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高野山、奥の院参道

高野山で最も神聖な場所は、空海上人が入定した奥の院、弘法大師御廟です。この弘法大師御廟までの約2キロの参道には、この聖地で供養されたいと願う、各時代の有名無名の人々の墓が所狭しと立ち並んでいます。


奥の院参道

奥の院参道 posted by (C)重家

↑武田信玄、勝頼父子の墓


奥の院参道

奥の院参道 posted by (C)重家

↑上杉謙信の墓

武田信玄と上杉謙信とは宿敵の間柄ですが、同じ高野山に弔われています。


奥の院参道

奥の院参道 posted by (C)重家

↑河野通直の墓

河野通直(1564~1587年)は伊予の戦国大名ですが、その名をほとんど知られる事なく、戦国の荒波に消えていった人物です。


奥の院参道

奥の院参道 posted by (C)重家

↑伊達政宗の墓

誰もが知る有名戦国大名で、墓も立派な作りとなっています。

奥の院参道

奥の院参道 posted by (C)重家

↑石田三成の墓


奥の院参道

奥の院参道 posted by (C)重家

↑明智光秀の墓

ひび割れた墓石がなにやら、光秀の無念を訴えているようで、印象的です。


奥の院参道

奥の院参道 posted by (C)重家

↑右が織田信長の墓で、その右には大和の戦国大名、筒井順慶の墓があります。

天下人の墓にしては、随分質素な作りです。信長は光秀によって殺されていますが、その両者の墓が同じ高野山に弔われているのは、なんとも奇妙な思いがします。この高野山にあっては、死者の恨み辛みなど関係なく、誰もが分け隔てなく弔われるという事なのでしょうか。


奥の院参道

奥の院参道 posted by (C)重家

↑徳川家の重臣、本多忠勝の墓


奥の院参道

奥の院参道 posted by (C)重家

↑豊臣秀吉の墓

この高野山にはあらゆる有名戦国大名の墓が立ち並んでいますが、その多くには遺骨は入っていないと思います。ただ、本人の魂を供養するために、墓が立てられたのでしょう。


奥の院参道

奥の院参道 posted by (C)重家

↑御廟橋

この橋から先は神域で、撮影禁止となっています。奥に弘法大師御廟があります。

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高野山金剛峰寺

高野山とは、和歌山県伊都郡高野町にそびえる千メートル級の山々の総称であり、そこにある金剛峰寺は高野山真言宗の総本山である。高野山は、弘仁10年(819年)、弘法大師こと、空海上人によって開かれた。以降、高野山は真言宗の聖地として栄え、足元の紀伊を始めとして、各国に荘園を持つ一大宗教勢力となった。そして、高野山は聖地と荘園を守るため、大規模な僧兵集団を揃えたので、時の権力者であっても容易に手を出す事は出来なかった。戦国の世を迎えても、高野山の経済力、武力は健在であったが、織田信長が近畿に台頭してきて、寺社勢力であっても自らに組み従えていかんとすると、これに敵対し、一触即発の状態となった。信長は高野山を滅ぼす決意を固め、その下準備を進めていたところに、本能寺の変が勃発した。高野山はこれで危機を脱したかに見えたが、次の天下人、豊臣秀吉にも睨まれて、圧力を加えられた。


同じ紀伊の一大宗教勢力であった根来寺、粉河寺は秀吉に逆らって、天正13年(1585年)3月に討滅されていたので、同じ轍は踏むまいと、高野山は領地を返上して、秀吉に屈服した。高野山は武装解除され、時の政権に組み敷かれる事となったが、その存続は保証された。次の天下人となった徳川家は、高野山を菩提所と定めて霊廟を建立すると、諸大名もそれにならって多くの墓所を設ける様になった。現在、高野山には、創建時の建物はもう残っておらず、再建されたものがほとんどであるが、その再建建造物も数百年から数十年の時を経ており、往時の雰囲気は偲ばせてくれる。また、奥の院参道に立ち並ぶ戦国大名の墓の数々は、周囲の杉並木の景観に溶け込んで、荘厳な雰囲気を漂わせている。高野山は、その歴史遺産と自然遺産をもって、平成16年(2004年)7月7日に世界遺産に登録され、日本のみならず、世界からも注目される所となった。


