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2025.02.02 - 
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斎場御嶽(せーふぁーうたき

斎場御嶽(せーふぁーうたき)は、沖縄県南城市にある史跡で、琉球王国最高の聖地とされていた。この地では、琉球神道における最高神職、聞得大君(きこえおおぎみ)就任の儀式と、王国の祭事が行われた。聞得大君は、国王の姉妹など王族の女性から任命され、国王と王国全体を霊的に守護する存在とされた。










↑久高島を望む


天気が悪かったので、久高島の姿は不明瞭でした。久高島は神の島とされており、琉球王国時代には数々の神事が行われていました。歴代の琉球国王は2年に1回、久高島参詣を欠かしませんでした。






↑御門口(うじょうぐち)



参道への入口です。




↑大庫理(うふぐーい)



大広間との意味合いがあって、拝所となっています。












↑艦砲射撃の穴



沖縄戦の傷跡がここにも残っています。






↑寄満(ゆいんち)



豊穣に満ち満ちた場所との意味合いです。当時の琉球王国は貿易で栄えていたことから、世界中から集められた交易品がここに捧げられたのでしょう。









↑アマダユルアシカヌビーの壺 



2本の鍾乳石から滴り落ちる聖なる水を受けるため、2つの壺が置かれています。






↑正面が三庫利(さんぐーい)で右側が、ちょうのはな



それぞれ拝所とされています。斎場御嶽で最も奥まった所にあって、ここで最重要の神事が行われたのでしょう。



斎場御嶽は琉球王国最高の聖地と謳われているだけあって、神秘的な雰囲気が漂っていました。かつてここで、荘厳な儀式が執り行われた事を想像しながら、散策してみてください。

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摩文仁の丘

摩文仁の丘は、沖縄県糸満市にある戦跡である。この地は、沖縄戦の末期、南端に追い詰められた日本軍と沖縄県民数万人が最後を遂げた場所である。



昭和20年(1945年)4月1日、米軍が沖縄本島に上陸を開始し、南北に進撃を開始する。北部での戦闘は4月16日に終了し、本島北部は米軍に制圧されたが、日本軍主力が待ち受ける南部では、4月8日を境にして、戦いは激烈なものになってゆく。戦闘の焦点となったのは、日本軍沖縄守備隊、第32軍の司令部が置かれている首里であった。第32軍司令部は、琉球王国の居城であった首里城の地下50mにあって、あらゆる砲撃に耐えうる事が出来た。



主防衛線は、西は安謝川から首里城を経て、東の与那原に達する、沖縄本島を横断する10kmの線で、高地と地下陣地を巧妙に組み合わせた非常に堅固な造りであった。また、日本軍砲兵の火力は比較的、充実しており、これが米軍に多大な出血を強いた。しかし、米軍は、沖縄の制海権、制空権をほぼ完全に握っており、その海軍と空軍は、苦戦する陸軍に圧倒的な火力援護を提供した。日本軍は善戦を重ねるも、その兵力、弾薬は乏しくなる一方であった。5月4日、第32軍は、死中に活を求めて総攻撃を実施したものの、米軍の凄まじい砲爆撃を受けて、成すすべなく撃退された。



5月22日、首里戦線の両翼を担う、西の拠点、安里52高地(米軍名 シュガーローフヒル)と、東の拠点、運玉森(うんたむまい 米軍名 コニカルヒル)が突破され、首里は包囲されつつあった。このままでは、第32軍は首里一帯、数キロ円内に閉じ込められる。第32軍の消耗も激しく、陸軍正規部隊、沖縄現地招集兵、海軍後方部隊を含む、11万人いた将兵の内、6万人が戦死し、残存兵力は5万人となっていた。第32軍は、このまま首里で玉砕するか、知念半島に撤退するか、南端の摩文仁に撤退するか、の選択を迫られる。



そして、第32軍は、更に戦闘を引き延ばすには、摩文仁への撤退が望ましいと判断し、この22日より移動を開始する。だが、この決定は、沖縄南部に避難していた多数の沖縄住民を、戦火に巻き込む事も意味していた。第32軍は、首里に5千人の後衛を残すと、折からの豪雨に紛れて段階的に撤退していった。しかし、5月26日には米軍に察知され、猛烈な砲爆撃を浴びせられて、大勢の将兵や住民達が泥濘の大地に倒れていった。



