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秘書が見たヒトラー 2

2016.10.30 - 歴史秘話 其の二

その内、ヒトラーは再び、東プロイセンの狼の巣に本営を移した。ヒトラーは1日1回は、エヴァに電話を入れるようにしていた。ヒトラーがエヴァに夢中になった第一の理由は、彼女の人間的な長所との事であった。ある時、ヒトラーと夫婦や結婚に関しての会話がなされると、ユンゲは、「何故、結婚をなさらなかったのですか?」と尋ねてみた。すると、ヒトラーは、「私は良き家庭の父親にはなれないだろうし、充分に妻に尽くす時間も無いのに家庭を持つのは、無責任でしょう。それに私は自分の子供は欲しくない。天才の子孫はいつの世も大変、生きにくいものです。世間は彼らに有名な祖先と同じ器を期待し、平凡である事を許してくれません。彼らのほとんどが、クレチン症患者になるというのにね」。この答えを聞いたユンゲは、1人の人間が自分自身を天才だと思いこんでいる事に、ひどく嫌な気持ちがした。


ユンゲは時々、ヒトラーの会議室から、将軍達が、悄然として出てくるのを見た。彼らは実現不可能な作戦や指示を正そうと、鉄の決心と、非の打ちどころのない資料と論拠をもって、ヒトラーに立ち向わんとした。ところが、彼らが説明しきらない内にヒトラーは話を遮って、自らの理論を述べ始める。将軍達にはそれがおかしいのは分かっているのだが、どうしても逸らされ、まるで催眠術にかけられたかのように、自らの意見に対する自信を失っていく。そして、打ちのめされ、絶望した面持ちで会見の場から出てくるのであった。


1943年7月25日、イタリアのファシスト党首ムッソリーニが失脚した。ヒトラーいわく、「ムッソリーニは思ったよりも弱虫だったな。この私が支援したというのに失脚するとは。しかし、イタリアの同盟というのはどうも信用が置けなかった。無責任な民族と組まなくても、我々だけの方がずっと首尾よく勝てるというものだ。奴らは成果をもたらすどころか、威信の喪失と事実上の敗北を引き起こしてくれたようなものだ」


1943年末、ユンゲの夫、ハンスが休暇で帰ってきたが、最前線で過酷な現状を目にしたのか、完全に人が変わってしまい、まるで別人のようになっていた。そして、ヒトラーとも話を持ったが、最高指導者が現状をまったく認識していない事に愕然としていた。ほどなく、ハンスは再び最前線に戻っていった。1944年を迎えると、ドイツの敗色は濃くなる一方だった。毎日の生活はこれまで以上に不規則になり、作戦会議が際限無く続いて、とんでもない時間に食事を取った。皆、どんなに陽気に振舞い、軽い会話をしても、忍び込んだ不安を隠せなくなってきた。


年が明けて、ヒトラーは本営をベルクホーフ山荘に移した。エヴァは、ここにいる。ヒトラーの様子を心配して、エヴァがユンゲに訊ねてきた。「ユンゲさん、総統のご機嫌はどう?私、モレルには聞きたくないの。信用出来ないし、大嫌い。総統に会ってびっくりしたわ。老けて深刻な感じになっちゃって。彼が何を心配しているのかご存知?私には何も言ってくれないのだけど、戦況が良くないのでしょう?」。そして、お茶会でエヴァは、ヒトラーに背中が曲がっていると注意した。


連合軍の爆撃機は、ベルクホーフの上空まで飛び交って、周辺の都市を爆撃するようになった。ヒトラー達はその度、地下防空壕へと退避せねばならなかった。ヒトラーは復讐を誓い、今にドイツ空軍の新発明を使って、敵に全ての借りを百倍にしてお返しすると息巻いた。実際、V1、V2という新型ロケット兵器を開発して、ロンドンに撃ち込み、数千人を殺傷せしめたが、連合軍によるドイツ爆撃の方が遥かに規模が大きかった。この頃、山荘にフェーゲラインという新顔が現れた。フェーゲラインは、ヒトラーとヒムラーとの連絡将校で、最初は作戦会議に顔を出すだけであったが、党指導者のボルマンと親しくなって頭角を現し、ヒトラーの側近の1人に加えられた。


フェーゲラインは、颯爽とした騎手の様な風貌をした美男子だった。その性格は正直かつ愉快で、歯に衣着せない発言をした。話上手で社交家でもあったので、たちまち夜のお茶会の一員となった。そして、フェーゲラインは、エヴァの妹、グレートルの目にとまり、求愛の対象となった。最初、フェーゲラインは、「ありゃいったい、なんて馬鹿なガチョウだ!」と相手にしなかったが、グレートルが、ヒトラーの寵愛を受けているエヴァの妹であると知るや、たちまち取り入って婚約を交わす仲となった。2人は、1944年6月3日に結婚する。(フェーゲラインは女性には人気があったが、出世に貪欲で、彼をよく知る軍人達からは、骨の髄まで腐りきった男と評されていた。また、フェーゲラインは、1941年、独ソ戦の折、騎兵旅団を率いて、プリピャチ沼沢地にてユダヤ人14,000人余を殺戮していた)