金剛峯寺

金剛峯寺 posted by (C)重家

↑金剛峰寺山門


金剛峯寺

金剛峯寺 posted by (C)重家

↑金剛峰寺

中では、狩野派の見事な襖絵の数々が見られます。また、ここでは、謀反の罪を着せられた豊臣秀次が切腹しており、その自刃の間(柳の間)が残されています。


金剛峯寺 東塔

金剛峯寺 東塔 posted by (C)重家

↑東塔

この塔は、昭和58年(1983年)の再建です。


金剛峯寺 不動堂

金剛峯寺 不動堂 posted by (C)重家

↑不動堂

建久8年(1197年)に建てられた国宝の御堂です。


金剛峯寺 根本大塔

金剛峯寺 根本大塔 posted by (C)重家

↑根本大塔

この塔は、昭和12年(1937年)の再建です。金剛峰寺で一際、大きく鮮やかな建物で、中には立派な仏像が祭られています。


金剛峯寺 西塔

金剛峯寺 西塔 posted by (C)重家

↑西塔

この塔は、天保5年(1834年)の再建です。


金剛峯寺

金剛峯寺 posted by (C)重家

↑蓮池


金剛峯寺 大門

金剛峯寺 大門 posted by (C)重家

↑大門

高野山の入り口にあたる門で、宝永2年(1705年)の再建です。

出石城 再訪

出石城は、慶長9年(1604年)、但馬の大名、小出吉英によって築かれた。城の構造は、上から稲荷郭、本丸、二の丸、二の丸下の郭、三の丸となっている。この築城と同じくして、出石の町並みも整備された。それから100年近く、小出氏による統治が続いたが、元禄9年(1696年)、小出氏は無嗣断絶で改易となり、代わって松平忠周(ただちか)が城主として入った。宝永3年(1706年)、忠周は信濃上田に転封となり、代わって仙石政明が出石城主となった。以後代々、出石城は仙石氏の居城として使われたが、明治の世を迎えるに至って廃城となった。


出石城
出石城 posted by (C)重家

↑出石城

背後の山は、有子山城です。


出石城
出石城 posted by (C)重家

↑石垣と紅葉


出石城
出石城 posted by (C)重家

↑稲荷丸へと続く石段


出石城
出石城 posted by (C)重家

↑本丸石垣



出石城
出石城 posted by (C)重家

↑本丸東隅櫓


出石城
出石城 posted by (C)重家

↑感応殿

仙石氏の祖である、仙石秀久を祭って建てられました。


出石城
出石城 posted by (C)重家

↑出石城の内堀跡


出石城
出石城 posted by (C)重家

↑出石のシンボル、辰鼓楼(しんころう)


宗鏡寺(すきょうじ)
宗鏡寺(すきょうじ) posted by (C)重家

↑宗鏡寺(すきょうじ)

元中9年(1392年)、但馬の大名、山名氏の菩提寺として建てられ、一時は山陰随一の伽藍を誇りましたが、天正8年(1580年)、織田信長によって山名氏が滅ぼされると、寺も荒廃していきました。元和2年(1616年)、出石藩主の小出吉英の援助を受けて、寺は再興され、元和6年(1620年)には沢庵着けの考案者と呼ばれる、沢庵和尚がここに庵を建てて隠棲するようになりました。漫画や小説などでは、沢庵和尚は、かの有名な剣豪、宮本武蔵と出会い、彼を諭したと言われていますが、これは史実でありません。


