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鶉野飛行場(うずらのひこうじょう)と紫電改

鶉野飛行場は、兵庫県加西市にある、旧日本軍が建設した飛行場である。



昭和17年(1942年)9月、練習航空隊の設置が決まり、翌昭和18年(1943年)3月より建設工事が始まる。同年10月1日、姫路海軍航空隊が開隊され、同年10月8日より、飛行訓練が始まる。昭和19年(1944年)6月、鶉野にて、川西航空機の組立工場が建設され、姫路製作所から運ばれて来た機材の組立が始まる。そして、局地戦闘機、紫電466機、紫電改44機が組み立てられて、試験飛行を行った後、各地の前線飛行場へと運ばれていった。



昭和20年(1945年)2月10日、姫路海軍航空隊の教官や訓練生から、神風特別攻撃隊が編成され、姫路城の別名「白鷺城」にちなんで、「白鷺(はくろたい)」と命名された。同年3月23日、白鷺隊は大分県の宇佐海軍航空隊に移動し、更に鹿児島県の串良基地へと進出した。そして、同年4月6日より始まった第一号~第六号菊水作戦に加わって、21機63名の若き搭乗員が散っていった。同年8月15日、終戦を迎えてほどなく、飛行場は閉鎖された。



現在、滑走路は道路によって分断されているが、現状をよく留めており、掩体壕、戦闘指揮所、対空機銃座、防空壕なども残されている。令和元年(2019年)6月より、敷地内にある防災備蓄倉庫にて、紫電改の実物大模型の展示が始まった(屋外展示は毎月第1日曜、第3日曜、展示時間10~15時)。






↑鶉野飛行場跡







↑平和記念の碑






↑紫電改の実物大模型

紫電改を一見して思ったのは、機体は大柄なのにプロペラ直径が小さいと感じたことです。プロペラ直径を長くすれば、もっと高性能が発揮できたのではと、想像しました。

紫電改のプロペラ直径は3・3m

アメリカ海軍のF6Fヘルキャット戦闘機のプロペラ直径は3・99m




↑紫電改の実物大模型

ややアップ




↑紫電改の実物大模型

エンジンを最大直径として、そこから胴体を絞り込んでいるのが分かります。





↑紫電改の実物大模型




↑紫電改の実物大模型


川西 局地戦闘機 紫電改

性能要目

乗員1名

全長9・37m

全幅11・99m

発動機1990馬力

最高速度644km

航続距離(正規)1,715km (増槽装着時)2,392km

自重2,657kg 正規全備重量3,800kg

武装20mm機銃4挺(携行弾数内側各200発、外側各250発)

爆装 250kg爆弾2発 60kg爆弾2発

生産機数415機



紫電改は、局地戦闘機、紫電の改良型として昭和18年(1943年)1月から設計が始まり、昭和20年(1945年)1月に制式化された。前身となった紫電は、水上戦闘機、強風を母体として開発された。制作元の川西によれば、強風を陸上機化すれば、短期間で高性能戦闘機を実戦化出来るとの触れ込みであった。そうして開発された紫電11型であったが、発動機、プロペラの不調に加え、主翼の中翼配置による視界不良、二段引き込み脚の故障に伴う着陸時の事故、計画値653kmを下回る570kmの速度性能など、期待を大きく裏切る出来であった。しかし、アメリカ軍が次々に新鋭機を投入している状況下、他に候補機も無かった事から紫電は制式化された。


川西は紫電の量産を進める一方、その改修型の開発も進め、主翼を低翼配置として視界を改善、胴体をより細い断面形として速度性能を向上、部品点数を紫電の2/3減らして工数を削減、主脚変更による着陸性能向上、主翼と胴体内燃料タンクの防弾化、これらの改造によって実用性は大きく向上する。テスト飛行の結果も上々で、本機は紫電21型(通称、紫電改)と命名される。海軍はこの結果を受けて、本機を最重点機種に選定し、大増産計画を立てる。しかし、工場の被爆を受けて、400機強が生産されるにとどまった。紫電改の登場は遅きに失したが、零戦ではまるで歯が立たなかった、アメリカ海軍の新鋭戦闘機F6Fとも互角に渡り合える、日本海軍希望の星であった。また、紫電改を集中配備した第三四三航空隊は、四国松山を基地として、圧倒的なアメリカ軍相手に奮戦し、日本海軍航空隊の最期の華を飾った。

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生野銀山 3

生野銀山には、数多くの電動人形が設置されて、当時の作業を再現しています。それを今回、紹介していきます。





↑風を送る手子(てご)





