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宇佐山城の攻防

2013.01.09 - 戦国史 其の三

永禄11年(1568年)9月、尾張、美濃を領有する有力戦国大名に成長していた織田信長は、更なる飛躍を目指して、足利義昭を奉じて上洛戦を開始した。そして、見事、義昭を将軍の座に据える事に成功し、当時の日本の中心たる畿内も抑えた信長は、誰もが瞠目する一大権力者となった。しかし、その支配はまだ完全ではなく、信長の台頭を快く思わない勢力も内外に多数、存在していた。その中でも、信長に非協力的で、京にも程近い越前の大勢力、朝倉義景の存在は不気味であった。そこで、信長は義景打倒を念頭に置きつつ、朝倉軍の京都進出にも備えて、近江南部の志賀の地に築城する事を決定した。


これが宇佐山城の始まりであるが、朝倉軍の南下阻止だけでなく、近隣の大寺社勢力、比叡山延暦寺を押さえ込む目的もあった。 正確な築城年月日は不明であるが、多聞院日記(奈良興福寺の僧侶の日記)の元亀元年(1570年)3月20日の記事によれば、信長の部将、森可成が新城を築いて、その麓に道を通す工事をしているとあるので、道路はともかく城自体はこの時点で完成していた模様である。宇佐山城は険阻な山上にあって規模こそ小さいが、いち早く石垣を取り入れており、土塁だけのこれまでの山城よりも堅固な構えとなった。


そして、信長はその完成を待っていたかの如く、元亀元年(1570年)4月25日、大軍をもって朝倉討伐に乗り出した。信長軍は越前国境を打ち破り、義景を追い詰めたが、土壇場になって、同盟者と見なしていた浅井長政に裏切られ、信長は命からがら京に舞い戻る羽目となった。 復仇を誓った信長は、同年6月28日、姉川にて朝倉、浅井軍を打ち破ったが、決定的な打撃には至らず、その後も朝倉、浅井軍は信長を脅かす程の戦力を有していた。しかし、信長の敵は朝倉、浅井だけでは無かった。同年8月20日、四国と畿内に勢力を有する三好氏が、摂津の野田、福島に拠って挙兵した為、信長は軍を率いて摂津へと向かわねばならなかった。


同年9月14日、信長は優勢に戦いを進めていたものの、今度は一大寺社勢力、石山本願寺が反信長を掲げて挙兵したため、信長は大苦戦に陥った。こうして信長が摂津戦線に釘付けになっていた頃、間髪おかずに朝倉、浅井軍も南下を開始した。これら一連の反信長攻勢は、事前に申し合わせての事であろう。信長は桶狭間の様な、あるいはそれ以上の危機に陥った。 朝倉、浅井軍3万余は京を制圧し、信長の背後を襲わんとして、湖西を南下して行く。現時点でそれを阻止し得るのは、宇佐山城とその城将、森可成率いる3千人余の将兵のみであった。


同年9月16日、朝倉軍の先鋒が坂本口に迫ると、可成は城から打って出て、なんとしても南下を阻止せんとした。そして、森勢は坂本の町外れで朝倉軍を迎撃して、少々の首を取って勝利を収めた。しかし、これは前哨戦であり、9月19日、朝倉軍が陣容を整えて攻勢を開始すると、森勢はたちまち苦戦に陥った。それでも森勢は坂本の町を通らせまいと防戦に努めたが、ついに木戸を破られ、町中への侵入を許した。森勢は重囲に落ちたが、主将の森可成、信長の弟、織田信治を始めとする将兵達は最後まで抵抗の構えを崩さず、奮戦の末に討死していった。


この後、朝倉、浅井軍は余勢を駆って宇佐山城へと攻めかかり、主将を失った城の運命は風前の灯と思われたが、残置していた可成の家臣達がここで殊勲の奮闘を見せ、なんとか城を守り抜く事に成功した。しかし、宇佐山城の戦力が大きく減少した事も確かであり、大軍相手に長く持ち堪える見込みは立たなかった。翌9月20日、朝倉、浅井軍は一軍を割いて大津付近を放火せしめ、更に翌9月21日には醍醐、山科まで焼き払わせた。朝倉、浅井軍としてはこのまま全軍をもって京を制圧し、信長の背後を襲いたいところであったが、その為には宇佐山城を落として、背後の安全を確保しておく必要があった。それゆえ、朝倉、浅井軍は日を通して宇佐山城に猛攻を加えるのだった。


宇佐山城は主将を失いながらもしぶとく持ちこたえていたが、援軍が来なければ、落城は時間の問題であった。摂津中島の陣所にあった信長が、朝倉、浅井軍が京に迫りつつあるとの凶報を聞きつけたのは9月22日の事であった。もし、朝倉、浅井軍がこのまま京の制圧に成功すれば、信長の権威が失墜するどころか、摂津の三好軍や、本願寺軍の挟撃を受けて滅亡しかねない。最早、一刻の猶予もならなかった。信長は即座に京へ取って返す事を決断し、翌9月23日、柴田勝家や和田維政らを殿軍として摂津に残すと、強攻軍でその日の夜の内に京へと入ったのだった。


9月24日、信長本隊が京に入ったと知ると、朝倉、浅井軍は宇佐山城の囲みを解き、比叡山へと退いていった。この後、両軍は比叡山を挟んでの対峙状態となり、信長にとってまだまだ余談の許さない状況が続くが、少なくとも京が制圧されると云う最悪の事態だけは避けられた。 信長の機敏な行動と、前もって宇佐山城を築いておいた先見の明、それに宇佐山城の将兵達の奮戦もあって、被害は最小限に抑えられたと言って良いだろう。それから約3ヶ月後の、12月14日、比叡山を挟んだ両軍の対峙は、和議によってようやく解消され、信長、朝倉義景、浅井長政らはそれぞれの本拠へと引き返していった。


両陣営ともよく粘ったが、さすがに行動の限界がきており、ここらで手を打ったと言うところだろう。だが、信長や義景にしても、これが一時の和議である事は理解しており、事実、年が明けて両者は再び干戈を交える事となる。翌元亀2年(1571年)9月12日、宇佐山城は再び、歴史の表舞台に立つ事となった。宇佐山城の眼前に広がる大寺院、比叡山延暦寺を焼き討ちする為の拠点となったのである。延暦寺は前年、朝倉、浅井軍に味方して陣所を提供した事から、信長の激しい怒りを買っていた。 そして、織田軍は手当たり次第に火を放ち、逃げ惑う人々を殺戮していった。


信長は宇佐山城から指揮を執り、眼前に広がる阿鼻叫喚を眺めていたと思われる。比叡山から上がった炎は、京都からも望見できたと云う。この焼き討ちにおいて最も功を上げたのが、明智光秀であった。光秀は事前に地侍を懐柔するなど、周到な計画を練っていた。信長もその功を評価して、比叡山を含む志賀郡の統治を光秀に委ねている。それから程なくして光秀は坂本城の築城を開始し、ここを統治の拠点と定めた。これを受けて宇佐山城は廃城になったと思われ、歴史の表舞台から去っていった。現在、宇佐山城の跡にはアンテナ塔が建てられており、往時の姿を思い起こす事は難しい。だが、この宇佐山城が、信長の最大の危機を支え、その歴史の焦点となった事には変わりはない。




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