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2025.01.22 - 
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戦国史を変えた医者

2008.11.18 - 戦国史 其の一
曲直瀬道三(1507~1594) は戦国時代の医者であり、日本医学中興の祖とされている。


永正4年(1504年)9月18日、道三は京都で生まれるが、幼くして両親を失い、伯母と姉に養われて幼年時代を過ごした。10歳で近江天光寺に引取られ、13歳の時に京都相国寺に移って僧籍に入り、そこで勉学に励んだ。22歳の時、関東に下って足利学校で勉学を続けるが、ここで名医として知られていた田代三喜斎と出会う。三喜斎は、仏教の慣習にとらわれず、実践的な医療を人々に平等に施さねばならぬと説くのだった。これにいたく感銘を受けた道三は入門して、医学を志す決意を固めた。


39歳の時、上洛すると還俗し、以後、医業に専念した。道三の実践的な医療は人々に受けいられ、その名声は広まる一方であった。そして、噂を聞きつけた将軍足利義輝に召し出されて、診療を行った。他にも細川晴元、三好長慶、松永久秀など、著名な武将にも診療を行うと、彼らは道三の医療に畏敬の念を抱いて、後に道三が医学生養成のため京都に啓迪院(けいてきいん)と称する医学校を設立せんとすると、多額の援助を送った。この啓迪院は、日本の医学教育史上、極めて重要な存在であるとされている。また、道三は織田信長の診療も行って、蘭奢侍(らんじゃたい・正倉院に納めてある貴重な香木の一部)を賜るという名誉も受けた。


道三は68歳の時、それまでの医書を簡潔に、そのうえに自らの診療経験を取り入れてまとめた医学書「啓迪集(けいてきしゅう)」を著す。

78歳の時、イエズス会の宣教師を診察したことからキリスト教に入信し、洗礼を受ける。

86歳の時、後陽成天皇より、橘(たちばな)姓と今大路の家号を賜る。

文禄3年(1594年)、道三は88歳という長寿を保って没した。

毛利元就や明知光秀と云った有名武将も病気になった際、道三の世話になっている。

永禄9年(1566年)、毛利元就は月山富田城を攻め立てていた際、長期滞陣が祟って病を患った。一時は重篤に陥るほどであったが、小早川隆景や吉川元春らが、京都から曲直瀬道三を呼び寄せ、懸命に治療にあたった結果、快方に向かった。尼子方は元就が亡くなれば状況は好転すると期待していたようだが、実際に元就が亡くなるのはそれから5年後、元亀2年(1571年)75歳の時であった。


永禄9年(1566年)の時点で元就が亡くなっていても月山富田城攻めは続行されていただろうが、優れた指導者を早くに失って、毛利家の発展は史実より遅れたかもしれない。もしくは九州攻めがなくなって、永禄12年(1569年)の大友・毛利の衝突、多々良浜合戦なども起こらず、中国地方にのみ勢力を伸ばしていって、逆に堅実な発展を遂げていった可能性もある。


明智光秀は天正4年(1576年)5月の石山本願寺攻めの後、過労のため病を患ってしまう。一時は死亡の噂が流れるほど症状は重かったが、曲直瀬道三の治療を受けるなどして2ヶ月ほど養生に努めた結果、病は快癒した。この時には光秀の妻、熙子も光秀を看病しており、病快癒のため、光秀の親しい友人であり、神官でもあった吉田兼見に祈念を依頼している。また、織田信長も心配して見舞いの使者を送っている。


しかし、光秀が快癒してから3ヵ月後、10月にはその妻、熙子は看病疲れによるものか病に倒れてしまう。そこで、今度は光秀が妻の病快癒のため、吉田兼見に祈祷を依頼した。その甲斐あってか、熙子は24日には快癒したそうだが、11月7日に急変して亡くなったとも云われている。もし、天正4年(1576年)の時点で光秀が亡くなっていたら、本能寺の変も起こらず、織田家の地味な部将としてほとんど名を知られる事もなかっただろう。光秀の病快癒には妻、熙子の懸命な看病と曲直瀬道三の治療の効果が大きかったのであろう。