5月31日、第32軍は撤退を終えて、3万人(陸軍正規部隊は1万人)が八重瀬岳、与座岳に新たな戦線を構築したが、この撤退時に1万5千人余の兵員を失った。6月5日、米軍は、第32軍最終防衛線への攻撃を開始し、再び激闘が展開される。日本軍は疲弊しきった兵力で奮戦を重ねるも、6月17日には八重瀬岳、与座岳も陥落して、住民共々、南端の摩文仁の断崖へと追い詰められていった。海上からは米軍艦艇による砲撃を受け、陸上からも迫撃砲、野砲による砲撃を受け、上空からも航空機による爆撃を受けて、摩文仁一帯は人々が逃げ惑い、吹き飛ばされる阿鼻叫喚を呈した。



6月20日、米軍はついに、第32軍司令部のある摩文仁岳を取り囲んだ。そして、昭和20年(1945年)6月23日早朝(22日とも)、第32軍司令官、牛島満中将と参謀長、長勇(ちょう いさむ)中将の自決をもって、沖縄日本軍の組織的戦闘は終結した。沖縄戦において、日本軍は当初11万人の兵力を有していたが、10万人余が戦死し、住民9万人余が死亡した。米軍は陸海軍含めて54万8千人を動員し、その内、1万2,520人が戦死、5万5,112人が負傷、2万6,211人の戦闘疲労症を出した。






↑平和祈念公園



この丘には、日本全国の戦没者の慰霊碑が置かれています。平和祈念公園はとにかく、広大です。






↑摩文仁の海岸 東方



この日見た太平洋は穏やかに見えましたが、それでも泳ぐには波が大きく、危険だと思いました。摩文仁に追い詰められた人々の中には、海岸に沿って北部に逃れようとした人もいましたが、大半が銃撃を受けて倒れ、太平洋の荒波に吞まれて命を失う人も多かったと云います。ひめゆり平和記念資料館で見た資料にも、学徒が大波に吞まれて死亡したとの記述を度々、目にしました。





↑摩文仁の海岸 西方 




戦争中は、この様な崖の隙間に、人々がひしめきあって避難していたのでしょう。捕虜になるのを恐れた若い女性が、崖から身を投げる光景もありました。






↑黎明之碑



摩文仁岳の山頂にあります。






↑摩文仁岳から北を望む 



戦争中は、見渡す限りが砲爆撃による荒野となっていたはずです。






↑第32軍司令部壕跡



この付近で、第32軍司令官、牛島満中将と参謀長、長勇中将が自決を遂げました。






↑平和の像



沖縄戦に動員された男子学徒 鉄血勤皇隊を祀った像です。第32軍は沖縄の旧制中学校から14歳~16歳の男子学徒、1,780人を招集し、戦闘に動員して約半数が戦死しました。





↑摩文仁の井戸 



摩文仁には井戸がこの一か所しかなく、兵士や住民は米軍の攻撃の合間を縫っては、水を汲みに来ました。しかし、海上には米軍艦艇がひしめいており、この井戸も昼夜を問わず、見張られていました。しかも、周辺の樹木は砲爆撃によって薙ぎ払われており、身を隠す場所もありませんでした。米軍艦艇からの機銃掃射を受けながらも、飢え渇いた人々は水を求め、井戸にひしめきあっていたそうです。井戸の周りには死体が折り重なっており、そのため、この井戸は死の泉とも呼ばれました。それでも、人々は生きるため、命懸けで水汲みに走りました。





↑管理部の壕跡




人々は水を汲んだ後、この壕で炊事を行っていたそうです。その水や飯を上にある壕まで運び入れる事を、飯あげと呼んでいました。これは、銃砲弾が飛び交う中、必死で急坂を駆け上がる命懸けの作業でした。沖縄師範学校の男子学徒で構成されていた、鉄血勤皇師範隊がこの飯あげの任に当たっていたそうです。元沖縄県知事の太田昌秀氏によれば、上空から焼夷弾攻撃を受けて、管理部壕には黒焦げの焼死体が折り重なっていたそうです。この時の焼夷弾攻撃は大規模で、丘陵全体が炎に包まれたと云います。壕の上部が黒染んでいるのは、その時の攻撃の跡かもしれません。また、ここで、鉄血勤皇師範隊の学徒が自決したとあります。