宗鏡寺(すきょうじ)
宗鏡寺(すきょうじ) posted by (C)重家

↑宗鏡寺

なかなか紅葉の美しい寺でした。

有子山城

有子山城は、天正2年(1574年)頃、但馬の戦国大名、山名祐豊によって築かれた大規模な山城である。天正8年(1580年)、山名祐豊は織田信長と敵対し、その部将、羽柴秀長の攻撃を受けて、有子山城は攻め落とされた。その後、有子山城は秀長の持ち城となるが、天正13年(1585年)、大和郡山に転封となった事から、代わって前野長康が城主として入った。文禄4年(1595年)、長康は、豊臣秀次事件に連座して切腹、改易となり、代わって小出吉政が城主となる。慶長9年(1604年)、小出吉政の子、吉英が有子山城を引き継ぐが、山麓の居館を拡充して出石城とし、そこを居城とした。有子山城はその後も詰めの城として整備されていたようだが、元和元年(1615年)に施行された一国一城令を受けて、廃城になった模様である。現代でも、有子山城の本丸には、織田、豊臣時代に築かれた石垣が良好な状態で残されており、そこから見下ろす出石の町並みもまた、壮観である。


有子山城
有子山城 posted by (C)重家

↑登山口

出石城の鳥居を登り切った所に、有子山城の登山口があります。


有子山城
有子山城 posted by (C)重家

↑登山道

結構、急峻な登りが続きます。


有子山城
有子山城 posted by (C)重家

↑石垣

山上まで登りきると、まずこの石垣が目に入ってきます。


有子山城
有子山城 posted by (C)重家

↑本丸石垣


有子山城
有子山城 posted by (C)重家

↑本丸からの眺め

眼下に広がるのは出石の町並みで、中央遠くに写る山は、かつての山名氏の本拠、此隅山城です。


有子山城
有子山城 posted by (C)重家

↑本丸からの眺め


有子山城
有子山城 posted by (C)重家

↑大堀切

本丸と千畳敷を隔てる、巨大な堀切です。鋭い切り込みで、斜面を直登するのは非常に困難です。


有子山城
有子山城 posted by (C)重家

↑千畳敷

山上とは思えないほど、広大な空間が広がっています。かつて、ここには城主の館が建っていたのでしょう。

有子山城
有子山城 posted by (C)重家


有子山城
有子山城 posted by (C)重家


有子山城を訪れたなら、立派な石垣、巨大な大堀切、広大な千畳敷、それと本丸からの眺めを堪能して頂きたいですね。

豊臣秀次の菩提寺、瑞泉寺

文禄4年(1595年)7月8日、豊臣秀吉の甥で、その養子となっていた豊臣秀次は、謀反の嫌疑をかけられ、高野山に追放される。そして、同年7月15日、秀次は、金剛峯寺の柳の間にて腹を切り、28歳の生涯を閉じた。続いて秀吉は、秀次の妻子を殺害するよう命じる。秀次の正室で池田輝政の妹である若政所だけは輝政の元へと送り返されたが、側室とその子供達は許されず、斬首刑と決まった。それを聞いた妻女達は声を限りに嘆き悲しんだが、最早どうする事も出来ぬ身と悟ると、死出の旅支度を始め、沐浴をして身を清め、親しい人に遺書と遺品を残した。


8月2日、妻女達は牛車に乗せられ、市中を引き廻されて、三条大橋西南の河原に連れ出された。妻女らはそこで、塚の上に据えられた秀次の首と体面して、涙を新たにした。彼女達の哀れな姿には見物人も涙を禁じえず、警護の武士すら嗚咽した。正午頃から刑の執行は始まり、まず、秀次の遺児である男児4人と女児1人が、生母の手からむしり取られて刺し殺され、続いて、側室の上位である一の台を最初として、合計39人の婦女子が順番に斬首されていった。


11番目に斬首されたのは、出羽の大名、最上義光の息女、おいまの方(駒姫)であった。おいまの方は、東北山形から長旅をして7月に京都に到着したばかりで、秀次に対面する間も無いまま、この凶事に巻き込まれたのだった。おいまの方は東国一の美女と謳われていたが、蕾のまま、15歳で命を絶たれた。愛娘の死を聞いた最上義光は絶句し、義光夫人は8月16日に後追い自殺と思われる急死を遂げる。妻女達の遺骸は、刑場の脇に掘られた穴に無造作に放り込まれてゆき、そこに大きな塚が築かれた。


