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カルタゴの滅亡 終

2011.03.21 - 歴史秘話 其の一
紀元前148年、長期の滞陣でローマ軍の士気は下がり、規律も乱れ始めていた。ローマ軍の司令官は、兵士達に再びやる気を引き起こさせようとして、カルタゴ側の小都市を幾つか攻撃して陥落せしめる。そこでのローマ軍の略奪は、容赦の無いものであった。だが、こういった戦果も、膠着した戦局を打開するには至らなかった。本国ローマでは事態を憂慮する声が挙がり、増援部隊の派遣と、スキピオ・アエミリアヌスと云う新任の司令官を送り込む事を決定する。このアエミリアヌスは、かのローマの英雄スキピオ・アフリカヌスの養孫にあたる人物で、その再来を思わせる軍才を示していた。そして、アエミリアヌスは現地に着任するや否な、弛緩した軍律を引き締め直し、激励の演説をして兵士達の士気を急速に取り戻していった。


カルタゴ側では、ローマ軍が強化された事を知って危機感を覚え、内陸で勇戦していたハズドルバルを召集して、市の総司令官に任じた。アエミリアヌスも動き出し、まずカルタゴ市と内陸との補給路を断ち切らんとして、三重城壁の正面に封鎖砦を築き始めた。カルタゴ側も必死に妨害したが、ローマ軍は卓越した土木工事技術力を発揮して、僅か30日で長大な城砦線を築き上げたのだった。その城砦線には各所に見張り塔が建てられ、その中の一つは三重城壁よりも高い四階建ての木塔で、市街を一望する事も出来た。これにカルタゴ軍民が動揺したため、ハズドルバルは気を引き締め直そうとして、捕虜としていたローマ兵に拷問を加えた上、城壁から次々に投げ落としていった。この様な蛮行はカルタゴ市民も望んでいなかったが、ハズドルバルは反対者も殺害して強行した。目の前で同胞達が無惨に殺されていくのを見てローマ軍は激怒し、来たるべき日の復仇を誓った。


アエミリアヌスは城砦線を築いて内陸からの補給路は遮断したので、今度は海からの補給路を断たんとして、主力を率いてカルタゴの東南、テニアの半島に向かった。第二次ポエニ戦争の敗北を受けて、カルタゴには海軍は存在しなかったが、商船隊は存在していた。これらの勇敢な商船隊は、カルタゴ港を厳重に封鎖するローマ艦隊の網の目を掻い潜っては、市内に補給物資を届けていた。アエミリアヌスはこれを断ち切らんとして、今度はカルタゴ港の正面に長大な封鎖堤を築き始めたのである。カルタゴ人は最初はいぶかしげに見ていたが、工事が進むにつれ、その意図を悟って驚愕した。だが、カルタゴ人はあきらめず、ならば別に船の通り道を作らんとして、陸地を開削し始めたのである。そして、開削工事と並行して、艦隊の建造も開始した。


ローマ軍は大量の石材を投じて幅20メートル、全長720メートルもの封鎖堤を築き上げた。だが、その努力はすぐに徒労に終わる。カルタゴ側も市民総出で地を掘り岩を割って、新たに水路を開削したからである。どちらも空前の土木作業であった。それと、カルタゴは限られた資材を投じて、50隻の艦隊も作り上げていた。この艦隊は商船の船長達が中心となっており、しばらく港内で訓練を積んだ後、新たな水路から外海に打って出た。海上にはローマ艦隊数百隻が待ち構えていたが、カルタゴ艦隊50隻はそれに果敢に戦いを挑んだ。


劣勢ながらカルタゴ艦隊は勇戦し、容易に勝敗は決しなかった。だが、両軍の戦力の差は余りにも大きすぎた。夕刻を迎えて、カルタゴ艦隊は撤退に取り掛かったが、その後をローマ艦隊が追った。最早、これ以上は戦えないのでカルタゴ艦隊は港に避難しようとしたが、新たな水路は狭く、少数ずつしか入れなかった。そこをローマ艦隊に狙われ、カルタゴ艦隊の大部分が失われてしまう。最終的に敗れはしたものの、このカルタゴ艦隊50隻の挑戦は、後々まで人々の語り草となった。