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白川郷の戦国武将

2008.10.30 - 戦国史 其の一
白川郷一帯の戦国時代に少しばかり触れてみる。
 

戦国期、飛騨は山々に囲まれた小さな国で石高は3万8千石で動員数は950人ほどであったとされている。米の生産高こそ低かったものの、鉱物資源と山林資源を豊富に産出しており、貧しい国ではなかった。鉱物資源を例に挙げれば、天正元年(1573年)飛騨の土豪、塩屋秋貞が上杉謙信に鉛600kgを送ったとの記録もある。また、天正14年(1586年)に金森長近が飛騨に入部してからは、和佐保銀山、茂住銀山などが開発されて、隆盛を極めている。元禄5年(1692年)、飛騨が幕府の直轄領となった頃からは、銅、鉛の鉱山開発が相次いだ。さらに明治期に入ると三井組が神岡鉱山の開発を進めて、鉛の精錬が大規模に行われた。飛騨は山深く、農産物の生産には適していなかったものの、このように鉱物資源は豊富に産出する地域であった。


戦国期、白川郷一帯は帰雲山に築かれた帰雲城を本拠とした内ヶ島氏が治めていた。白川郷一帯は一向宗の影響が強かった事から、内ヶ島氏は、照蓮寺という本願寺系列の寺と深く結び付き、政教合体で統治した。内ヶ島氏は、帰雲城以外にも向牧戸城・萩町城といった支城を持つ有力な国人領主で、その財力を支えていたのが、支配地域から産出する豊富な鉱物資源であった。内ヶ島氏の最後の当主は、氏理(うじさと?)と云う武将で、彼の代になると照蓮寺とは手を切り、織田信長と誼を結んで、隣国、越中に赴任してきた織田家部将、
佐々成政と連携した。その後も成政との連携は続き、天正13年(1585年)、小牧長久手合戦の際には、氏理は徳川方に付いた佐々成政に味方して、自ら越中に出陣している。しかし、その隙に豊臣秀吉の命を受けた金森長近が、越前大野から白川郷に侵入してきた。


金森軍は内ヶ島氏の支城、向牧戸城に攻めかかって来たが、城将はよく守って、容易には落ちなかった。金森軍侵入の報を受け、氏理は急ぎ帰国したが、その頃には向牧戸城は落ちてしまっていた。戦っても利がないと悟った氏理は、長近の下を訪れ、献上金を差し出して降伏する。この結果、氏理は領土は削られたものの白川郷の本領は安堵された。 内ヶ島氏は鉱物の産出する場所を知っていた事と、多くの鉱山技術者を抱えていた事もあって、長近もこれを滅ぼす訳にはいかなかったのである。 当時、鉱物資源を採掘するためには独自の技術が必要であり、その技術を持つ者は少なかった。


この難局を切り抜けた氏理は、帰雲城に帰還する。しかし、氏理が帰雲城に帰還してから3ヶ月後、天正13年(1585年)11月29日、震度8の天正大地震が発生して帰雲山が大崩壊し、凄まじい地鳴りを伴った山津波が、帰雲城と3百余戸の城下町を一瞬にして呑み込んでしまう。 これにより内ヶ島氏理を始めとする1500人余の人々は、悉く土砂の下に埋もれてしまった。 この時、所用で他国へ出かけていた4人だけが助かったと云う。山深い飛騨の地で内ヶ島氏は豊富に産出する金で栄えていたとされており、この出来事をもって帰雲城の埋蔵金伝説が生まれる。


(余談)昔、旅行で白川郷を訪れた事があります。車で国道156号線を走って白川郷を目指していた時、山頂が大きく崩壊した帰雲山を見かけました。地震から数百年たった現在でも、山頂付近は茶色い土砂が剥き出しになっていました。その麓の地中深くには内ヶ島一族や多数の領民が今でも眠っている事でしょう。もしかすると黄金の埋蔵金と共に・・・



戦国時代の支城

2008.10.30 - 戦国史 其の一
戦国時代、有能な実力者が一国を手に入れようとしても、非常に時間がかかる事が多かった。何故なら、国内には様々な勢力が独立割拠しており、支配される事を嫌って、必死に抵抗するからだ。それらは寺社勢力であったり、同族であったりと様々だが、最も一般的なのは在地に根付く国人と呼ばれる小領主の存在だろう。戦国大名が一国を統一するためには、それらの勢力を跪かせ統制下に置かねばならない。しかし、それらの勢力は、ほぼ全てが自前の城を持っており、しかも本城を中心に円を描くように支城網を廻らせて防御を固めていた。


