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2020.06.01 - 
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津山城、再訪

津山城は、岡山県津山市にある平山城です。



津山城の始まりは、室町時代の嘉吉年間(1441~1444年)に、美作国の守護大名である、山名氏が築いたのが最初とされる。城は、津山盆地の中央にある丘陵(鶴山)に築かれたが、当時は砦のような造りであったろう。だが、応仁の乱を経ると山名氏は衰退し、城も打ち捨てられた。それから100年余の時を経て、慶長8年(1603年)、江戸時代の大名、森忠政(森長可、森乱丸の弟)が津山藩18万6千石として入封すると、恒久的な統治拠点として鶴山の地を選定し、翌慶長9年(1604年)より、本格的な築城を開始した。そして、この頃、城地は鶴山から津山に改められた。元和2年(1616年)、13年の歳月を経て、城は完成した。かつての古城跡は、面目を一新して総石垣の近世城郭となり、五層の天守閣を中心に77棟もの櫓(姫路城は61棟)が巡らされた。


忠政は更に、城下町の整備と発展にも努め、現在の津山の原型を作り出した。この様に津山の発展に力を注いだ森氏であったが、元禄10年(1697年)に改易となって、領地は召し上げられてしまう。元禄11年(1698年)、徳川家の親藩である、松平宣富(まつだいら のぶとみ)が10万石で入封し、以後代々、明治の世を迎えるまで、松平氏が城主を務めた。明治初期には、壮大な城郭を写した写真も撮られているが、明治6年(1873年)に施行された廃城令を受けて、翌明治7年(1874年)より解体が始まり、天守閣、櫓、壁などは悉く破却された。城は石垣を残すだけとなったが、平成17年(2005年)に備中櫓が復元され、現在、津山城の象徴的存在となっている。ここは桜の名所としても知られており、春を迎える度、大勢の人々で賑わいを見せる。





津山城
津山城 posted by (C)重家



津山城
津山城 posted by (C)重家

↑切手門跡



津山城
津山城 posted by (C)重家

↑本丸跡


津山城
津山城 posted by (C)重家

↑天主台石垣



津山城
津山城 posted by (C)重家

↑天主台から北を望む



津山城
津山城 posted by (C)重家

↑南を望む



津山城
津山城 posted by (C)重家

↑東を望む


津山城
津山城 posted by (C)重家

↑北面の高石垣



津山城
津山城 posted by (C)重家

↑天主台を望む



津山城
津山城 posted by (C)重家

↑備中櫓


私が訪れた時には、既に桜は散りかけでしたが、それでも壮大な石垣と相まって見応えはありました。今回、開門早々に入城したので、人は少なく、落ち着いて散策出来ました。昼頃になると、大勢の観光客に加えて、あちこちにブルーシートが布かれるので、景観がいまいちになると思います。

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佐和山城

佐和山城は、滋賀県彦根市にある山城です。



佐和山城の歴史は古く、鎌倉時代に地元の豪族、佐保時綱によって砦が築かれたのが最初とされる。室町時代には近江守護、六角氏の持ち城となり、その家臣である小川氏が入ったが、戦国時代になると、佐和山城は、北近江から勃興してきた浅井氏の手に落ちた。1560年代、浅井長政は、ここに武勇に長けた磯野員昌(いその・かずまさ)を入れて、近江南部への進出を図った。しかし、元亀元年(1570年)4月、長政は、織田信長に敵対して背後を襲ったので、同年6月28日、姉川にて復仇戦を挑まれた。この戦いで浅井軍の磯野員昌は奮戦し、織田軍の陣を幾つか抜いたものの、最終的には数に勝る織田軍の前に敗れ去った。


敗北後、員昌は佐和山城に撤退したが、横山城が織田軍の手に落ちた事から、浅井家の本拠、小谷城との通路が切断され、敵中に孤立する形となった。ここから員昌は8カ月に渡って篭城を続けたものの、救援は無く、元亀2年(1571年)2月24日、織田家に降伏するに到った。これで、浅井家は近江南部への足掛かりを失い、小谷城周辺に押し込められて、やがて滅亡を迎える事となる。逆に信長にとっては、岐阜と京都を結ぶ回廊を手にして、領国に安定をもたらす結果となった。信長は、この交通の要衝たる佐和山城に、重臣の丹羽長秀を入れた。信長は、天正7年(1579年)5月11日に安土城を築き上げるが、その最も近い位置にいる重臣が丹羽長秀であった。信長の信頼の篤さの程が窺える。だが、天正10年(1582年)6月2日、信長は本能寺の変にて横死し、山崎の戦いを経て、同年6月27日に行われた清洲会議で、佐和山城は堀秀政に与えられた。