↑摩文仁の海岸



現在では奇岩そびえる景勝地となっていますが、戦争中には、多数の水漬く屍が漂っていたでしょう。





↑平和の礎(いしじ)



日本軍、米軍、英軍、沖縄住民、台湾出身者、朝鮮半島出身者など敵味方を含む、沖縄戦での戦没者、また、1931年から1946年までに戦没した沖縄出身者が石板に刻銘されています。現在は、24万人分の石碑があって、その数に圧倒されます。





↑沖縄県平和祈念資料館



正面奥に見えるのが、沖縄県平和祈念資料館です。年末だったので、残念ながら閉館でした。摩文仁の丘は美しい場所でしたが、言いようのない物悲しさが漂う場所でもありました。

嘉数高地・ひめゆりの塔

嘉数(かかず)高地は、沖縄県宜野湾市にある高地で、沖縄戦の激戦地となった場所である。現在は嘉数高台公園として整備され、北には在日米軍基地、普天間飛行場を望む事も出来る。



1945年4月1日、米軍は凄まじい艦砲射撃を加えた後、18万2千人を動員して上陸作戦を開始する。この沖縄攻略戦は氷山作戦と呼ばれ、米軍は最終的には54万8千人と1500隻の艦艇を動員する。対する日本軍は11万人の兵力を擁していたが、海軍の後方部隊や沖縄の現地招集兵も含まれており、正規の陸戦訓練を受けた兵員は半分程度であった。日本軍は戦力不足から上陸地点での迎撃を諦め、沖縄本島南部の首里を主陣地として迎え撃つ心積もりであった。嘉数高地は、その外郭陣地に位置付けられていた。



米軍は上陸後、日本軍小部隊による遅滞戦闘を受けるが、大きな損害も無く、順調に南部への進撃を続けていた。だが、4月8日、日本軍の本格的な陣地帯、嘉数高地にぶつかって、その進撃は停止する。日本軍は沖縄戦において、敵と向き合う高地正面には極力、陣地を設けず、反対側の斜面に陣地を設けて砲爆撃を避け、米軍が頂上付近に達してから、陣地を出て反撃を加える戦法を多用した(反射面陣地)。この時、予め射撃諸元を定めておいた迫撃砲による砲撃や、隠蔽しておいた機関銃陣地からの側面射撃を加えて、反撃をより効果的なものとした。反射面陣地は、米軍の圧倒的な火力に対抗すべく、地形と陣地を複雑に組み合わせた、日本軍の苦肉の策であった。



嘉数高地の日本軍も地形を最大限、有効活用して、米軍を十分に引付けてから十字砲火を浴びせ、続いて白兵戦を挑んで撃退し続けた。4月19日、業を煮やした米軍は30両の戦車を繰り出して、嘉数高地を突破せんとした。有効な対戦車兵器を持たない日本軍にとって、米軍のM4中戦車シャーマンは、最大の脅威であった。だが、日本軍は予め設置しておいた対戦車地雷をもって、米軍戦車2~3両を擱座させ、更に巧みに隠蔽しておいた速射砲による側面、後面からの射撃で米軍戦車を次々に炎上させていった。米軍戦車はそれでも進撃し、嘉数集落に突入して陣地を破壊していった。危機的状況に陥った日本軍はここで、速射砲だけでなく野砲や高射砲まで動員して集中射撃を加え、更に歩兵による肉弾攻撃も敢行する。



急造爆雷を抱えた兵士が特攻攻撃して戦車を擱座させると、日本兵が群がりよって車体の隙間から、拳銃や手榴弾による近接攻撃を加えた。こうして米軍戦車合計22両を破壊し、8両のみが退却していった。日本軍は勝利を収めたものの、その損害も甚大であった。4月23日、米軍は西側戦線を突破して、嘉数高地の裏側へと回りつつあった。高地の守備隊も戦力が大きく低下しており、陣地保持が困難となった事から僅かな後衛を残して、後方の前田陣地へと撤退を開始する。翌24日、米軍は激しい準備砲撃を加えると、嘉数高地に突入して、日本軍後衛との2時間の戦いを経て、ついにこれを占領した。





