力を上野や伊豆に振り向ける事はあっても、高天神城の援軍に駆け付ける事は最後までなかった。徳川家に主力を振り向ければ、必然的に織田家も援軍を出して来るだろう。そうして再び、織田家と武田家が激突する事態になれば、最早、和解交渉など不可能となる。また、衝突を切っ掛けに、織田家の大攻勢が始まるかもしれない。北条家に全力を傾けていた勝頼にとって、それだけは避けねばならない事態だった。勝頼は、織田家との和解が成立するまで、高天神城が持ちこたえてくれる事を望んだ。


尚、同年3月、武田を取り巻く情勢が大きく変わる、2つの出来事が起こっている。1つは、北条家が織田家傘下の大名となった事である。信長公記によれば、北条家は、織田家に進物を送り届けて、関八州を上げて織田の分国となりたいと口上し、縁組も要請したとある。北条氏政は、上野での武田家の攻勢を深刻な脅威と捉えて、弟の氏邦に、「このままでは当方滅亡」とまで打ち明けていた。この危機を乗り切るには、織田家の関係を深めて、支援を仰ぐ必要があった。そして、今回の織田家への申し出をもって、北条家は、その傘下の大名とみなされる形となった。この北条家を攻撃している武田家は、当然、討伐の対象と見なされる。もう一つは、この3月をもって、石山本願寺と織田家との間で講和が成立し、同年8月には、石山の地が明け渡された事である。織田家はこれまで、本願寺包囲に3~4万人余の大軍を貼り付けていたが、任務が解消された事で手隙となった。この軍事力がどこに向かうかは、信長次第であった。 武田を取り巻く情勢は悪化の一途を辿っていたが、北条家と全力で戦っていた勝頼には如何ともし難かった。


それでも、上野での戦いは武田優勢で進んでおり、その原動力となっていたのが、真田昌幸である。昌幸は北条方の城を調略をもって次々に落として行き、天正8年(1580年)秋には、北条方最大の拠点、沼田城をも落としている。そして、同年8月からは、仕上げとして勝頼自らが出陣して、残る北条方の諸城を攻め取った。 これによって上野一国は、由良国繁領を除いて、武田家がほぼ領有する所となった。太閤検地によれば、上野国は49,6万石で12,400人が動員可能な大国である。 勝頼は更なる版図拡大を狙い、佐竹、里見などの反北条勢力を結集させて、武蔵国への一大攻勢を企図した。太閤検地によれば、武蔵国は66,7万石あって北条家の力の源泉となっている。ここを奪えば、北条家の命脈は断ったも同然であるが、武田家に残された時間は少なかった。


関東での武田優勢の一方で、徳川軍によって包囲され、孤立無援状態であった高天神城の篭城は限界に達していた。天正9年(1581年)初旬、城内では餓死者が続出する事態となり、同年1月20日頃、主将の岡部元信は徳川方に開城を申し出る。家康は、信長に使者を送ってその指示を仰いだ。すると信長は、城方の申し出は却下する方が良いと、意見した。信長は天下への見せしめとするため、高天神城を血祭りに上げる事を望んでいた。勝頼が味方の城を見殺しにしたと宣伝して、その権威を失墜させ、臣民の動揺を誘おうと考えていたのである。家康は、この意見に従った。そして、同年3月22日、徳川軍の攻撃により、岡部元信以下700人余が討死して、高天神城は落城した。 信長の思惑通り、世の人々は、勝頼は城を見殺しにして天下の面目を失ったと噂した。こうして、武田の軍事的劣勢は、内外に広く知れ渡る事となった。


この頃、勝頼は武田家の捕虜となっていた信長の子息、信房を返還している。勝頼は信房を返還して、織田家との和平の切っ掛けを掴もうとしていた。しかし、これに対して信長は、使者に会おうともせず、目下宛ての尊大な書式で信房の返還に礼を述べただけであったと云う。 上杉家は、武田家と織田家が和睦したとの風聞を聞き付けて、それを問い質す書状を送っている。 それに対して、勝頼の側近、跡部勝資が弁明しているので、それを略して載せたい。

「織田家との和睦は、佐竹義重に仲介を依頼しているが、まったく進展していない。交渉が進展すれば、報告すると何度も約束しているが、和睦がまとまらないのだから報告する内容が無い。信長の子、信房を返還したのは、佐竹義重の強い要望によるもので、交渉の進展とは無関係である。もし和平が成立したなら、上杉家も含めた三和の形を取りたいと言う約束は、織田家には伝えてある」

