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本能寺の変、第二幕、二条御所の戦い

2010.12.11 - 戦国史 其の三

天正10年(1582年)6月2日未明、京都本能寺において、日本史を揺るがす大事件が起こる。天下統一を間近に控えていた織田信長を、家臣の明智光秀が討ったのである。だが、謀反はこれで成功した訳ではない。本能寺の近隣にある妙覚寺には、信長の嫡子である織田信忠がまだ存在していた。信長に次ぐ権力者である信忠も討たねば、謀反が成功したとは言い難かった。この信忠を逃せば、たちまちの内に諸将が糾合されて光秀は攻め滅ぼされてしまう。光秀には信長、信忠を同時に討って、織田家の求心力を消し去る必要があった。そして、その後に生じるであろう権力の空白の合間に畿内を制圧し、天下に号令を掛ける、これが光秀の戦略だった。


さて、光秀は首尾よく本能寺の襲撃には成功したものの、信忠のいる妙覚寺は、まだ手付かずのままだった。本能寺と妙覚寺との距離は、直線距離にして600メートル、道沿いに歩いても1キロメートルである。指呼の距離にあると云っても良く、光秀も当初は、本能寺と妙覚寺を同時に襲撃する予定であった。しかし、妙覚寺を襲撃する予定だった明智次右衛門の別働隊は、行軍に遅れが生じて、同時攻撃はならなかったのである。 その妙覚寺の信忠の元へ、本能寺近辺に居住する村井貞勝から飛報がもたらされた。そして、異変を嗅ぎ付けた馬廻(うままわり・主君の側近・旗本)の者達も急遽、信忠の下へと集まって来た。この時、本能寺はすでに火の手を上げており、その煙と火の粉は妙覚寺からも遠望出来たはずである。


信忠は父を救うべく、すぐさま本能寺に駆け付けんとしたが、これを貞勝が押し止めた。貞勝は、「最早、本能寺は絶望的でありましょう。明智軍がここに来るのも時間の問題であります。この妙覚寺より、隣接する二条御所の方が堅固なので、敵を迎え撃つにはこちらの方が宜しいでしょう」と進言した。 この時、家臣の中には、信忠に逃亡を勧める者もいた。しかし、信忠は、「この様な大掛かりな企てならば、自分が逃れられない様、手を打っているはずである。雑兵の手にかかるよりは、ここで腹を切った方がましである」と云い、二条御所へと移った。この時、信長の弟である織田長益(有楽斎)は脱出に成功している。信忠もすぐ様、行動していれば、脱出に成功していた可能性があった。だが、信忠は最早、脱出は困難であると諦め、武士らしく華々しく散らんとしたのだった。


それから間もなく、明智軍が二条御所を取り囲み始め、脱出の機会は失われた。 二条御所は包囲されたものの、すぐに戦いが始まった訳ではなかった。この二条御所は、天皇の皇太子である、誠仁(さねひと)親王の邸宅であった。光秀も信忠も天皇一家を戦いに巻き込む気はなく、誠仁親王とその供の者達を退出させる手筈となった。このため、束の間の平穏が訪れたが、その間にも二条御所には明智軍が続々と集結し、信忠軍も防備を固めて、戦闘準備を行った。そして、誠仁親王が退出するや否や、明智軍の火縄銃が火を噴いて、戦いの火蓋は切って落とされた。戦闘開始時刻は午前7時頃、明智軍は1万人余り、信忠軍は1千人余であった。 明智軍は大人数で、鎧兜、鉄砲、槍の完全武装で固めていたのに対し、信忠軍は少人数の上、急遽、駆け付けた者達ばかりで、軽装の帷子(かたびら)姿に太刀を手に取って戦う有様であった。


信忠軍に取っての利点は、二条御所が堀を廻らせた堅固な城郭風の建物である点と、馬廻の者達が主君のためなら死をも厭わぬ覚悟である点だけだった。勝敗は最初から目に見えていた。それでも、信忠軍の戦意は旺盛であり、大手門に兵を集結させると、門を開いて幾度も打って出た。信忠も自ら太刀を手に取り、幾人もの敵兵を切り伏せたと云う。 明智軍も大手門に攻撃を集中するが、決死の信忠軍を相手に苦戦する。そのため、他の諸門からも攻め立ててみたが、それでも突破は成らなかった。この攻防の最中、明智軍の前線指揮官、明智次右衛門は鉄砲で重傷を負い、多数の士卒も討ち死にした。信忠軍の思わぬ奮戦に業を煮やした明智軍は、御所の隣にある近衛前久邸へと乱入し、そこの屋根から見下ろす形で弓、鉄砲を撃ち掛け始めた。