↑桶引人足 (ひびきにんそく)

坑内作業は、湧水との戦いでもあります。この鉱夫は木製のポンプを使って、延々と水をくみ出す作業をしていたのでしょう。





↑下財(当時の鉱夫の名称)


ノミと金槌を使って、こつこつと岩を掘り進めている様子が伝わって来ます。狭い坑内には、大量の粉塵が舞い散っていたでしょう。それを長年、吸った鉱夫はやがて咳き込み始め、呼吸困難に陥っていきます。それが鉱山労働者の職業病、塵肺です。当時、鉱夫の多くが、この症状になって、若くして亡くなっていった事でしょう。






↑砕女(かなめ)


鉱石を小さく砕いて、銀鉛を含んだ鉱石により分けます。当時の鉱山は、女性も働いていたそうです。この作業も、大量の粉塵が舞ったでしょう。





↑石臼

精錬用に、鉱石を細かく砕くために用いられた臼です。





↑休憩所

食事時ばかりは、鉱夫達にも笑顔が生じたでしょう。





↑負子(おいこ)

鉱石を背負って運び出す、鉱夫です。この人形は立って進んでいますが、江戸時代の坑道は狭いので、実際には、はって進んだものと推測します。






↑木作りをする手子(てご)


坑内作業では、常に落盤の危険が付きまといます。それを防止するための木組みを作っている様子です。





↑出方相改取締(でかたあいあらためとりしまり)

役人が2人ずつ、昼夜詰めきりで日々、掘り出される鉱石を、下代に記載させ、厳重に監督していたとあります。鉱夫が無断で鉱石を持ち出さないよう、厳重に監視していたのでしょう。





↑坑内作業の模型


まるで、蟻の巣のようです。鉱石を掘りきった穴には、無価値の岩石を捨てていった様子が伝わって来ます。



今まで紹介してきた鉱夫人形には、暗い雰囲気が漂っています。しかし、それは仮の姿です。実際の彼らは地下深くにありながらも、光り輝いています。



GINZAN BOYZ 「ギンギラ銀山パラダイス -GGGZPDS-」





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生野銀山 2

生野銀山散策の続きです。

前回は地下の坑道を見学して来ましたが、今回は地上から、江戸時代の採掘跡を見て行きます。





↑彫刻の跡


戦国時代、江戸時代の鉱夫が、坑内作業の安全を願って、ノミで彫ったものです。読み取り難いですが、文字らしき跡が見えます。






↑滝不動尊


戦国時代から、この社で、坑内作業の安全と鉱業の繁栄が祈念されていたと伝わります。鉱夫達はこの社で一礼してから、危険な坑内に入っていったと思われます。





↑坑道への道

昔の鉱夫達は、麓の町からこの道を伝って、続々と坑道に向かって行ったはずです。





↑慶寿ひ(江戸時代の露天掘り跡)

写真では迫力に欠けますが、山が割れている感じです。





↑江戸時代の坑道

狭くて、薄暗いです。





↑慶寿ひ(江戸時代の露天掘り跡)





↑鉱夫の彫った線刻

慶寿ひの脇にあります。読み取り難いですが、確かに人が彫った跡が見受けられます。





↑江戸時代の坑道

この辺りで見られる、江戸時代の坑道は総じて狭いですが、この坑道は特に狭かったです。





↑江戸時代の坑道


ここから産出する銀は、非常に品位が高かったとあります。






↑江戸時代の坑道

この坑道は比較的、広かったです。大規模な採鉱が成されたのでしょう。



生野銀山を観光する人は、観光用の坑道内コースで終ることが多いです。しかし、それだけだと物足りなく感じる事でしょう。屋外にある坑道外コースにも見所があるので、こちらと合わせて見学すると良いと思います。

生野銀山 1

生野銀山は、兵庫県生野市にある、日本有数の銀山である。



生野銀山の開坑は、平安時代の初期、大同2年(807年)と伝わる。だが、銀山が本格的に採鉱されるようになったのは、天文11年(1542年)、但馬守護、山名祐豊の時代になってからである。祐豊は生野城を築き、銀山の開発を進めたが、弘治2年(1556年)、山名氏の家臣であった、太田垣氏に支配権は移った。永禄10年(1567年)、自然銀を多く含む、当時、日本最大の鉱脈、「慶寿ひ」が発見され、銀山日記には、「銀が出ること、土砂のごとし」と記された。