これ以降も勝頼は、信長との和解交渉を続けたが、暖簾に腕押しであった。畿内に覇権を確立しつつあった信長にとって、武田家など最早、脅威でもなんでもなく、いつ滅ぼすかの問題でしかなかった。そして、信長は、天正9年(1581年)より、武田攻めの為の兵糧備蓄を開始する。武田家が存続するには、甲斐以外の国を全て差し出して、織田家へ従属を申し出る他、無かったろう。もっとも、信長は武田信玄、勝頼父子を激しく憎んでいたので、この条件すら許さなかったかもしれない。だが、勝頼にしても、石高が5分の1以下になる条件は、受け入れ難かったろう。


この時期、武田家は、北条家とは互角に渡り合っていたが、徳川家には劣勢で、その背後に位置する織田家の強大な圧力に晒されていた。上杉、佐竹と言った味方はいるものの、織田家相手には戦力不足で、総体的に見れば、武田の不利は明らかだった。 天正9年(1581年)の時点で、織田家は生産力豊かな畿内各国を全て支配していたので、石高は600万石余、動員力は15万人余であった。更に、徳川家や北条家の軍事力も、これに加わる。それに対して、武田家は甲斐22,7万石、信濃40,8万石、駿河15万石、上野49,6万石、越後の一部(3万石余?)を支配下に治めて石高は130万石余、動員力は3万2千人といったところであった。戦国の世の人々は、力関係の変化に敏感である。相手の力を見誤れば、自身が滅亡する事になる。なので常日頃から嗅覚を研ぎ澄ませ、力ある者の下に付こうと心掛けていた。世の人々は、武田の劣勢を見抜いていたであろう。そう感じていたのは武田家臣とて同じであり、内心は不安を隠せなかったに違いない。


天正9年(1581年)、勝頼は織田、徳川の攻勢に備えるべく、新たなる居城、新府城の築城を開始する。ただ、この新府城は防御のためだけに作られた城ではない。新府城は広大な武田領国の中心に位置しており、防御も含め、戦略、統治上の広い観点に立っての築城であった。 しかしながら、城の築城には多大な費用、労力が必要であり、それが大名の居城ともなれば尚更である。その負担は当然、家臣や領民に課せられる事になる。これまでも、連年の出兵によって家臣や領民は疲弊していた事から、勝頼に対する不満、不信は増幅されていった。天正9年(1581年)12月、信長は、翌年春に武田家を総攻撃すると家臣に通告する。そして、攻撃準備と平行して、武田家臣に対する調略を開始した。織田家との和解交渉も、あるいは関東を併呑した上で織田、徳川に反抗をとの戦略も、時間切れとなった。12月後半、織田家侵攻が噂される中、勝頼は新府城を突貫工事で完成させて、この城に移る。高天神城の落城から、武田家臣の間に動揺が広がり始め、織田家による侵攻の噂がそれに輪をかけた。武田の滅亡は間近に迫っていた。




御館の乱と上杉景勝 後

2010.01.09 - 戦国史 其の二
御館の乱の勝利によって、景勝は全ての反対派を討ち滅ぼし、越後を統一したかに見えた。しかし、長く打ち続いた戦乱の為、国内は荒れ果て、それによって、かつて精強を謳われた上杉の軍事力も衰微していた。戦後、景勝は、滅亡した景虎派から多くの土地を得たが、その多くを与党である上田衆に支配させた。これは自らの権力基盤を強化するための方策であったが、乱で活躍した外様の国人らはこの措置に不満を抱いた。


天正9年(1581年)6月、恩賞問題のもつれから、新発田重家が謀反を起こす。重家は、織田信長の援助を受けて頑強に抵抗し、長く苦しい戦いが始まった。翌天正10年(1582年)5月、景勝は強大な織田家とそれに通じる諸勢力によって包囲され、存亡の危機に立った。5月1日、景勝は常陸の戦国武将、佐竹義重宛てに送った手紙の中で、死を覚悟している旨を述べている。景勝は織田家に対し最後まで戦い抜く決意であった。だが、同年6月2日、本能寺の変が起こった事により、景勝は奇跡的に滅亡の危機を脱する。景勝はこの時の混乱に乗じて北信濃に出兵し、川中島4群の平定に成功した。


