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賤ヶ岳の戦い

2011.05.05 - 戦国史 其の三

天正10年(1582年)6月2日、本能寺にて織田信長死す。日本最大の権力者が倒れて、国内全てが騒然となった。織田一族は今だ広大な領土を有していたが、大黒柱を失って、指導力も失った。そこで、織田家中の二大実力者である、羽柴秀吉と柴田勝家がにわかに浮上して、家中を主導する運びとなった。しかしながら、秀吉は、明智光秀を討って主君の仇討ちを果たした者として家中から一目置かれており、その権威を持って独断専行するようになる。


同年6月27日、織田家の跡継ぎを決める清洲会議が行われ、織田信忠の嫡男で、まだ三歳の三法師(秀信)が織田家を継ぐ事となった。秀吉はこの会議の主導権を握って、大きな勢力圏と発言力を獲得した。だが、秀吉の野心はこれだけに止まらず、織田家の勢力範囲全てを手中に収めるべく、露骨に動き出す。信長の死からまだ1ヶ月にも満たない清洲会議の時点で、秀吉は既に、柴田勝家を倒すべき相手と定めていた。だが、勝家の方は、秀吉の勝手な振る舞いに憤りながらも、家中一体となって幼君を盛り立てて行きたいと考えていたようだ。


同年10月6日、勝家は秀吉の側近、堀秀政宛てに長文の書状を送っている。要約すると、「この勝家が筋目正しく行動しているのに対し、秀吉が勝手な振る舞いをしているのは宜しい行為では無い。それに山崎(京都府)に城を築いているのは、誰を敵と見なしているのか。今だ四方は敵に囲まれている。内輪の争いはやめ、一致協力して外敵に当たろうではないか。この勝家と秀吉の間は元々、昵懇だったはずである。我らが相争って果てる事があれば、国のためにならず、私の本意でも無い。そうなれば、残念至極である」。 だが、この手紙が書かれてから10日後の10月15日、秀吉は大徳寺にて信長の葬儀を大々的に執り行い、その後継者たらんとする野心を露わにした。ここに至って勝家も対決を決意する。


勝家側に組した主な者は、織田信孝、滝川一益、佐久間盛政、前田利家、佐々成政、金森長近らで、外部勢力の四国の長宗我部元親、紀伊の雑賀、根来衆などを味方に組み入れ、毛利氏、上杉氏、徳川氏などにも働きかけていたと見られる。勝家の軍事指揮下にあった地域の石高は130万石余で、織田信孝、滝川一益などの友軍が50万石余りで、総計すると180万石余である。10万石に付き2500人が動員できたと計算すると、勝家方の動員可能数は4万5千人となる。 秀吉側に組した主な者は、織田信雄、丹羽長秀、羽柴秀長、堀秀政、蒲生氏郷、細川忠興、森長可、池田恒興、筒井順慶、宇喜田秀家、中川清秀、高山重友、稲葉一徹らで、外部勢力の上杉氏を味方に組み入れ、毛利氏、徳川氏にも働きかけていたと見られる。


秀吉の軍事指揮下にあった地域の石高は、160万石余で、織田信雄、筒井順慶、池田恒興などの友軍が300万石余で、総計すると460万石余である。10万石に付き、2,500人が動員できたと計算すると、秀吉方の動員可能数は11万5千人となる。 両者の戦力を総合すると、畿内の主要部を制圧し、織田家中の大部分を味方に組み入れた秀吉の方が大きな優勢を誇っていた。しかしながら、大大名である毛利氏、徳川氏の動向次第で、情勢が大きく変わる可能性もあった。勝家も対決を決意してからは幅広く味方を募ってきたが、秀吉に出遅れた感は否めなかった。これを挽回するには、外部勢力への働きを強めて、秀吉包囲網を築きあげる必要がある。それに季節は冬を迎えて、勝家の本拠地、越前は積雪によって閉ざされようとしていた。勝家には時間が必要であった。


