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2025.02.02 - 
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岩剣城

岩剣城(いわつるぎじょう)は、鹿児島県姶良市にある山城である。岩剣城は、薩摩統一を果たしたばかりの戦国大名、島津氏が更なる飛躍を目指して、総力を挙げて攻めかかった城であり、また、名将として知られる島津4兄弟の次弟、義弘が初陣を飾った城でもある。




岩剣城は、享禄2年(1529年)頃、北薩の国人、祁答院(けどういん)良重によって築かれたとされる。標高225mの岩剣山の山上にあって、三方が切り立った断崖で、尾根筋の一方も幾重もの切岸や曲輪によって厳重に守られていた。天文19年(1550年)、薩摩統一を果たした島津貴久は続いて、大隅国への進出を図っていた。その最初の標的となったのが、大隅国西部に拠る蒲生範清(かもう のりきよ)である。蒲生氏は竜ヶ城(蒲生城)を本拠として、松阪城、北村城、といった支城を持つ有力国人で、平山城、岩剣城を有する国人、祁答院良重と結んで、島津氏に対抗せんとした。 天文23年(1554年)9月10日、蒲生範清が先に動き、大隅国にある島津方の加治木城を攻め立てた。これを受けて島津貴久も動き、弟の忠将(ただまさ)、尚久(なおひさ)、子息の義久、義弘、歳久らを始めとする一族譜代に国内諸領主を総動員して、薩摩との国境に近い岩剣城を攻めんとした。




同年9月12日、島津勢は岩剣城に押し寄せ、まずは城の西側に陣取って半分、取り囲んだ。9月14日、島津忠将が船5艘で岩剣城の足元にある脇本を襲撃し、鉄砲で13人を討ち取った。9月17日、島津義弘が脇本南方の白銀坂に着陣し、東側の包囲を進める。9月18日、島津忠将は、50艘余の船をもって別府川を遡上し、蒲生、祁答院の主力が籠る平山城に鉄砲を撃ちかけて牽制した。9月20日、義弘は手勢を二手に分けて、一手を脇本に伏せさせ、一手を持って岩剣城下を焼き払い、稲を刈り取らせた。これに激高したのか、城兵が打って出たところを伏兵を持って撃退し、義弘は初陣を勝利で飾った。9月21日、義弘は船10艘を拿捕した上、脇本を完全に制圧して、岩剣城を孤立せしめた。




10月2日夜明け、島津貴久は岩剣城への総攻撃を命じ、義弘率いる手勢は西門を攻撃して城戸を打ち破り、小屋に火をかけてまわった。その隙に乗じて、尚久の手勢も城際に迫って攻撃した。こうして城方に打撃を与えた上で、島津軍は城下に布陣し、蒲生、祁答院勢の後詰に備えた。貴久は城への攻撃と並行して、一手をもって星原で稲を刈り取らせ、蒲生、祁答院勢が籠る平山城を挑発させていた。これに釣られた蒲生、祁答院勢2千人余が出撃し、島津軍主力が待ち受ける星原で激突した。だが、蒲生、祁答院勢は祁答院良重の子息、重経、蒲生家の重臣、西森盛家ら主だった者50人余が討ち取られる惨敗を喫する。後詰の蒲生、祁答院勢が敗れた事で、城方の士気は喪失し、同日夜半、城兵は城を捨てて逃走、翌10月3日、岩剣城は島津氏の手に渡った。




戦後、義弘が岩剣城を任されるが、山城が不便であったのか麓の平松に居館を築いて、3年間城番を務める。島津貴久は岩剣城を足掛かりに更に蒲生範清を攻め立て、天文24年(1555年)に平山城を落とし、弘治2年(1556年)松坂城を落として、蒲生氏の本拠、竜ヶ城へと迫った。弘治3年(1557年)4月、孤立を深めた蒲生範清は、ついに竜ヶ城を棄てて祁答院へと落ちて行った。こうして大隅西部は、島津貴久の領する所となった。その後の岩剣城であるが、麓の平松館は使われ続けたものの、それも慶長11年(1606年)に役割を終えて岩剣城共々、廃城となった。