その後の景勝の 生涯を簡潔にまとめる。

天正15年(1587年)10月25日、7年にも渡る激闘の末、新発田重家の反乱を鎮定し、ようやく越後の完全統一を成し遂げる。しかし、御館の乱から始まる一連の内戦の影響で、越後の民は家屋や田畑を焼かれ、それに加えて絶え間ない戦費、軍役、兵糧の供出によって民力は疲弊していた。だが、全ての反対勢力を倒した事で、景勝の権力は大いに強化され、支配はようやく安定する。この越後の完全な統一は、義父、謙信にも成しえなかった事であった。


天正16年(1588年)5月8日、豊臣秀吉に謁し、秀吉の九州平定を祝し、重家討伐を報じる。5月26日、景勝は従三位、参議に叙任さる。


天正17年(1589年)6月、佐渡の本間高統、高季を討ち、佐渡を領国とする。


天正18年(1590年)3月、豊臣秀吉による小田原討伐に参陣する。8月1日、秀吉から出羽庄内3群の検地を命ぜられる。10月23日、検地に反対する一揆を討ち、出羽庄内3群を領国に加え、この時点で91万石の領土を得たとされている。しかし、太閤検地の石高で見たなら、越後39万石、信濃川中島4群14~18万石、佐渡3群1万7千石、出羽庄内3群14万石、合わせて70万石余となる。


文禄元年(1592年)3月1日、秀吉による朝鮮出兵に参陣するため、兵5千を率い、春日山を出立。6月17日、釜山に上陸する。


文禄2年(1593年)9月8日、名護屋城に凱旋した。この間1年3ヶ月の期間、朝鮮の地にあった。


慶長3年(1598年)1月10日、伏見城にて、秀吉から会津120万石へ移封を命ぜられる。8月18日、豊臣秀吉死去。


慶長5年(1600年)4月13日、徳川家康より、上洛を申し渡す詰問の使者が訪れるが、景勝、兼続はこれを撥ねつける。5月3日、家康はこれをもって会津討伐の断を下す。景勝は兼続に命じ、2万7千の兵をもって最上領に侵攻させるも10月1日、関ヶ原に於いて西軍敗れるとの報を受け、兼続は撤退する。


慶長6年(1601年)8月8日、景勝、兼続は京の伏見城まで赴き、家康と謁見して、謝罪する。8月16日、会津90万石の削封を言い渡され、米沢30万石となる


慶長19年(1614年)10月、兵5千を率いて、大坂冬の陣に参陣する。11月26日、今福・鴫野に於いて豊臣方1万2千余と戦い、これを撃退する。


元和5年(1619年)12月19日、景勝を側で支え続けてきた名宰相、直江兼続が死去する。享年60。


元和9年(1623年)3月20日、景勝は病床に臥し、自らの葬儀を簡潔に済ませるように遺言すると、69年の波乱の生涯を閉じた。


景勝は養父、謙信を尊敬し、その影響を強く受けていた。景勝は晩年、病床にあった時、かつて謙信が名乗っていた宗心と云う法名を名乗っている。景勝は生涯に渡って、謙信を理想の武将として追い求めていたと云えよう。また、謙信の姉で、自らの母である、仙洞院も深く慕っていた。女性関係は淡白であり、妻は正室菊姫(武田信玄の娘)と側室四辻氏(四辻大納言公遠の娘)の2人のみで、もうけた子供も四辻氏との間で生まれた、定勝1人だけであった。


景勝は、御館の乱、織田家による包囲、新発田重家の謀反、関ヶ原の戦い、など幾多の存亡の危機を乗り越え、最終的には米沢30万石に減封されながらも、上杉の家名を後々まで存続させる事に成功した。幾多の困難にも、逃れる事なく立ち向かっていった景勝、その額には常に青筋が浮き立ち、家臣達の前で決して笑う事は無かったと伝わる。寡黙にして剛毅、果断な人柄であり、上杉謙信の跡目を継ぐに、この人こそふさわしい人物はいなかったであろう。 あの有名な傾奇者、前田利益(慶次)も、この景勝の人柄に惚れ込んだと云われている。


 

御館の乱と上杉景勝 前

2010.01.09 - 戦国史 其の二
上杉景勝(1555~1623)

