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大阪城 前

大阪は、古代より商業、交通の一大要衝として栄えており、繁栄を約束された地であった。そして、戦国時代、この地に初めて本格的な城郭を築いたのが、浄土真宗(一向宗)の僧侶、本願寺蓮如である。明応5年(1496年)、蓮如は、天然の要害である上町台地に大伽藍を築いて、ここを教団の本拠と定めた。堀を巡らし、櫓(やぐら)の役割を果たす堂塔を100以上建設し、更にそれを多数の坊官が守りを固める、鉄壁の構えであった。これが、石山本願寺の始まりである。本願寺は大阪に万全たる地盤を築いたかに見えたが、戦国の風雲児、織田信長が畿内に突如として現れて、本願寺に圧迫を加えてきた。時の本願寺法主、顕如はこれに強い不満と不安を抱き、そして元亀元年(1570年)9月、敢然と戦いを挑んだ。


本願寺は、有力戦国大名並の戦力を有していおり、他の戦国大名とも結んで信長を散々に苦しめた。だが、信長も底力を発揮して各個撃破で、本願寺の力を徐々に削いでゆき、とうとう石山本願寺を包囲するに到った。信長は数万の大軍をもって、本願寺を封じ込めたが、それでも力攻めで落とすのは不可能であって、根気強く、数年がかりの兵糧攻めで追い詰めていった。天正8年(1580年)、10年に渡る攻防の末、本願寺はついに石山の地を明け渡した。信長は苦労して手に入れたこの地に、一大城郭を築く予定であった。それは安土城を越える奇抜かつ壮麗な城となり、織田一族の居城にして、日本統治の拠点ともなっていただろう。しかし、その雄大な構想は、本能寺の変を受けて信長と共に消え去った。天正11年(1583年)、信長亡き後、その勢力範囲と統一事業を受け継いだ羽柴秀吉は、名実共に天下人たらんとして、石山の地に一大城郭の建設を開始する。


秀吉は諸大名、武士、農民を大動員して、天正13年(1585年)春には、華麗な天守閣と御殿を完成させた。九州の戦国大名、大友宗麟が秀吉に支援を求めて訪ねて来た際、この大阪城を案内されている。御殿の壁は、狩野永徳の手によって金箔を押された絵画が描かれ、天守閣の蔵には、金銀、宝物が山の様に収められていた。宗麟は、大阪城の規模と絢爛豪華振りに驚愕し、三国無双の城であると感嘆した。このような大城郭は、圧倒的な富と権力を持つ者にしか実現し得ないものであった。それを諸大名に見せ付ける事によって、力の格差を思い知らせ、戦わずして従わせる。これこそ、秀吉の意図するところであった。


大阪城の拡張工事は以後も続けられ、文禄4年(1594年)からは町屋も囲む長大な惣構(そうがまえ)の築造が始まり、秀吉死去の年、慶長3年(1598年)からは4年の歳月をかけて三の丸が築造され、豊臣家の繁栄と守護の象徴たる、大阪城は完成を見た。だが、秀吉の死と同時に、豊臣家の前途に暗雲が立ちこみ始める。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで東軍が勝利を収めると、天下の権の大部分は徳川家の手に移り、豊臣家の勢力は大きく後退した。一般的には、この時点で豊臣家は65万石の一大名に転落したと思われがちであるが、これは直轄地であって、豊臣家臣の知行地は西国各地に散らばっており、これらを合わせれば、実際の石高はもっと上であった。それに豊臣家は、高い家格、天下の巨城たる大阪城、莫大な資金を有しており、なにより、天下の台所とも呼ばれる物流と商業の一大拠点、大阪の地を押させているのが強みであった。 徳川家にとって、豊臣家は今だ脅威であった


豊臣家は一方の旗頭になるだけの潜在力をまだ秘めており、これに徳川家に不満を持つ外様大名が集まったなら、関ヶ原の様な大戦が再び起こらないとも限らなかった。それこそ、家康の最も危惧するところであったろう。その危惧を断つには家康の目が黒い内に、豊臣家を大阪から転封させるか、秀頼を江戸に置いて統制下に置くか、根絶やしにする他、無かった。しかし、名分も無しに要求を突きつける事は出来ず、家康はじっとその機会を窺った。そして、慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件が起こると、家康はこれを絶好の機会と捉えて、豊臣家に要求を突きつけた。すなわち、大阪城を立ち退いて転封するか、秀頼か淀殿のどちらかが江戸に住まうよう求めたのだった。勿論、豊臣秀頼とその母、淀殿はこの申し出を峻拒する。豊臣家は、恩顧の大名ならば、馳せ参じてくれると見込んでいたようだ。しかし、徳川家の力、特に家康の力を知る諸大名は、全てがその命に従った。こうして、戦国最後の争乱、大阪の陣が始まった。