天正13年(1585年)、堀家は越前に転封され、代わって堀尾吉晴が入封した。天正18年(1590年)、堀尾家は遠江に転封され、代わって石田三成が入城し、文禄4年(1595年)になって、19万4千石の所領を宛がわれた。三成は、佐和山城に大改修を加えて、総石垣の上に、5層(3層とも)の天守を築き上げ、「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と歌われるほどの大城郭となった。だが、城内は到って質素で、部屋は板張りで、壁はあら壁のままであったと云われている。慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦いで石田三成は破れ、佐和山城も東軍によって囲まれた。三成が不在であったため、父の正継を中心に2800人余の人数が立て篭もった。


同年9月18日、城方は、万余の東軍の猛攻によく奮戦するも、城将の長谷川守知らの裏切りを受けて東軍の侵入を許し、落城に追い込まれた。これを受けて、正継を始めとする石田一族は次々に自害して果てていった。東軍に従軍した者によれば、城内に金銀の蓄えはほとんど無かったとされている。同年、徳川家の功臣である井伊直政が、北近江18万石の領主として入封し、佐和山城に入った。その後、井伊家は彦根城の築城を開始し、慶長11年(1606年)に工事が中ほどまで完成したところで、こちらに移り住んだので、佐和山城は廃城となった。この築城の際、佐和山城の資材が持ち運ばれたのと、西軍の巨魁、三成の居城であった事から、徹底的に破壊され、遺構のほとんどは消え去った。現在、彦根城は、観光の城として大いに賑わっているが、そこから見える佐和山城は緑の山林に埋もれ、多くの歴史を秘めながらも、ほとんど忘れ去られた形となっている 。





龍潭寺(りょうたんじ)
龍潭寺(りょうたんじ) posted by (C)重家

↑清涼寺とその奥に佐和山城

清涼寺は彦根藩主井伊家の菩提寺で、初代藩主井伊直政を始めとする歴代藩主の墓が安置されています。石田三成が統治していた頃には、その家臣である島左近の屋敷があったそうです。


龍潭寺(りょうたんじ)
龍潭寺(りょうたんじ) posted by (C)重家

↑龍譚寺(りょうたんじ)

佐和山城へは、東の国道8号線佐和山トンネル付近からと、西側の龍譚寺の二ヶ所から登れます。大手口があるのは国道8号線側ですが、今回は電車で来たので、彦根駅から近い龍譚寺側から登りました。龍譚寺の境内から墓場を抜け、そこから山道を登って行きます。


佐和山城
佐和山城 posted by (C)重家

↑塩硝櫓跡(えんしょうやぐらあと)

塩硝とは火薬の原料の事なので、ここに火縄銃の火薬庫があったのでしょう。


佐和山城
佐和山城 posted by (C)重家

↑本丸跡

本丸は思っていたより広々として、眺めも良かったです。ここからは琵琶湖や彦根城、伊吹山が望めました。


佐和山城
佐和山城 posted by (C)重家

↑彦根城


佐和山城
佐和山城 posted by (C)重家

↑伊吹山とその右手には関ヶ原

佐和山城は、東の関ヶ原方面から攻め上がってくる敵を迎え撃つのに最適な位置にあります。実際、東側に堀が廻らされて、堅固な構えとなっていました。近江北東部は日本有数の交通の要所であり、石田三成がこの地を任されたというだけで、その高い器量と、豊臣秀吉からの篤い信頼を窺い知る事が出来ます。関ヶ原戦後、天下を取った徳川家康もこの地の重要性を理解しており、家中第一の功臣である井伊直政に近江北東部を委ねています。