↑弾痕の塀


当時の写真。




↑弾痕の塀


現在の写真




↑展望台

公園内には慰霊碑も幾つか建てられています。











↑陣地壕

嘉数高地にはこの様な陣地壕が無数あります。






↑トーチカ跡






↑トーチカに残る弾痕






↑展望台から北西を望む


宜野湾が見渡せます。1945年4月1日、米軍はこの宜野湾に大挙、上陸して来ました。嘉数高地からは、その様がつぶさに目撃出来たでしょう。






↑展望台から南を望む



前田高地が見渡せます。1945年4月24日、嘉数高地は米軍に制圧され、日本軍は次の陣地、前田高地へと後退しました。けれども、沖縄での戦いは、ここから更に激しいものになっていきます。






↑展望台から北を望む



普天間飛行場が見渡せ、オスプレイらしき機影が見えます。ここは現在、アメリカ海兵隊の基地として使用されています。地下で眠る、日本軍将兵や民間人達はさぞかし、無念の思いで見つめている事でしょう。沖縄に生きる人々にとっても、米軍基地の存在は大変、煩わしいものでしょう。



しかし、現在の厳しい国際情勢、特に中国の脅威を鑑みれば、沖縄の米軍基地は日本の防衛上、必要不可欠なものとなっています。日本の平和ボケした政治家や国民、憲法に縛られ、戦力にも劣る自衛隊では勝ち目がありません。沖縄が中国の手に入ればどうなるか?日本は生命線たるシーレーンを中国に握られて、その属国と化し、沖縄の人々はチベット、ウイグルと同様の運命を辿るでしょう。





●ひめゆりの塔は、沖縄県糸満市にある、小さな石碑である。



1945年3月23日、米軍の沖縄本島上陸が間近に迫る中、ひめゆりの愛称で呼ばれていた沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の両校から、生徒222人、教師18人が動員され、南風原(はえばる)にある陸軍病院壕に配属された。病院とは言っても、40近くの横穴壕に粗末な二段ベッドを備えただけの施設であった。同年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸し、戦いが本格化してくると、壕には、次から次に負傷兵が運ばれて来る。



学徒達はひたすら看護に明け暮れ、負傷兵の食事の世話から下の世話、手術の手伝いと切断された手足の処分、爆弾砲弾が飛び交う中、食料、水の運搬、死体の埋葬まで行った。同年5月25日、米軍が首里に迫って来たことから、南風原陸軍病院壕を引き払って、学徒と歩ける負傷兵は南端部へと撤退していった。しかし、重傷者達は壕に残され、自決に追い込まれた。学徒達は糸満に無数ある壕に移って、引き続き看護を行った。その内の一つが、伊原第三外科壕である。



同年6月18日夜、米軍が間近に迫る中、突然、解散命令が出され、学徒達は戦場の只中に放り出された。学徒の多くは、この解散命令に憤り、絶望を覚えたと云う。翌6月19日早朝、伊原第三外科壕は米軍による黄燐手榴弾の攻撃を受けて、壕に潜んでいた96人(教師5人、学徒46人)中、87人が死亡した。僅かな生存者も、逃れ出たところを銃撃を受けて倒れ、最終的に生き延びたのは軍医1人と学徒4人のみであった。その他の壕でも、米軍の攻撃を受けたり、自決したり、波に吞まれたりして、多くの犠牲者を出した。結局、ひめゆり学徒隊は沖縄戦を通して、教師、学徒240人中、136人が命を失った。






↑慰霊碑とひめゆりの塔


正面にあるのが慰霊碑で、右端の小さな石碑がひめゆりの塔です。中央にぽっかり空いている穴が、ひめゆり学徒隊が活動していた壕の跡です。





↑沖縄陸軍病院第三外科壕跡(伊原第三外科壕)


深さは14メートルもあって、底は見渡せなかったです。






↑ひめゆり平和祈念資料館



ここでは、当時の外科壕の様子が模型で再現されており、生き残った学徒の方が書き残した、生々しい証言の数々が読めます。また、死亡した学徒達の写真が部屋全体に貼り出されていて、死亡に至る経緯も綴られています。その部屋に入ると犠牲者の方々に見つめられている様な感覚を受けて、正直、圧迫感を覚えました。しかし、当時、戦火が轟く中、暗く狭い壕内で、彼女達が覚えていた圧迫感とは比べものにならないでしょう。