11月2日、勝家は春までの時間稼ぎをせんとして、前田利家、金森長近、不破直光らを山崎の秀吉のもとへ派遣して、和平交渉を行った。秀吉はすぐにその意図を察したが、一応和平を了承する。そして、この時、秀吉は3人の使者に内応を誘ったようである。この見せ掛けの和平は、すぐに終わりを告げた。先に動いたのは秀吉である。12月5日、勝家が積雪で動けないのを見越して、秀吉は近江北部の勝家方の拠点、長浜城と、織田信孝の拠る岐阜城を同時攻撃した。そして、12月15日には、長浜城主の柴田勝豊を降伏せしめた。この長浜城はかつての秀吉の本拠地であり、清洲会議後に勝家の領域に組み入れられたものだった。長浜城は、北陸から畿内に進出するにあたっての重要拠点であり、ここを失った勝家の打撃は計り知れなかった。


12月20日頃には、織田信孝も秀吉に降伏する。勝家方の一応の旗頭である信孝の屈服は、真にあっけないものだった。秀吉は、信孝の元にいた三法師を受け取り、人質も取ると一旦、帰陣した。だが、勝家方の友軍の1人、伊勢長島の滝川一益の方は、一味違っていた。翌天正11年(1583年)正月、一益は機先を制して、秀吉方の亀山城、峯城、国府城、関城を次々に奪取すると、これらの城に将兵を込めて、秀吉に攻撃される前に防衛態勢を整えたのである。


同年2月10日、秀吉は3万~4万人余の大軍を率いて伊勢に侵攻し、滝川方の諸城に猛攻を加えたが、一益は粘り強い抵抗を見せて、容易には屈しなかった。その頃、越前の勝家は、秀吉の各個撃破戦略によって次々に味方が攻撃されるのを見て、焦りを募らせていた。2月末、まだ積雪は残っていたが、勝家軍は雪を掻き分けつつ、無理を押して越前を出立した。勝家は、本陣を越前と近江の国境にある玄蕃尾城に置き、その最有力部将である佐久間盛政は、賤ヶ岳を望む行市山に陣取った。


勝家出陣の報を受けると、秀吉は伊勢方面は織田信雄などに委ね、自らは主力を率いて近江北部に転進した。この時、勝家軍は2万人余、秀吉軍は4万人余であった。両軍は余呉湖北方で向き合ったが、双方に隙は無く、睨み合いの日々が続く。4月13日、秀吉方の部将、山路正国(将監)が勝家軍に投降する。この正国は長浜城主、柴田勝豊の部将であったが、勝豊が降伏してしまったため、不本意ながら秀吉に従っていたのだった。正国は人質の妻子も捨てて勝家方に復帰すると、秀吉軍についての貴重な情報をもたらした。 4月16日、膠着した戦況を見越して、屈服していた信孝が再び挙兵する。これを聞くと秀吉は、翌4月17日、馬廻りの1万人余を率いて岐阜城再攻撃に向かった。


この秀吉転進を知った勝家方の将、佐久間盛政は、手薄になっているであろう秀吉方の陣地攻撃を目論んだ。投降してきた山路正国も、大岩山と岩崎山(共に余呉湖の東隣の山地)の陣地は脆弱であると報告しており、盛政は絶好の機会と見なして、勝家に夜襲を提案した。勝家は攻撃成功後、速やかに兵を元の陣地に戻すという条件付きで、この作戦を了承したとされている。 4月20日午前1時頃、盛政率いる奇襲隊8千人とその弟、柴田勝政率いる援護隊3千人、側面防御に当たる前田利家隊2千人は密かに陣地を出立した。そして、これに合わせて勝家の本隊7千人も玄蕃尾城を出て麓の狐塚まで下り、秀吉方の堀秀政隊3千人余と向き合った。この勝家隊の進出は、秀吉軍の注意を自らに引き付けて、盛政隊の攻撃を助ける意味合いがあった。