越後の龍と称せられた名将、上杉謙信、その後継者となったのが上杉景勝である。 弘治元年(1555年)11月27日、景勝は、謙信の縁戚で上田長尾家の当主である、長尾政景の次男として生まれた。母は上杉謙信の姉、仙洞院である。謙信はこの甥を大変、可愛がり、永禄5年(1562年)、関東在陣中に、8才になった景勝の書の上達を褒めて、習字の手本を送り届けている。また、謙信は自らの手で記した手習い書、「片仮名イロハ・消息手本・伊呂波尽・上杉家中名字尽」なども景勝に与えた。


永禄7年(1564年)7月5日、景勝は父、長尾政景を亡くし、ほどなくして上杉謙信の養子になった。 政景の死は、野尻池遊宴中に関係者全員の死亡と云う異様な死亡事故で、政景の体には刀傷があったとも云われている。政景は謙信に次ぐ実力者で、過去に反旗を翻した事もある油断のならない人物であった為、謙信によって謀殺されたとも云われている。このような経緯はあったものの、謙信は景勝を可愛がり、自らの後継者となるよう大切に養育した。景勝自身もこの養父を深く尊敬し、その行動を模範とした。そして、謙信に対する崇敬の念は終生、変わる事はなかった。


元亀元年(1570年)北条氏康の実子、三郎が上杉家への人質として送られて来る。謙信は美男で聡明な三郎を愛したと云い、景勝の妹(姉とも)華渓院(法名)を娶らせて上杉景虎と名乗らせる。そして、自らの養子として、もう1人の有力な後継候補とした。


天正6年(1578年)3月9日、謙信は春日山城の厠で倒れ、意識が戻らないまま、3月13日、帰らぬ人となった。謙信には実子が無かったので、景勝と景虎の2人の養子を後継候補としていたが、結局、正式な後継者を定めずに亡くなった。だが、生前の謙信には、景虎を関東管領に任命し、景勝には越後の当主を任せるという考えがあったと云われている。この説を取れば、謙信は景虎には名誉職を与えて遇するが、実質的な後継者は景勝と見なしていたのだろうか。


3月15日、謙信の突然の死に上杉家中は大いに動揺し、不穏な空気が漂う中、謙信の葬儀が執り行われた。そして、その葬儀が終わるや否や、景勝は自らの後継者としての正当性を宣伝するため、機先を制して春日山城の実城(本丸)を占拠する。そして、実城の倉庫を押さえ、謙信が在世中に蓄えた金3万両(2714枚5両6分)を手中に収めた。この金が、後に景勝を大いに助ける事になる。


景勝は謙信の死後、2週間後に関東の武将、大田資正に宛てて次のような手紙を送った。

「まだ御発信いたした事はありませんが、一筆啓述いたします。去る十三日、謙信が思いがけない病気を得、持ち直すことができずに死去いたしました。その恐怖はいかばかりのものかお察し下されたい。それで謙信の遺言によって、この景勝が春日山の本城に移るべきであるとの事、いろいろと考慮いたしましたが、周囲の者がそれぞれ、当然そうあるべきだと言うので、その意見に従った次第です。けれども、すべての事の処置は、謙信在世中と少しも変わりありませんから、どうか安心していただきたい。さてまた、そちら関東の事も、謙信が申し遺したことでもありますし、そのうえ、鬱憤を晴らすための戦いでもありますから、若輩ながらこの景勝も、なおもって心を入れて取り組む所存ですので、謙信同様に御懇意にして下されば喜ばしい限りです。なおいくえにも、重ねて申し上げることにいたしましょう。

追伸、謙信遺物の細刀一振をお届けします。形見にして下さい。御自愛専一に願います。」


宛名の大田資正と上杉家とは古くから親交があり、謙信の小田原城攻めにも参加している武将である。 この手紙に景勝が書いている恐怖とは、謙信の跡目を継ぐ重責、景虎との跡目争い、対外勢力との戦い、等これから様々な困難が自身の身に押し寄せる事が恐怖だと云っているのではないかとされている。 そして、景勝は謙信の遺言により、自分が上杉家の跡目を継いだのだと、その正統性を強調している。しかし、謙信は倒れた後、意識不明のまま死去したとされ、遺言を残せたかどうかは疑問である。御館の乱の初期、景勝の手際の良さが目立つ。謙信が倒れた時から、既に策を練っていたのかもしれない。この時は、直江信網が重要な参謀役となっていたと思われ、まだ若輩の樋口与六(後の直江兼続)はその助手として暗躍していたのだろう。



