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苗木城

苗木城は、岐阜県中津市にある山城である。一般的には知名度に欠けるが、見応えのある石垣と、麓を流れる木曽川に、背景の恵那山が相まって、風光明媚な姿を醸し出している。


築城年代ははっきりせず、美濃国東部に勢力を張る遠山氏によって、天文年間(1532~1555年)に築かれたと見られる。遠山氏は、源頼朝の重臣であった遠山景廉(とおやま かげかど)を祖として、代々、東美濃を統治していた。本家は岩村城を居城としていたが、戦国時代に到ると一族が分派して苗木城を築き、苗木遠山氏となった。戦国時代後半、遠山氏は、東の武田信玄と西の織田信長の狭間に置かれて、揺れ動いていた。当時の岩村当主、遠山景任(とおやま かげとう)は、武田、織田に両属する姿勢を取っていたが、元亀3年(1572年)5月頃に病死すると、信長はすかさず、四男の御坊丸と軍勢を送り込んで、岩村城と遠山氏を織田方に取り込んだ。そして、景任夫人で、信長の叔母にあたる、おつやの方を御坊丸の後見人とした。


元亀3年(1572年)10月、武田信玄が西上作戦を開始すると、織田の在番兵は岐阜城防衛の為、岩村城から出払った。同年11月14日、その隙を突いて、武田部将、秋山虎繁が攻め寄せてくると、おつやの方はすぐさま城を明け渡した。そして、虎繁と婚約を交わし、御坊丸も差し出した。だが、苗木遠山氏の方は、織田方に止まった。天正2年(1574年)1月27日、信玄の跡を継いだ、武田勝頼は東美濃に侵攻し、織田方の明知城を囲んだ。同年2月、明知城は落城し、苗木城も同じく落城して、苗木遠山氏は織田家に亡命したと見られる。天正3年(1575年)5月21日、織田信長は、長篠の戦いで勝頼を破ると、勝利に乗じて、嫡男、信忠に大軍を授けて、岩村城を攻めさせた。そして、同年11月21日、織田軍は岩村城を落とすと、秋山虎繁とおつやの方を処刑し、岩村遠山氏も悉く討ち果たした。


その一方、苗木遠山氏の友忠は、苗木城主に返り咲いたと見られる。天正10年(1582年)2月1日、友忠は、武田部将、木曽義昌に調略を仕掛けて、内通させる事に成功し、これに乗じて兵を出すよう、織田信忠に注進している。そして、織田家はこれを足掛かりとして、武田討滅に成功した。しかし、同年6月2日、本能寺の変にて信長が横死すると、東美濃は群雄割拠状態となった。友忠は、同じ東美濃の領主、森長可と敵対するも、長可の勢いは強く、苗木城も攻め立てられた。友忠は一度は森軍を撃退したものの、次の攻撃には耐えられず、天正11年(1583年)5月、苗木城を捨てて、徳川家康の下に逃げ込んだ。友忠はそのまま客死したらしく、嫡男の友政が跡を継いだ。


一方、苗木城を支配していた森氏は、慶長4年(1599年)、信濃川中島に転封され、代わって川尻直次(秀長)が城主となった。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起きると、川尻直次は西軍に加わって、苗木城から出陣した。遠山友政は家康方の東軍に加わって、東美濃攻めを命じられる。そして、旧領、苗木城に攻めかかって、奪還する事に成功した。戦後、その功をもって、友政は苗木城とその周辺、1万500石の知行を与えられる。以後代々、遠山氏は苗木城を居城として、統治に務めた。しかし、小藩ゆえの財政難に苦しみ、幕末には借金は14万両に達して、財政破綻してしまう。そうした状況で明治の世を迎え、遠山氏による統治も終わりを向かえた。そして、苗木城も廃城となった。




↑風吹門





↑大矢倉

結構、立派な造りでした。





↑大門跡





↑菱櫓門跡





↑千石井戸と石垣





↑天守台

昔は小振りな天守閣が建っていたようですが、現在は展望台となっています。



↑天守台より東を望む

ここからの眺めが、一番良かったです。奥には恵那山がそびえ立っているのですが、雲に隠れてしまっています。





↑天守台より、北を望む

木曽川が流れています。




↑天守台より西を望む





↑馬洗岩

天守台直下にある大岩です。

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備中松山城

備中松山城は、岡山県高梁市にある山城である。この城は、戦国時代、中国地方の覇者、毛利氏と、備中の戦国大名、三村氏との間で繰り広げられた戦い、備中兵乱の舞台となった事で知られている。


延応2年(1240年)、備中有漢郷(高梁市有漢町)の地頭に任じられた、秋庭三郎重信によって築かれたのが、この城の始まりとされる。城は、標高430メートルの臥牛山山頂に築かれ、時代が下るにつれ、改修、強化されていった。戦国時代を迎えると、備中から勃興してきた戦国大名、三村氏の本拠となった。この三村氏の最盛期を作り出したのが、三村家親(1517~1566)である。家親は、中国地方の雄、毛利氏の後援を受けて、備中一国を平定し、更に備前や美作への進出を図ったが、それに立ちはだかってきたのが、備前の実力者、宇喜多直家であった。直家は、備前の戦国大名、浦上宗景の被官の立場であったが、家中随一の勢力を誇っていた。だが、直家は今の段階では、家親には抗し難いとみて、暗殺者を送り込んで家親を亡き者とする。


