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飛騨松倉城

飛騨松倉城は、岐阜県高山市にある山城である。


松倉城は、天正7年(1579年)、飛騨の戦国大名、姉小路頼綱(あねがこうじ よりつな)によって築かれた。天文9年(1540年)、頼綱は、飛騨南部を支配していた三木良頼の嫡男として生まれる。頼綱も当初は、三木と名乗っていたが、父の政治活動によって、飛騨国司、姉小路氏の名跡を得ると、姉小路頼綱と名乗るようになった。元亀元年(1570年)2月、頼綱は上洛して、織田信長と誼(よしみ)を通じたが、同時に上杉謙信にも通じて、両属する姿勢を取っていた。だが、天正6年(1578年)3月、謙信が病没すると、頼綱は上杉家から離れ、同年10月の織田家による、越中侵攻に協力した。


天正7年(1579年)、頼綱は飛騨を統一すべく、大きく動き出す。まずは、松倉城を築いて、ここを新たな本拠と定めた。続いて、織田家の力を後ろ盾として、親上杉派の国人達を討ち滅ぼしていった。また、この年、頼綱は、長男である、姉小路信綱に謀反の疑いをかけて謀殺したとされている(1583年の出来事とも)。だが、飛騨北部にはまだ、最大の競争相手である、江馬輝盛が残っていた。天正10年(1582年)6月、織田信長が横死すると、輝盛は挙兵して、飛騨の覇権を賭けて、頼綱に決戦を挑んだ。両軍の兵数は不明だが、江戸時代の軍紀「飛州軍乱記」によれば、姉小路方1,000人、江馬方は300人であったと云う。勢力的に見て、姉小路方が上回っていただろう。


同年10月26日午前2時、兵力で劣る江馬軍は機先を制して、姉小路方の支城、小島城に夜襲を仕掛けた。だが、案に相違して激しく応戦され、江馬軍は退却する。翌日、頼綱は江馬軍を追って進軍、八日市にて激突し、輝盛を討ち取った。更に、江馬氏の本拠、高原諏訪(たかはらすわ)城をも落とし、頼綱の飛騨統一は大きく前進する。翌天正11年(1583年)、頼綱は仕上げとして、実弟の鍋山顕綱を暗殺(この時に、長男の信綱を暗殺したとも)、更に同盟者であった広瀬宗域も攻め滅ぼし、ここに頼綱の飛騨統一は(白川郷の内ヶ島氏を除き)、完成を見る。そして、頼綱は、家督と松倉城を次男の秀綱に譲り、自らは北方の広瀬城に居を定めた。


天正12年(1584年)、豊臣秀吉と、徳川家康、織田信雄との対決、小牧・長久手の戦いが起きると、頼綱は越中の同盟者、佐々成政と共に、徳川、織田陣営に付いた。しかし、織田信雄が秀吉と単独講和してしまい、徳川家康もそれに続くと、頼綱と佐々成政は孤立してしまう。天正13年(1585年)7月、秀吉は自ら大軍を率いて、越中の佐々成政を攻め立て、飛騨の頼綱には、部将の金森長近の軍を差し向けた。二方面から進軍して来る金森軍に対し、頼綱は各支城に一族、重臣を篭めて待ち受けた。


姉小路方は防戦に務めたものの、衆寡敵せず、次々に支城は落ちていった。広瀬城も攻め立てられ、頼綱は降伏する。一方、嫡男の秀綱は降伏を良しとせず、松倉城に篭もって、尚も抵抗を続けた。だが、同年8月、秀綱は、守り切れないと見て城を落ち延び、信濃を目指さんとした。秀綱と夫人は険しい山中の道に分け入り、標高1790メートルの安房峠(あぼうとうげ)を越え、ようやく信濃の地に入った。


だが、山深い角ヶ平の地にて、住民の落ち武者狩りに遭い、夫妻諸共、殺された(夫妻は二手に分かれて進み、それぞれの地で最後を遂げたとも)。秀綱と夫人の逃避行は、幾つかの伝説を残し、その遺品は、現在にまで伝えられている。一方、頼綱は助命され、京都に幽閉された。しかし、大名としての、姉小路氏はここに滅亡する。頼綱が生涯を費やし、更に血族をも犠牲にして成し遂げた飛騨統一は、脆くも崩れ去った。天正15年(1587年)、姉小路頼綱、死去。享年48。