塚の頂上には、秀次の首を納めた石びつが据えられ、側に置かれた石塔には、秀次悪逆の塚と刻まれた。この異様な塚は、三条大橋を往来する人々の前に見せしめとして晒され、それは、江戸時代初期の洛中洛外図(舟木本)にも描かれている。花を手向ける者もいないその塚は、その後、鴨川の洪水を受けるなどして、荒れ果てるにまかされた。また、秀次が居住していた聚楽第や近江八幡城も破却され、秀次の痕跡はこの世から抹消されていった。


秀次は、なかなか実子に恵まれない秀吉に養子として迎え入れられ、武将としても政治家としてもまずまずの実績を残して、最有力の後継候補となっていた。しかし、秀吉に実子である秀頼が誕生すると、秀次は次第に疎まれるようになった。そして、秀次は数々の悪行を犯した挙句、謀反を企んだとして、切腹に追い込まれたのだった。秀次は20人以上の側室を抱えており、中でも、31歳の一の台と、その連れ子である13歳のお宮の方を母子揃って側室にするなど、養父、秀吉に劣らない好色振りを示していた。


秀次は品行方正では無かったかもしれないが、それでも、ここまで養父秀吉に忠実に従って、その天下制覇に貢献しており、謀反を企むような人物であったとは思えない。やはり、秀吉が我が子可愛さゆえに秀次の粛清を図ったと見るのが普通で、それに加えて豊臣政権内の内部対立も手伝って、死に追い込まれたのであろう。その処罰を正当化するため、数々の悪行を犯したとの流言が流され、秀次には殺生関白の汚名が着せられた。


慶長16年(1611年)、京都の豪商、角倉了以は、運河である高瀬川の開削工事に取り掛かった際、秀次悪逆塚と刻まれた石塔と、無残に荒廃した塚を見つける。了以は、秀次とその一族の悲運を思い、彼らの魂を慰めるべく、塚のあった場所に寺院を建立した。これが瑞泉寺の始まりで、瑞泉とは秀次の戒名の事である。現在、瑞泉寺は京都の街並みにひっそりと佇み、悲劇の歴史を今に伝えている。

 



瑞泉寺
瑞泉寺 posted by (C)重家

↑瑞泉寺


瑞泉寺は、豊臣秀次の菩提を弔うために建てられた寺で、鴨川の畔、三条大橋のすぐ側にあります。京都の街中にありますが、ここだけは静かで、悲しみを湛えた厳かな空気が漂っています。


瑞泉寺
瑞泉寺 posted by (C)重家

↑豊臣秀次の墓

中央の石びつには、秀次の首が納められていました。


瑞泉寺
瑞泉寺 posted by (C)重家

↑秀次と5人の殉死者


瑞泉寺
瑞泉寺 posted by (C)重家

↑処刑された秀次の妻子達


瑞泉寺
瑞泉寺 posted by (C)重家

↑洛中洛外図に描かれた塚


三条河原
三条河原 posted by (C)重家

↑現在の三条大橋

過去も現在も大勢の人が行き交う橋で、未来もそれは変わらないでしょう。


三条河原
三条河原 posted by (C)重家

↑三条大橋の袂下にある古い石仏

かつての三条河原は、処刑場として使われていました。ここでは大盗賊の石川五右衛門が釜茹でにされて処刑されており、戦国武将の石田三成も六条河原で処刑された後、その首は三条河原で晒されています。また、新撰組の近藤勇も東京の板橋で斬首された後、その首は三条河原まで運ばれて晒されています。その他にも、名も無き多くの罪人がこの地で処刑されたり、首が晒された事でしょう。上記の石仏はそういった罪人達を弔うために、置かれたのでしょう。


三条河原
三条河原 posted by (C)重家

↑三条河原

かつての鴨川は幾筋かに分かれて流れており、この辺りは大きな中州であったそうです。その荒れた河原で、秀次の妻子達は殺されました。そんな凄惨な事件も時の流れと共に忘れ去られ、橋を行き交う人々は何事も無かったかのように通り過ぎて行きます。そして、現在の三条河原は人々の憩いの場となって、穏やかな空気に包まれています。悲運に泣いた彼女達の魂も、今は安らかな眠りについている事を祈ります。

 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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