↑登山口



山深く険しい道のりです。







↑大手口付近







↑最高所への道



岩剣城を登っている時、誰とも出会わないだろうと思っていましたが、この付近で山城散策をしていた物好きな人に出会いました。「こんなマイナーな城を登られているとは、城マニアの方ですね」と声をかけると、苦笑いされました。「お前もだろう」と思ったに違いないです。







↑曲輪8



広い削平地です。小屋を建てて、大勢の兵が詰めていたと思われます。






↑奧が曲輪10







↑曲輪10



岩剣城の最高所です。






↑最高所からの眺め



姶良市街が広がっています。眼下に映る一帯が蒲生氏の勢力範囲でした。しかし、島津氏はこれだけの地域を制圧するのに、3年近い歳月を費やしています。蒲生氏の抵抗が強かったのもありますが、島津氏の力がまだ不足していたのもあるでしょう。







↑本丸






↑本丸石垣



戦国期の山城にしては珍しく、石垣が施されています。ただ、城を築いた祁答院氏が積んだのか、その後、城主となった島津氏が積んだのかは分かりません。






↑本丸直下の斜面



切り立っていて険しいです。





↑城を流れる渓流


大手道に沿って流れており、水に困る事は無いです。






↑岩剣神社とその背後に岩剣城

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鹿屋航空基地史料館

鹿屋航空基地史料館は、鹿児島県鹿屋市にある史料館です。海上自衛隊鹿屋航空基地に隣接しており、太平洋戦争時の日本海軍から現代の海上自衛隊に至る豊富な史料が展示されています。無料で入館出来ますが、2022年時点ではコロナ過を受けて、人数制限がされています。



鹿屋航空基地は、昭和11年(1936年)4月、大日本帝国海軍鹿屋航空隊の創設に始まる。太平洋戦争末期には神風特攻隊最大の出撃拠点となり、鹿屋航空基地から908名もの搭乗員が飛び立っていった。戦後はアメリカ軍が進駐し、その退去後は警察予備隊の駐屯地となり、昭和30年(1955年)から海上自衛隊の管轄する所となった。現在も、広大な南西諸島の警戒監視と救難活動を担っている。





↑鹿屋航空基地史料館



屋外には、海上自衛隊で使用されていた、航空機やヘリコプターが大量に展示されています。屋内も日本海軍の艦艇模型や、零戦の復元機と装備機銃、特攻隊員の遺影と遺書、などなど大量の史料が見られます。特に見入ってしまったのは、昭和18年(1943年)4月、山本五十六大将が戦死した際の搭乗機、一式陸上攻撃機の残骸や、硫黄島守備隊の遺品、銃孔らしき穴の空いた鉄兜や、薬品の瓶などでした。展示史料は撮影不可もありますが、兵器等は撮影可が多かったです。基本的に私が興味あるものを載せていきます。







↑零戦用エンジン 栄発動機二一型







↑零式艦上戦闘機五二型



平成4年(1992年)、鹿児島県の錦江湾と吹上浜の海底から引き揚げられた2機の零戦から部品を補い合って復元されました。






↑零式艦上戦闘機五二型





↑零式艦上戦闘機五二型





↑零式艦上戦闘機五二型







↑7.7mm機銃



零戦などの軍用機に搭載されていたものです。






↑零式艦上戦闘機二一型用20mm機銃



初期型の零戦に搭載された20mm機銃で、銃身が短いです。







↑下が零式艦上戦闘機五二型丙用20mm機銃で、その上が13mm機銃



後期型の零戦に搭載された20mm機銃で銃身が長く、見た目にも威力が上がっているのが分かります。






↑旧日本海軍の軍装







↑航空母艦赤城の模型








↑軽巡洋艦矢作の模型







↑二式大型飛行艇一二型



唯一の現存機で、屋外展示機の目玉です。






↑二式大型飛行艇一二型






↑二式大型飛行艇一二型


往時には側面、上面に20mm機銃が装備されていました。






↑二式大型飛行艇一二型



側面から見るとずんぐりした機体に見えますが、意外と細いです。空力的に洗練するため、この形状になったのでしょう。


太平洋戦争に興味がある者にとって、鹿屋航空基地史料館は興味が尽きない施設です。特攻作戦に関する史料は、知覧特攻平和会館の方が豊富ですが、兵器など総合的な史料数は、鹿屋航空基地史料館の方が豊富でした。