頼綱の夢の跡、松倉城であるが、その後、金森長近の支配する所となり、石垣を有する織豊系城郭へと変貌を遂げた。だが、天正16年(1588年)、長近が新たに高山城を築き、そこを居城とした事から、廃城となった。























↑本丸石垣




↑本丸



↑本丸から北東を望む





↑本丸から北西を望む





↑本丸から南を望む





↑南石門跡



松倉城からは、高山盆地を一望する事が出来ます。ここから、眼下を見渡したなら、少しばかり飛騨の支配者になった気持ちがするでしょう。

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高山陣屋

高山陣屋とは、岐阜県高山市にある、徳川幕府の郡代役所である。御役所、郡代役宅、御蔵などの建物群を合わせて、高山陣屋と称されている。


元禄5年(1692年)、徳川幕府は、飛騨国を統治していた、金森氏を出羽国上山に転封させ、代わって飛騨国を直轄領に組み込んだ。そして、金森氏の下屋敷(大名屋敷)を整備して、統治拠点とした。当初は、代官が送り込まれて代官所として用いられていたが、安永年(1777)年、郡代所に昇格した。明治の世を迎えると、そのまま地方官庁として用いられ、昭和44年(1969年)に到るまで、利用されてきた。ここで、岐阜県教育委員会は、日本に現存する唯一の代官、郡代所である、高山陣屋を保存する方針を固め、16年の歳月と20億円の費用を費やして、平成8年(1996年)3月、修復、復元工事が完了した。



高山陣屋
高山陣屋 posted by (C)重家

↑高山陣屋

高山陣屋と言えば、あの紫の幕が印象的です。


高山陣屋
高山陣屋 posted by (C)重家

↑御役所(おんやくしょ)

郡代、手付(下級役人)が執務する部屋です。




高山陣屋
高山陣屋 posted by (C)重家

↑嵐山之間

郡代が生活をした場所です。



高山陣屋
高山陣屋 posted by (C)重家

↑台所




高山陣屋
高山陣屋 posted by (C)重家

↑役宅の庭園



高山陣屋
高山陣屋 posted by (C)重家


高山陣屋
高山陣屋 posted by (C)重家

↑広間

ここでは、公的な会議が催されたとあります。



高山陣屋
高山陣屋 posted by (C)重家

↑御白洲

拷問道具が並べられています。極僅かですが、こういう事をされて喜ぶ人がいますね。



高山陣屋
高山陣屋 posted by (C)重家


高山陣屋
高山陣屋 posted by (C)重家

↑御蔵(おんくら)

奥にある建物は、年貢米の蔵として用いられていました。現在は、博物館になっています。



高山陣屋の前では、毎日、朝市が開かれており、高山の見所の1つとなっています。

越前大野城

越前大野城は、福井県大野市にある平山城である。



大野城は、天正4年(1576年)、織田家の部将、金森長近によって築かれたのが、最初となる。城は、標高249メートルの亀山の山頂に築かれ、野面積みの石垣の上に、2層3階の天守閣が置かれた。その後、城主は次々に入れ替わるが、天和2年(1682年)、大老、土井利勝の子、利房が入ってからは、以後代々、土井氏が城主を務めた。安永4年(1775年)、野口村から出火した火災が、城下1,400軒を焼く大火となって、大野城にも飛び火、天守閣を含む本丸を焼失した。寛政7年(1795年)、本丸は再建されたが、明治6年(1873年)、明治政府による廃城令によって、建物は取り壊された。昭和43年(1968年)、鉄筋コンクリート製の天守閣が復元されて、現在に到る。





↑麓から見た、大野城





↑城門





↑お福池





↑西を望む





↑東を望む





↑南を望む





↑北を望む






↑天守台の石垣




↑天守閣


越前大野城は、雲海に浮かぶ天空の城として知られており、福井県の名所ともなっています。しかし、個人的にはやはり、鉄筋コンクリート製の天守閣は頂けず、いずれは木製で復元してもらいたいです。