佐和山城
佐和山城 posted by (C)重家

↑本丸から南を望む

山麓には、何やら怪しげな復元天守閣が建っていました。


佐和山城
佐和山城 posted by (C)重家

↑本丸跡に咲く花

関ヶ原の戦いの後、勝ちに乗じた東軍によって佐和山城は攻め落とされ、多くの石田一族が命を落としていきました。その無念の魂を、可憐な花が慰めているかのようでした。


龍潭寺(りょうたんじ)
龍潭寺(りょうたんじ) posted by (C)重家

↑龍譚寺の庭園

佐和山城を登った後、龍譚寺の庭園を見学しました。閑静な佇まいで、鳥の鳴き声以外に聞こえるものは無く、心が落ち着きました。


龍潭寺(りょうたんじ)
龍潭寺(りょうたんじ) posted by (C)重家

↑龍譚寺の庭園

先の清涼寺と同じく、この寺も井伊家の菩提寺ですが、石田三成にまつわる資料も多く展示されていました。

安土城

安土城は、滋賀県近江八幡市にある山城で、戦国の風雲児、織田信長が築いた城として余りにも有名です。




天正4年(1576年)1月、織田信長は、家臣の丹羽長秀を普請奉行に任じて、近江国の安土山(標高106メートル)に城を築く事を命じた。安土は、その時の織田領国の中心近くにあって、指令を発しやすい位置にあった。更にもっと視点を高くすれば、この近江国は日本本土の中心に近く、北国街道、中山道、東海道といった重要街道が走る交通の要衝であり、北陸、近畿、東海の三地方を繋ぐ結節点ともなっていた。また、ここにある琵琶湖は、日本海や瀬戸内海の産物が往来する水運の交差点でもある。それと、当時の日本有数の大都市にして政治都市でもある、京都が隣接する点も見逃せない。例えば、安土から船や馬を用いたなら、その日の内に京に達する事が出来た。


信長は、この様な地理的重要性を見抜いて、安土築城を決したに違いない。同年4月からは石垣が築かれ始め、その中でも津田坊が運んできた蛇石は異彩を放つ巨石で、1万人余の人夫が3日がかりで、ようやく天主台まで引き上げる事が出来た。この時、信長自らが音頭を取って石を引き上げた事が、「信長公記」に書かれている。しかし、現在、この蛇石は幾度に渡る発掘調査でも発見されていない。安土城は、城域全てに石垣が施された、日本初の総石垣の城となる。また、城郭はおろか、城下町までをも取り囲んだ惣構(そうがまえ)も築かれていたと見られている。



天正7年(1579年)5月11日、完成した天守閣に、信長は吉日を選んで移り住んだ。これをもって、安土城は完成となった。天守閣の構造は地上6階地下1階、外観は5重の望楼型天守で、上から金、朱赤、青、白、黒に塗り分けられていた。この前代未聞の天守閣を手掛けたのは、尾張で熱田神宮の宮大工棟梁を務めていた岡部又右衛門以言(これとき)で、息子の以俊(これとし)と共に指揮を取って築き上げた。信長はその出来に満足して、以言に日本総天主棟梁の称号と小袖を与えた。瓦は金箔貼りで、内部は黒漆塗り、各部屋は狩野永徳の手による華麗な障壁画に彩られていた。


安土城天守閣は、日本の最高権力者の居館にして、当時の芸術文化の粋を集めた一大美術館でもあった。安土城の大手道は、幅6メートル長さ180メートルの直線構造となっており、この石段を登って行く者は、常に天守閣を見上げる形となる。この様な構造は、防御面では問題があるが、信長の力を視覚で感じる事となり、政治面、統治面においては効果的であった。総石垣に華麗な天守閣、それは余程の権力と財力がある者にしか築く事は出来ない。当時、この様な城を築ける者は信長以外にはおらず、その権力と独創性は他を圧していた。しかしながら、安土城の命脈は短かった。



天正10年(1582年)6月2日、織田信長は明智光秀の謀反を受けて、本能寺にて横死する。変後、光秀は部将の明智秀満を派遣して安土城を接収させるも、自らは6月13日に起こった山崎の戦いで敗死した。6月14日、光秀の敗北を知った秀満は安土城を退去し、6月15日、坂本城にて自害した。同15日、安土城は炎上し、華麗なる天守は夢幻の如く消え去った。完成から僅か3年後の出来事であった。この原因についてははっきりせず、明智秀満が放火した、信長の次男、信雄が放火した、または付近の野盗が放火したとの説が取り沙汰されている。


ただ、焼け落ちたのは天守と本丸周辺だけのようで、二の丸などは健在であったようだ。清洲会議の後、信長の孫、秀信が入城し、二の丸を中心に生活したようだが、天正12年(1584年)に丹羽長秀が再建した坂本城に移り住んだ。天正13年(1585年)8月、羽柴秀次が近江国5郡43万石の大名として入封すると、八幡山城を築いてそこを居城とした。その際、安土城の資材が転用され、城下町も移築されて、廃城となった。もし、信長が長生きしていたなら、天守は尚も輝き続け、城下は日本有数の都市に発達していたかもしれない。だが、それもまた夢幻となった。