この後、春日山城内では景勝、景虎とも2ヶ月間に渡って、自分こそが謙信の正当な後継者なのだと、他国勢力や国内勢力に支持を訴える書状を送り続けた。来るべき激突に備え、1人でも多くの味方を得ようと、両者は必死の宣伝戦を展開する。真偽の程は定かではないが、この間、二ノ郭に立て篭もった景虎方に対し、景勝方は本丸から見下ろす形で、弓・鉄砲を撃ちかけ、城内で両派の戦闘が繰り広げられたとの話もある。5月5日、景勝と景虎の対立は、ついに本格的な武力衝突に発展し、春日山と御館の中間にある大場の地で合戦となった。この戦いは景勝方勝利となって、景虎方の上杉景信が討ち取られた。上杉景信は古志長尾家の当主であり、謙信政権でも重きをなしていた人物であったので、景虎にとっては大きな損失であった。しかし、情勢は、まだ景虎方優勢であった。



5月13日、春日山城内では、景虎が不利な状況に陥ったようで、妻子を引き連れ、春日山城とは目と鼻の先にある御館に移った。御館とは、前関東管領、上杉憲政のための居宅として謙信が府内に築かせた館であり、謙信の政庁としての役割も果たしていた。この御館を中心に景勝と景虎の戦いが繰り広げられた事から、この争乱は、「御館の乱」と呼ばれる事になる。 景虎は御館に入った後、自軍の勢力を糾合して、攻勢に移った。


5月16日、景虎方の部将、東条佐渡守が春日山城下に火を放って3千軒を焼き払った。翌17日、景虎方は一挙に春日山城を攻め落とさんと押し寄せ、6千余の兵をもって春日山城の千貫門辺りまで攻め入ったが、景勝方も必死の防戦を展開し、景虎方の部将、桃井義考以下数百人を討ち取って、これを撃退した。5月21日、景虎方は再び兵を出し、両者は荒川館と愛宕で交戦する。この攻撃も景勝方によって撃退されるが、今だ景虎方優勢の状況であった。戦いはむしろ、これから本格的なものとなって、越後国内のみならず、周辺諸国まで巻き込んだ一大争乱に発展してゆく。


6月、甲斐の武田勝頼が、小田原北条家の要請を受けて、2万余の大軍を率いて越後に進軍する。勝頼は、景虎を援助するよう要請されていたのだが、景勝は武田家と交渉して、黄金1万両の譲渡と東上野の割譲を申し出て、景勝寄りの中立に立たせる事に成功した。9月、景虎からの援軍要請を受けて、北条家が本腰を上げて動き出した。北条軍1万5千余が北上して三国峠を越え、越後国境の城、樺沢城、荒戸城を破って、景勝ら上田衆の本拠、坂戸城を取り囲んだのである。これで勢いを増した景虎方は、大場口に攻め寄せたが、景勝方の新発田重家が奮戦してこれを討ち破った。一方、坂戸城の方も、天険を生かして北条軍の攻撃を凌ぎ切った。


10月、越後に冬が訪れると、北条軍は攻め取った城に守備隊を残して撤退していった。しかし、春になれば、北条軍が再び攻め寄せてくる事は明白である。景勝には、それまでに御館を攻め落とす必要があった。景勝は家臣に宛てた書状で、「雪が消えて、小田原の援軍が来る前に決着をつける」とその決意の程を述べている。10月24日、景勝は自ら御館に攻勢をかけ、迎え打ってきた景虎方を打ち破る。この日、景虎方の有力部将、本庄秀綱は居城、栃尾城に逃げ込んだので、これで景虎が頼れる部将は、北条景広と堀江宗親ぐらいしかいなくなった。景勝はさらに攻勢を強め、琵琶島城を包囲する。この琵琶島城は、海上から御館への兵糧輸送を担う、重要拠点であった。


天正7年(1579年)1月、景勝の攻勢は真冬でも継続され、御館と北条家との連絡線に当たる高津城を攻め落とした。2月初旬、景虎方の勇将、北条景広が討死した。この報を受け、景勝はすかさず御館を攻め立てて、館の外構えを焼き払う。景虎を取り巻く情勢は、急速に悪化していった。景虎は北越の有力部将、本庄繁長に宛てて、「十日も援軍が来なければ、滅亡してしまう」と援軍を哀願したが、繁長はすでに景虎を見限っていたので、何の意味も無かった。景勝の攻勢は続き、樺沢城、荒戸城を奪還し、北条家からの支援の道を完全に断つ事に成功した。


