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大坂夏の陣、小松山古戦場跡

小松山古戦場跡は、大阪府柏原市玉手町にある古戦場である。現在は住宅に埋もれた小山であるが、戦国最期の大戦、大坂夏の陣における激戦地の一つであった。


大坂夏の陣において、徳川方15万5千人余は北東の河内、東の大和、南の紀伊の3方向から大坂城に迫りつつあり、その内、大和方面から進撃する徳川方は、水野勝成、伊達政宗、松平忠輝ら3万4千人余であった。それに対して、豊臣方は総勢5万5千人余の内、後藤基次、真田信繁、毛利吉政ら1万8千人余が、大和方面の徳川方迎撃に向かった。豊臣方は、河内国と大和国との境目の狭隘地、国分、あるいは古墳群が連なる道明寺で、これを迎えつつ心積りであった。


慶長20年(1615年)5月6日夜明け前、豊臣方の先鋒、後藤基次は逸早く、道明寺に到着したものの、後続の真田、毛利隊が現れる気配は無く、しかも、徳川方3万4千人余は既に国分村に充満していた。このまま手をこまねいていると、夜明けと共に徳川方は国分を出て、道明寺まで進出してしまう。この時、基次には撤退して後日の作戦に備えるといった手もあったが、味方の来援を信じてあくまで国分を押さえんとした。そして、後藤隊は単独で進撃、国分の出口に当たる小松山に陣取った。しかし、それは2800人のみで、10倍以上の敵を相手にする絶望的な戦いでもあった。


5月6日午前4時頃、徳川方の先鋒、水野勝成隊は小松山に攻め上がるも、組下の部将、奥田忠次が戦死するなど、後藤隊に撃退されてしまう。続いて、伊達政宗、本田忠政、松平忠明らの大部隊が小松山に取り付き始めるも、後藤隊は奮戦を重ねて尚も持ち堪えた。だが、激闘8時間を経て、後藤隊も限界に達し、基次は殲滅される前に負傷兵らを西に逃がしつつ、自らは決死の兵を率いて東に向かって突撃する。後藤隊はたちまち徳川方の1、2隊を蹴散らすも、丹羽氏信隊に側面を突かれて隊は分断、基次は陣頭に立って兵をまとめようとするも、伊達政宗隊の鉄砲の猛射を受けて、胸に被弾して倒れる。基次は部下に介錯を命じ、その首は付近の深田に埋められたと云う。


5月6日正午頃、毛利吉政、真田信繫隊は、ようやく道明寺に到着しつつあったが、時既に遅しであった。彼らは後藤隊の残余を収容しつつ、伊達政宗隊を迎え撃ってこれを撃退し、徳川方と対峙状態に持ち込んだが、14時頃、伝令から、八尾、若江において、木村重成、長宗我部盛親が敗れたとの報と、大阪城への撤退命令がもたらされる。河内方面の戦線が崩れた事から、毛利、真田隊がこのまま対峙するのも無意味となり、撤退を開始する。こうして大和方面の戦線も崩れる事となり、翌5月7日、大坂城は落城を迎える事になる。