奇襲隊の規模が本隊よりも大きい事から、この作戦に賭ける勝家と盛政の意気込みの程が分かる。盛政隊8千は余呉湖を大きく回りこみ、大岩山に接近していった。そして、夜明けと同時に、大岩山を守る中川清秀隊1千人に襲い掛かった。清秀隊は奇襲を受けた上、劣勢であったので、たちまち大苦戦に陥った。だが、清秀は、あくまで砦を守らんとして奮戦する。 一方、敵中深く進撃している盛政隊も必死であり、猛攻を加えて、清秀隊を徐々に討ち減らしていった。20日午前10時頃、清秀は最後に望んで、50人余の槍隊を並べて敵陣に突入し、壮烈な討死を遂げた。この大岩山陥落を受けて、隣接する岩崎山の高山右近は戦わずして砦を捨て、賤ヶ岳を守っていた桑山重晴も砦を捨てて、麓に撤退を図った。


事態は盛政の思う壺に運ぶかに見えたが、折しも麓にいた秀吉方の部将、丹羽長秀はこの情勢を危うんで、桑山隊と合流した上で、賤ヶ岳の砦を取り戻したのだった。大岩山、岩崎山に加えて、この賤ヶ岳まで陥落していれば、秀吉軍は更に危機的な状況に陥っていただろう。信長から最も篤い信頼を受け、その死後には秀吉の片腕として働いている丹羽長秀は、流石に練達の武将であった。 勝家は大岩山奪取の報を受け、盛政にしきりに撤退を促したとされている。しかし、盛政は更なる戦果拡大を狙ったのと、夜通しの行軍に加えて、朝からの激戦の疲労もあったので滞陣を続けた。勝家の作戦は、秀吉軍に一撃を加えた上で高所に陣取り、外部勢力に働きかけつつ、秀吉からの挑戦を待つという持久戦法であったらしい。


だが、盛政は現地の状況を見て作戦を変更し、秀吉本隊が到着するまでに残置部隊を撃滅し、周辺要地を占めた上で、一気に決着を図ろうと試みたようだ。これは間違いではないが、周辺征圧に手間取ってそこに秀吉本隊が取って返したなら、敵中に孤立する恐れを秘めていた。 数度の催促にも関わらず盛政が動かないのを見て、勝家は、「我に腹を切らせるつもりか」と、深い溜め息をついたと云われている。勝家は当初の作戦を貫徹しようとしたが、現地の盛政は臨機応変に作戦を変更しようとしたのか、この辺りの真相は今もって不明である。しかし、どちらせにせよ勝家軍の要は佐久間盛政であり、この将の采配に勝家軍の運命が委ねられていた。


この20日正午、美濃の大垣城にあった秀吉は、大岩山陥落の報を受けると、直ちに近江に取って返す事を決意する。20日午後14時、秀吉と近臣は先行して駆け出し、その後を1万人余が続いた。そして、20日午後21時、秀吉は53キロの道のりを5時間で駆け抜けて、近江北部の木之本に到着する。これは当時としては、驚異的な速度であった。大岩山の盛政は、麓に続々と到着する松明を遠望して秀吉本隊の到着を悟り、その余りにも早い転進に愕然となった。しかし、今、盛政は敵中深くにあって、逡巡する間など無かった。ここでぐずぐずしていれば、夜明けと共に秀吉軍に包囲撃滅される事になる。 盛政は即時撤退を決意し、弟、勝政隊3千に殿軍を委ねると、21日午前1時頃から隊を分散させつつ、麓の余呉湖に下っていった。