慶長19年(1614年)11月、徳川方20万人余が大阪に押し寄せ、城に篭る豊臣方10万人余を取り囲んだ。過去、家康は幾度となくこの大阪城に滞在しており、その堅牢さは分かりきっていた。そこで、無理攻めはせず、大音響が轟く大筒を日々、撃ち放ち、夜中に諸軍に大声で喊声を上げさせるなど、心理戦で豊臣方を追い詰めていった。この冬の陣は、全体的には平易に推移している様に見えるが、局地的には幾つか合戦が行われており、日々の鉄砲の撃ち合いも激しいものがあった。同年12月、両軍共、余りの大軍であるので、兵糧の欠乏に苦しみ始め、和平の機運が高まってくる。そして、豊臣方が大阪城の主要部を破却する事を条件に、徳川方は、秀頼、淀殿の関東下向は求めず、その本領を安堵する事として、和平は成った。この時の和議で大阪城は、二の丸、三の丸、惣構が破却され、外掘も埋められた。


だが、これが危うい和平である事は、誰の目にも明らかであった。事実、家康は和平締結後、すぐに大筒の製造を命じている。そして、豊臣方の浪人が不穏な動きをしているとの風聞が伝わってくると、家康はすぐさま反応し、浪人を全て放逐するか、転封するかのどちらかを選択せねば、豊臣家を追討すると最後通牒した。だが、どちらも豊臣家にとっては、受け入れ難い条件であった。例え、これを受け入れたとしても、約束が忠実に履行されるとは限らず、後に難癖を付けられて取り潰しに合えば、不名誉極まりない。そう思い定めた秀頼は、戦って潔い最期を迎える方が良しとした。そして、両家は最後の対決の時を迎える。


慶長20年(1615年)5月、徳川方15万5千人余が大阪の地に集結し、これを豊臣方5万5千人余が迎え撃つ。両軍共、先年よりは兵数は減少しているが、戦意は遥かに上回っていた。徳川家は最終勝利者として戦国の世を終わらせるべく、豊臣家はそれに最後の一矢を報い、あわよくば過去の栄光を取り戻すべく、戦場へと赴いた。だが、大阪城はすでに防御機能を失っており、豊臣方は劣勢な兵力を率いて、一か八かの決戦を挑む以外に手は無かった。


5月7日、豊臣方は、真田信繁(幸村)、毛利勝永らが突進を開始し、凄まじい気迫と勢いで徳川方の大軍を突き破っていった。そして、家康本陣まで乱入するも、あと一押しの力が足らず、力尽きたのだった。この後、豊臣軍は崩壊し、徳川軍10数万人が一斉に大阪城に乱入した。これを受けて万を越える避難民、武士らが落人狩りにあって命を落とすか、川を渡りきれずに溺死していった。この未曾有の惨劇の様子は、後の「大坂夏の陣図屏風」に克明に写し出されている。大阪城とその周辺は大炎上し、京都からも見えるほど、夜空を赤く染め上げた。翌5月8日、秀頼と淀殿は山里曲輪(やまざとくるわ)の一角に身を潜めていたが、最後の助命嘆願も無視され、自刃を余儀なくされた。ここに豊臣家は、大阪城諸共、滅び去ったのだった。


戦後、大阪は徳川家の直轄領となり、元和20年(1620年)より城の再建が始められる。そして、寛永6年(1629年)、新たな大阪城の完成を見る。徳川家による再建は、豊臣家の痕跡を消すが如く、徹底的に改築されたものであった。秀吉が築いた石垣は埋め立てられ、天守、堀、石垣の位置や形も大きく変更された。徳川時代の大阪城は、外郭線など城域は豊臣時代より縮小されたが、天守閣と石垣はより壮大なものとなった。だが、寛文5年(1665年)、落雷によって天守閣が焼失してしまうと、以後、再建される事は無かった。城の象徴たる天守閣は失ったものの、大阪城の戦略的な価値はいささかも衰えず、徳川幕府の西の要として重視された。


慶応3年(1868年)、明治維新が起こると、大阪城もその動乱の渦中に落ち、歴史ある建造物の多くが焼失してしまう。明治の世を迎えると、大阪城は陸軍の管轄地となり、鎮守府が置かれた。昭和6年(1931年)、大阪城の天守閣は、鉄筋コンクリート製で再建される。昭和20年(1945年)3月、大阪城は陸軍の拠点となっていた事から、米軍の爆撃目標となり、大空襲を受ける。この空襲によって、残されていた幾つかの歴史建造物が焼失してしまうが、天守閣自体は無事であった。戦後、大阪城は一時、米軍の駐屯地となったが、昭和23年(1948年)に返還され、大阪城公園として整備された。天守閣はコンクリート製とは言え、昭和初期の近代建造物としての評価は高く、国の登録有形文化財に指定されて現在に至っている。激動の世に翻弄されつつ、大阪城は今もそこに在り続ける。

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