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西本願寺

戦国時代、戦国大名にも匹敵する強大な武力と財力を備えた教団があった。それが、かの有名な一向一揆の組織者、本願寺である。本願寺の元となる浄土真宗は、鎌倉時代の僧、親鸞(1173~1262)によって開かれたとされる。だが、この浄土真宗を本格的な教団に組織し、実質的な開祖とされるのが覚如(1271~1351)である。そして、この時より浄土真宗は、本願寺と称する様になった。それから徐々に信徒を増やしていった本願寺は、戦国の世を迎える頃には巨大な財力と戦力を併せ持つ一大教団に成長していた。並み居る戦国大名もその力に期待して、度々支援を要請する程であった。しかし、本願寺が積極的に大名間の戦いに介入するようになると、逆にその力を警戒され、天文元年(1532年)には六角定頼と法華宗徒によって本拠の山科本願寺が焼き討ちに遭うという憂き目にあった。それを受けて本願寺は、大坂石山の地にあった末寺の石山御坊に本拠を移し、石山本願寺と改称して再起を図った。戦火を受けてやむなく本拠を移したとは云え、石山の地は要害堅固にして、畿内の物流、商業の中心に位置する事から、石山本願寺とその寺内町は大いに発展していった。


大坂に巨大な根を下ろし、前途洋洋に思えた本願寺の目の前にいきなり現れたのが、戦国の風雲児、織田信長である。信長は本願寺が持つ財力と地の利に目をつけ、矢銭(軍資金)を要求して、更に石山の地を明け渡す様、申し渡してくると、本願寺第11代法主の顕如(1543~1592)はついに腹を固め、元亀元年(1570年)に信長に戦いを挑んだ。顕如は、その卓越した政治、外交力をもって信長包囲網を形成し、また、その指導力をもって各地の一向一揆を動かした。顕如と一向一揆は反信長勢力の中心として活躍したが、信長も底力を発揮して盛り返してくると各地の一向一揆は各個撃破されてゆき、やがては本拠の石山本願寺も織田軍によって封鎖された。その包囲は数年にも及び、さすがの本願寺も滅亡が迫ってきた天正8年(1580年)3月、顕如はついに信長に屈し、石山の地を明け渡して、紀伊国鷲森に隠遁する事を決めた。しかし、長男の教如(1558~1614)はこれに強く反発して、徹底抗戦を叫んで石山篭城を続けたので、困り果てた顕如は義絶を申し渡した。


同年8月、教如は、関白、近衛前久の説得を受けてようやく石山本願寺を明け渡したものの、その直後に火が燃え広がり、壮大な伽藍や寺内町も灰燼と化した。だが、天正10年(1582年)6月2日、遺恨の残る信長は本能寺に消え、それから程ない6月27日、教如は義絶を赦免され、以後は顕如と共に寺務に携わる事になる。文禄元年(1591年)11月24日、顕如が死去すると、教如が第12代法主となったが、側近にはかつて石山篭城を共にした強硬派を用いたので、顕如と共に紀伊国に退去した穏健派との間で深刻な内部対立が生じた。文禄2年(1593年)9月、時の天下人、豊臣秀吉は、強硬な教如が本願寺法主になった事を警戒していたので、この騒動に割って入り、10年後に弟の准如(1577~1631)に法主の座を譲るよう申し渡した。しかし、これを教如が拒否したので、秀吉は怒って教如を隠遁させ、すぐさま准如を12代法主の座に据えた。


だが、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いを経て徳川家康が天下の権を握ると、隠遁していた教如に京都の地に寺領を与えて、新たな本願寺の設立を後押しした。これには、かつて天下を震撼させた本願寺勢力を分立、対立させておこうとの家康の魂胆が含まれていた。そして、慶長7年(1602年)、教如は、堀川にある本元の本願寺からすぐ東の鳥丸七条に、もう一つの本願寺教団を設立した。こうして准如を12代法主とする西本願寺(浄土真宗本願寺派)と、教如を12代法主とする東本願寺(浄土真宗大谷派)の分立が決定する。それから数百年の時を経た現在、この両寺の対立関係はほぼ解消されているが、ある程度の対抗意識は今だに残っている模様である。両寺とも消防意識が高い事で知られており、下京区で開かれる自衛消防訓練大会ではお互いを意識して切磋琢磨し、その対戦成績はほぼ互角となっている。



興正寺
興正寺 posted by (C)重家

一見すると連なった一つの巨大寺院に映りますが、手前にあるのは興正寺(こうしょうじ)で、その右隣が西本願寺です。


興正寺
興正寺 posted by (C)重家

↑興正寺

興正寺も浄土真宗の寺で、真宗興正派となっています。永禄12年(1569年)、顕如の次男である、顕尊が興正寺の門跡を引継ぎ、天正19年(1591年)に西本願寺の隣に総本山が建てられました。本願寺が教如と准如とに分裂した時、顕尊は、弟の准如を支援しました。その縁もあって、興正寺と西本願寺はいわば兄弟の様な関係でしょう。この興正寺も、なかなか立派な構えでした。


西本願寺
西本願寺 posted by (C)重家

↑左が御影堂で、その右奥が阿弥陀堂

こちらは准如が引き継いだ、本願寺教団です。


西本願寺
西本願寺 posted by (C)重家

↑樹齢400年とされる銀杏の木

西本願寺の創建が天正19年(1591年)なので、その歴史のほとんどを見つめてきた事になります。


西本願寺
西本願寺 posted by (C)重家

↑御影堂

内部は広く、装飾は鮮やかで、すこぶる立派なお堂でした。


西本願寺
西本願寺 posted by (C)重家

↑御影堂


西本願寺
西本願寺 posted by (C)重家

↑阿弥陀堂

写真では伝わり難いですが、本当に大きなお堂でした。


西本願寺
西本願寺 posted by (C)重家

↑阿弥陀堂


西本願寺
西本願寺 posted by (C)重家

↑門の装飾


西本願寺
西本願寺 posted by (C)重家

↑飛雲閣

かつて豊臣秀吉が創建した聚楽第の一部とされており、国宝に認定されています。この西本願寺は紅葉や桜の名所とかではありませんが、その壮大な建物は一見の価値があります。
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