連合軍によるドイツ爆撃は、激化する一方であったが、ヒトラーはただの一度も、被害を受けた都市を見に行こうとしなかった。夜になれば、レコードを流しつつ、暖炉の側で、女性達と気さくにお喋りをした。そうやって、余裕と勝利への確信を見せつけようとしているようだった。ヒトラーは常々、礼儀正しい紳士であろうとし、老けた様子を絶対に見せようとはしなかった。しかし、時折、椅子に座ってぼんやりするようになり、年を取って疲れ切っているように見えた。そして、ヒトラーは、女性達に足を延ばしてても良いか?と訊ねてから、ソファーに足を置くのだった。それをエヴァは、心配そうに、悲しそうに見ていた。


1944年6月6日、アメリカ・イギリス連合軍はフランスノルマンディーへの上陸を果たし、6月22日にはソ連軍も、バグラチオン作戦を発動して、大反抗に転じていた。東西からの大きな包囲網が、ドイツに迫りつつあった。1944年7月、ヒトラーは東プロイセンの狼の巣に、また移動した。ヒトラーはここで指揮を執り、夜のお茶会も続ける。しかし、戦況が悪化するにつれ、それについては多くを語らなくなった。同年7月20日、突如として大本営に、爆発音が鳴り響いた。現場はたちまち、恐怖と混乱の巷となった。それは、ヒトラー暗殺を謀った、シュタウフェンベルク大佐の仕掛けた爆弾であった。爆発から数分後、ユンゲらはヒトラーがいると思われる地下会議室へと駆けた。


ヒトラーは、控え室で従卒に囲まれて立っていた。頭髪は逆立ち、黒いズボンは裂けて細い紐が何本も垂れ下がっているかのようであったが、本人は無事であった。そして、女性達に左手を出して、挨拶した。「さあて、ご婦人方、今度もうまくいきましたよ。やはり私は天命を授かった人間なのですね。そうで無ければ、もうこの世にはいませんよ」。間もなく、シュタウフェンベルク大佐が容疑者として上がり、その協力者として、軍の高官も次々に捕らえられていった。ヒトラーは逆上して裏切り者、卑怯者と罵って、散々息巻いた。そして、首謀者らが苦しみながら死ぬよう、ピアノ線による絞首刑に処していった。


その一方、ヒトラーは、女性達には変わらず優しく、魅力的に振舞った。ユンゲを末っ子の甘えん坊のように扱い、からかうのが好きだった。1日1回は、エヴァの話となり、その時のヒトラーの目は温かい輝きを帯び、声は柔らかかった。事件後、ヒトラーはこれまでにない不健康な生活を送るようになった。新鮮な空気を吸う事はほとんど無くなり、食欲も減退して、左手がかすかに震えるようになった。異常にたくさんの錠剤を飲むようになり、その上、毎日、モレル医師による注射を受けるようになった。


モレルは肥満体で、野心家の医者だったが、注射の腕は良かった。ヒトラーはモレルを信頼しきって、大変な温情を与えており、夜のお茶会にも欠かせない存在だった。だが、侍医の1人、ブラントが、モレルの処方する錠剤に含まれていたストリキニーネの含有量を調べたところ、ヒトラーが、そのまま飲み続けていれば死に至る量であった。そこで、ブラントは覚書を提出して、ヒトラーにモレルの解任を促したところ、逆に怒りを被って、ブラントが侍医の職を失った。


1944年8月末、ユンゲはヒトラーと食卓を囲っていたが、この日のヒトラーは様子が変で、一言も言葉をかけてこず、偶然、目が合うとじっと探るように見てきた。感じが悪いと言ってもよかった。そして、この日、ユンゲは、フェーゲラインを通じて、夫ハンスが、8月13日ノルマンディー戦線にて戦死したと告げられた。ユンゲは外に飛び出し、雨の降る中、野原の道を駆けていった。どうしようもなく悲しかった。遅くなってから部屋に戻ったが、誰とも会いたくなく、誰とも話したく無かった。1人にしておいてもらいたかったが、ヒトラーからの呼び出しを受けて、仕方なく向かった。


ユンゲが部屋に通されると、ヒトラーは無言で近づいてきて両の手を握り、「ああ君、可哀想に。あなたのご主人は立派な人でしたね」と低い悲しげな声で、お悔やみを述べた。そして、「私が付いていますから心配しないで。いつでも助けてあげますよ」と慰めた。しばらくして、ユンゲはまた食卓に参加するようになった。ヒトラーは老けて疲れた様子で、言葉数も少なかった。ご機嫌うかがいをすると、「私は本当に重大な問題をたくさん抱えています。私がたった1人でどんなに色々な決断を迫られているか、皆さんには分からないでしょう。誰も私の責任の肩代わりなんてしてくれない」とこぼした。


それから数日後、ヒトラーは寝込んでしまい、お茶会も中止となった。ヒトラーは投げやりになって誰とも会いたがらず、決済すべきものも滞って、副官達は途方に暮れた。モレル医師が病棟から助手に指示を出して、治療に当たらせると、いくらか気力を取り戻し、ベッドの上から命令を発し、お茶会も開くようになった。ヒトラーは白い寝間着を着て、客を迎え入れた。その袖から見えていた腕は、輝くような白さだった。しばらくは腑抜けたようにベッドに横たわり、疲れた目でぼんやりするばかりであったが、ソ連軍が東プロイセンに侵攻中であるとの報告を受けて、ようやく我に還った。




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