↑朝倉義景の墓所


大野城から歩いて、15分ほどの所にあります。 朝倉義景とは、かつて、越前国を支配していた戦国大名で、周辺国にも大きな影響を及ぼすほどの大大名でした。しかし、天正元年(1573年)、織田信長に大敗を喫した事から、本拠の一乗谷も危うくなり、一族の朝倉景鏡を頼って、越前大野の賢松寺へと逃れます。ところが、ここで景鏡の裏切りを受けて、賢松寺は200騎の武士に取り囲まれ、その中で無念の自刃となりました。賢松寺はその後、廃寺となりましたが、義景の墓所は現代でも、市街地の一角にひっそりと佇んでいます。

由良要塞の遺構、友ヶ島

友ヶ島とは、和歌山県和歌山市の沖に浮かぶ無人島です。かつて、ここには大日本帝国の要塞が築かれていました。



由良要塞とは、明治政府が外国からの侵攻に備えて建設した要塞の1つで、紀伊半島と淡路島の間にある、紀淡海峡周辺に築かれたものである。淡路島の由良地区・和歌山県の友ヶ島地区・和歌山県の加太、深山地区・鳴戸海峡防備を担う鳴戸地区(淡路島門崎に置かれた砲台)の4地区を合わせて、由良要塞と称された。由良要塞は、大阪湾への敵艦侵入に備え、第二次大戦まで臨戦態勢にあったが、終戦を受けて撤去された。





↑20,3cm砲弾








↑第二砲台跡

終戦による爆破を受けて、半壊しています。




↑展望台からの眺め

向こうに見える島は、淡路島です。あちら側にも要塞が築かれていて、この紀淡海峡の防備にあたりました。





↑第三砲台跡

友ヶ島各所にある砲台跡の中で、最も見応えのある遺構です。トンネル内を散策する事も出来ます。内部は薄暗いので、懐中電灯か携帯のライトを使用した方が良いです。私もペンライトを片手に、内部を見学してきました。





↑砲台内

トンネル左奥に、中に入っていく通路があって、そこも見学してきました。観光客は結構、大勢いたので、賑やかでしたが、それでも不気味さは否めなかったです。






↑第三砲台跡

中央、奥に見えるトンネルに入って行きます





↑トンネル内

前に見えるのは、この世の人です。




↑第三砲台跡

この辺りの遺構が、最も廃墟っぽくて、趣きがありました。





↑第三砲台内部

ここは弾薬庫だったのでしょう。




↑将校宿舎跡


内部は朽ちています。



友ヶ島は小さな無人島ですが、実際に歩き回って見ると、思いの他、広く感じました。飲み物は桟橋付近に売っていましたが、夏に散策する場合は、島に渡る前に大きなペットボトルを買っておいた方が良いでしょう。トイレは所々にありました。この島に渡るには、船を使う他ありませんが、時刻と便数が限られているので、よく確認してから渡りましょう。第三砲台の廃墟の雰囲気と、展望台からの眺めはとても良かったです。

波賀城

波賀城は、兵庫県宍粟市にある山城である。


伝承によれば、その昔、波賀七朗なる武士がこの地に城を築いたのが最初とされる。13世紀中頃には、鎌倉幕府御家人の中村氏がこの地に入り、戦国時代末期に至るまで治めていた。その後、天正8年(1580年)、羽柴秀吉による播磨攻めの際に落城したと思われる。波賀城の歴史は不確かで、廃城の時期も定かではない。















↑二層櫓





↑二層櫓





↑二層櫓内部

木造建築で、ちょっとした資料館となっています。





↑北西を望む






↑西を望む




↑南西を望む

波賀城が、三つの街道を制する位置にある事が分かります。




↑北を望む






波賀城の人影はまばらで、眼下に広がる景色を静かに堪能出来ました。11月初旬であったにも関わらず、まだツクツクボウシが一匹だけ鳴いていました。

 プロフィール 
重家 
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重家
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男性
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史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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