一国の大名であれば、本城が政治軍事の中心となり、支城は郡単位の統治と防衛を担った。一郡を支配する国人であれば、やはり本城が政治軍事の中心となるが、その支城の造りは、勢力の規模が小さいのもあって、砦のようなものであったろう。支城は、本城に兵力と兵糧を供給し、さらに本城を攻めようとする相手を牽制する。その支城網を残したまま敵本城へ強攻すれば、補給路を脅かされたり、背後を襲われる危険性が高くなる。そこで大抵の戦国大名は、支城を一つ一つ落としていって徐々に敵勢力の力を削ぎ落とし、最後に本城を取り囲むといった戦略を取る。そして、本城一つのみとした敵対勢力を攻め滅ぼす、または降伏、服属させるといった手順を繰り返してその国の統一を図る事となる。


永禄4年(1561年)
から始まった織田信長による美濃攻略戦の場合、斎藤家の本城、稲葉山城を早期に奪取しようと、西美濃平野部から攻略戦を開始するが、斉藤家の抵抗は激しく、はかばかしい戦果を挙げられなかった。そこで信長は、東方の山間部から美濃を徐々に切り取っていく作戦に切り替えた。美濃の東から城を一つ一つ落として稲葉山城に近づいてゆく、その作戦は地道で時間がかかったものの、確実に斎藤家の戦力を削ぎ落としていき、永禄10年(1567年)8月頃、斎藤龍興は抵抗力を失って逃走するに到った。これで信長は念願の稲葉山城を手中に収め、更に尾張・美濃を領有する戦国有数の大大名となって、天下人への道が切り開かれる。


戦国大名の間では度々、主力決戦が行われているが、それに勝利してもその勢いで相手の本拠地を奪い取るのは困難であった。何故なら、支城網が立ち塞がって防衛機能を発揮し、その間に相手勢力は体制を立て直す時間を稼げたからだ。天正3年(1575年)5月21日に行われた、武田家と織田、徳川家との決戦、長篠の戦いでは、織田、徳川軍が完勝しているが、武田家の滅亡を見るのは、それから7年後の、天正10年(1582年)3月11日まで待たねばならない。


この場合、武田の本拠地、甲斐までは遠く、間には多数の支城が立ちはだかっていたので、一気に引導を渡す事は出来なかった。そして、織田、徳川軍は幾つかの支城を落としただけで、引き揚げている。勝頼としては、支城が稼いでくれた時間のお陰で軍を立て直し、その後も長く抵抗する事が出来た。だが、決戦地から相手本拠地までの距離がそう遠くなく、勝利者が徹底的な追撃を行うと、そのまま相手の本城を奪える事もあった。


天正元年(1573年)8月織田信長は、刀根坂(近江と越前の境目)の戦いで朝倉義景の主力を討滅すると、そのまま越前に攻め込み、立ち直る隙を与えず、一気に朝倉家を滅ぼして越前一国を平定している。天正17年(1589年)6月、東北の戦国大名、伊達政宗は摺上原(磐梯山と猪苗代湖の間にある草原)の戦いで、会津の大名、芦名義広を打ち破ると、義広は本城の黒川城を保つ事が出来なくなって、白河に逃れている。そして、伊達政宗は抵抗を受ける事なく黒川城に入城し、一時、奥州の覇者として君臨する。


関東に君臨した北条家は、領内に支城の網を築きあげ、有効に活用した大名として有名である。その支城網は武田・上杉家といった戦国有数の大名にも威力を発揮し、その攻撃を凌いでいる。しかし、この支城網も威力を発揮するのは兵力と補給力に限りがある、同級の大名までであって、相手が無限に近い兵力と補給力を持った天下人ともなると通用しなくなる。


天正18年(1590年)3月、豊臣秀吉による北条征伐では、圧倒的な戦力を有する豊臣軍は、関東の北と東から同時に北条領に侵攻する。豊臣軍主力が北条家の本城、小田原城を囲んでいる間、別働隊は次々に支城を落していって、小田原城を本城のみの裸城とした。同年7月6日、補給の見こみが無くなり、伊達政宗も秀吉に降参して後詰めの見込みも無くなった北条家は降伏を余儀なくされる。関東に五代、100年にも渡って君臨した北条家は、豊臣家の4ヶ月程の攻勢で滅亡する。