安土城
安土城 posted by (C)重家



安土城
安土城 posted by (C)重家

↑大手道

かつては、天守閣の偉容を見上げながら登っていたはずです。


安土城
安土城 posted by (C)重家

↑伝、羽柴秀吉邸宅跡



安土城
安土城 posted by (C)重家

↑伝、前田利家邸宅跡



安土城
安土城 posted by (C)重家

↑黒金門跡



安土城
安土城 posted by (C)重家



安土城
安土城 posted by (C)重家

↑織田信長廟

彼の夢と魂はここに眠っているのでしょうか。


安土城
安土城 posted by (C)重家

↑天守台

かつては、テラスの様な張り出しがあって、そこから信長が観衆に声をかけたりしたそうです。


安土城
安土城 posted by (C)重家

↑天守閣の礎石


安土城
安土城 posted by (C)重家

↑摠見寺(そうけんじ)跡から、西を望む

かつては、安土山の麓まで琵琶湖が広がっていました。湖水に浮かびつつ、夕日を浴びた安土城の姿は、比類なき美しさであったそうです。



摂津滝山城

滝山城は、兵庫県神戸市中央区にある山城です。



滝山城の正確な築城年代は定かではないが、南北朝時代の正慶3年(1333年)、赤松則村(円心)が、生田の布引の城に篭もったとの記述が「正慶乱離志」にあり、これが史料上の初見となる。だが、当時は砦の様な作りであったろう。これを大規模な山城に造り替えるのは、戦国有数の梟雄として知られている、松永久秀である。畿内の大大名、三好長慶は、摂津西部を押さえる拠点として滝山城を選び、ここに重臣の松永久秀を配して城を改修させた。縄張り(城の設計)をしたのは久秀であろう。本丸がある316メートルの最高所を中心として、郭(くるわ)を何重も連ね、更に当時としては先進的な石垣も一部、用いられていた。「細川両家記」によれば、弘治2年(1556年)7月10日、久秀は、主君、長慶を滝山城に招いて、歌舞音曲、千句会、能をもってもてなしたとある。


滝山城の麓には風光明媚な布引の滝が流れており、更に大きな居館なども築かれていたと思われ、それらをもって来賓をもてなしたのだろう。この華やかな宴が催された時こそ、滝山城の全盛期であった。しかし、永禄7年(1564年)7月4日、三好長慶が死去すると、三好家は、三好三人衆派と松永久秀派とに分裂して内戦が勃発し、滝山城もその争乱に巻き込まれる事となる。永禄9年(1566年)2月、三人衆派は、滝山城に攻撃を仕掛けるが、城の守りは固く、一度は撃退された。この時の城将は不明で、久秀が在城していたかどうかは定かではない。三人衆派はその後も包囲も続け、増援を受けて総攻撃を行い、同年8月17日、ついに城を落とした。滝山城の落城は、久秀の衰勢を決定付けるものであった。この後、三人衆派の篠原長房が城主として入った。


永禄8年(1568年)、織田信長が上洛を開始すると、三好三人衆はそれに敵対して、畿内各地で交戦状態となった。三人衆派は劣勢で京から追われ、更に一大拠点である摂津芥川山城も落とされるに到った。そのため、滝山城の長房は城を放棄して四国に撤退した。その後、滝山城は、信長の重臣で、摂津一国を任された荒木村重の持ち城となった。ところが、天正6年(1578年)10月、村重は摂津一円を上げて、信長に反旗を翻す。この時、本城の有岡城と重要な支城に戦力を集中するため、滝山城は放棄された模様である。しかし、織田軍は滝山城を接収すると、村重方の支城である、花隈城攻略の拠点として用いたようだ。天正7年(1579年)11月19日、村重は本城である有岡城を失うも、支城の尼崎城に拠って尚も抵抗を続けた。しかし、尼崎城も落ち、最後に残った花隈城も、天正8年(1580年)7月2日、織田方の池田恒興の攻撃を受けて落城するに到り、2年近くに渡った荒木村重の乱は終息した。そして、滝山城も役割を終える形となり、人知れず山林に埋もれていった。




摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑登り口

新神戸駅を正面から見て、一階、右側の通路を進んで行くと、ほどなくしてこの標識が出てきます。ここから滝山城へと登って行きます。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑郭(くるわ)跡

最初に出てくる郭で、本丸まではまだまだ距離があります。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑登山道脇の急傾斜

写真では伝わり難いですが、城の両側はかなりの急傾斜でした。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑郭跡

この辺りから、城の中枢部となります。所々で、石が散らばっていたので、昔は石垣が組まれていたと思われます。天正9年(1581年)、兵庫城築城の際、滝山城の石垣が、転用されたと云われています。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑堀切