3月、景勝方は御館近辺に陣取って、大きな圧力を加えた。敗色濃い景虎に見切りをつけたのか、御館から堀江宗親が出奔し、鮫ヶ尾城に引き払ってしまう。御館は全ての糧道を断たれ、有力な部将も皆、戦死するか出奔してしまった。景虎は、完全に孤立無縁となる。その様子を見た前関東管領、上杉憲政は和平調停をしようと、景虎の嫡子、9歳になる道満丸を連れて、景勝の下へと向かった。しかし、その途上、景勝方の武士によって2人とも殺害されてしまう。これによって和平の道も閉ざされ、景虎には打つ手がなくなった。


3月17日、御館の落城は避けられないと見た景虎は、関東で再起を図ろうと館を脱出した。しかし、この時、景虎の奥方であり、景勝の妹(姉とも)でもある華渓院は御館に残った。彼女は兄に降る事を良しとせず、夫に殉ずる覚悟を決めていた。そして、夫に関東に落ち延びるよう勧めてから、側仕えの者達と共に自害して果てたと云う。景虎に従う侍衆も自らの家に火を放ち、妻子を焼殺あるいは斬殺して、御館を落ちていったと伝わる。 戦国の哀しい一面であった。


3月24日、景虎は関東に落ち延びて行く途上、鮫ヶ尾城に立ち寄った。しかし、ここで堀江宗親に裏切られ、景虎は無念の自害に追いやられた。享年26であった。しかし、戦いはまだ終わっていなかった。越後にはまだ、景勝の支配を拒否する景虎方の勢力が残っていた。
10月20日、武田勝頼の妹が、景勝に嫁いで来る。これで、景勝と武田家との絆はさらに深まった。天正8年(1580年)4月、本庄秀網の栃尾城を落とし、秀綱を会津に追いやった。7月、神余親網の三条城を落とし、これを討ち取った。翌天正9年(1581年)2月、北条輔広の北条城を攻略する。これにて、謙信の死後、足掛け3年に渡って繰り広げられた戦乱はようやく収束した。


昭和39~40年に御館を発掘調査した際、くし、かんざしの類が混じって出土した。それは、かつてこの館で女性達が優雅に暮らし、そして、悲劇的な結末を迎えたという事を物語っていた。また、種子島の銃弾、銭貨、武具、馬具、刀剣の破片、大陸渡来の白磁、青磁等の破片などが出土した事から、ここで激しい戦闘があった事と、ここに住んでいた前関東管領、上杉憲政の優雅な生活ぶりが伺えたそうである。 また、景虎が自害して果てた鮫ヶ尾城からも、炭化したおにぎりが出土している。三の丸から出土した焼けた米粒の塊は、年代測定の結果、御館の乱が起きた当時のおにぎりであった事が判明する。

真田家の憂鬱

2009.10.08 - 戦国史 其の二
真田信之は、かの有名な真田信繁(幸村)の兄として知られている。そして、表裏比興の者と称された父、真田昌幸とは違い、温厚で誠実な人柄であったと伝えられている。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの折、真田父子3人は敵味方に分かれた。昌幸、信繁は西軍へ、信之は東軍へ付き、これが3人の永遠の別離となった。


戦後、信之は自身が領する沼田2万7千石に加えて、昌幸の旧領、上田3万8千石と、3万石の加増を受けて合計9万5千石の大名となる。しかし、昌幸と信繁の死罪は濃厚であった。そこで信之は、恩賞と引き換えに、父と弟の命を救ってもらいたいと徳川家康、秀忠父子に懇願する。自らの命に代えてもとの必死の願いは、家康の心をも動かし、父と弟の命は助けられる事となった。この後、昌幸と信繁は九度山に蟄居となった。3人は手紙でお互いの消息を尋ねあったが、父子3人が再び集う事はなかった。慶長16年(1611年)、昌幸は65歳で没し、慶長20年(1615年)、信繁は大坂夏の陣で華々しく散った。享年49。残された信之は独り、大名への道を歩んで行く。


元和8年(1622年)、真田信之は、幕府の命によって上田9万5千石から松代13万5千石に転封される。所領は増やされたものの、馴染み深い上田の地を離れる事に、内心は複雑であった。そして、この時、幕府から分家を建てよとも命令されていた。やがて、この分家が真田家に問題を引き起こす事になる。信之は、父、昌幸や弟、信繁が徳川家に何度も煮え湯を飲ませていた事から、徳川幕府には大変、気を使っていた。おそらく、幕府も内心は真田家を快く思っていなかったであろう。信之はいらぬ嫌疑を受けぬよう、幕府から仰せつかる賦役をそつなくこなし、藩政においては倹約に努めながらも領内の発展に心を砕いた。