戦国大名は敵対勢力を倒す時、相手の本城を武力で攻め落とす事は少なかったのではないか。大抵は有力な支城が落ちた時点、または全ての支城を失い、本城が包囲された時点で相手勢力は降伏、開城している模様である。同級の大名には大きな防御力を発揮する支城網も、戦う相手が天下人、または地方の覇者ともなれば、城主達は戦力差を鑑みて、戦わずして開城・寝返り・逃走する場合も多かったようだ。



こちらのHP「北神戸丹生山田の郷」のページ、秀吉の足跡(播州三木合戦)の地図を見ると、三木城とそれを支える支城の様子が良く分かります。
http://www14.plala.or.jp/niu_yamada/hideyoshi.htm



北ノ庄落城

2008.10.30 - 戦国史 其の一
天正11年(1583年)4月20日織田信長亡き後、柴田勝家と羽柴秀吉は家中の主導権を巡って対立を深め、賤ヶ岳にて決戦に及んだ。だが、勝家はこの天下分け目の戦いに惨敗し、本拠地、北ノ庄城へと撤退してゆく。この際、次の様な逸話が伝わっている。勝家は撤退の帰路、前田利家の居城、府中城に立ち寄り、そこで湯漬けと替え馬を一頭、所望した。前田利家は賤ヶ岳の戦いの際、勝家に従って参陣していたが、裏切りとも取れる無断撤退をして、柴田軍敗走の切っ掛けを作っている。しかし、勝家は恨み言一つ言わず、これまでの利家の協力に感謝の意を表し、今後は秀吉に付くよう勧めると、北ノ庄へ去っていったと云う。


北ノ庄城は、信長の命によって勝家が天正3年(1575年)に越前の地を任された時から築城が始まり、天正11年(1583年)までの9年間を通して工事が行われたと考えられている。天正9年(1581年)宣教師ルイス・フロイスが北ノ庄を訪れた際にも、城はまだ工事中であったらしい。その記述に寄れば、城は甚だ立派で、町の規模は安土の2倍もあった。城及び屋敷の屋根の全てが笏谷石(しゃくだにいし)と云う立派な石で葺かれており、その青みがかった色によって、城の美観は一層増していたと云う。


北ノ庄城は足羽川(あすわがわ)と吉野川の合流点に築かれた総石垣の平城で、五層九重の天主を置いた本丸を中心として、二の丸、三の丸を設け、更にその外周を総構えが取り囲んでいたようだ。フロイスは、信長の築いた安土城にも引けを取らない壮大な城であったと伝えている。4月21日夕刻勝家は北ノ庄に帰城する。北ノ庄は巨城であったが、城の守兵は3千人余りでしかなかったため、外郭線は放棄され、二の丸、三の丸の防備が固められた。そして、勝家は己の最後を飾り立てるべく、城中に旗指物を高く掲げて、その心意気を示した。


4月23日前田利家を先鋒とした、秀吉の大軍が北ノ庄を囲み、城壁に接触するほどの線まで包囲の陣を敷く。
時間をかければ勝家の元へ援軍が駆けつける恐れがあった為、秀吉は直ちに攻撃を下令する。城内にいた将兵の妻子達は攻撃を逃れんとして逃げ惑い、裸足で右往左往する様は、見るも哀れであった。そして、この日の内に二の丸、三の丸は陥落し、寄せ手は本丸近くに陣取った。これで、北ノ庄の命運は誰の目にも明らかとなった。この夜、勝家は一族近臣達を集め、別れの酒宴を催す。勝家達は楽器を奏でて心のままに歌い、舞った。この世に思い残すことが無きよう、その宴は戦勝祝いの様に賑やかなものであった。


篭城の最中、勝家は妻であるお市の方に、3人の娘と共に秀吉の下へ投降するよう勧めている。しかし、お市の方は承服せず、勝家と共に最後を迎える決意を示した。そして、秀吉宛てに自筆の書をしたためると、茶々、初、江の3人の娘に自分付きの侍女達を添えて城から送り出した。お市の方は娘達を御三ノ間まで見送り、親子は今生の別れを惜しんだ。この時、北ノ庄城で人質となっていた前田利家の娘、麻阿も城から解放され、投降したと思われる。城内で勝家とお市は昔語りをしつつ、酒宴は朝まで続いたと云う。