21日午前2時頃、秀吉は盛政の撤退を知って、到着しつつある本隊を逐次、追撃に振り向けたが、盛政隊の撤退は素早く、適宜、逆撃も加えてくるので、追激戦は不首尾に終わった。盛政は勇猛なだけの猪武者に見えがちだが、実際には確かな戦術眼を持った優秀な指揮官であった。そこで、秀吉は盛政隊の援護を担っている勝政隊に狙いを変え、賤ヶ岳の山頂からじっと戦機を窺った。 盛政は安全圏に近い権現坂まで撤退に成功すると、今度は殿軍の勝政隊に撤退を指示する。だが、秀吉はこの瞬間を狙っていた。勝政隊が動き出すと同時に、鉄砲の一斉射を浴びせて、総攻撃を下令した。それを合図に、秀吉子飼いの武将達、世に云う賤ヶ岳七本槍が飛び出していって、それぞれ目覚しい働きを見せる事になる。秀吉軍の猛攻を受けて勝政隊は混乱し、次々に討ち取られていった。それを見た盛政は、勝政隊を救わんとして再び戦場に突入する。そして、余呉湖の西岸で、両軍入り乱れての死闘が繰り広げられた。


この最中、盛政隊の剛の者、拝郷家嘉は秀吉の直臣、石川一光を討ち取ったが、次に福島正則と渡り合って、槍で突かれて討死した。山路正国も加藤清正と組み合ったが、若い清正に軍配が上がり、正国は討ち取られた。柴田勝政も乱戦の最中、脇坂安治に討ち取られたと云われている。 盛政は追いすがる秀吉軍と絶え間ない戦闘を交えつつ、勝政隊の残余を収容していった。背後の茂山(しげやま)には前田利家隊2千人があり、後側面は安全である。そこで盛政は、踏み止まりながら兵を再編成し、秀吉軍に逆撃を加えんとした。だが、その時に異変が起こった。前田隊が突如、陣地を放棄して、撤退を開始したのである。盛政には何が起こったのか、理解できなかった。これは、盛政隊から見れば、後ろの味方が崩れだしたかの様に映った。盛政隊の間に急速に動揺が広がり、秀吉はここぞとばかりに全軍を叱咤して、2万人余で総攻めを加えた。


盛政は怖気づいた兵を叱咤しつつ、尚も奮闘するが、前田隊の抜けた茂山から秀吉軍の部隊が回り込み、側面を突かれるに至って、ついに勝敗は決した。盛政隊は壊乱し、将兵達は次々に討ち取られていった。この後、盛政は戦場を切り抜けて、山中に姿をくらませた。 盛政隊が崩れ去るのを望見して、勝家の本隊にも動揺が走る。そして、7千人いた兵も次々に脱走し、3千人ほどに減ってしまった。勝家は無念のほぞを噛み、最後の一戦を交えようとしたが、これを近臣の毛受勝照が押し止めた。毛受は自らが殿軍を受け持つので、撤退するよう強く促したのである。勝家は忠臣の申し出を受けて考え直し、目に涙を浮かべつつ戦場を去った。毛受は兵5百をもって、殺到する秀吉軍相手に奮戦し、勝家が撤退するに十分な時間を稼いだ上で、兄の茂左衛門、心ある将兵数百人らと共に討死した。時に4月21日午後14時頃の事であった。ここに賤ヶ岳の戦いは終結する。


この賤ヶ岳の戦いで、勝家軍は5千人余の討死を出したと云われている(毛利家文書)。そして、4月24日、勝家は北ノ庄で、武士の面目を飾る最後を遂げた。5月2日、織田信孝は切腹に追い込まれ、恨みの時世の句を残して果てた。山中に身を潜めていた佐久間盛政も捕虜となり、その将才を惜しむ秀吉の助命勧告を受けるも、これを撥ね付け、5月12日、華美に着飾って六条河原にて刑死を遂げた。滝川一益は、勝家、信孝が滅亡して大勢が決した後も意地の篭城を続け、7月になってようやく降伏した。賤ヶ岳の戦いから、実に3ヵ月の時が経っていた。以上をもって、秀吉の勝利は確定する。そして、織田家の勢力範囲と権威を継承し、天下人への階段を大きく駆け上るのだった。

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