中城城

中城城(なかぐすくじょう)は、沖縄県中城群にある山城である。15世紀に活躍した按司(あじ)、護佐丸の城として知られている。また、沖縄に300余ある城(ぐすく)の中で最も良好な遺構が残されており、曲線を描く城壁、神秘的な8つの遥拝所など、古代遺跡感漂う城跡である。



創建年代は定かではなく、中城按司が数世代に渡って築城を重ね、14世紀後半までに、西の廓、南の廓、一の廓、二の廓、などの主要部分が完成し、1440年に城主となった護佐丸によって、北の廓、三の廓が増築され、現代見られる姿となった。護佐丸は、勝連城の阿麻和利に備えて中城城に着任したのだが、1458年、その阿麻和利の謀略を受けて、攻め滅ぼされたとされる。




その後は、琉球王国の世子である中城王子の居城とされたが、1729年からは一の廓に中城間切番所が置かれた。明治12年(1879年)の琉球処分後、番所は、中城村役場として使用されていたが、昭和20年(1945年)3月、沖縄戦の戦火を受けて焼失した。






↑ガンジャーガマ(鍛冶屋跡)





↑中城城



中城城に入るには入場料を支払う必要がありますが、駐車場から城の入り口までは無料のカートで送ってもらえます。











↑遥拝所跡



































評判通り、中城城の遺構は良好で、整った石垣が見応えあります。沖縄版竹田城といった趣です。ここはまだ観光客の姿は少なく、ゆったりと見学出来ました。

勝連城

勝連城(かつれんぐすく・かつれんじょう)は、沖縄県うるま市にある山城である。城は、北に中城湾、南に金城湾に挟まれた勝連半島の丘陵上にあって、眼下に海が広がる風光明媚な城跡である。



勝連城は、14世紀初頭、勝連按司(かつれんあじ)によって築かれたと推測されている。歴代城主の中で最も有名なのが、第10代勝連按司の阿麻和利(あまわり)である。1454年、王位継承をめぐる王族の内乱、「志魯(しろ)・布里(ふり)の乱」を経て、尚泰久(しょう たいきゅう)が第6代国王となる。しかし、彼の権力は不安定で、急速に力を増しつつあった阿麻和利が最大の脅威となっていた。



そこで、尚泰久は、長女を阿麻和利に娶らせて懐柔を図ると共に、実力者である護佐丸の娘を正室に迎えて、彼に阿麻和利を牽制させた。1458年、護佐丸は中城城にて、阿麻和利に対抗する兵馬を整える。しかし、阿麻和利はこれを逆手にとって、護佐丸が王家に対する謀反を企んでいると讒言する。これを受けて尚泰久は、阿麻和利を総大将に任じて、護佐丸を攻撃させた。護佐丸は身の潔白を証明すべく反撃もせず、妻子と共に自害した。



首尾よく宿敵を討ち滅ぼした阿麻和利は、続いて那覇の王府を急襲せんとした。だが、阿麻和利の妻で尚泰久の娘であった、百度踏揚(ももとふみあがり)が王府に走って急報を伝えたので、その謀反は明らかとなった。尚泰久は討伐軍を差し向けて阿麻和利を撃退し、続いて勝連城を攻め立てて、これを攻め滅ぼした。以後、勝連城は廃城となった。これが琉球王国の正史が伝える歴史であるが、逆臣とされる阿麻和利は勝連では名君と称えられており、忠臣とされる護佐丸は実際に謀反を企んでいたとの説もある。






↑勝連城





↑右旋回の階段




↑二の廓石垣





↑一の廓を望む





↑二の廓


ここには城で最も重要な施設とされる、殿舎がありました。





↑一の廓から北を望む





↑一の廓から東を望む



正面奥には海中道路が走っています。両側が海という開放感溢れる道で、沖縄本島屈指の景観の良さでした。




↑一の廓から南を望む




↑一の廓から西を望む





↑勝連城の麓


深田によって、敵の侵入を阻んでいます。


勝連城は海を見渡す、360度の展望が広がっており、晴れていれば爽快感は計り知れないです。また、沖縄の城の中では珍しく、動乱の歴史を秘めており、その余韻に浸ることも出来ます。

 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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