4月24日午前4時秀吉は本丸への総攻撃を命令する。数万にも及ぶ秀吉軍の攻撃を受けるも、城方は頑強な抵抗を示し、戦いは数時間に渡って繰り広げられた。正午頃、秀吉は犠牲を厭わぬ猛攻を続けさせ、寄せ手はついに本丸内部に突入する。だが、寄せ手の眼前には、まだ難関が残っていた。それは、鉄の城門を備え、高石垣の上に築かれた勝家自慢の五層九重の大天守閣である。


寄せ手は多勢を頼りに天守閣に取り付き始めるが、城方は弓鉄砲を盛んに撃ち放ち、長物で突き伏せて、容易には天守閣に踏み込ませなかった。勝家以下、主に殉ずる覚悟を決めている精兵200人余は激烈な抵抗を示し、寄せ手に手負いと死者を続出させた。僅かな人数で何時間も持ちこたえる勝家の奮闘には、秀吉も感嘆の声を上げざるを得なかった。城中は狭く、多人数で踏み込めば犠牲が増すばかりと見た秀吉は、ここで選りすぐりの武士を集めて、切り込み隊を編成し、天守閣内部へ突入させた。


武辺に優れたる勝家は、ここが意地の見せ所とばかりに、七度まで城門を打って出て寄せ手と切り結んだ。しかし、波の様に次々に新手を繰り出して来る寄せ手によって、強兵達も徐々に討たれてゆく。午後17時頃寄せ手が天守閣内部に殺到してくると、勝家も最早これまでと定め、天主の梯子を引き上げさせた。そして、天守に火を放つと、勝家は九重の階上に上がり、寄せ手に大音声で呼び掛けた。

「修理が腹の切様を見届け、後学にするがよい!!」

寄せ手は、威に打たれて静まり返る。そして、勝家は、念仏を唱え始めたお市と一族の者達へと振り返った。勝家はお市を引き寄せると、すまぬと言って刺し貫き、続いて一族の者達を次々に刺し殺していった。全ての処置を終えると、勝家は自らに刃を立て、見事に腹掻っ捌いて果てた。それに続いて、股肱の臣80名余りも次々に自害して果ててゆく。やがて、炎は天守閣を包み込み、遺骸は紅蓮の中へと消えていった。寄せ手の者共は言葉を無くして立ち尽くし、心ある者は涙して鎧の袖を濡らした。


この落城の際、一人の老女が寄せ手に投降して、勝家達の最後の様子を詳しく語った。勝家は、自らの最後がどのようなものであったのかを世に伝える為、身分が高く、語りに長けた老女を選んで、城中での最後の様子をつぶさに目撃させ、城から落とさせたのだった。



Shibata_katsuie.png













↑勝家が最後を迎えるにあたって、描かせた肖像画と伝わる。

柴田勝家は享年62、お市の方は享年37であったと云う。


現代、北ノ庄城は様々な思いを秘めて、福井の町の地下に埋もれている。



 

織田北陸方面軍と一向一揆との戦い 2

2008.10.30 - 戦国史 其の一

鳥越城と佐久間盛政との戦い


鳥越城周辺の一揆勢は山内衆と呼ばれ、本願寺に最も忠実で、鉄砲の技術も習得していた強力な軍事集団であったらしい。山内衆を束ねていたのが、この周辺の領主的存在であった鈴木出羽守である。本願寺顕如はこの鈴木出羽守宛ての書状に、「山内の儀は、とりわけ毎度粉骨有難く候。弥(いよいよ)しかるべき様たのみ入候ほかに他無く候」と述べており、常々、頼りとしていた。


山内衆は、越前が織田家の支配地となって加賀と大阪本願寺との連絡が断たれた際には、白山を越え、飛騨高山経由の道を開いて、情報伝達の中枢を担った。顕如が信長と和睦し、大阪を退去しても、その子、教如が徹底抗戦を呼びかけるとこれに応じて、戦闘を継続したのである。佐久間盛政は、御山御坊を落した後、今度は鳥越城の一揆勢討伐に向かった。これに対し、一揆勢は鳥越城を主城として、大日川を挟んだ対岸にある、二曲城(ふとげじょう)と連携して、迎え撃つ構えを取った。一揆勢は数的には織田軍より劣勢であったと思われるが、地の利と大量の鉄砲という強みがあった。