カルタゴの港の近くには、チョマと呼ばれる城壁がある。ここは港を見下ろす位置にあって、市の防衛の重要拠点であった。アエミリアヌスもここが要点であると見なして、ローマ軍が築いた封鎖堤を通って、チョマの前面に大兵力と、大型の破城槌、攻城塔を投入した。カルタゴ側も、ここが破られれば致命傷となるのが分かっていたので、軍民、死力を尽くして防戦に努めた。日中、激しい攻防戦が展開されたが、とうとうローマ軍は城壁の一部を破壊せしめる事に成功した。


だが、夜間になると、決死のカルタゴ人の一団が海を泳いで忍び寄り、攻城兵器に火をかけて回った。ローマ軍は驚きながらも反撃を加え、その大半を死に至らしめたが、カルタゴ人の決死隊は任務を成功させていた。それならばと、アエミリアヌスは、今度は小型の攻城兵器を数多く持ち込んだ。さらに火を用いた飛び道具を発案し、それを城壁に撃ち込んではカルタゴ兵を追い散らし、とうとうチョマの城壁を乗っ取る事に成功した。
ローマ軍は占領したチョマの城壁に投石器を設置し、カルタゴ市に補給物資を運び入れんとする船に攻撃を加えた。これでカルタゴは、海からの補給路も断たれてしまう。だが、内陸にはまだネフェリスと云う拠点が保持されており、そこからローマ軍の城砦線を避けつつ、チュニス湖を通じて僅かながらも市内に補給物資が届けられていた。この細々とした補給線こそ、カルタゴ人最後の希望だった。アエミリアヌスの次の目標は当然、ネフェリスとなる。


紀元前147年夏、ローマ軍主力は内陸に進撃し、ネフェリスを激しく攻め立てた。ローマ軍は駐留カルタゴ軍を蹴散らし、軍民合わせて7万人余を殺害せしめたと云う。ネフェリスの陥落でカルタゴは全ての補給路を失い、その滅亡は避けられなくなった。以降、カルタゴ市は深刻な飢餓に陥り、多くの人々が死んでいった。アエミリアヌスは、カルタゴ軍民が十分に弱った事を見越して、翌年春に総攻撃を実施する事を決した。破滅が目前に迫ってきた事から、カルタゴ側はアエミリアヌスに降伏交渉を持ちかけた。そして、ハズドルバルが会談に赴いたが、アエミリアヌスは都市の破壊を譲らず、会談は物別れに終わる。この時、アエミリアヌスはハズドルバルに対し、その一命と家族、親しい友人の命は助けるから投降するよう呼び掛けた。だが、ハズドルバルはこの申し出を峻拒し、憤激しながら市街に戻っていった。ハズドルバルは傲岸不遜な人物であるが、非常時に国を売るような真似はしなかった。


紀元前146年、アエミリアヌスは最終攻撃に当たって儀式を執り行い、カルタゴ人には呪いを、ローマ人には神の加護があるようにと祈りを捧げた。カルタゴ市にはビュルサと呼ばれる丘があり、この上に壮麗な神殿が建てられていた。これこそカルタゴの象徴であり、ローマ軍の最終目標でもあった。ローマ軍はチョマに集結すると、そこから市街目指して一斉に突撃を開始した。ローマ軍の作戦目標はまずは港の確保、続いて中央広場、最後にビュルサの神殿の順であった。ローマ軍が港に雪崩れ込んで来ると、カルタゴ側は守り難い地勢にある港を放棄し、倉庫群に火を放ちながら退却していった。ローマ軍の進撃が余りにも迅速であったため、カルタゴ側の応戦は遅れた。しかしながら、ローマ軍が市街中心部へ進撃するに伴って、市民は必死の抵抗を見せるようになる。


ローマ軍は市民の激しい抵抗を排除しつつ、中央広場まで占領した。ここから坂を駆け上がれば、神殿はすぐそこであった。だが、翌朝、ローマ軍の兵士達は占領地での略奪に狂奔し、この日は戦いにならなかった。この間にカルタゴ側は各所から軍民を集結させ、防衛態勢を整える。攻囲戦が始まって以来、戦闘と飢餓で市民の半数の命が失われていたが、それでも神殿のあるビュルサ地区には10万人余の市民が立て篭もっていた。秩序を回復したローマ軍はビュルサの神殿目指して、再び進軍を開始する。だが、神殿に至る坂道の両脇には、高層の石造建築物が数多く建ち並んでいて、それが砦の役割を果たしており、ビュルサの丘自体も天然の要害となっていた。そこにカルタゴの軍民が立て篭もって、ローマ軍に投石、投槍の雨を浴びせかける。この日を境に、市街戦は本格的かつ、凄惨なものになっていった。