↑小松山


西側は大坂平野、南側は山が連なり、北側は大和川が流れていて、徳川方と向かい合った東側も小川が流れていて、天然の要害の地を成しています。





↑奧田忠次と家臣5人の供養塔


奥田忠次は徳川方の部将です。高台にあるので、小松山を駆け上がったところで、後藤隊の逆襲を受けて討死したのでしょう。




↑小松山古戦場跡の碑




↑説明版




↑小松山から大坂城方面を望む




↑小松山から奈良(大和)方面を望む。




↑誉田林古戦場跡




↑誉田林古戦場跡の説明版



道明寺の戦いにおいて後藤基次は、正確かつ素早い行軍に、大軍相手に8時間もの抗戦を見せている事から、当代屈指の指揮官であった事が伝わって来ます。

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柳之御所・毛通寺

柳之御所は、岩手県西磐井郡平泉町にある、奥州藤原氏の居館跡である。


北上川沿いの段丘上にあって、奥州藤原氏初代、清衡の時代から居館として用いられ、三代秀衡の時代に政庁として大規模に整備されたと考えられている。文治5年(1189年)、四代泰衡の時代、源頼朝の侵攻を受けて、泰衡自ら火を放って焼失した。鎌倉時代の歴史書、吾妻鑑では、平泉館(ひらいずみのたち)と記されている。巨大な堀によって囲まれた中に、建物群と庭園があった。そこからは儀式に用いられたと考えられる大量の土器(かわらけ)に、中国産の青磁、白磁の陶磁器から、常滑、渥美産の陶磁器、文字が書かれた木製品、行政に用いられたと考えられる銅印が出土している。




↑柳之御所





↑柳之御所



↑柳之御所


大型の二棟の建物が建っていて、ここが柳之御所の中心的な役割を担っていたと考えられています。



↑柳之御所




↑柳之御所



↑柳之御所


汚物を廃棄していた穴です。




↑柳之御所


非常に巨大な堀です。




↑無量光院跡


無量光院は、三代秀衡が京都の平等院を模して建立した寺院です。その規模と造形は本家を上回るものであったと伝えられていますが、惜しくも火災で焼失してしまいました。



毛越寺(もうつうじ)は、嘉祥3年(850年)、天台宗の高僧、円仁によって創建されたと伝えられる。時代を経るにつれ衰退していったが、奥州藤原氏二代基衡の時代に大規模に再興され、壮麗な伽藍が建立された。その事業は三代秀衡にも受け継がれ、堂塔40余、僧坊50余となって、その規模と壮麗さは、中尊寺をも上回った。中でも本堂の金堂円隆寺は、紫壇、赤木の建物に金銀が散りばめられた上、多くの宝物で彩られていた。その堂内に雲慶作の丈六薬師如来像と十二神将像が祀られていた。吾妻鑑でも、「吾朝無双(わがちょうむそう)」と評されている。しかし、嘉禄2年(1226年)、金堂円隆寺を始めとする中心的建物の多くが焼失し、更に元亀4年(1573年)、葛西氏、大崎氏による戦火を受けて、残った建物も焼失してしまう。





↑毛越寺





↑毛越寺、嘉祥寺跡




↑毛越寺、講堂跡




↑毛越寺、金堂円隆寺跡


基衡による建立で、ここが毛越寺の中心的建物でした。




↑毛越寺、金堂円隆寺跡




↑毛越寺、遣水


池に水を注ぐ水路です。ここで雅(みやび)な曲水(ごくすい)の宴が催されたのでしょう。




↑毛越寺、常行堂跡と法華堂跡




↑毛越寺、観自在王院跡


藤原基衡の妻が建立した寺院で、毛越寺に隣接しています。




↑毛越寺、大泉が池




↑毛越寺、大泉が池


広大な池を中心として、山を借景に伽藍が建ち並んでいました。現在、建物は存在しなくとも、既に絵になっています。そして、大泉が池の前に立った時、ここに平泉で最も壮麗な寺院があったと確信しました。いや、平泉だけでなく日本一の壮麗さであったでしょう。

中尊寺・高館義経堂

中尊寺は、岩手県西磐井郡平泉町にある寺である。奥州藤原氏ゆかりの寺にして、平安時代の伝統工芸の粋を極めた、一大寺院であった。


中尊寺は、嘉祥3年(850年)、比叡山の高僧であった円仁によって開基されたと伝わる。だが、実質的な開基は、藤原四代の初代、清衡で、長治2年(1105年)、金色堂を始めとする寺塔40余、僧坊300余が建立された。その規模と造形は、京の寺院に勝るとも劣らぬものであった。清衡の半生は戦乱に満ちたもので、父、妻子を始めとして、敵味方、大勢の命を失っていた事から、彼らの冥福を祈ると共に、一族の繁栄、奥州の安寧を願っての建立であった。だが、それだけでなく、京の文化を奥州に寝根付かせると共に、自らの権威を知らしめる狙いもあったろう。