明暦3年(1657年)、信之は92歳で隠居するが、長男、信吉は早世していたため、次男の信牧に家督を譲った。ところが、万治元年(1658年)2月、信牧は父に先立って死去する。そのため、信牧の子、幸道が僅か2歳で家督を継いだ。しかし、これに沼田領を治めていた、信利(信澄とも)が異論を唱える。信利は信吉の子であった。そのため自分が真田家の長男筋であり、松代藩を相続する権利があると主張する。


それと、信利の母は、徳川譜代である酒井家の出身であったから、その縁から幕府の実力者、酒井忠清が背後に控えていた。そのため、家中では信利を推す声が優勢であった。一方、幸道に仕える老臣達はこれに反発し、信利が家督を継いだなら合戦も辞さぬと連判状を認める有様であった。この真田家中を二分する騒動に信之は心を痛め、一時は御家の滅亡も覚悟したと云う。


だが、老齢の信之が家中を主導し、最終的に幸道が家督を相続する事で決着した。しかし、この結果、信利は3万石の沼田藩として独立し、幸道は松代10万石となって真田家は分裂した。万治元年(1658年)10月17日、この御家騒動を収めた後、信之は安堵したのか、ほどなくして93歳で息を引き取った。当時としては異例の長寿であったが、信之の頭脳は最後まで明晰であったようだ。だが、この信之の死からほどない万治元年(1658年)12月、信利は、今度はその遺産の分配を求めてきた。


信之は生前、倹約に努め、その死の際、26万5千両もの遺金が残されていた。遺金の内、15万両は松代城に、11万5千両は信之の隠居地であった柴の館に残されていた。信利は老中、酒井忠清に訴え、莫大な遺金と諸道具の相続権を主張した。忠清は大目付を派遣して、真田本家に遺金の配分を迫った。この突然の要求に真田家は再び、大揺れとなった。この万治元年は真田家に取って厄年であった。2月には信牧が死去して御家騒動が勃発し、それを収めたと思えば分家が独立し、10月には信之が死去して、今度は遺産相続争いが勃発したのである。


この事態を受けて、本家の老臣達は結束して事に当たった。道理を説いて大目付を納得させ、遺金の内、松代城の15万両は守られた。そこで信利は、柴の館の遺金、11万5千両の取得を狙った。信利を後援する忠清は、この一件が破談となれば、老中の面目が潰れ、取り返しがつかなくなるであろうと、老臣達に警告した。老臣達は苦慮したが、最終的には柴の遺金、11万5千両を配分する事で話はまとまったようである。この騒動には幕府も介入してきて、まかり間違えば真田家の取り潰しにもなりかねない事態であったが、本家の老臣達は結束してこの危機を乗り切った。信之は良き家臣を残していたと言えよう。


この後も信利は、あくまで松代藩に対抗心を燃やし、検地を断行して、沼田藩は表高3万石であるのに14万5千石であると幕府に申告した。本家と同等の家格にならんとして、沼田城に優美な5層の天守閣を建て、さらに江戸の藩邸も豪奢なものに造り替えた。これらの付けは全て、領民へとまわされた。


天和元年(1681年)、沼田藩の領民は、重税と折からの飢饉によって窮乏し、餓死者が続出する事態となった。堪りかねた領民の中には幕府に直訴する者も現れた。伝承では、茂左衛門と云う百姓であったらしい。幕府はこれを受け、統治の不届きと賦役の遅滞を理由に沼田藩を取り潰しにした。信利は他藩預かりの身となり、貞享5年(1688年)1月、失意の内に没した。茂左衛門は本望を遂げた後、自首して磔の刑に処されたと云う。土地の人々は、茂左衛門を義民として讃えた。


一方の松代藩では、幸道の時代に幕府から集中的に賦役を課せられた事によって、信之が残した莫大な遺金も大半が消えてしまった。賦役の中には一件で藩の年収を上回るものもあって、財政は火の車となり、終いには幕府に借財を申し込む始末であった。幸道の養嗣子、信弘を経て、その子、信安の代になると、松代藩の財政は一段と窮乏し、とうとう大規模な百姓一揆を招くに至った。


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重家 
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