天正8年(1580年)6月23日、盛政軍と鈴木出羽守率いる一揆勢は手取川と大日川の合流点、河合の地で激突した。盛政軍は鉄砲を縦横に撃ちまくる一揆勢に苦戦し、200人余の戦死者を出して押し返された。6月28日、盛政は今度こそ一揆勢を打ち破らんと再び軍を進め、先の戦いよりやや下流の狭い隘路で、両軍は激突した。しかし、盛政軍はまたもや敗れ、一揆勢の追撃を受けて370人余の戦死者を出す大打撃を被ってしまう。鈴木出羽守率いる一揆勢は、尋常ならざる相手であった。これまで常勝を重ねて来た盛政は二度の敗北を味わって、屈辱で身悶えしたであろう。そこで、盛政は勝家と相談した上で謀略を用いる事とし、顕如と信長の和睦に事よせて、鈴木出羽守らに本領安堵の条件で講和を呼びかけた。


同年11月、この講和を受けて、鈴木出羽守と4人の息子、若林長門、など一揆勢の首領19人が松任城に出向いて来た。ここで勝家と盛政は彼らを悉く謀殺し、その上で盛政は鳥越城に攻めかかった。首領達を失い、統率力が弱まった一揆勢にこの攻撃を凌ぐことは出来なかった。とうとう鳥越城は落城したのである。盛政は城を落した後、鳥越城と二曲城に2人の将と300人の兵を留め置いた。


先に討ち取った一揆軍首領達の首が安土に届けられると、信長は大いに満足した。そして、勝家に労いの言葉を述べ、盛政にはこれまでの武功を評して、11月20日に加賀国の内、石川・加賀の2群18万石を与えたと云われている。これによって盛政は一躍、大身の身となった。そして、盛政は御山御坊を尾山城と改名し、道場を城郭に改め、石垣を築いて自らの居城とした。


天正8年(1580年)、この年、柴田軍はようやく加賀一国を平定し、その矛先を越中・能登へと向けてゆく。そして、長連龍は柴田軍の後援を受けて、能登の地へと入った。連龍は七尾城落城時に一族を皆殺しにされており、その恨みを晴らし、御家を再興すべく大いに働き、飯山の戦い、菱脇の戦いと立て続けに上杉方の温井軍を打ち破った。そして、同年7月には七尾城を開城せしめた。能登は復讐と御家再興に執念を燃やした連龍の活躍によって、天正8年中に平定の見通しが立った。


信長は連龍の働きを評し、能登鹿島半群と福光城を与えた。同年8月より、柴田軍から佐々成政が離れて、単独で越中で働くようになる。成政は越中守護代の神保長住を擁して越中に入封するが、まだこの国の東半分は上杉方が抑えており、一向一揆の残存勢力も抵抗を続けていた。成政は上杉方と対峙しつつ統治にも力を注ぎ、常願寺川の治水事業に取り組んで「佐々堤」を築き上げた。


天正9年(1581)2月、越中一国は未征服のまま、佐々成政に与えられた。越中の全権者となった成政は、守山城を拠点にして越中各地を転戦し、一向一揆の残存勢力である、勝興寺を攻め落とし(天正9年、勝興寺系譜)、続いて瑞泉寺を焼き討ちにする。敗れた勝興寺の坊主が、窪城に逃れると、成政はこれも攻め落とした。


残された一揆勢は善徳寺に籠城して抵抗したが、往時の勢いはなくなり、越中の一向一揆は終焉しつつあった。
こうして越中西部を制圧した成政は、続いて上杉方が抑える東部へと進出し、その地の国人達を次々に組み敷いていった。しかし、彼らは上杉、織田の間を揺れ動いて、どっちつかずの態度であったため、信長は彼らを安土城や能登七尾城に呼び出しては殺害していった。