家親の跡を継いだ次男、元親は、直家に深い遺恨を抱き、永禄10年(1567年)、備前に攻め入って復仇戦を仕掛けた。この戦いは、三村軍は1万人余で、宇喜多軍は5千人余であったと云われており、三村方が優勢であったが、直家は謀略と戦術を駆使して、これを大いに打ち破った(明善寺合戦)。この勝利を受けて直家の勢威は増し、徐々に戦国大名化していく。一方、元親は、これ以降も幾度と無く、直家と干戈を交えたものの、兄、荘元祐(しょう もとすけ)が討死するなど、敗北が相次いだ。天正2年(1574年)、苦境にあった元親に、更なる追い討ちがかけられる。毛利氏が、仇敵、宇喜多直家と盟約を結んだとの報がもたらされたのである。元親はこれまで、毛利氏を盟主と仰いでいたが、この一件だけは許容できず、織田信長や浦上宗景と結んで、反旗を翻した。これを受けて毛利氏も大軍を催し、直家と共同で、備中に攻め入らんとした。


同年11月、毛利輝元、小早川隆景は数万の大軍を率いて、備中に攻め入り、元親も一国を挙げて、これを迎え撃った。この時の毛利軍の兵力は8万人で、三村軍は1万人であったと云われているが、過大だと思われ、3万人対5千人が妥当なところだろう。毛利軍は圧倒的な兵力をもって、支城を次々に落としてゆき、それらを守っていた、元親の兄弟達、三村元範、上田実親も討死していった。大半の支城を落とした毛利軍は、仕上げとして松山城を囲む。だが、この頃の松山城は、臥牛山一帯に「砦二十一丸」と呼ばれる出丸を設けて、全山要塞と化していた。天正3年(1575年)3月、毛利軍は、松山城に力攻めを加えたが、手痛い反撃を受けて撃退される。以降、毛利軍は兵糧攻めに切り替えて、長期包囲に入った。


元親は半年余、篭城を続けてきたものの、孤立無援で援軍の見込みは無く、寝返る者も相次いだ。同年5月22日、元親は自刃を決意するが、家臣の説得を受けて、城から落ち延びんとした。しかし、松連寺まで来たところで、毛利兵に取り囲まれ、最早、これまでと定める。そして、小早川隆景に使者を送って、自刃を申し出た。この時、元親は、「今回の戦は宇喜多を憎んでのもの、決して毛利を裏切ったのではない」と伝えたとされる。同年6月2日、毛利氏の検使が見守る中、三村元親は時世の句、数首を残して、腹をかき切った。享年は不明である。元親の子で8歳になる、勝法師丸も捕らえられていたが、その利発さを恐れた、隆景によって斬られたとされる。これにて、三村氏は滅亡し、備中国と松山城は、毛利氏が領有する所となった。


以降、松山城は、毛利氏の拠点として用いられるが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、毛利輝元が、西軍側の主将となって敗れた為、徳川氏に接収された。備中国奉行として小堀正次、政一が城番として置かれた後、城主は、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と目まぐるしく移り変わって、明治の世を迎えた。明治政府の発した廃城令以降、城は朽ち果てるに任され、倒壊寸前となったが、昭和15年(1940年)、大修理が行われて、現在の姿となった。この時、ほぼ全面的に建て替えられたので、昔の原形とは若干、異なっている。天守閣は二層二階で、現存12天守の中では最も小振りだが、最も高い標高に存在する。



備中松山城
備中松山城 posted by (C)重家

大手門石垣


備中松山城
備中松山城 posted by (C)重家

↑大手門石垣

この辺の石垣は、見応えあります。


備中松山城
備中松山城 posted by (C)重家

↑三の平櫓東土塀(さんのひらやぐらひがしどべい)

現存する土塀です。


備中松山城
備中松山城 posted by (C)重家

↑本丸


備中松山城
備中松山城 posted by (C)重家

↑天守閣

小振りな天守閣で、内部もこじんまりとしています。


備中松山城
備中松山城 posted by (C)重家

↑天守閣内部


備中松山城
備中松山城 posted by (C)重家

↑天守閣内部



備中松山城
備中松山城 posted by (C)重家

↑二重櫓



備中松山城
備中松山城 posted by (C)重家

↑城下町


備中松山城
備中松山城 posted by (C)重家

↑城下町


備中松山城は、現存12天守の城の1つであって、天守閣目当ての人も多いかと思いますが、過大な期待は抱かない方が良いでしょう。それよりも、大手門の石垣や、本丸からの眺めを楽しむといった感じが、良いかと思います。それと、ここは戦国の争乱の地であったので、歴史の説明を読みながら散策すると、より楽しめるでしょう。



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重家 
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自己紹介:
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このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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