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安土城

安土城は、滋賀県近江八幡市にある山城で、戦国の風雲児、織田信長が築いた城として余りにも有名です。




天正4年(1576年)1月、織田信長は、家臣の丹羽長秀を普請奉行に任じて、近江国の安土山(標高106メートル)に城を築く事を命じた。安土は、その時の織田領国の中心近くにあって、指令を発しやすい位置にあった。更にもっと視点を高くすれば、この近江国は日本本土の中心に近く、北国街道、中山道、東海道といった重要街道が走る交通の要衝であり、北陸、近畿、東海の三地方を繋ぐ結節点ともなっていた。また、ここにある琵琶湖は、日本海や瀬戸内海の産物が往来する水運の交差点でもある。それと、当時の日本有数の大都市にして政治都市でもある、京都が隣接する点も見逃せない。例えば、安土から船や馬を用いたなら、その日の内に京に達する事が出来た。


信長は、この様な地理的重要性を見抜いて、安土築城を決したに違いない。同年4月からは石垣が築かれ始め、その中でも津田坊が運んできた蛇石は異彩を放つ巨石で、1万人余の人夫が3日がかりで、ようやく天主台まで引き上げる事が出来た。この時、信長自らが音頭を取って石を引き上げた事が、「信長公記」に書かれている。しかし、現在、この蛇石は幾度に渡る発掘調査でも発見されていない。安土城は、城域全てに石垣が施された、日本初の総石垣の城となる。また、城郭はおろか、城下町までをも取り囲んだ惣構(そうがまえ)も築かれていたと見られている。



天正7年(1579年)5月11日、完成した天守閣に、信長は吉日を選んで移り住んだ。これをもって、安土城は完成となった。天守閣の構造は地上6階地下1階、外観は5重の望楼型天守で、上から金、朱赤、青、白、黒に塗り分けられていた。この前代未聞の天守閣を手掛けたのは、尾張で熱田神宮の宮大工棟梁を務めていた岡部又右衛門以言(これとき)で、息子の以俊(これとし)と共に指揮を取って築き上げた。信長はその出来に満足して、以言に日本総天主棟梁の称号と小袖を与えた。瓦は金箔貼りで、内部は黒漆塗り、各部屋は狩野永徳の手による華麗な障壁画に彩られていた。


安土城天守閣は、日本の最高権力者の居館にして、当時の芸術文化の粋を集めた一大美術館でもあった。安土城の大手道は、幅6メートル長さ180メートルの直線構造となっており、この石段を登って行く者は、常に天守閣を見上げる形となる。この様な構造は、防御面では問題があるが、信長の力を視覚で感じる事となり、政治面、統治面においては効果的であった。総石垣に華麗な天守閣、それは余程の権力と財力がある者にしか築く事は出来ない。当時、この様な城を築ける者は信長以外にはおらず、その権力と独創性は他を圧していた。しかしながら、安土城の命脈は短かった。



天正10年(1582年)6月2日、織田信長は明智光秀の謀反を受けて、本能寺にて横死する。変後、光秀は部将の明智秀満を派遣して安土城を接収させるも、自らは6月13日に起こった山崎の戦いで敗死した。6月14日、光秀の敗北を知った秀満は安土城を退去し、6月15日、坂本城にて自害した。同15日、安土城は炎上し、華麗なる天守は夢幻の如く消え去った。完成から僅か3年後の出来事であった。この原因についてははっきりせず、明智秀満が放火した、信長の次男、信雄が放火した、または付近の野盗が放火したとの説が取り沙汰されている。


ただ、焼け落ちたのは天守と本丸周辺だけのようで、二の丸などは健在であったようだ。清洲会議の後、信長の孫、秀信が入城し、二の丸を中心に生活したようだが、天正12年(1584年)に丹羽長秀が再建した坂本城に移り住んだ。天正13年(1585年)8月、羽柴秀次が近江国5郡43万石の大名として入封すると、八幡山城を築いてそこを居城とした。その際、安土城の資材が転用され、城下町も移築されて、廃城となった。もし、信長が長生きしていたなら、天守は尚も輝き続け、城下は日本有数の都市に発達していたかもしれない。だが、それもまた夢幻となった。




安土城
安土城 posted by (C)重家



安土城
安土城 posted by (C)重家

↑大手道

かつては、天守閣の偉容を見上げながら登っていたはずです。


安土城
安土城 posted by (C)重家

↑伝、羽柴秀吉邸宅跡



安土城
安土城 posted by (C)重家

↑伝、前田利家邸宅跡



安土城
安土城 posted by (C)重家

↑黒金門跡



安土城
安土城 posted by (C)重家



安土城
安土城 posted by (C)重家

↑織田信長廟

彼の夢と魂はここに眠っているのでしょうか。


安土城
安土城 posted by (C)重家

↑天守台

かつては、テラスの様な張り出しがあって、そこから信長が観衆に声をかけたりしたそうです。


安土城
安土城 posted by (C)重家

↑天守閣の礎石


安土城
安土城 posted by (C)重家

↑摠見寺(そうけんじ)跡から、西を望む

かつては、安土山の麓まで琵琶湖が広がっていました。湖水に浮かびつつ、夕日を浴びた安土城の姿は、比類なき美しさであったそうです。



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