同年3月、能登七尾城に信長の側近、管屋長頼が城代として赴任し、遊佐、温井、三宅など、かつて上杉方として働いていた国人達の掃討に乗り出した。その結果、温井、三宅らは越後に逃れ、遊佐続光は七尾城下に潜伏していたところを発見された。遊佐続光は息子、孫共々斬り捨てられ、長連龍はようやく積年の恨みを晴らしたのだった。この能登を始め、越中の国人粛清にも管屋長頼が信長の代官として、大いに力を振るった。このように地ならしをされた上で、12月2日付けの朱印状で能登一国は前田利家に与えられた。


天正9年(1581)2月28日、信長は支配地各地から諸将を京都に呼び集めると、正親町天皇を始めとする大観衆の前で、大馬揃えを催す。この馬揃えは大成功となり、信長は自らの威信を内外に大いに広めたが、その反面、一時的に領内の防備が手薄になってしまう弊害もあった。北陸でも柴田勝家、佐々成政、前田利家らが馬揃えの為に上洛すると、越後の上杉景勝は越前、越中、加賀の一向一揆と連携して動き始めた。3月6日、成政不在の越中を突くべく、上杉方の河田長親が松倉城から出撃し、近隣を焼き払いつつ、3月9日には小出城を包囲した。これに呼応して白山山内衆も再び立ち上がり、鳥越城の奪還に向かう。


この時、柴田軍の中で盛政だけは馬揃えに参加せず尾山城にあった。そこへ、「鳥越と二曲の二城危し」の急報が届けられると盛政は直ちに救援に向かった。しかし、駆けつける頃には、一揆勢は2人の将と300人余の兵を悉く討ち果たして、城を奪還していた。盛政はそうと知ると猛り狂い、一気呵成に一揆勢を攻め立てた。


盛政は一揆勢を追い散らし、たちまちの内に2城を奪還した。その時の盛政の活躍は、『信長公記』にも記載されており「比類なき功名である」と絶賛されている。そして、盛政の武勇に敵味方とも恐れと畏敬の念を込めて、鬼玄蕃と呼ぶようになったと云う。越中の小出城の方も、急報を受けた佐々成政が駆けつけると上杉方は撤退し、事無きを得た。


天正10年(1582年)3月、織田軍が武田領に大挙、侵攻すると、白山麓七ヶ村(現代の鳥越村の東)の門徒達が武田家を側面援助すべく蜂起して、吉岡、佐良に要害を構えて立て篭もった。盛政はすぐさま鎮圧に向かい、吉岡、佐良の要害を攻め落とすと、手取川渓谷で徹底した掃討を行った。この時、盛政軍は捕えた門徒300余人を磔に処し、七ヶ村の男女多数を殺傷した。そのため七ヶ村では、耕す者がいなくなり、それから3年間は荒地と化したと云われている。この時の容赦のない盛政軍の摘発によってか、鳥越城周辺では、子ころし谷、かくれ谷、首切り谷、自害谷などの地名が今に伝わっている。


このように、「本能寺の変」が起きる3ヶ月前まで、柴田勝家を長とする北陸の織田軍は、一向一揆を相手に悪戦苦闘していた。特に、何度でも不屈の闘志で立ち向かってくる、鳥越城周辺の門徒達と佐久間盛政との戦いは苛烈極まりないものであった。柴田軍と加賀一向一揆との間では、この鳥越城の様な戦いを加賀全土で繰り広げていたのではなかったか。だが、加賀一向一揆は、柴田軍との戦いで完全に滅亡した訳ではない。顕如の呼びかけに応じて矛を収めた一向一揆は、その後も加賀で勢力を維持し続けていた事には留意する必要がある。


現在、この鳥越城は史跡として復元保存されている。その鳥越城の遺跡を見ると、盛政軍と一揆勢との熾烈な戦いの一端を窺い知る事が出来る。鳥越城は、一揆方が築いた石垣の上に織田方が石垣を築くなどしているので、両者の遺構は複雑に絡み合っていた。タタラ跡があったことから、城内で鉄砲を製造していた事が窺えた。


城には焼土層が二層あって、焼け米も見つかった。また、サイコロ、紅コウガイが出土した事から、女性が篭城していた事も明らかとなった。城には鈴木出羽守に仕えていた女性達がおり、落城の際、逃れ出たものの、盛政軍に追われ、三坂という山中で自決したと伝わる。その場所は女郎窟と呼ばれ、クシやコウガイが出土したらしい。




 

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