これで、信忠軍には死傷者が続出する事態となる。 信忠軍は徐々に撃ち減らされ、ついには大手門への侵入を許してしまう。信忠軍は御殿に篭って尚も抵抗したが、そこへ明智軍が火を放った。追い詰められ、従う兵も僅かとなった信忠は、最早これまでと見て、御殿の奥に入り、四方に火を掛けた。そして、燃え盛る炎の中、信忠は近習の鎌田新介に介錯を頼むと、腹をかき切って果てた。織田信忠、享年26。時刻は午前9時頃、2時間余りの激闘であった。夕刻になって二条御所を訪れた公家によると、御所内は首や死体で数限りなしの状況であったと云う。その中で信忠の姿は父同様、炎の中に消え、その遺骸を明智軍が見つける事は出来なかった。


この本能寺と二条御所での戦闘で、織田家の中枢に位置していた重要人物や、将来を担うべき若武者が多数、討死にした。本能寺では、織田信長・森乱丸・坊丸・力丸の森三兄弟。二条御所では、織田信忠・織田長利(信長の弟)・織田勝長(信長の五男)・村井貞勝(京都の全般的な行政を司る、京都所司代)・福富秀勝(馬廻の指揮官)・菅屋長頼(信長の側近筆頭格)・毛利良勝(今川義元の首級を挙げた馬廻)・野々村 正成(馬廻)・猪子兵助(馬廻)・団 忠正(信忠麾下の若手部将)・斎藤利治(斉藤道三の末子とされる、美濃の有力部将)・金森長則(金森長近の長男で馬廻)。この他にも、多数の馬廻や小姓(主君に側仕えする少年)が討死した。


この本能寺の変によって織田家の中枢は消え去り、当時の日本の政治的中心地であった京都と安土城も制圧された。これを国家で例えれば、突如、クーデターが発生して元首と閣僚が殺害され、首都も制圧されて国家機能が麻痺した状態に等しい。これで、光秀の目論見通り、畿内には権力の空白状態が生じた。この一大衝撃は畿内のみならず、日本全国に伝わって、人々は大いに動揺し、右に左に揺れ動いた。光秀はこの混乱に乗じて近江・丹波・山城・若狭の国々を掌握し、さらに大阪方面に進出しようとした。 このまま半月余り、勢力拡大の時間があれば、光秀は畿内を固めて、大兵力をその手に有したであろう。だが、ここで光秀は、羽柴秀吉の驚異的な中国大返しに遭って窮地に陥る。光秀最大の誤算は、秀吉の迅速な畿内進出であったが、それに加えて、味方になると思っていた細川藤孝・忠興父子、筒井順慶ら大身の部将が馳せ参じなかった事も大きな誤算となった。突発的な謀反を起こした光秀には大義名分が無く、親しかった部将達も去就を迷っていた。その反面、電撃的な畿内進撃を果たし、さらに主君の仇討ちと云う大義名分を掲げた秀吉には多くの諸将が集まった。


天正10年(1582年)6月13日、山崎において明智軍1万人余と秀吉軍2万人余が激突し、光秀は倍する秀吉軍に敗れて敗死した。光秀が信長を討ってから、僅か13日後の出来事であった。戦後、信長、信忠という支柱を失った織田家は指導力を失い、宿老の羽柴秀吉と柴田勝家が家中を主導する事態となった。だが、秀吉と勝家は主導権を巡って対立を深めてゆき、やがて両者は賤ヶ岳において激突する。この戦いの結果、羽柴秀吉が織田家の勢力範囲を継承して、強大な権限を手にした。さらに秀吉は日本全国の平定を押し進め、豊臣姓を名乗って天下人と成る。この豊臣時代、かつての主家であった織田家は急速に没落していった。だが、豊臣家も秀吉の死と共に没落し、天下は徳川家康の手に移る。徳川時代に入ると、織田家は、信長の次男、信雄や、信長の弟、信包や長益(有楽斎)が小大名として僅かに存続するのみであった。天下を統べらんとした一族が、一夜の出来事で全てを失い、埋没していったのだった。




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