深く、大きな切れ込みでした。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑郭跡

堀切からは、大掛かりな郭が連続します。久秀は三好氏の重臣として、この城を預かっていましたが、一家臣の城と言うより、大名級の居城の様に感じました。久秀の地位と、力の程が窺えます。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑本丸

奥の一段高い所に、石碑があります。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑本丸最高所

本丸周辺は樹木に覆われており、残念ながら、眺望はほとんど望めません。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑滝山城からの眺め

滝山城から下りつつ、布引きの滝へと進んでいくと、途中に樹木の切れ目があって、そこから神戸市街が見渡せました。神戸の港と、麓の街道を押さえる重要な城であった事が分かります。



摂津滝山城
摂津滝山城 posted by (C)重家

↑滝山城遠望



布引の滝
布引の滝 posted by (C)重家

↑布引の滝、雄滝(落差43メートル)

水量豊富な、美しい滝です。松永久秀や三好長慶もこの滝を眺めて、酒を飲んだり、歌を詠んだりして楽しんだ事でしょう。



布引の滝
布引の滝 posted by (C)重家

布引の滝、雌滝(落差19メートル)

雌滝は、雄滝より下流にあって、小振りで大人し目の滝です。


滝山城は規模が大きく、山城好きの人なら十分、楽しめるでしょう。それと、すぐ近くには見応えのある布引の滝もあるので、合わせて見る事をお勧めします。

篠山城、再訪

篠山城は、兵庫県篠山市にある平山城です。


慶長14年(1609年)、関ヶ原合戦を経て、天下の権を握りつつあった徳川家康は、今だ大坂にて隠然たる勢力を有している豊臣家を警戒し、山陰道の要衝である丹波篠山の地に城を築く事を命じた。豊臣家を包囲する事が主目的であるが、西国大名に対する抑えの意味合いもあった。縄張奉行(城の設計者)となったのは、戦国有数の築城名人として知られている藤堂高虎で、普請総奉行(総監督)となったのは、家康の娘婿で、これまた築城に長けた池田輝政であった。築城は天下普請と呼ばれる大掛かりなもので、西日本の15カ国、20の大名と、総勢8万人もの人夫が動員された。工事は、慶長14年(1609年)3月9日の鍬入れから始まり、同年10月5日に奉行が帰国したとあるので、この頃におおよその工事が終わり、同年12月21日には人夫が皆、帰路に着いたとあるので、この頃に仕上がったのだろう。


並の大名ならば数年掛かりであったろうが、天下人、家康の御声掛かりによる大動員で、僅か9ヶ月余で完成を見たのだった。篠山城の規模は決して大きくはないが、整った方形に二重の堀、総石垣の外観は、まさに近世城郭といった趣で、この城が持つ堅固さの現れでもあった。初代城主となったのは、徳川譜代である松平康重で、以後も、別家の松平氏や、青山氏といった徳川譜代が、代々、城主を務めた。明治の世を迎えると、城内の建物のほとんどは破却されたが、唯一、大書院だけは残された。その大書院も昭和19年(1944年)1月に焼失してしまうが、平成12年(2000年)3月に、古地図、古写真、発掘調査を元にした、伝統工法によって再建された。





篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑枡形

敵の動きを妨げるための、方形の広場。




篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑大書院

中には、狩野派の屏風絵などが展示されています。


篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑篠山城の模型

中にある展示品は、一部、フラッシュ禁止がありますが、基本的に撮影可能との事でした。



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑上段之間

最も格式の高い部屋です。



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑手前の広場が二の丸で、奥の一段高い所が本丸



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑天主台石垣

立派な石垣ですが、実際には天守閣は築かれなかったとの事です。


篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑天主台からの眺め

前方に見える山は高城山(標高460メートル)で、丹波の戦国武将、波多野氏が築いた八上城がありました。



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑埋門(うずみもん)

非常時には埋めたてられ、石垣と一体化して遮断されます。


篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑堀際から見た天主台

内堀の石垣は、見た目が綺麗なので、最近、補強されたものの様です。



篠山城
篠山城 posted by (C)重家

↑北堀

篠山城の外堀で、非常に広大でした。


篠山城の付近には多くの土産物屋、料理屋が立ち並んでいて、散策するにはもってこいでしょう。それと時間があれば、八上城にも登ってみては如何でしょう。篠山城には、華やかな江戸時代的な雰囲気が漂っていますが、八上城には、どこか物悲しい戦国の雰囲気が残っています。




 プロフィール 
重家 
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重家
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男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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