西南戦争史跡 城山

城山は、鹿児島県鹿児島市にある山です。標高は107mと小さな山ですが、鹿児島市内を見下ろす要地で、麓には島津氏の居城であった鶴丸城(鹿児島城)もあります。何より、この地を有名にしているのは、維新の三傑と呼ばれた、西郷隆盛最期の地となった事でしょう。



明治10年(1877年)1月29日、明治政府が鹿児島県にあった武器弾薬と製造設備を大阪に搬出しようとした。しかし、西郷隆盛創設の私学校の生徒達がそれに反発し、武器弾薬を奪うという事件を起こす。それを切っ掛けとして、私学校の幹部達は西郷を担いで挙兵、ここに西南戦争が始まる。この後、薩軍は数を増して北上し、九州中部を中心に政府軍と激闘を続けるも、徐々に敗色が濃くなり、同年9月1日には、始まりの地である鹿児島への退去を余儀なくされた。城山に籠った薩軍は300人余で、それを政府軍4万人余が取り囲んだ。同年9月24日午前4時より、政府軍の総攻撃が始まり、薩軍は次々に倒れていった。西郷隆盛は籠っていた洞窟から出て谷を下りつつあった時、腰と大腿部に銃弾を受け、動けなくなった。隆盛は傍らの別府晋介に「晋どん、もうここらでよか」と声をかけ、介錯の太刀が振り下ろされた。西郷隆盛49歳。







↑私学校跡



鶴丸城内にあります。






↑私学校に残る弾痕







↑私学校に残る弾痕






↑鶴丸城(鹿児島城)



鶴丸城は麓の居城と、背後の詰城、城山とで構成されています。城郭は広大でさすが九州の雄、島津氏の城といったところです。







↑鶴丸城庭園跡







↑鶴丸城 御楼門






↑薩摩義士碑


宝暦3年(1753年)から宝暦5年(1755年)にかけて、薩摩藩は徳川幕府より濃尾平野を流れる木曽川、長良川、揖斐川の治水工事を命じられ、多大な出費と難工事の末にこれをやり遂げています。しかし、その過程で多くの犠牲者を出した事から、彼らを弔うためにこの碑が立てられました。






↑西郷隆盛像






↑史跡 西郷隆盛洞窟



西郷隆盛は最後の5日間、この洞窟で過ごしたそうです。






↑史跡 西郷隆盛洞窟





↑西郷隆盛終焉の地



明治10年(1877年)9月24日、洞窟を出た西郷隆盛は、ここで最後を迎えたとされています。





↑城山展望台からの眺め




西郷隆盛も眺めた風景です。


知覧特攻平和会館

知覧特攻平和会舘は鹿児島県南九州市知覧町郡にある、歴史博物館です。太平洋戦争時、この地には陸軍の航空基地が置かれ、戦争末期に多くの特攻機がここから飛び立っていった事で知られています。




昭和16年(1941年)12月、知覧飛行場が建設される。昭和20年(1945年)3月、特攻基地となり、以降、陸軍特攻隊439名が沖縄へと飛び立っていく。隊員の多くは10代後半から20代前半の若者であった。その若者達の母親代わりとなって、親身になって世話していたのが富屋食堂の女将、鳥濱(とりはま)トメであった。トメは明日をも知れぬ隊員達のために心を込めた食事を振る舞い、預かった遺書、遺品を家族の元へと届けていった。同年8月、終戦を迎え、知覧飛行場からの特攻作戦も終わった。そして、進駐してきた米軍によって、知覧飛行場は徹底的に破壊される。



そのまま知覧飛行場と特攻隊の存在も忘れ去られつつあったが、トメは1人、木切れの慰霊碑を建てて毎日、供養を続けていた。トメは慰霊と平和のための観音堂建立を知覧役場に働きかけるも、反戦運動家らからは戦争賛美だとの批判を浴びせられた。それでもトメの誠心誠意の訴えを受けて、昭和30年(1955年)9月、特攻平和観音堂が建立された。昭和50年(1975年)4月、観音堂近辺に知覧特攻遺品館が開館し、昭和62年(1987年)2月、装いを新たに知覧特攻平和会館が開館する。