天正8年(1580年)、織田家の進出を受けて、太田垣氏は追われ、銀山の支配権は織田家の手に移った。その後、銀山は、豊臣家、徳川家へと移り、直轄鉱山として更に開発が進められた。江戸時代には、最高位の銀山を意味する名称「御所務山」を与えられ、最盛期を迎えた。明治の世を迎えても、その重要性は変わらず、
明治元年(1868年)、政府直轄鉱山とされた。明治政府は、フランス人技術者を招聘し、製鉱所(精錬所)、生野鉱山寮馬車道(輸送道路)を建設するなどして、近代化を図った。



明治29年(1896年)、三菱合資会社に払い下げられ、民間経営となった。しかし、山はね(地下深部の圧力によって、坑道が破壊される現象。突然、岩盤が破裂して破片が飛散する)の危険性が高まった事に加えて、資源の枯渇が目立つようになり、昭和48年(1973年)、ついに閉山を迎えた。






↑生野銀山入口





↑近代の坑道

坑道内は、年間通して13度に保たれており、夏でも涼しいです。私はTシャツ1枚だったので、肌寒かったです。




↑江戸時代の坑道

しゃがんで、四つんばいにならないと進めないです。





↑鉱石運搬車





↑五枚合掌支柱組

地中では、水中と同じように圧力がかかります。そして、地下にある空所を押しつぶそうとしてきます。この岩盤の圧力を、盤圧(ばんあつ)と呼びます。それによって、山はねや落盤の危険性が高まります。そうした危険から坑道を守るために、この木組みが組まれました。




↑鉱脈





↑江戸時代の坑道





↑昭和34年(1959年)頃、採掘された場所。

深さ30メートル。





↑太閤水

その昔、豊臣秀吉が生野銀山に足を運び、坑道から湧き出す水で茶を点てたとの伝説から名付けられました。





↑巻揚機


鉱石を地上に運ぶ所です。


生野銀山の坑道見学は、主に近代の坑道で、比較的広く、歩いて進む分には問題無いです。しかし、それでも圧迫感があって長くは居たくないです。それに比べて、江戸時代の坑道ははって進まねばならず、当時の人々の大変な苦労が伝わって来ました。また、坑道内には多数のマネキンが設置されていて、昔の作業の様子が伝わって来ます。

松山城

松山城は、愛媛県松山市にある平山城である。日本に現存する、12天守の1つを有し、また、櫓や門などの現存建造物も数多く残されている。天守閣を含む、21の現存建造物が重要文化財に指定されている。四国を代表する名城である。



慶長7年(1602年)、伊予国20万石の領主であった、加藤嘉明によって築城が始まった。嘉明時代に5重の天守閣が築かれたが、その後も工事は続けられた。寛永4年(1627年)、嘉明は会津に転封となり、代わって、蒲生忠知が24万石で入城した。寛永11年(1634年)、蒲生家は無嗣断絶となり、寛永12年(1635年)、松平定行が15万石で入城した。定行は5重であった天守閣を3重に改築する。天明4年(1784年)、落雷を受けて、天守閣を始めとする本丸建造物が焼失する。



安政元年(1854年)、天守閣の再建が成される。現存天守閣は、この時のものである。明治6年(1873年)、明治政府による廃城令を受けて、麓の御殿、櫓、城門が解体された。昭和8年(1933年)、放火を受けて小天守、南北隅櫓、多聞櫓が焼失する。昭和20年(1945年)、米軍による松山空襲を受けて、11棟の建造物が焼失した。昭和25年(1950年)、天守閣を含む21棟の建造物が重要文化財に指定される。昭和33年(1958年)から、段階的に木造建築による復元工事が成されて、現在に到る。





↑東雲神社(しののめじんじゃ)

文政6年(1823年)、松山藩11代当主、松平定通が、藩祖である定勝を祀るために建てた神社です。


松山城にはロープウェイで登って行く人が多いですが、私は徒歩で登って行きました。麓から東雲神社経由で、20分ほどで本丸手前に達しました。天守閣入口には渋滞が出来ていましたが、中に入ると見学には支障は無かったです。

















































↑天守閣から南を望む





天守閣から東を望む


こちら側に道後温泉があります。歴代城主も入湯した事でしょう。また、伊予国の戦国大名、河野氏の居城であった、湯築(ゆずき)城跡もあります。





↑天守閣から西を望む

瀬戸内海が見渡せます。





↑天守閣から北を望む


松山城の建物、石垣は壮大で見応えがあります。また、内部の展示品も充実しており、城好きの人ならば満足することでしょう。松山城の麓には、二之丸史跡庭園もあるのですが、体力的にきつかったので諦めました。見学で疲れたら、道後温泉に浸かりに行きましょう。

 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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