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佐和山城

佐和山城は、滋賀県彦根市にある山城です。



佐和山城の歴史は古く、鎌倉時代に地元の豪族、佐保時綱によって砦が築かれたのが最初とされる。室町時代には近江守護、六角氏の持ち城となり、その家臣である小川氏が入ったが、戦国時代になると、佐和山城は、北近江から勃興してきた浅井氏の手に落ちた。1560年代、浅井長政は、ここに武勇に長けた磯野員昌(いその・かずまさ)を入れて、近江南部への進出を図った。しかし、元亀元年(1570年)4月、長政は、織田信長に敵対して背後を襲ったので、同年6月28日、姉川にて復仇戦を挑まれた。この戦いで浅井軍の磯野員昌は奮戦し、織田軍の陣を幾つか抜いたものの、最終的には数に勝る織田軍の前に敗れ去った。


敗北後、員昌は佐和山城に撤退したが、横山城が織田軍の手に落ちた事から、浅井家の本拠、小谷城との通路が切断され、敵中に孤立する形となった。ここから員昌は8カ月に渡って篭城を続けたものの、救援は無く、元亀2年(1571年)2月24日、織田家に降伏するに到った。これで、浅井家は近江南部への足掛かりを失い、小谷城周辺に押し込められて、やがて滅亡を迎える事となる。逆に信長にとっては、岐阜と京都を結ぶ回廊を手にして、領国に安定をもたらす結果となった。信長は、この交通の要衝たる佐和山城に、重臣の丹羽長秀を入れた。信長は、天正7年(1579年)5月11日に安土城を築き上げるが、その最も近い位置にいる重臣が丹羽長秀であった。信長の信頼の篤さの程が窺える。だが、天正10年(1582年)6月2日、信長は本能寺の変にて横死し、山崎の戦いを経て、同年6月27日に行われた清洲会議で、佐和山城は堀秀政に与えられた。


天正13年(1585年)、堀家は越前に転封され、代わって堀尾吉晴が入封した。天正18年(1590年)、堀尾家は遠江に転封され、代わって石田三成が入城し、文禄4年(1595年)になって、19万4千石の所領を宛がわれた。三成は、佐和山城に大改修を加えて、総石垣の上に、5層(3層とも)の天守を築き上げ、「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と歌われるほどの大城郭となった。だが、城内は到って質素で、部屋は板張りで、壁はあら壁のままであったと云われている。慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦いで石田三成は破れ、佐和山城も東軍によって囲まれた。三成が不在であったため、父の正継を中心に2800人余の人数が立て篭もった。


同年9月18日、城方は、万余の東軍の猛攻によく奮戦するも、城将の長谷川守知らの裏切りを受けて東軍の侵入を許し、落城に追い込まれた。これを受けて、正継を始めとする石田一族は次々に自害して果てていった。東軍に従軍した者によれば、城内に金銀の蓄えはほとんど無かったとされている。同年、徳川家の功臣である井伊直政が、北近江18万石の領主として入封し、佐和山城に入った。その後、井伊家は彦根城の築城を開始し、慶長11年(1606年)に工事が中ほどまで完成したところで、こちらに移り住んだので、佐和山城は廃城となった。この築城の際、佐和山城の資材が持ち運ばれたのと、西軍の巨魁、三成の居城であった事から、徹底的に破壊され、遺構のほとんどは消え去った。現在、彦根城は、観光の城として大いに賑わっているが、そこから見える佐和山城は緑の山林に埋もれ、多くの歴史を秘めながらも、ほとんど忘れ去られた形となっている 。





龍潭寺(りょうたんじ)
龍潭寺(りょうたんじ) posted by (C)重家

↑清涼寺とその奥に佐和山城

清涼寺は彦根藩主井伊家の菩提寺で、初代藩主井伊直政を始めとする歴代藩主の墓が安置されています。石田三成が統治していた頃には、その家臣である島左近の屋敷があったそうです。


龍潭寺(りょうたんじ)
龍潭寺(りょうたんじ) posted by (C)重家

↑龍譚寺(りょうたんじ)

佐和山城へは、東の国道8号線佐和山トンネル付近からと、西側の龍譚寺の二ヶ所から登れます。大手口があるのは国道8号線側ですが、今回は電車で来たので、彦根駅から近い龍譚寺側から登りました。龍譚寺の境内から墓場を抜け、そこから山道を登って行きます。


佐和山城
佐和山城 posted by (C)重家

↑塩硝櫓跡(えんしょうやぐらあと)

塩硝とは火薬の原料の事なので、ここに火縄銃の火薬庫があったのでしょう。


佐和山城
佐和山城 posted by (C)重家

↑本丸跡

本丸は思っていたより広々として、眺めも良かったです。ここからは琵琶湖や彦根城、伊吹山が望めました。


佐和山城
佐和山城 posted by (C)重家

↑彦根城


佐和山城
佐和山城 posted by (C)重家

↑伊吹山とその右手には関ヶ原

佐和山城は、東の関ヶ原方面から攻め上がってくる敵を迎え撃つのに最適な位置にあります。実際、東側に堀が廻らされて、堅固な構えとなっていました。近江北東部は日本有数の交通の要所であり、石田三成がこの地を任されたというだけで、その高い器量と、豊臣秀吉からの篤い信頼を窺い知る事が出来ます。関ヶ原戦後、天下を取った徳川家康もこの地の重要性を理解しており、家中第一の功臣である井伊直政に近江北東部を委ねています。


佐和山城
佐和山城 posted by (C)重家

↑本丸から南を望む

山麓には、何やら怪しげな復元天守閣が建っていました。


佐和山城
佐和山城 posted by (C)重家

↑本丸跡に咲く花

関ヶ原の戦いの後、勝ちに乗じた東軍によって佐和山城は攻め落とされ、多くの石田一族が命を落としていきました。その無念の魂を、可憐な花が慰めているかのようでした。


龍潭寺(りょうたんじ)
龍潭寺(りょうたんじ) posted by (C)重家

↑龍譚寺の庭園

佐和山城を登った後、龍譚寺の庭園を見学しました。閑静な佇まいで、鳥の鳴き声以外に聞こえるものは無く、心が落ち着きました。


龍潭寺(りょうたんじ)
龍潭寺(りょうたんじ) posted by (C)重家

↑龍譚寺の庭園

先の清涼寺と同じく、この寺も井伊家の菩提寺ですが、石田三成にまつわる資料も多く展示されていました。

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