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鳥取城 前

鳥取城は、天文年間(1532~1555年)に因幡の守護である山名氏によって築かれた山城である。鳥取城は山名氏の出城として作られたが、次第に拡張され、因幡の主城と目されるようになる。山名氏は名門の出で、かつては山陰の大勢力であったが、山名豊国(1548~1626)の代には毛利氏に屈し、その傘下に入る。しかし、天正8年(1580年)より、織田家の勢力が山陰にまで及んでくると、豊国は織田家に鞍替えしようとする。すると、それに反発した山名家重臣、森下道与、中村春続らによって、豊国は鳥取城から追放されてしまった。そして、森下、中村らは、毛利家の重鎮、吉川元春に新たな城主の派遣を請うた。当時の吉川元春は、毛利家の山陰方面を統括していた。


天正9年(1581年)3月、元春は、この山名重臣の要請に応じ、吉川一門から、良将として名高い吉川経家を鳥取城に派遣した。経家は出陣するにあたって所領を子息に譲っており、死を覚悟の上での出陣であった。織田家の部将、羽柴秀吉による山陰攻めは間近に迫っており、経家は城に到着するや、直ちに篭城の準備に取り掛かった。だが、経家は城内を見廻して、兵糧備蓄の少なさに愕然とする。これは、秀吉が予め、高値をもって因幡の米を買い占めていた結果であった。


経家は上方に間者を送るなどして、情報収集に務めた結果、上方の軍勢が襲来するのは7月頃であると分析した。そして、上方の軍は、積雪の厳しい山陰の冬が到来する11月頃には撤退すると読んで、自身は翌年の3月までは篭城する決意でいた。これは見事な読みであったが、その篭城の裏付けとなる兵糧が絶対的に足りなかった。しかも配下の因幡武士からは、兵糧を求める不満の声が挙がって、城内に不穏な空気が漲っていた。経家は自ら説得して回り、城内の意思統一に務めつつ、幾度となく本国に兵糧輸送を打診した。しかし、元春は、備前の戦国大名、宇喜多直家との戦いに忙殺され、なかなか支援に応じる事が出来なかった。


それに鳥取城と元春の本拠、出雲との間には、織田方の羽衣石城が立ちはだかっていた。羽衣石城主の南条元続は、当初、毛利家に従っていたが、織田家の勢力が山陰にまで伸びてくると、これに鞍替えしたのである。そのため、陸路からの兵糧輸送は困難で、海路を用いる以外に手はなかった。対宇喜多戦での兵糧消耗に加え、羽衣石城による兵糧輸送の妨害もあって、元春は鳥取城への支援を後回しにする。この頃、経家は実家の家臣宛てに手紙を出しており、その中で、兵糧さえあれば全ての問題は解決するのにと嘆きの声を上げている。そうこうしている内に、秀吉軍の侵攻が始まった。


天正8年(1581年)6月25日、秀吉は姫路城を出立し、経家の読み通り、7月7日に鳥取表に到着する。そして、鳥取城東方の山に本陣を置くと、約12キロに渡って土塁や柵を廻らし、徹底的な封鎖を試みる。鳥取城は久松山(きゅうしょうざん)と云う山全体を城域としており、麓にも二つの出城がある大要害であった。このような城に力攻めを加えるのは愚の骨頂であり、秀吉は最初から兵糧攻めにする心積もりであった。この時、秀吉軍の戦力は2万人余で、鳥取城の戦力は、将兵1千人に非戦闘員2千人の合わせて3千人余であった。非戦闘員2千人は秀吉軍によって追い立てられ、城に逃げ込んだ民衆であった。