しかし、清衡の願いも空しく、文治5年(1189年)、藤原氏は四代、泰衡の時代に源頼朝によって滅亡を迎える。藤原氏を滅亡に至らしめた頼朝であったが、平泉の壮麗な寺院群には感銘を受けて、これらの保護を命じている。だが、藤原氏という大きな後ろ盾を失った中尊寺は、徐々に衰退し、建武4年(1337年)には大きな火災を受けて、金色堂を除く堂宇のほとんどが失われてしまう。戦国時代には更に荒廃が進むが、江戸時代、仙台藩が成立すると、その庇護を受けて修復を行うと共に、多くの堂宇が新たに建立された。


元禄2年(1689年)には、江戸時代を代表する俳人、松尾芭蕉が金色堂を訪れて、「五月雨の 降り残してや 光堂」との句を残している。昭和26年(1951年)には金色堂が、国宝建造物第一号に指定される。昭和37年(1962年)より金色堂は6年かけて解体大修理され、往時の輝きを取り戻した。平成23年(2011年)、中尊寺を始めとする平泉の仏教遺跡は世界文化遺産に登録される。 




↑中尊寺




↑讃衡蔵(さんこうぞう)


国宝、重要文化財を含む、奥州藤原氏ゆかりの文化財3千点が展示されています。




↑金色堂覆堂


鉄筋コンクリート製の覆堂の中に、金色堂が存在しています。金色堂はその命名通り総金箔で、更に螺鈿や象牙を散りばめた鮮やかな装飾で彩られています。藤原三代の遺体も須弥壇に納められています。その荘厳さには言葉を失います。海外の物産をこれだけ取り揃えた藤原氏の財力の程を思い知ると共に、極楽浄土を現出させたその創造性にも感銘を受けます。




↑松尾芭蕉歌碑




↑経蔵




↑弁財天堂




↑本堂

明治42年(1909年)に再建された建物です。現在、中尊寺に存在する建物の多くは江戸時代のもので、創建時の建物は金色堂以外には現存していません。




高館義経堂は、岩手県西磐井郡平泉町にある居館跡である。高館義経堂は、源平合戦の英雄、源義経終焉の地として知られている。


高館は、北上川に面した丘陵上にあって、平泉一帯を見渡す要衝であった。源義経は平家滅亡の立役者であったが、兄、源頼朝と対立を深めた結果、追われる身となった。文治2年(1186年)秋頃~文治3年(1187年)夏頃、義経は奥州藤原氏の元へと逃れた。藤原三代秀衡は、義経を庇護して高館に住まわせたものの、秀衡は既に病身の身で、文治3年10月29日には病没してしまう。秀衡は頼朝からの圧力に対抗するには、義経を奥州軍の大将にする他ないと考えていたが、跡を継いだ泰衡は、朝廷を動かして圧力を強めるばかりの頼朝に動揺を来たしていた。


文治5年(1189年)4月30日、圧力に屈した泰衡は、500騎の兵を遣わして高館の義経を襲った。義経を守るのは武蔵坊弁慶を始めとする僅か10数人の郎党のみ、彼らが防戦する中、義経は妻と娘を殺害した後、自らも自害して果てた。源義経、享年31。義経の首級は美酒に漬けられて鎌倉へと送られ、胴体、妻子、郎党らの遺体は高館近隣にある雲際寺に埋葬されたと云う。義経を討った泰衡であるが、結局、頼朝に攻め滅ぼされ、同年9月3日、味方の裏切りによって無残な最期を遂げた。