ローマ軍は建物の屋根から屋根に板を架けて乗り移り、市民を斬り伏せ、投げ落としながら、一軒一軒制圧していった。多くの人間が投げ落とされて、路上で戦っている者に当たるほどであった。路上、建物内、屋根、立て架けた板など、あらゆる場所で戦闘が繰り広げられた。路上を埋め尽くした死体は、行軍に支障をきたすほどであった。そこで、ローマ軍は死体除去の分隊を編成して、瀕死の者であってもかまわず溝に投げ捨てていった。痩せ衰えているとはいえ、カルタゴ市民の抵抗は激烈なものがあった。彼らの必死の形相と雄叫びを受けて、ともすればローマ軍の方が逃げ腰となった。


ローマ軍は幾度となく攻撃を立て直し、アエミリアヌスも自ら陣頭指揮を執って兵士達を推し進めていった。カルタゴ市民は膨大な死者を出して追い込まれていったが、ローマ軍もおびただしい死傷者を出して消耗しており、そのため、市街戦には不向きな騎馬隊まで戦場に投入するに到った。熾烈な市街戦が続く中、ローマ軍の分別は失われてゆき、老若男女問わずに斬り捨てていった。それでも市民の抵抗は収まらなかったので、ついにアエミリアヌスは市街全域に火を放つよう命じた。火に巻かれて多くの市民が焼死していき、建物から逃げ出して来る者はローマ軍が斬り捨てていった。こういった合間にも、各所で略奪が繰り広げられた。


ローマ軍が市街に突入を開始してから七日後、生き残った5万人の市民は抵抗を諦め、降伏を申し出た。しかし、カルタゴの主将ハズドルバルと降伏を良しとしない市民は、神殿に立て篭もって尚も抵抗する。壮麗な神殿を舞台に、最後の戦いが繰り広げられた。やがて神殿は炎上し、悲観した多くのカルタゴ人がそこに身を投じていった。ハズドルバルはこの最終局面になって、家族を伴って投降した。この日、カルタゴは一面燃え盛り、夜空と海を紅に染め上げた。そして、700年余の歴史に幕を閉じた。


戦後、残っていた建物は悉く破壊され、土地は平らにならされた。そして、永遠の不毛を願って、土地一面に塩が撒かれた。捕虜となった市民5万人は奴隷として、何処かへ売り飛ばされていった。飢餓と戦乱をようやく生き延びた彼らに待っていたのは、過酷な奴隷生活であった。一方、ハズドルバルはローマ兵捕虜を惨殺した前歴があったにも関わらず、ローマで余生を送る事を許された。全てを終えた後、アエミリアヌスは廃墟と化した市街を何時までも見つめ、立ち尽くしていた。そして、「いずれ、我がローマも同じ運命を辿るであろう」と慨嘆し、涙したと云う。ローマ人によって呪われた地とされたカルタゴであるが、100年後、皮肉にも同じローマ人の手によって復興される事になる。以降、カルタゴはアフリカ有数の大都市へと発展してゆき、ローマにとって欠かせぬ都市となる。それゆえ、今に残るカルタゴの遺跡は、ほとんどがローマ時代のものである。


1943年、第二次大戦時、アメリカ軍の猛将ジョージ・パットンはドイツ軍と戦うため、北アフリカに派遣された。作戦終了後、パットンは部下を連れてカルタゴの遺跡に立ち、感慨深げに俺はかつて、カルタゴ人としてここで戦ったのだと語った。そして、初めて見る遺跡や古戦場を、まるで見てきた事があるように解説して回ったと云う。パットンは自らをハンニバルの生まれ変わりだと語っていたそうだが、実際にはハズドルバルの生まれ変わりであったのかもしれない。現在、ローマ時代の遺跡の下には、カルタゴ滅亡時の焼土層が見て取れる。カルタゴの遺跡はその下にあって、深い歴史と悲しみを湛えて眠りについている。


carthage_img2.jpg












↑円形の港がカルタゴの軍港で、その先の長方形が商業港


 
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