篭城が始まって1ヶ月余、城内では早くも飢餓が始まった。7月、吉川経家の父、経安は息子の苦闘を案じ、元春に銀子100枚を献上して、鳥取城への兵糧輸送を懇願する。これを受けて、元春はようやく本腰を上げて兵糧輸送に取り掛かった。元春は、名将と讃えられているが、この対応の遅さには疑問を感じざるを得ない。元春は石見銀山を押さえていたはずであるが、それでも財政は火の車であったのであろうか。一方、秀吉の方でも兵糧不足が深刻化しており、信長に願い出て、兵糧輸送を頼み出ている。天正8年(1581年)8月半ば、海路を通じて織田本国からの兵糧が秀吉の元に届いた。それから程なくして、元春からの兵糧を満載した船団も鳥取城の沖合いに現れた。ところが毛利船団は、丁度、兵糧を積み降ろして身軽になった織田船団とぶつかってしまい、無残な敗北を喫してしまう。これで、海上からの鳥取城への補給の見込みは、完全に無くなった。


元春は今度は、陸路から鳥取城を救わんと進撃したが、その途上、南条元続が篭る羽衣石城で足止めされてしまう。経家は、この元春の軍が駆け付けてくれる事を信じて篭城を続けた。鳥取城では兵糧が尽きると、人々は始めは草木の葉や稲株を食した。やがてそれらも尽きると、今度は牛馬を裂いて食した。それも無くなると、ぽつぽつと餓死者が出始める。そして、幽鬼の如く痩せ衰えた男女は、包囲軍の柵に取りすがり、泣いて助命を乞うた。だが、秀吉は、それに対して火縄銃の射撃で応じた。弾を受けて倒れた者に、痩せ衰えた人々が群がり寄せ、刃物を手に取って、争って肉を食い漁る様は、まさに地獄絵図であった。特に頭部は奪い合いになったと云う。この世のものとは思えない惨状を目の当たりにして、経家は開城を決した。


経家は自らの切腹をもって、城内全ての人々の助命を請うた。これに対して秀吉は、雇われ城主である経家に責任は問わず、切腹すべきは、山名家の重臣でありながら主を追い出した森下道与、中村春続の2人にあると答えた。だが、経家はあくまで責任は自分1人にあると主張し、森下道与、中村春続らを庇ったため、交渉は難航する。同年10月24日森下道与、中村春続は自分達の存在が、経家と篭城者を苦しめていると感じ、切腹して果てた。これを受けても経家は、篭城の総責任者として切腹する心積もりは変わらなかった。


経家は切腹を前にして、父と子宛てに遺書を残している。これは、経家が父、経安に宛てた遺書である。

「去る7月12日、羽柴秀吉が鳥取城に攻め寄せてまいりました。昼夜200日余に渡って堅固に城を守ってきたものの、今に至っては兵糧も尽き果てました。この上は、私が腹を切り、諸人の命を助けたいと存じます。それによって、吉川一門の名誉ともなるでしょう」 

200日余と云うのは、経家が3月に入城した時からの日数である。開城した後、経家は行水で体を清め、死に装束を身にまとうと、具足の前に正座する。そして、時世の句を書き記し、別れの杯を飲み干した。それを終えると、別室に控える秀吉の検使に、「突然の事ゆえ、無調法があるやもしれません」と大声で呼びかけ、2、3高笑いを残すと、腹を真一文字に切って果てた。吉川経家、享年35。
 

天正8年(1581年)10月25日、吉川経家と森下道与、中村春続の首は秀吉の陣所へと届けられた。これによって、3ヶ月に渡っての鳥取城の篭城は終わりを告げる。過酷な篭城から解放され、痩せ衰えた人々が城からよろめき出るのを見て、包囲軍は炊き出しを振舞った。しかし、弱った胃に急に大量の食物を流し込んだため、大勢の者が死んでしまう。戦後、鳥取城では、雨の夜の日にはうめき声が聞こえるとか、幽鬼が現れるといった噂が流れた。


鳥取城は、その後、秀吉の部将であった宮部継潤とその子、長房の居城となった。慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦において、長房は西軍に付いたため、改易となった。代わって入封したのは、池田輝政の弟、長吉で、この時に鳥取城は近世城郭に改められた。元和3年(1617年)、池田輝政の孫、光政が32万5千石で入封する。以後代々、鳥取城は池田家の居城として用いられると共に、増改築されていった。明治の世を迎えると、鳥取城も他の例に漏れず、順次、取り壊されていった。現在、鳥取城は地元の人々の憩いの場所として賑わっている。しかし、その光の影には、暗い歴史も埋もれている。
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