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秘書が見たヒトラー 1

2016.10.30 - 歴史秘話 其の二

1942年11月末、ドイツの総統ヒトラーは、秘書を1人募集した。当時、ヒトラーには3人の女性秘書が付いていたが、その1人が辞めたためであった。これを受けて、ベルリンの総統官邸で働いていた女性事務員、トラウデル・ユンゲ、当時22歳が応募した。ユンゲは1920年にミュンヘンで生まれ、十代の頃からダンサーになるのが夢であったが、家の経済事情もあって、地元の会社で事務員として働き出した。1941年、ダンサーの試験に合格したので、会社を退社してダンサーとして生きようとしたが、戦争状態に入っていたドイツが職業制限を行い出したので、これを諦めざるを得なかった。


そうした折、ベルリン在住の妹インゲが、政府関係者のアルベルト・ボルマンと知り合いであったので、それを通じて、ベルリンの総統官邸で働かないかと誘いをかけてきた。ユンゲはこれを機に家を出て、首都ベルリンを見学し、そこで新たな体験をしたいとの思いが強く湧きあがってきたので、すぐさまベルリンへと発った。そして、総統官邸で事務員として働き出し、次にヒトラーの秘書に応募したのだった。1942年11月末、秘書採用試験を受けるため、ユンゲを含む10人の女性が列車に乗って、東プロイセンにある総統大本営(狼の巣)に入った。女性達は緊張の面持ちで、ヒトラーのいる広間へと通された。ヒトラーは女性達の緊張を解きほぐすかの様に、にこにこしながらやって来ると挨拶を交わし、1人1人に手を差し出しながら、名前や住所を聞いて回った。


この中でユンゲは、ナチス揺籃の地である、ミュンヘン出身であったので、それが好ましく思われたようだった。それから2週間余り後、タイプライターの試験が始まった。まずユンゲが最初で、ヒトラーのいる執務室へと入った。ヒトラーはまず握手の手を差し出すと、次にタイプライターのある机へと導いた。部屋にいるのは2人だけで、ユンゲも緊張は隠せなかったが、ヒトラーはにこにこと優しげに、「あがったりする必要はまったくないんですよ。私だって自分で筆記する時でさえ、あなたが全然やりそうにない間違いを、たくさんやらかしますからね」と気遣った。ユンゲは、「ちっともあがったりしていません」と言い張ったものの、その手はぶるぶると震えていた。


その時、ノックがあって従卒が入って来ると、リッベントロップ外相からの連絡を告げた。ヒトラーはしばし、リッベントロップと電話で応対したので、その間にユンゲは落ち着きを取り戻す事が出来た。電話が終わると試験は再開され、ヒトラーが文章を読み上げて、それをユンゲがタイプに打ち込んでいく。全てを書き終えて提出すると、ヒトラーは素晴らしい出来である事を保障し、別れの挨拶をしてから執務に戻った。ユンゲはほっとして部屋を出たが、自分が受かったとは思っていなかった。しかしながら、ヒトラーはもう他の9人を試す気はなく、既にユンゲの採用を決めていた。


それから間もなく、ヒトラーはユンゲを呼び出し、「君には大変、満足している」と言い、それから、「あなたは、私の所にこのまま留まりたいですか?」と訊ねた。政治的に無知であったユンゲは、特別な職場で、素晴らしい、刺激的な体験を得られると思い、「はい」と答えた。こうしてユンゲは、2人の先輩秘書ヴォルフ嬢、シュレーダー嬢と共に、ヒトラーの秘書となった。それからの日々、ヒトラーと会いも話もせず、一緒に働かず、食事も共にしないという日は、ほんの僅かでしか無かった。しかし、これからの秘書生活では、タイプを打つより、社交相手としての役割の方が多かった。