天和3年(1683年)、仙台藩主、伊達綱村によって義経堂が建立され、合わせて義経の木像が安置された。元禄2年(1689年)、高館を訪れた松尾芭蕉は、義経を偲んでかの有名な句を詠んだ。「夏草や 兵共が 夢の跡」




↑高館義経堂




↑松尾芭蕉の句碑




↑仁王像




↑源義経の軌跡




↑義経堂




↑源義経像




↑源義経供養塔




↑高館義経堂からの眺め

高館義経堂に上って北上川を眺めると、悠久の歴史を感じると共に義経の悲運に思いを馳せてしまいます。

小諸城

小諸城は、長野県小諸市にある平山城である。戦国時代、小諸城は信濃国東部にあって、上野国を睨む交通の要衝であった。実際、武田信玄はこの城を拠点として、上野国に進出している。また、小諸城は千曲川や浅間山を望む風光明媚な城でもあり、明治時代の文豪、島崎藤村は小諸に滞在したおり、「小諸なる古城のほとり」と歌ってもいる。



平安時代末期、信濃源氏の大将、源義仲の武将であった、小室光兼が宇当坂に館を構えたのが小諸城の始まりとされる。小室氏は南北朝時代に衰退し、代わって信濃小笠原氏の流れを汲む大井氏が台頭し、長享元年(1487年)、大井光忠によって、現在の小諸城の三の丸辺りに鍋蓋城が、二の丸辺りに乙女城が築かれた。天分23年(1554年)、武田信玄の侵攻を受けて、鍋蓋城と乙女城は落城する。武田氏はこの両城を一体化して、小諸城として整備した。天正10年(1582年)、武田氏が滅亡すると、織田氏が短期間、支配した後、徳川氏の支配する所となった。


天正18年(1590年)、徳川氏は関東に移封されると、代わって豊臣氏の大名、仙石秀久が入封する。この仙石氏の時代に小諸城は大改修され、石垣造りの近世城郭となった。元和8年(1622年)、仙石氏は信濃上田に移封され、代わって徳川忠長の領有する所となった。この後、小諸城主は目まぐるしく移り変わるが、徳川氏がこの城を重視する姿勢に変わりはなく、譜代を置き続け、元禄15年(1702年)、牧野康重が入封してからは明治の世まで牧野氏の支配する所となった。明治時代、小諸城は廃城、払い下げとなるも、旧藩士達の手によって本丸に懐古神社が建てられ、三の丸までの城域は懐古園となって、現在に至る。



















































小諸城を実際に歩くと、自然地形を生かした立地であるのが良く伝わって来ます。また、島崎藤村が歌った通りの趣ある古城でした。春の桜と秋の紅葉時は更に城が映えるそうです。

明石城、再訪

明石城は、兵庫県明石にある平山城である。徳川幕府によって築かれた近世城郭で、西国街道と明石海峡、双方に睨みを効かせる要衝として用いられた。


元和4年(1618年)、徳川将軍二代目、秀忠は明石藩主、小笠原忠真に命じて、明石の地に築城を命じ、銀一千貫目を支給した。小笠原忠真と姫路藩主の本田忠政が築城を担って、元和6年(1620年)に完成を見た。本丸には藩主の居館として豪壮な御殿が築かれ、その四隅に三重櫓が設けられた。明石城の外堀までの城域は広大で、姫路城のそれを上回った。


寛永9年(1632年)、小笠原忠真が転封されると、その後は次々に城主が入れ替わり、天和2年(1682年)、松平直明(まつだいら なおあきら)が入封してからは松平家による統治が続いた。明治の世を迎えると明石城は廃城となり、建物は取り壊されていったが、巽櫓(たつみやぐら)と坤やぐら(ひつじさるやぐら)は保存修理され、重要文化財として現存している。











































明石駅から明石公園の北まで歩いて見ましたが、城域は本当に広大でした。現在、明石駅前にある堀は内堀で、往時には海の直前まで外堀が拡がっていました。

 プロフィール 
重家 
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重家
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男性
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史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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