↑知覧特攻平和会館



館内の大部分は撮影不可で、特攻隊員の遺影、遺書、遺品が所狭しと展示されています。若き隊員達の最期の姿や、家族に宛てた遺書を読むと、胸に熱いものがこみ上げて来ます。当時の特攻作戦は、隊員からの純粋な志願もあれば、上官からの暴力を伴った強制もあったと聞きます。出撃直前の写真から垣間見れる隊員達の表情も様々で、朗らかな笑顔を浮かべる隊員もいれば、達観し遠くを見つめる様な隊員、無念さあるいは恐怖を噛み殺している様な隊員もいました。当時の教育もあったのでしょうが、10代の隊員の多くは純粋無垢に国家への奉仕を望んでいたように見受けれ、20代以上で妻子や恋人のいる隊員は無念の思いを抱えている人が少なからずいた様に見受けられました。個人の感想です。







↑零式艦上戦闘機52型丙



零戦の後期型で、速度と武装が強化されています。昭和20年(1945年)5月に鹿児島県、甑島(こしきしま)沖で海没した機体を、昭和55年(1980年)に引き揚げたものです。






↑零式艦上戦闘機52型丙





↑零式艦上戦闘機52型丙



知覧特攻平和会館には他に唯一の貴重な現存機である、四式戦闘機疾風も展示されていましたが、こちらは撮影不可でした。





↑復元三角兵舎



松林に作られた、半地下壕の宿舎です。当時の特攻隊員はこうした粗末な宿舎で、出撃までの僅かな時間を過ごしていました。






↑三角兵舎内部






↑特攻勇士の像






↑航空自衛隊T3練習機






↑一式戦闘機隼の復元機



平成19年(2007年)に公開された映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」に使用されました。





↑灯篭と奥に特攻平和観音堂



慰霊祭が開かれるらしく、天幕と椅子が設置されていました。


知覧特攻平和会館では、映像資料も多く見られますが、時間が余りにも足らず、足早に見て回らずを得ませんでした。知覧では、他に鳥濱トメさんが営んでいた「ホタル館 富屋食堂」や武家屋敷も見て回りたかったです。次に来る事があれば、知覧で1泊したいところです。

兵馬俑

京都市京セラ美術館で開催されていた、兵馬俑の展覧会に行って来ました。その時の写真を載せていきます。



俑とは古代中国において、死者への副葬品として作られた陶製の人形である。その中で、兵士や馬を模して作られた俑が、兵馬俑と呼ばれた。取り分け、秦代に作られた兵馬俑は有名で、その数量と造形美は他の時代を圧倒している。






↑騎兵


鎧を着用し、右手には長柄を持ち、左手で手綱を引いていました。馬は背後にいました。







↑歩兵


右手に剣を、左手に盾を装備していたと見られます。







↑下級指揮官


頭に冠を被り、右手に長柄を、左手に剣を掲げていたと見られます。







↑将軍


鎧は着用せず、頭に冠を被り、右手に剣を持っていました。







↑将軍 背面







↑下級指揮官


頭に冠を、右手に長柄を、左手には盾を持っていたと見られます。






↑弩兵


右手に弩を持っていたと見られます。






↑軍馬


戦車を曳いていたと見られます。







↑弓兵


鎧は着用せず、弓を構えて遠方を見据えています。






↑弩兵


鎧を着用し、弩を構えていたと見られます。





↑弩兵 側面



秦の兵馬俑は一体一体、表情、服装、姿勢が違っており、非常に写実的です。秦代の後の漢代の兵馬俑も見ましたが、こちらは小さく、迫力に欠けていました。しかしながら、当時、兵馬俑の制作に要した費用、資源、労力を思えば、秦代の方が民衆への負担は遥かに重かったでしょう。秦の時代は短く、漢の時代が長く続いたのも、これと少なからず関係があるでしょう。


 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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