ユンゲは、東プロイセンの地、狼の巣で働き始めた。冬の東プロイセンは、例えようもなく美しく、雪をかぶった白樺の森、澄み切った空、湖を囲む平原の広がりに感激させられた。だが、夏のプロイセンは、空気は湿っぽく淀んで、息苦しい上、無数の蚊が飛び交って人々を閉口させた。ヒトラーは散歩を日課としていたが、夏の間は、専用の涼しい退避壕に引き篭もっていた。ただ、そんな時でも愛犬ブロンディのためだけに、退避壕近くの一角はひと回りするようにしていた。ヒトラーは犬と遊ぶことが一番の息抜きだと言っており、ブロンディが数センチ高く飛んだりすると、大喜びした。ヒトラーは菜食主義者で、肉抜きの質素な料理をいつも食した。コックが味付けを良くしようと僅かばかり肉の脂を加えたりすると、大抵、ヒトラーはそれを見抜いて、胃の調子が悪くなったと怒るのだった。


1943年2月2日、スターリングラードに包囲されていたドイツ軍30万人余が、飢えと寒さに苦しんだ挙句、全滅した。ドイツの先行きに暗い影が差し始める。1943年3月末、ヒトラーはドイツ南東部にあるベルクホーフ山荘で休息し、そこで国賓を迎えるため、列車の旅路についた。それは豪華な専用列車で、壁は磨かれた高級木材で、床にはビロードの絨毯が敷き詰められ、豊かな食材を提供する食堂車両や会議も出来る応接車両、それに風呂付きのヒトラー用の個室が2つ備わっていた。ヒトラーはユンゲを含む5人を食事に招いて、会話をもった。ヒトラーは女性に対してはとても感じの良いホストで、好きな物を食べるように勧め、何か希望はないかと訊ね、以前この列車でした旅の話や、犬の話をユーモアを加えながら話し、自分のスタッフについて冗談を飛ばしたりした。


やがて、列車はベルクホーフ山荘に到着した。森や野原が広がり、その奥に山々がそびえる美しい場所だった。そして、この山荘には、ヒトラーの愛人エヴァ・ブラウンが住まっている。エヴァはとても身なりがよく、いつも品良く装っていた。それでいて気取りがなく、自然体であった。エヴァは、ただ1人、ヒトラーを好きな時に撮影する事を許されており、度々、その姿をカメラや八ミリ映写機におさめようとした。ヒトラーは控えめに、ありのままに写される事を望んだ。エヴァの写真の腕は確かで、度々、上手い写真が出来上がった。


ヒトラーはこの山荘で、2つのまったく違う生活を送った。昼間は執務室に篭もって、軍、政治の最高指導者として激しい会議を持ち、夜になると、エヴァやユンゲを含む少数の取り巻きと穏やかなお茶会を持った。参加者は、コーヒー、紅茶、酒など好きな物が飲めたが、ヒトラーは専らリンゴ皮茶と、焼きたてのリンゴケーキを好んでいた。ヒトラーは少人数の食事時には、もっぱら、政治や軍事とはまったく関係の無い、上滑りな軽い話題を好んだ。同じくヒトラーの秘書であった、クリスタ・シュレーダーは、「お茶の時間に、世の中の事、前線での出来事に言及する事は許されなかった。戦争に関連する事は、全てタブーだった」と述べている。お茶会では、楽しい月並みな会話がもたれ、その中で揶揄を込めたやりとりが交わされた。


時にヒトラーは、自分の青春時代を面白おかしく話したり、人の物真似をしたりして、女性達を笑わせた。ヒトラーは、この夜毎のお茶会を子供のように楽しみにしていた。ヒトラーの愛犬、ブロンディも参加を許されており、人々の前で度々、芸を披露した。ブロンディは、ヒトラー自慢の大変賢い犬で、度々、茶会の話題となった。様々な客が訪れて、散歩やお茶会の供となった。中でも、ヒトラーは特にアルベルト・シュペーアをひいきにしていており、「彼は芸術家で、私と同類の人間だ。彼とはまたとないほど暖かい人間関係にあるんだ」と言うのだった。実際、シュペーアは好感の持てる楽しい男で、優れた才能も兼ね備えていた。


だが、ある時、ウィーンからヘンリエッテ・フォン・シーラッハ夫人が訪ねてきた時、 タブーとされている話題を、ヒトラーに持ちかけた。 「総統閣下、私、この前アムステルダルでユダヤ人の移送列車を見たんです。ぞっとしたわ。あの気の毒な人達がどんな様子だったか、あの人達はきっと物凄くひどい扱いを受けているのよ。御存知なんですか?あんな事お許しになるんですか?」 。ヒトラーは怒鳴り散らして、これに反論する。


その主張は、「毎日、大切な青年達が何万人も戦死している。最良の者達が失われ、ヨーロッパの釣り合いが取れなくなってきている。何故なら、劣等な連中が生きているからだ。それで百年、千年経てば、どうなると思う?私は自らの民族に対する義務を負っている」といったものだった。最後に、「あなたは憎悪する事を覚えねばならない。私もそうせざるを得なかったのだ」と言った。シーラッハ夫人は、少女時代からヒトラーと肉親のような付き合いをしていたが、「私はもうあなたのお仲間ではありません」と言って退出した。お茶会に気まずい空気が広がる。翌日、シーラッハ夫人は早々に帰された。客としての権利を超え、ヒトラーを楽しませるという義務を怠ったためであった。


1943年4月20日、ヒトラーは54歳の誕生日を迎え、それを祝うため、ヒムラー、ヨーゼフ・ディートリヒ、ゲッベルス、リッベントロップら、ナチス首脳が集った。昼食会が開かれ、ユンゲはヒムラーの隣に座った。彼は、親衛隊全国指導者にして、全ドイツ警察長官でもあり、絶大な権勢を誇る。その外観は官僚的かつ、偽善的に見えて感じが悪かった。ところが実際に話してみると、思いの他、礼儀正しくて、びっくりさせられた。口元には絶えず微笑を湛え、静かな語り口で魅力的な会話をする。


そして、自らが運営する強制収容所が、いかに素晴らしく組織されているかを、説明しだした。ヒムラーいわく、「収容者達に、私は個人個人に合わせて仕事を振り分けました。このやり方によって、完璧な保安はもとより、より良い成果、平穏、規律なども収容所にもたらされたのです」。ヒトラーはその解説に頷き、ユンゲを始めとする人々もその言葉を信じた。(実際には、ヒトラーがユダヤ人虐殺の指示を出し、それをヒムラーが忠実かつ、大々的に実行していた)


この頃、ユンゲは、ヒトラーの従卒を務めている、ハンス・ユンゲと親しくなり、婚約を交わす仲となった。ハンスは献身的な働きをもって、ヒトラーに大いに気に入られていたが、彼自身は、ヒトラーの身辺から離れたいと考えていた。ヒトラーの側にいると、その思考の世界にとことん影響されて、自分の本質を見失いそうになるからであった。ヒトラーの存在感は大きく、誰もがその強烈な個性の影響を受けずにはいられない。もう一度、自分自身を見つめ直すには、そこを離れる他無かった。


なので婚約に事よせて、前線勤務を申し出たのだった。そうとは知らないヒトラーはここでお節介を焼いて、ハンスが前線に赴く前に結婚するよう、2人に強く勧めた。2人は余計なお世話と苦笑したが、悪い気もしなかった。こうしてヒトラーに背中を押される形で、1943年6月19日、2人は結婚式を挙げ、正式に夫婦となった。だが、結婚の幸せはボーデン湖畔で過ごした、4週間の休暇だけであった。そして、ハンスは前線へと赴き、ユンゲは大本営に戻っていった。





↑エヴァ・ブラウンとアドルフ・ヒトラー


1942年6月19日、ベルクホーフ山荘のテラスで撮られた写真。ヒトラーの右にいるのは、シェパード犬のブロンディ。

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